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第二話『契約ともうひとつの名──サロメ誕生』

 翌日の昼過ぎ。重たいカーテンの隙間から差し込む陽光が部屋を照らしていた。

 私は鏡の前に座り、長い時間をただ考えることに費やしていた。昨夜、囁かれた声が耳から離れない。あの艶やかな響きは幻ではなく、確かにこの部屋にあった。


「半日だけ若さを返す。ただし夜の鐘か昼の鐘で終わり。その時が来れば、必ず元に戻る。そして条件はひとつ。毎夜、あなた自身の恋の物語をわたしに語ること。破れば……罰が待つ」


 頭の中で繰り返すたびに、胸の奥が冷たく締めつけられる。罰──その言葉がどんな恐ろしい意味を持つのか、想像するだけで息が浅くなる。

 けれど、恐怖に押し潰されそうになる一方で、胸を焦がす思いもまた、消えることはなかった。


 ──青い外套に銀の刺繍をまとったレオン王子。

 澄んだ瞳、まっすぐな立ち姿。父の面影を宿しながら、彼自身の若さと気高さを放つ姿。

 あの瞳に再び映りたいと願う心は、どうしても抑えられなかった。


 私は扇を握りしめ、深く息を吐いた。恐怖と欲望が胸の内でせめぎ合う。

 逃げることもできたはずだ。忘れようとすればできたはずだ。けれど──もう遅い。


「……私に、その若さを」


 声は震えていたが、確かに私の意志が宿っていた。

 鏡の奥から艶やかな笑みが返ってくる。

「ようやく本音を口にしたのね」


 その瞬間、炎がふっと強まり、部屋の空気が熱を帯びたように感じられた。


 鏡の奥で、若き日の私が再び姿を現した。

 二十歳のころの面影そのままに、艶やかな髪を垂らし、白い肌を輝かせて。彼女は私を見つめ、静かに手を差し伸べてきた。


 その仕草は、まるで舞踏会での誘いのように優雅だった。けれど、その奥に潜むものは甘美でいて残酷な力。私は喉を鳴らし、逡巡しながらも、震える指先をその手へ伸ばした。


 冷たいはずの鏡が、水面のように柔らかく揺らいだ。指先が沈む。瞬間、全身が強く引き込まれる感覚に襲われ、声を上げる暇もなく視界が闇に塗りつぶされた。


 胸の鼓動が急に遠のいていく。

 呼吸も鼓動も感じられず、私はただ暗闇の中で凍りついた。──ここは鏡の牢獄。

 仮死のように沈黙したまま、私は待つしかなかった。

 若さを得たもうひとりの私が戻るその時まで。


 鏡の奥でノクスが微笑んだ。その笑みは慈愛のように見えながら、氷のように冷たい光を宿していた。

「けれどこれは借り物。仮の姿には仮の名を与えなければならない。そうでなければ、この世界はあなたを拒むのよ」


 私は息を詰めた。視線を落とせば、そこに立つのは若き身体──社交界の華だった頃に戻った姿。

 艶やかな髪、張りを取り戻した肌、しなやかに伸びる指先。男性の視線をくぎ付けにするだろう吊り上がったヒップ。

 けれど、その美しさに酔いしれるよりも先に、胸の奥に不安が広がった。


 名を持たねば存在できない。魔女の声は命令のように耳に響く。

 心臓が早鐘を打ち、喉は乾き、口の中がひどく渇いていた。

 声を出そうとしても、舌が重く絡まりそうになる。けれど抗えない。抗えば、せっかく得た若さも、この場に立つ自分も、砂のように崩れ去ってしまうだろう。


 私は震える唇を開いた。

「……サロメ。サロメ・ルミエール」


 その名を口にした瞬間、鏡の面が小さく波打った。部屋の空気が一気に震え、目には見えない何かが形を定めていくのが分かった。まるで言葉が鍵となり、この世界に“新しい存在”を刻み込むかのように。


