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第二十三話『二つの心、鏡の契約』

 朝の光が寝室のカーテンの隙間から細い帯となって差し込み、床に淡い模様を刻んでいた。枕元に置かれたグラスの水はぬるくなり、窓から入り込む風はどこか甘い香りを含んでいる。私はシーツを握りしめ、昨夜ミラに囁いた言葉を何度も頭の中で反芻していた。


(……若さを求める欲望に負けた……)


 胸の奥で自己嫌悪が鋭い棘のように疼く。だがそのすぐ隣で、快楽的な高揚感がじわりと膨らんでいるのを感じる。王子の腕の温もり、ミラの怯えた瞳、そしてノクスの甘い囁き──そのすべてがひとつの渦となって、私の中で絡み合っていた。


 鏡の奥から、あの声が再び届く。かつては冷たい鎖のように響いた声が、今は甘く熟した果実の香りとなって胸の奥に染み込んでくる。


『明日の夜、鏡へ誘いなさい……その子を導くのはあなたの役目……』


 囁きは絹のように柔らかく、それでいて私の脳裏に刻まれるたびに甘く痺れるような刺激を残した。私は無意識にベッド脇のドレッサーへ視線を向け、そこに立て掛けられた鏡を見つめる。朝の光がガラスに反射し、老いた私の顔と、若き日のサロメの幻影が交互に浮かび上がった。


「……やめて……やめてよ……」


 思わず声に出るが、その声は頼りなく揺れ、誰にも届かない。指先がかすかに震え、冷えた汗が掌に滲んでいく。目の前の鏡がゆらりと揺れ、サロメの微笑が幻のように現れた。蒼い瞳、艶やかな髪、王子に愛されたあの姿──それが私の胸にひりつくような痛みを刻む。


(若さへの渇望……罪悪感……どちらが本当の私なの……)


 自分の内側で二つの感情がせめぎ合い、胸の奥で音を立てている。ベッドの上で膝を抱え、額をシーツに押し当てた。香水の残り香と朝の光が混じり合い、時間の感覚が遠くなる。


『さあ、選ぶのよ……あなたが望んだものを……』


 ノクスの囁きが再び甘く胸を撫でた。私は鏡に向かって手を伸ばすが、途中で止める。老いた自分の顔が映り、そのすぐ横にサロメが微笑む──二つの自分が交互に入れ替わり、私を見つめていた。胸の奥に渦巻く罪悪感と渇望が、朝の光の中でひとつに溶けていくような錯覚に襲われた。


 私は椅子に腰を下ろし、両手を膝に置いたまま視線を落としている。指先には冷たい汗が滲み、胸の奥で何かがひゅうひゅうと軋む音がした。ノクスの囁きが頭の奥に残響し、次第にサロメの名前と混じり合っていく。


(……今回の計画はサロメの役目……私はただ、見ているだけ……)


 そう繰り返すほどに、不安が胸の奥に積もっていく。私のために、あの“サロメ”が動いてくれるのか──それとも、別の意思で動いてしまうのか。鏡の表面を見つめると、そこには若き日の自分の顔が映り、静かに笑っていた。けれど、その笑顔が本当に私のものなのかどうか分からない。


「……サロメ……私のために……」


 小さく呼びかけると、鏡の中のサロメがわずかに目を細めた。その瞳はどこか私を見下ろすようで、胸の奥にひやりとしたものが走る。まるで同じ心のはずなのに、別の生き物のような気配がそこにあった。


(私自身のはずなのに……どうして……こんなに遠いの……)


 鏡の奥のサロメが静かに微笑む。その唇の端がかすかに動き、耳の奥に低い囁きが届いた気がした。けれどその声は私のものではなく、別の女の声のように聞こえる。胸がざわつき、手首が冷たく汗ばむ。


「……お願い……裏切らないで……」


 思わず声に出すと、鏡の奥のサロメはただ微笑んだまま、目を細めて私を見ている。その瞳が、まるで試すように、私の奥底を覗いてくるようだった。指先が震え、私は膝の上で自分の手を重ね、深く息を吸った。


(同じ心のはずなのに……別人格……)


