表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

22/30

第二十二話『応接室の密約』

 午後の光が応接室のカーテンを透かし、緑がかった影を床に落としていた。高い天井のランプは淡く灯っているだけで、室内には張り詰めた空気と、どこか甘い香の名残りが漂っている。私はドアノブを握る手に力を込め、深く息を吸ってからそっと扉を押し開けた。


 その瞬間、カトリーヌ夫人の瞳が大きく見開かれた。ソファに腰かけていた夫人は、私の姿を見た途端にまるで時が止まったかのように硬直し、そして息を呑む。


「まさか……アリエット、あなた……病気だったの?」


 その声は驚きと困惑の入り混じった響きを持ち、応接室の壁に反射して小さく震えた。隣に座るミラは消沈したまま視線を伏せ、両手を膝に重ねてじっとしている。薄い金髪がカーテンの光に淡く光り、彼女の顔色の青白さを際立たせていた。


「まあ……少し疲れているだけよ……」


 私は笑みを作り、柔らかく言葉を返した。だがその笑みは唇の端だけで形作られ、胸の奥では鋭い針で刺されるような痛みがじわりと広がっていた。目の前にいる夫人の瞳に映っているのは、かつての社交界の華──ではなく、十年を一気に重ねた今の私。夫人の表情が一瞬だけ「信じられない」という色を帯び、その奥に過去のアリエットの残像がちらりと映ったように感じられた。


(見られてしまった……これが、今の私……)


 カーテンが風にそよぎ、光の筋が床を斜めに走った。時計の針がひとつ音を立て、その響きが応接室の静けさに溶け込む。私は自分の膝の上で手を重ね、視線をそらさないように必死に息を整えた。ミラの伏し目がちのまつげが震えるのが見え、その沈黙がいっそう重く胸にのしかかってくる。


「本当に……大丈夫なの……?」


 夫人の問いが重ねて響く。私は微笑みを絶やさないようにしながら、ゆっくりと頷いた。だが胸の奥では「ノクスの条件」の言葉が鈍く脈を打ち、目の前の二人の姿がぼやけて見えた。


 高い天井のランプは静かに揺れ、時計の針がひとつひとつ刻む音が部屋の緊張をさらに際立たせている。私はソファの端に座り、指先を組んだまま、背筋を伸ばして呼吸を整えようとした。


 向かいのソファで、カトリーヌ夫人が長い指先でカップの取っ手をつまみ、静かにしかし鋭い視線をこちらに投げかけていた。夫人の瞳は淡い光を宿し、そこに微かな怒りと失望の色が混じっているのが分かる。


「……アリエット、今日はミラのために来たのよ」


 その声は、柔らかい絹で包まれた刃のように胸の奥へ突き刺さった。夫人の隣ではミラが俯いたまま、両手を膝の上で固く組んでいる。長い睫毛が伏せられ、淡い金髪が頬の輪郭を隠している。その無垢な姿を見た途端、胸の奥で罪悪感が波のように押し寄せ、息が詰まった。


「王子との婚約を一方的に破棄された原因……それは“サロメ”でしょう? いったい何を考えているのか、真意を確かめたくて来たの」


 夫人の声に込められた冷たい重みが、部屋の空気をさらに硬くする。私は視線を落とし、カップを持つ手に力を込めた。胸の奥でノクスの条件が冷たい鎖のように脈を打ち、「鏡の中に若い女を引きずりこむ」という言葉が頭をよぎるたび、喉が締めつけられた。


(サロメ……私自身……でも、言えない……絶対に……)


 時計の針が小さく音を立て、カーテンの隙間から入る光が床の模様を細かく揺らす。私はその光景をぼんやりと見つめながら、自分の中の葛藤を必死に押し隠していた。カトリーヌ夫人の視線はなおも強く、私の奥底を覗き込もうとしているようだった。


 カトリーヌ夫人はカップを静かにテーブルに置き、その身をわずかに前へと乗り出した。午後の光がカーテンの縁を掠め、夫人の瞳に冷たい輝きを宿す。応接室の空気が一段と重くなり、時計の針がひとつ音を刻むたびに、その響きが胸の奥まで沈んでいく。


「……サロメをここに連れてきていただける?」


 その一言が、まるで見えない鎖を床に落としたように響いた。部屋の奥で風が止まり、カーテンの揺れさえ緩やかになる。隣のミラは相変わらず俯いたまま、長い睫毛を震わせている。だがその沈黙こそが圧力となり、私の胸に重くのしかかってきた。


 私は微笑を装いながら、膝の上で組んだ手に力を込める。けれどその手は自分の意志に反して震え、指先に冷たい汗が滲んでいた。ノクスの囁きが頭の奥でこだまし、低い声が耳の奥にまとわりつく。


『さあ、決めなさい……若い女を鏡の中に……』


(やめて……今は……)


