第二十話『鏡の中の選択──若さか、罰か』
昼過ぎの光がカーテンの隙間から差し込み、鏡の表面を淡く照らしていた。かつて滑らかだったガラスにはひびが走り、その隙間から滲み出すように冷たい空気が漂っている。私はその前に立ち尽くし、ゆっくりと自分の姿を見つめた。
そこに映っていたのは、もう知っているはずの自分ではなかった。髪には白いものが混じり、手を伸ばせば、指先にざらりとした感触が伝わる。頬や腕に浮かんだシミが、まるで時の刻印のように無数に散っている。胸の奥で息を吸うと、それだけで肩が重く、息は浅く途切れた。
(……これが、私……本当に……)
震える指先で頬をなぞると、かつての張りが消えた肌の下に脈が鈍く打っているのが分かった。髪をひと束持ち上げると、白い筋が光を弾き、手の中で冷たい糸のように見えた。全身に、十年分の重みがのしかかっている。
「どうして……こんなことに……」
声にした途端、喉の奥が焼けるように熱くなった。目の奥に王子の笑顔が浮かぶ。あの蒼い瞳、指先の温もり、プロポーズの声──そのすべてが胸の奥でひときわ強く痛んだ。記憶のひとつひとつが甘く残酷な針となって、私を刺し続ける。
(若さを得て、ロマンスを求めた……その結果が、これ……)
ランプの炎がかすかに揺れ、鏡のひびに沿って影が広がる。外から吹き込む風がレースのカーテンを膨らませ、そのたびに冷気が部屋をひやりと撫でた。私は鏡に額を押し当て、深く息を吸った。
「お願い……戻して……」
呟きは鏡に吸い込まれ、ひび割れた表面に白い息だけが残る。頬を伝う涙が指先に冷たく触れ、私は両手で顔を覆った。胸の奥には必死な願いだけが残り、かすかに震える唇から、誰に向けるでもない言葉が零れた。
「どうにかして……元に戻りたい……」
昼過ぎの光が淡く鏡を照らし、その中の私と現実の私が微かにずれたまま重なっていた。若さを求めた自分と、罰を背負った自分。二つの姿が一枚の鏡に映り込み、ゆらゆらと揺れる度に、胸の奥の何かが崩れていくように感じられた。
鏡の表面に白く曇った息が残り、しばらくの間、その奥は沈黙していた。私の手は頬に添えられたまま、冷たく、痺れるように感覚が薄れていく。昼過ぎの光がまだ部屋に差し込んでいるのに、ここだけがまるで夜の底のように冷えきっていた。
ひび割れた鏡の奥に、淡い影が揺らめく。金色の瞳がひょいと開き、ノクスが姿を現した。彼女は甘やかな微笑を浮かべているが、その奥に鋭い愉悦の棘が潜んでいるのが分かる。
『まあ……可哀そうなアリエット。そんな顔をしないで。戻してあげる方法がないわけじゃないのよ』
その声はまるで柔らかい絹が喉を撫でるようでいて、同時に冷たい刃のように心臓に突き刺さった。私は反射的に顔を上げる。
「戻せる……方法が……あるの……?」
『ええ。ただ一つだけ──』
ノクスが鏡の奥で指先を軽く振ると、暗い波紋が部屋の中に広がり、壁紙に刻まれた模様までゆがむように見えた。淡い笑みのまま、唇だけが鮮やかに動く。
『鏡の中に若い女を引きずりこむこと。そうね……王子の婚約者、ミラなどぴったりじゃないかしら』
その言葉に、私の胸が凍りついた。喉の奥がひゅっと鳴り、指先から力が抜けていく。頭の奥に、ミラの笑顔、純真な瞳がちらりと浮かび、それが血のような罪悪感に染まっていく。
「そんな……そんなこと、できない……!」
鏡の奥のノクスは楽しげに目を細める。まるで私の拒絶さえ計算ずくの愉しみであるかのように。
『あらあら、顔が真っ青よ。できない? 本当に? でもね、あなたの中にはサロメがいる。あの子ならできるかもしれないわよ』
「やめて……お願い、それ以上……」
言葉が震え、視界が揺れる。ノクスの瞳がじっとこちらを見つめ、金色の光が鏡のひびの奥で渦を巻いている。私の胸の奥に、怒りとも絶望ともつかない熱が一瞬だけ膨らんだが、そのすぐ隣で微かな希望の影が疼いた。
(もし……もし本当にこれで元に戻れるなら……)
その考えがよぎった瞬間、全身が冷たくなる。罪悪感と欲望が綱引きするように胸の奥で軋む。ノクスの声はさらに甘く低くなった。
『考えるのはあなたよ。若さを失ったままこの現実と向き合うか、それとも誰かの若さを代償にするか──』
私は鏡に近づき、ひび割れたガラスの向こうに揺らぐノクスの笑顔を見つめた。昼過ぎの光が私の背後でまだ淡く部屋を照らしているのに、その中だけが底知れぬ暗さで満ちている。胸の奥に冷たい鉛の塊のような感覚が沈み、息が浅くなっていく。
「……ノクス……」
声はかすれ、震え、頼りなく消えた。鏡の奥のノクスは、そのすべてを見透かすような愉悦の笑みを浮かべて、ただ私を見下ろしていた。