 朝特有の淡い光が鏡の奥で揺らぎ、サロメの髪を光の糸のように輝かせる。私はその姿に圧倒されながら、同時に得体の知れない恐怖に胸を締めつけられていた。



 薄曇りの午後、寝室の空気は静まり返っていた。カーテンの向こうから差し込む光は淡く、ひび割れた鏡の縁を白く縁取っている。私は手鏡を手に取り、老けた指先でその縁をゆっくりとなぞった。冷たいガラスの感触が皮膚に染み込み、胸の奥までひやりとしたものが流れ込む。


『今度約束を破ったら、どうなるか知っているわね……』


 ノクスの声が頭の奥で響いた。かつては鎖のように冷たかったその声が、今は甘く、まるで毒を溶かした蜜のように胸の奥へ染み込んでいく。私は思わず胸に手を当て、自分の鼓動を確かめた。指先の下で心臓が早鐘のように脈打ち、浅い呼吸が喉の奥でかすかに擦れる。


(……もし、約束を守れなかったら……若さを失うだけじゃない……もっと、もっと老いてしまうの……)


 手鏡に映る自分の顔は、まるで見知らぬ他人のように険しく、頬の斑点がさらに濃く見えた。私はその表面をそっと撫でながら、自分の未来を想像する。白く乾いた髪、深く刻まれた皺、震える指先──そのイメージが頭の中で膨らみ、胸の奥で軋む音がした。


「……やめて……お願い……」


 声に出すと、自分の吐息がひどく熱く感じられた。ノクスの声がその熱を絡め取り、さらに低く、甘い響きで囁く。


『選ぶのはあなた。若さを取り戻すのか、それとももっと老化が進むのか──』


 その言葉が刃のように胸の奥を切り裂く。私は胸に当てた手をぎゅっと握りしめ、指先が白くなるのを感じた。手鏡の奥ではサロメの幻影が微笑み、光の中で揺れている。


(取り戻したい……でも、怖い……どこまで堕ちてしまうの……)


 心臓の鼓動と時計の音が重なり合い、部屋の空気が次第に薄くなる。私は手鏡をテーブルに置き、両手で顔を覆った。ノクスの甘く冷たい声がまだ耳の奥に残っていて、吐き出す息が小刻みに震えていた。


 夕刻の光が寝室のカーテンを透かし、淡い金色の縁取りが鏡の表面を滑っていた。部屋の奥で時計がひとつ音を刻み、その響きが床や壁を伝って私の胸の奥までじわりと広がる。私は両手を膝の上で組んだまま、鏡の奥を見つめた。


(……もう、サロメに賭けるしかない……)


 心の奥でそう呟くと、鏡の中のサロメがわずかに頷いたように見えた。幻かもしれない、でもその小さな動きが胸の奥に冷たい波を走らせ、同時にほんの少しの安堵をもたらす。安堵と恐怖が同じ重さで私の胸の奥に居座り、指先がわずかに震えた。


「……同じ心のはずなのに……どうして、こんなに遠いの……」


 声に出すと、自分の吐息が薄く光の中に揺れ、鏡の奥と現実の境界がゆらゆらと溶けていくように見えた。時計の音が反響し、カーテンがわずかに膨らむ。音と光がひとつの渦となって、私とサロメの距離を測れなくしていく。


 鏡の奥のサロメの瞳が細く光り、その奥に冷たい湖のような静けさと深さを湛えている。私を助けるのか、それとも破滅へ導くのか──そのどちらかが分からないまま、ただ真っ直ぐにこちらを見つめていた。


(芽生えてしまった二つの心……こんなにもどかしい……)


 胸の奥で囁きが反響し、光が鏡の縁を滑るたびに、時間の感覚が遠のいていく。私は自分の両手を強く握りしめ、爪が掌に食い込む感覚でようやく現実に戻った。明日の夜が近づいてくる気配が、背筋を冷たく撫でていく。


「……お願い……」


 小さく声に出したその言葉が、鏡の奥に吸い込まれて消えた。サロメの瞳がほんのわずかに光を宿し、鏡の表面に波紋のような揺れが走る。私は両手をさらに強く握りしめ、その波紋が静まるのを見届けた。今宵、何が待っているのか分からないまま、ただ心臓の音だけが高鳴っていた。

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