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第二十四話『ミラを迎える夜』

 夜の屋敷の外では、風が枝葉を鳴らし、格子窓に淡い影を揺らしていた。砂利道の先に、ミラを乗せた馬車が静かに止まる。蹄鉄の音が最後の余韻を残し、すべてが一瞬だけ止まったように思えた。屋敷の中には、張りつめた空気が音もなく染み込んでいく。


 エリゼがそっと現れ、静かな声で告げる。ミラ様、応接室でお待ちです──その言葉の端に微かな緊張が混じっている。彼女の白い手袋がかすかに震え、息の吐き方まで硬くなっていた。


(……来た……ついに来た……)


 胸の奥で鼓動が硬く打ち、私は鏡の前に立っていた。手のひらが冷たく、指先が乾いた音を立てそうなほど強く組まれている。鏡の奥に老いた私の顔が揺れ、その奥から“若き私”の輪郭が浮かび上がっていく。ランプの明かりがガラスの表面に細い光を走らせ、その光が私の頬に縫い目のような影を作った。


「……サロメ……」


 唇の奥で小さく名を呼ぶと、鏡が水面のようにわずかに波打つ。次の瞬間、老いた私の輪郭が淡く消え、若き日の髪、蒼い瞳、艶やかな肩──サロメが鏡から現れた。光の粒が彼女の髪先に降り注ぎ、静かに揺れる。


「長い間、閉じ込めやがって」


 低く吐き捨てる声。その声音は私のものではない。胸の奥に鈍い重石が落ちたように、息が止まった。


(同じ私のはずなのに……声まで……違う……)


 喉がひりつき、言葉がひっかかる。それでも必死に声を絞り出した。


「お願い、サロメ……計画通りにミラをここに……鏡の中へ……」


 鏡の奥のサロメがゆっくりとこちらを見た。蒼い瞳が夜明け前の湖のように冷たく、何かを測るように細められる。唇の端に微かな笑みだけが浮かび、その笑みは私の不安をさらに深く抉った。


「……っ……聞いてるの……?」


 懇願にも似た声が鏡の中に吸い込まれていく。だが、サロメは何も答えず、鏡の表面に手を置いてから、するりと身を翻した。青白い光が彼女のドレスの裾を撫で、足元に淡い影が揺れた。


 私の手が、鏡の縁を掴んだまま震える。(お願い……お願いだから……)胸の奥の鼓動が浅く早くなり、耳の奥で血の音が鳴る。


 サロメは一度だけ肩越しに振り返り、微笑の形だけを残した。光の粒が彼女の髪先からこぼれ落ち、足音が廊下に消えていく。


(もう……止められない……)


 私は鏡に貼りついたまま、唇の奥で名を呼ぶが、声にならない。指先が冷たく硬直し、足元の絨毯がふわりと沈んだ感触だけが現実に引き戻していた。屋敷の奥から時計の音がひとつ響き、夜の時間がゆっくりと動き出す。


 応接室の扉を押し開けると、薄いランプの光が柔らかに漂い、暖炉の火が小さく揺れていた。私はドレスの裾を整えながら一歩、また一歩と足を踏み入れる。空気の奥に緊張のにおいがある──それは私自身のものではなく、目の前の彼女のものだった。


 ミラはソファに腰掛け、両手を白い手袋のまま重ねて膝に置いていた。指先がわずかに震え、薄く色づいた頬の上で睫毛が影を作っている。目の奥には小さな涙が光り、けれど必死に堪えているのが分かった。


「……あ、サロメ様……」


 彼女の声は驚きと戸惑いが混じってかすれた。きっとアリエット──つまり私が来ると思っていたのだろう。私は微笑を作り、胸の奥のざわめきを押し隠した。


「驚かせてしまったわね、ミラ」


 私がそう言うと、ミラはゆっくりと顔を上げ、蒼い瞳に私を映した。その瞳の奥に揺れる感情を読み取ろうとするだけで胸が締めつけられる。


「……実は、レオン様に本当の気持ちを尋ねたのです」


 ミラは手袋を握りしめながら、震える唇で言葉を紡ぐ。「やはりサロメ様が本当にお好きだと……そして正式に婚約を破棄されました」


 その声は細く、けれど覚悟の響きを帯びていた。私は一瞬、呼吸が止まり、胸の奥で別の自分──鏡の奥のアリエットの視線が痛いほど突き刺さるのを感じた。


「だから、私はレオン様のことを諦めます。だから……王子の元に行って、そばにいてあげてください」


 そう言ってミラは頭を深く下げた。彼女の髪が肩から滑り落ち、ランプの光を受けて微かに震える。白い手袋の指先が私の視界の端で小刻みに動き、私は思わず息を呑んだ。


(なんて……素直で、気高いの……)


 胸の奥でつぶやく。彼女は何も知らずにここまで来た。私のためではなく、王子のために。私は鏡の中のアリエットに閉じ込められ、利用されるだけの存在──そのはずなのに、今この瞬間、ミラを見つめる自分がまるで“人間”に戻ったように感じている。


(こんな娘を……鏡に……)