 胸の奥でノクスの声が増幅し、ひび割れた鏡の幻影が視界の端にちらついた。そこにサロメが微笑んでいるように見える。若い自分の顔、王子に愛されたあの姿──その幻が一瞬だけ応接室の光の中に浮かび、私の息を奪った。


「それは……」


 かすれた声が喉からこぼれたきり、言葉は続かなかった。時計の音がひとつ、またひとつ響く。部屋の空気が、息をするたびに鉛のように重く沈んでいく。私はその場に座ったまま、目の前の二人と鏡の中の幻影の狭間で、凍りついたように動けなかった。


 時計の音がひとつ鳴るたびに、部屋の緊張がさらに増していく。私は深く息を吸い、できるだけ穏やかな声を装って口を開いた。


「……サロメは、病気なのです。人に移してしまう病だから、今は……お会いにならないほうがよいわ」


 その言葉を聞いたカトリーヌ夫人の眉がぴくりと動いた。長い指先が膝の上で小さく震え、彼女はさらに身を乗り出す。


「そんな話、聞いたことがないわ。あなた、隠していることがあるでしょう」


 夫人の声は疑念と苛立ちを帯び、応接室の空気が重く沈んだ。隣のミラは顔を上げないまま、指先だけがかすかに震えている。淡い金髪が頬にかかり、俯いた睫毛の影が床に落ちて揺れた。


(王子……この子を……本当に……)


 ミラの沈黙に潜む感情が、不意に胸を貫いた。ミラの表情から、王子が本気でサロメを愛していることが、痛いほど伝わってくる。それは私の心に複雑な喜びと同時に絶望をもたらし、喉の奥に苦い塊ができる。


「本当に無理なの……あなたたちが思っているよりも、ずっと危険なのよ」


 私は低く、押し殺した声で言い切った。夫人はなおも口を開こうとしたが、その瞬間、私は彼女の目を真っ直ぐに見据えて囁いた。


「私みたいになるわよ……」


 その声は自分でも驚くほど冷たく、応接室の空気を一瞬で凍らせた。カトリーヌ夫人の表情がわずかにひるみ、指先が膝の上で止まった。彼女は視線をそらし、言葉を失ったまま背筋を伸ばした。


 隣のミラはかすかに顔を上げ、潤んだ瞳でこちらを見た。王子が愛しているのはアリエットではなく、サロメ──その事実が、私の胸に鋭い針を刺し込む。若い乙女ミラへの申し訳なさと自己嫌悪が混じり合い、胸の奥で痛みが渦を巻いた。


(……ごめんなさい……あなたも、私も……)


 午後の光がわずかに傾き、時計の音が再び響く。私は微笑を崩さないようにしながらも、心の奥では大きな穴が開いていくのを感じていた。


 カトリーヌ夫人が椅子から立ち上がり、スカートの裾を整えながら一礼すると、応接室の扉へと歩いていった。靴音が廊下に吸い込まれ、扉がゆっくりと閉まる。時計の針がひとつ音を刻み、残された私とミラだけの空間に、午後の光が淡く満ちていた。


 カーテンの隙間から差し込む光は、長い帯となって床を横切り、ミラの膝の上で組まれた手を淡く照らす。ミラは相変わらず俯いたまま、長い睫毛が震えている。淡い金髪の房が光の中で揺れ、彼女の横顔の青白さをさらに際立たせていた。


(今……話すなら今しかない……)


 自分の鼓動がやけに大きく聞こえ、喉の奥で熱いものがせり上がる。私はソファから立ち上がり、ミラのすぐそばへ歩み寄った。絨毯が足音を吸い込み、時計の針がひとつ、またひとつ音を刻むたびに、その響きが胸の奥で膨らんでいく。


「……ミラ……」

 声をかけると、彼女の肩が小さく跳ねた。ゆっくりと顔を上げたミラの瞳は、光を反射してかすかに揺れ、怯えと戸惑いの色が混じっている。


 私は身をかがめ、彼女の耳元へそっと顔を寄せる。レースの袖口がミラの膝に触れ、二人の距離が一気に縮まる。指先がわずかに震え、息が熱く頬をかすめた。


「明日の夜……誰にも言わずに……屋敷に来なさい」

 囁きながら、私は彼女の耳朶にかすかに触れる距離まで近づいた。

「……悪いようにはしないから……」


 その瞬間、部屋の空気が微かに震えた。時計の針がひとつ音を立て、カーテンが風もないのにわずかに揺れる。ミラの肩がもう一度ぴくりと跳ね、組んだ指先が膝の上でぎゅっと握り締められた。


(ごめんなさい……でも……これしかないの……)


 胸の奥で罪悪感と緊張が同時に膨らみ、吐く息が熱くなっていく。ミラの瞳が一瞬こちらを見つめ、かすかに揺れた。その小さな震えが、応接室の重い空気の中で際立ち、私の胸の奥に深く沈んでいった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