ひび割れた鏡の前で、私は唇をかみしめて立ち尽くしていた。昼過ぎの光が背後から差し込み、部屋の奥まで届いているのに、この一角だけが夜の底のように暗く、冷気に覆われている。鏡の奥ではノクスが金色の瞳を細め、愉悦の笑みを浮かべながら私を見つめていた。
「……ノクス……なぜ……私じゃなくて、サロメなの……?」
問いかけると、鏡の奥の空気が淡く揺らぎ、金色の光が渦を巻いた。ノクスはあごに指を添え、まるで甘い秘密を打ち明けるかのようにゆっくりと微笑む。
『約束を破ったのは“サロメ”だからよ』
その言葉が耳に届いた瞬間、胸の奥に冷たい刃が突き刺さったような感覚が走る。私の中で何かがひどく軋む。ノクスは楽しげに続けた。
『あなたとサロメは同一存在……でも、別人格でもあるの。あなたが本当に“サロメ”を信じられるか、それを見たいのよ』
「……別人格……私の中に……」
私は震える声で繰り返した。鏡に映る自分の顔が一瞬だけ歪み、そこに若いサロメの顔が重なった。頬のライン、唇の形、髪の色──若き日の私が鏡の中でかすかに笑ったように見える。
(サロメ……私の中の“光”……私が嫉妬して、羨んで、恐れている存在……)
胸の奥から複雑な感情が噴き上がる。嫉妬、羨望、恐怖、自己否定──それらが渦を巻いて喉元まで上がり、息が詰まりそうになる。ノクスはそんな私の苦悶を味わうように、唇をなめた。
『だって、私も楽しみたいじゃないの。あなたがどんな顔をして選ぶのか……そして“サロメ”がどう動くのか……それを見るのが楽しみでたまらないの』
その声は甘美で、しかし底知れない残酷さを含んでいた。鏡の奥の金色の光がさらに激しく渦巻き、私の顔とサロメの顔が交互に浮かんでは消える。まるで二つの魂が鏡の表面でせめぎ合い、入れ替わりそうに揺れているかのようだった。
「……サロメ……私……」
呟いた声がかすれ、鏡の奥に吸い込まれていく。目の奥が熱くなり、手が震える。自分自身の中に宿る“光”をどこまで信じられるのか、私にはもう分からなかった。鏡の表面には若い私と老いた私が交互に浮かび、その狭間にノクスの愉悦の笑みだけが確かなものとして存在していた。
『決断するのはあなたよ、アリエット』
その一言が部屋の空気をさらに重くした。ひび割れた鏡の奥に黒い波紋が広がり、ノクスの声が深い井戸の底から響くように耳に届く。
『50代になった自分と向き合うか──それともサロメを使って、王子の婚約者を鏡に閉じ込めるか』
その言葉を聞いた瞬間、私の背筋に冷たいものが走った。体の奥から震えがせり上がり、声にならない声が喉で渦を巻く。ノクスの笑みは、私の動揺そのものを味わうようにゆっくりと深まった。
「そんな……そんなこと……私には……」
『罪悪感かしら、それとも恐怖かしら? それともほんの少しの期待かしらね』
鏡の奥の金色の光が激しく渦を巻き、そこに淡く婚約者ミラの幻影が浮かんだ。白いドレスを着た彼女が、鏡越しにこちらを見ている。唇が何かを訴えるように動き、「助けて」と言っているように見えた。胸の奥に熱いものがこみ上げ、同時に氷のような恐怖が広がる。
(ミラ……あの子を……そんな……でも……戻れるなら……)
胸の奥で愛情と嫉妬、罪悪感と欲望がせめぎ合う。王子への愛が、かつての自分を取り戻したいという欲望と絡み合い、形のない鎖のように私を縛っている。
「ノクス……なぜ……なぜ私をこんな目に……」
『だって楽しいじゃないの、あなたがどんな顔をして選ぶのか──私も見てみたいもの』
ノクスの声は甘く、けれど氷のように冷たい。鏡のひびがひときわ大きく広がり、ガラス片が淡く光を反射した。私は無意識に後ずさりし、しかし視線は鏡から離せない。
『さあ、選ぶのよ。若さを失ったままこの現実を生きるか、それとも誰かの若さを奪って前の姿に戻るか──』
ノクスの囁きが、部屋の空気そのものを締めつけるように響く。時間が止まったような錯覚の中で、私は呼吸を忘れた。鏡の奥のミラの幻影がかすかに揺れ、消えかけてはまた浮かぶ。まるで選択を迫る囁きそのものだった。
(私……どうすれば……)
胸の奥で、罪悪感と欲望が同時に膨らみ、喉が焼けるように熱くなる。王子の蒼い瞳が記憶の中で揺れ、彼の声が遠くで響いた気がした。鏡のひびに映る自分の瞳が、かつてのアリエットと今のアリエットの間で揺れ動く。
昼過ぎの光がひときわ強く差し込み、鏡の奥の金色の渦が一瞬だけ鮮明になった。私は両手を強く握りしめ、ただ立ち尽くした。決断はまだ出せないまま、胸の奥の何かが、軋みながらゆっくりと崩れていくのを感じていた。