 サロメという響きが、私を縛り、そして確かにこの場に立たせていた。

 その代わりに、鏡の表へと彼女が歩み出る。

 白い足首が床に触れ、軽やかな音が響いた。

 それは若き身体──サロメ。

 煌めく髪、張りのある肌、伸びやかな背筋。

 かつて社交界の花と讃えられた私が、そのまま現実に蘇った姿だった。


「どう、気分は?」

 艶やかな声が、鏡の奥から響いた。魔女ノクスの声。


 サロメとなった私は、胸の奥に不思議な高揚と恐怖を抱えていた。

 若さを取り戻した喜びは確かに甘美だ。

 だが、その背後で、仮死のように沈黙するもう一人の私が鏡の奥に閉じ込められているのを、感覚として知っている。


「……息が、軽い。身体も、嘘のように軽やか……。でも、鏡の向こうに、私が……」

 言葉を紡ぐと胸が詰まった。


 ノクスがくすりと笑った。

「そうよ。あなたの本体は鏡の中に眠っている。半日の間だけ、外を歩くのは“サロメ”という仮の器。けれど心はあなた自身のもの。安心なさい、終わりが来れば戻してあげる」


「……本当に?」

 不安に押され、思わず問い返す。


「もちろん。ただし──約束を守れば、ね」


 その声は甘美で冷酷な鎖のように私を縛った。

 鏡に映るサロメの姿は、かつての栄光そのもの。けれど背後で眠る自分の姿が、私の心に重く影を落としていた。


 足音が部屋に響いた。鏡台の前に立っていたのは、二十歳のアリエットそのもの──いや、サロメだった。

 長く流れる髪は光を受けて艶やかに揺れ、頬は薔薇の花びらのように紅潮している。肩から背にかけてのラインはしなやかに伸び、軽く息を吸うだけで胸がふくらみ、内側から力が漲ってくるようだった。


 私は鏡越しに、自分自身の変化を実感する。

 指を持ち上げると、手首から先がまるで別人のもののように軽やかで、血が流れる鼓動まで若返っているようだった。


「……これが、若さなのね」

 小さく漏れた声は、かつて舞踏会の中央で響かせたころの張りを取り戻していた。


 胸が高鳴り、足先が自然と床を蹴る。動くたびにドレスの裾が波のように揺れ、鏡の前の姿が新たな生命を得たかのように見えた。


 安堵と不安がせめぎ合い、心は落ち着かず揺れ続けていた。

 世界に立つのは若きサロメ。しかしその裏で、鏡の奥に囚われた老いたアリエットが、仮死のように目を閉じて待ち続けている。私は、その二つの自分が重なり合い、足元の感覚すら覚束なく、視線さえ定まらなかった。


 ──これが本当に私なのか。

 問いが胸の奥で渦を巻く。若い姿に宿る心と、鏡の奥で静止した魂。その乖離が不安を呼び覚まし、体の震えを止められなかった。


 そのとき、魔女ノクスの声がひらひらと舞い散る花びらのように降り注ぎ、部屋いっぱいに広がった。

 「さあ、若きあなた──サロメよ。恋の物語を紡ぐ時が来たのよ」


 艶やかに響くその言葉は、甘美な祝福のように耳を満たした。だが同時に、それは逃げ場を閉ざす呪いの宣告でもあった。

 柔らかく絡みつきながら、確実に背を押す冷たい指先のように、私を前へと進ませようとしていた。


 私は唇を噛み、深く息を吸った。胸の奥で甘さと恐怖がせめぎ合い、境目に立たされている自分を痛烈に感じた。

 後ろを振り返れば、鏡の奥に沈むアリエットがそこにいる。だが、もう戻る道は閉ざされたのだ。


 そして、私はサロメとしての第一歩を踏み出した。硬い床を打つ靴音が、静まり返った部屋に高く響く。その瞬間、背後で眠るアリエットの魂が、新たな物語の糸に絡め取られていく感覚が、全身を包み込んだ。


 だが、その甘美な喜びの裏で、胸の奥がざわめいた。鏡の奥には、仮死のように沈黙したもう一人の私が眠っている。その姿は見えないが、確かにそこに存在していると分かる。


 ──外を歩くのはサロメ。けれど心は私自身。


 その真実が、甘さと恐怖を同時に胸に刻んでいた。

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