第二十一話『老いた侯爵令嬢の迷いと訪問者』
昼過ぎの光が薄く差し込み、鏡のひび割れを淡く照らしていた。ガラスの奥に溜まった冷気がゆらぎ、部屋の中だけが季節を飛び越えたようにひんやりしている。私は両手を鏡の縁に置き、ひび割れた奥に映る自分を見つめた。
そこに立っているのは、かつての私ではない。髪には白いものが入り込み、艶は薄れ、触れると乾いた草のようにかさついていた。頬には淡い斑が浮かび、まるで長い年月が静かに刻んだ印のように皮膚を染めている。肩は鉛のように重く、呼吸は浅く、胸の奥が時折きゅっと軋む。皮膚の奥にまで冷えがじわじわと染み込み、わずかな動作にさえ時間の重さが絡みついているように感じられた。鏡に映るその姿が、夜ごと夢の中でちやほやされていた頃の私を嘲笑っているようで、胸が締めつけられた。
(……これが私……あのサロメだった私の“代償”……)
目を閉じると、ミラの笑顔が脳裏に浮かぶ。王子の隣に立つあの無垢な瞳、澄んだ声。思い出すだけで胸が痛む。罪悪感が波のように押し寄せ、息を吸うたびに胸の奥が重くなる。同時に、老いた自分の姿への嫌悪と絶望が渦を巻き、心の奥でぶつかり合う。
「……ノクス……どうして……」
口の中でその名を呟くが、鏡の奥は何も答えない。ひびの隙間から漏れるように、かすかな冷風が頬を撫でた。私は髪の白い筋を指先でなぞり、その感触にぞくりとした。サロメだった自分の眩しさが幻のように思い出され、涙がにじむ。
(あの子を犠牲にしてまで、私は……いや、できない……できるわけがない……)
唇が勝手に震え、声にならない言葉が喉の奥で消えた。鏡の中の自分が、まるで別人のようにこちらを見返してくる。老いた顔の奥に、かつてのサロメの面影がわずかに揺れているのが見えた。嫉妬、羨望、恐怖、自己否定──すべてが一つになって胸の奥で膨らみ、息をするだけで痛い。
「お願い……どこかで……何か……」
震える声が鏡の表面に当たって小さく反響した。昼過ぎの光がその瞬間だけ淡くゆらぎ、鏡の奥の老いた私と若い私が交互に重なったように見えた。夢と現実の狭間で揺れるような感覚に、膝がかくりと折れそうになる。
私はその場に立ち尽くし、鏡に映る自分の顔をただ見つめた。答えは出せない。罪悪感と欲望、自己嫌悪と絶望、すべてが同じ重さで胸の奥に沈んでいき、昼過ぎの光の中でゆっくりと溶けていった。
夜の静寂が屋敷を包み、寝室のランプが消えると同時に私の意識は深く沈んでいった。夢の中に現れるのは、決まってあの時代の光景──若き日の社交界、舞踏会の輝き、香水とドレスの香り、音楽の波とシャンデリアの光。そこにはサロメの姿があり、まばゆいほどに輝いていた。
夢の中のサロメは、自分でも信じられないほどしなやかで美しく、笑うたびにドレスの裾が光の粒を散らした。王子がその腕を取って、耳元で甘い声を囁く。
「あなたと未来を……共にしたい」
その声が夢の奥に溶けていくたび、胸の奥が甘く震えた。王子の瞳は私だけを映していて、舞踏会のざわめきがその瞬間だけ静止するように感じられた。すべてがまるで永遠に続く幸福の予感に満ちている。
(ああ……戻りたい……)
夢の中でサロメの手を握る王子の指先の熱が、現実の私の指先まで伝わってくる錯覚に襲われる。甘い香り、耳元で流れる音楽、誰かの笑い声──そのすべてが私を包み込み、胸の奥の渇きを埋めていく。
けれど目覚めの瞬間は残酷だ。目を開けると、冷えた寝室、ひび割れた鏡、老いた自分の身体。指先は冷たく、肩は重く、肺が浅く鳴っている。夢で感じた光の粒が一瞬で崩れ、闇の奥に吸い込まれていく。
「……もう……戻れないのね……」
唇から漏れた言葉はかすれていて、誰に届くこともなかった。鏡の奥に映る自分の姿が、まるで別人のようにこちらを見返す。若き日の輝きと老いた現実、そのコントラストが強烈な自己否定を誘い、胸の奥を締めつけた。
(分かっている……もうあの世界には戻れない……でも、見てしまう……夢を追ってしまう……)