 罪悪感と戸惑いが一気に押し寄せ、胸の奥が熱くなる。私の口元は微笑を保ちながらも、指先はかすかに震えていた。ノクスの声が耳の奥で待ち構えている気配を感じる。


 ミラが言葉を終え、うつむいたまま沈黙が訪れる。応接室の空気がゆっくりと沈殿し、ランプの光が私たち二人を淡い金色に染めていた。暖炉の火がかすかに弾け、音がやけに遠くに聞こえる。


(……私は……何をしているの……)


 胸の奥でその声が湧きあがる。鏡の奥に押し込められ、アリエットの代わりとして若さをまとわされた存在──私はその“道具”に過ぎない。けれど今、目の前のこの娘は、そんな私の“役目”とはまったく関係のない純粋さを持って立っている。


(私はずっと放置されてきた、閉じ込められてきた。けれど、この娘は何も知らないでここに来た……)


 私の胸の奥で感情がズレる音がした。ノクスの囁きと、アリエットの懇願と、そしてミラの澄んだ瞳──その三つが渦を巻いて、私の中で絡まり合う。心臓の鼓動が速くなり、指先が膝の上で微かに震える。


「……本当に、あなたは……」


 思わず口を開きかけて、私は言葉を飲み込んだ。ミラがこちらを見上げ、不安そうに小さく首をかしげる。私は微笑を浮かべたまま、目の奥で別の世界を見ていた。鏡の奥、そこにいるアリエットが私を睨んでいるのがわかる。必死の視線が突き刺さり、耳の奥でか細い懇願の声が響いた。


(早く……早く鏡に……)


 その声は私の胸の奥に針のように刺さる。だが、私は動けなかった。動けばこの娘を“餌”にすることになる。そう思った瞬間、私の中の何かが軋む音を立てた。


(本当に……これが私の役目なの……?)


 私はゆっくりと息を吸い、視線を落とした。ミラの指先が小刻みに震えている。白い手袋の上に落ちる光が、まるで“囚われの証”のように見えた。胸の奥でため息が絡まり、私の指先がほんのわずかに彼女へ伸びる。だが、その途中で止まった。


「……あなたは、何も悪くないわ」


 私が小さく呟くと、ミラは一瞬きょとんとして、目を丸くした。その瞳に映る自分の顔が、まるで別の人間のように見えて、胸の奥がひりつく。


(私は誰……アリエット?サロメ?それとも……)


 その問いがぐるぐると頭の中で回り、耳の奥にノクスの声が滲み始める。けれどまだ、その言葉ははっきりと形を持たず、ただ冷たい波のように私の背中を撫でていた。


 私の指先がミラに触れそうになったその瞬間、応接室の空気がひんやりと歪んだ。ランプの炎が小さく揺れ、光が不自然な渦を描く。暖炉の火が一瞬だけ青白くなり、私の背筋に冷たい風が通り抜ける。


『……裏切ったら、お前にも罰がくだる……』


 甘く、しかし鋭い囁きが耳の奥に突き刺さる。ノクスの声だ。その響きは絹のように柔らかいのに、刃物のように冷たく、私の心臓を締めつける。囁きが一度響くたびに、私の皮膚の下を冷たい感触が這い回り、背骨から指先へと電流のように広がっていった。


(……罰……私に……?)


 思考が白く弾ける。次の瞬間、視界の端に幻影が走った。鏡の表面にひび割れが広がり、その破片のひとつひとつに老いた自分の顔が映りこむ。皺だらけの手、乾いた髪、深く刻まれた皺の口元──そのすべてが私の未来のように迫ってきた。


「……やめて……」


 思わず声に出た。ミラが驚いたように顔を上げる。私の目の奥には恐怖と怒りが混じり、胸の奥で脈打つ音がやけに大きくなった。指先がミラの手の上で止まり、冷たい汗が掌に滲む。


『……裏切るな……お前は道具……』


 ノクスの囁きがさらに低く深くなる。耳の奥でガラスの割れる音が何度も響き、私の体の輪郭が一瞬だけ歪む感覚に襲われる。青白い光が床を這い、私の影を引き伸ばし、老化した私の幻影を壁に映し出した。


(私は……道具じゃない……でも……)


 胸の奥で二つの声がせめぎ合う。ノクスの冷たい支配と、ミラの真っ直ぐな瞳、そして鏡の奥でこちらを見ているアリエットの必死な視線。三つの視線が重なり合い、私の心をバラバラに引き裂こうとする。


「……っ……」


 喉がひりつく。吐息が熱く、指先が震えたまま動けない。ミラがかすかに私の名前を呼んだ気がして、私ははっと顔を上げる。彼女の瞳が大きく見開かれ、その奥に私の“異変”を映していた。


(見られている……この揺らぎを……)


 私は必死に笑みを取り繕おうとしたが、頬がわずかに引きつる。ノクスの囁きが最後の一撃のように耳の奥で響く。


『……決めろ……今すぐ……』


 胸の奥で何かが軋み、表情が勝手に変わった。ミラの視線がその変化をとらえ、薄い息を呑む音が静かな部屋に響いた。青白い光がランプの炎を呑み込み、時間が一瞬だけ止まったように思えた──次の瞬間、すべてが闇に沈む直前の緊張だけが部屋を満たしていた。

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