涙が枕に落ち、胸の奥に絡まる時間の鎖がきしむ音が聞こえた気がした。夜の屋敷は静まり返り、私の嗚咽だけがかすかに響く。薄明の前の暗闇の中で、私は再び目を閉じ、逃げ場のない夢の世界へと沈んでいった。
午後の柔らかな光が書斎のカーテンを透かし、机の上の手紙を淡く照らしていた。王子から届いた封筒は、もう何通目か分からないほど積み重なっている。蝋の封が解かれたばかりの紙を指先でなぞると、王子の筆跡が温もりを帯びて浮かび上がってくるようだった。
(……また、来てくださったのね……私を気遣って……)
昨日も屋敷を訪ねてきてくれた王子を、私は「体調が悪い」と嘘をついて帰らせた。あの蒼い瞳が戸口で揺れ、寂しそうに細められた瞬間が頭に焼き付いて離れない。胸の奥が焼けるように痛み、罪悪感が指先からじわりと染み出していくように感じられた。
私は手紙を両手で包み込み、そっと頬に当てた。王子の文字はまっすぐで、少しだけ力強い。触れた指先が震え、胸の奥で王子の声が響く。
「……サロメ……君を信じている……」
頭の奥に彼の声が蘇り、涙がにじんだ。鏡の方へ視線を向けると、ひび割れたガラスの奥でサロメが微笑んでいるように見える。若き日の自分が鏡の向こうから「嘘をついても愛は消えない」と囁いているような錯覚に陥り、全身に鳥肌が立った。
(こんな私を……きっといつか、王子は見抜いてしまう……)
胸の奥に恐怖が走る。王子の執念と愛情が、私の苦悩を逆に深めていく。あの蒼い瞳に映るのはサロメの姿であり、今の私ではない。その事実が心に鋭い針を刺し込んでくる。
「……どうすればいいの……」
声にした途端、部屋の空気がひやりと揺れた。カーテンが風にそよぎ、机の上の封筒がかすかに動いた。私は震える指先で再び手紙を撫でる。そこに書かれた言葉が胸の奥で溶け、ひび割れた鏡の奥に若い自分の顔がちらりと浮かぶ。王子の手紙が優しければ優しいほど、今の私の罪悪感は深く沈んでいく。
(もう嘘をつき続けることはできない……でも、今さら真実を告げることも……)
胸の奥の迷いが重なり、視界がにじんだ。鏡の奥のサロメの瞳が、何かを決断するようにわずかに光った気がした。昼過ぎの光がその瞬間だけ鋭く差し込み、私の影を長く床に落とした。
午後の光が傾き始め、屋敷の廊下に長い影を落としていた。時計の針が静かに時を刻み、空気の中には緊張が薄く張り詰めている。私は机の上に置いた手紙をそっと閉じ、指先の震えを抑えながら顔を上げた。
扉の向こうから、控えめなノックの音が響いた。エリゼの声が続く。
「お嬢様……来訪者がお見えです」
胸の奥が一瞬で冷たくなり、息が詰まる。椅子の肘掛けを掴む指先に力がこもった。
「誰……?」
「カトリーヌ夫人がお連れになったミラ様でございます」
その名を聞いた瞬間、頭の奥にノクスの声が冷たく響いた。「鏡の中に若い女を引きずりこむこと」──その条件が脳裏に鮮やかに蘇る。胸の奥に重く冷たいものが沈み、喉がきゅっと締めつけられた。
(ミラ……あの子が今、ここに……救済か、破滅か……私の運命がここで分かれる……)
窓辺のカーテンが風に揺れ、光が細い帯となって床を走った。時計の音が一段と大きく聞こえ、私の心臓の鼓動と同じリズムで響いているように思えた。息を整えようとしたが、胸の奥がざわついて、手首が冷たく汗ばむ。
「……分かりました。応接室に……待っていただいて」
やっとのことで声に出すと、自分の声が思っていたよりかすれているのに気づく。エリゼの足音が遠ざかる中、私は机に置いた手紙を握りしめ、視線を鏡に向けた。ひび割れたガラスの奥でサロメが微笑んでいるように見える。ノクスの囁きがまた胸の奥でこだました。
(私は……どうする……あの子を……)
胸の奥で罪悪感と欲望が激しくせめぎ合い、息が浅くなる。ミラの存在が、救いか、破滅か、それとも私自身の終焉か──どちらにしてもこの瞬間が決定的になると、直感で理解していた。
午後の光が、長い影を廊下に伸ばしていく。私は立ち上がり、指先を胸に当てたまま、応接室で待つミラを想像しながら立ち尽くした。時計の音がまたひとつ響き、私の胸の奥で恐怖と期待がひとつに絡まり、じわりと軋んだ。




