表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

19/30

第十九話 『契約の代償──失われた十年』

 目を開けると、午後近くの光がレース越しに差し込んでいた。窓の外では湖がきらめき、天井に反射した光の粒が静かに揺れている。私は王子の胸に頭を預けたまま、長い眠りから覚めたことに気づいた。胸の奥で心臓がひとつ、大きく脈を打つ。


(……午後の光……こんなに長く眠っていたなんて)


 シーツに残る夜の名残り、王子の腕の温もり、耳元で感じていた鼓動──そのどれもが夢ではなく現実だと告げていた。顔を上げると、王子はすでに起きていて、窓際のテーブルに皿を並べている。クロワッサン、熟れた果実、ポットから立ちのぼるハーブティーの香りが空気に溶けていった。


「ようやく目が覚めましたか、サロメ」


 王子の声は柔らかく、どこか誇らしげだった。薄いシャツの袖をまくった腕、光を受けて淡く輝く横顔。私はベッドから身を起こし、指先で髪を整える。


「……殿下、こんなに用意を……」


「せっかくの朝ですから。市場で選んだ食材を使ってみました。あなたにも食べてほしくて」


 白いクロスの上に午後の光が踊る。透明なグラスのオレンジ色は琥珀のように揺れ、その向こうで湖の青がさざめいていた。私は椅子に腰を下ろし、指先でカップの縁をなぞる。ハーブの香りが胸いっぱいに広がり、体の奥のこわばりが少しずつほどけていく。


「殿下……こんな時間までご一緒できるなんて……まるで夢のようです」


「夢ではありませんよ、サロメ。あなたと過ごした時間はすべて現実です」


 王子の言葉が胸の奥に染み込む。カップの表面で光がちらちらと跳ね、茶葉が小さく呼吸するように揺れた。


(……このひとときが、ずっと続けばいいのに)


 けれど、頭の奥では冷たい囁きが薄く響いている。契約の鐘、ノクスの声、そして“半日だけ”という鎖。私は気づかぬふりをして、目の前の温もりに身を寄せた。


 王子はしばらく私を見つめてから、深く息を吸い込む。その蒼い瞳に、いつになく真剣な光が宿った。


「サロメ……あなたに伝えたいことがあります」


 低く、揺るぎない響き。私は自然と背筋を正す。


「あなたと過ごした時間は、私にとってかけがえのないものです。これからの未来を……あなたと共に歩みたい」


「……殿下……それは……」


 喉が熱を帯び、言葉がそこでほどけた。幸福が胸の内側からふくらむのと同時に、恐れが足元から静かにせり上がってくる。


(私は……何を望んでいるの。契約があるのに、どうして)


 王子がそっと私の手を包み込む。温かい。けれど、その温もりは甘い罠のように、私の理性を柔らかく溶かしていく。


「サロメ、あなたと未来を共にしたい。あなたのすべてを、私に委ねてほしい」


 囁きが胸の中心を静かに締めつけ、息が浅くなる。視界の端で、レースのカーテンがふわりと舞った。湖からの風が入り、金色の塵が宙に浮かぶ。


「……殿下……私……」


 かろうじて掬い上げた声は、すぐに光の中にほどけた。王子は微笑み、私の指先の震えと同じ速さで鼓動している自分の拇指で、そっと手を押し包む。


「今は答えなくて構いません。ただ、この気持ちを知っていてほしい」


 私は目を閉じ、ひとつ深く息を吸う。幸福と恐怖の境目が曖昧になり、音のない鐘が胸の奥で微かに鳴った。けれど、王子の手の温もりだけは確かで、離したくないと、正直に思ってしまう。


 午後の光はますます強く、窓いっぱいに湖の青を広げる。私はその青の揺らぎを見つめながら、祈るように願った──どうか、この時間だけは、もう少しだけ。


 午後の陽光が馬車の窓から斜めに差し込み、揺れるカーテンの隙間から淡い光が私の頬を撫でていく。車輪が石畳をゆっくりと叩く音、馬の蹄が遠くで鳴るリズム──すべてが現実なのに、どこか夢の続きのように感じられた。胸の奥には、さっき王子から受けた言葉の余韻がまだ残っている。あの蒼い瞳と、指先の温もり。耳の奥で「未来を共にしたい」という声が何度も反響し、そのたびに心臓が甘く高鳴った。


(……王子……あの笑顔……本当に私を……)


 窓の外に目を向けると、午後の光に揺れる街路樹の影が長く伸び、風にそよぐ葉の音が耳をくすぐる。私の手にはまだ王子の温もりが残っている気がして、指先をそっと合わせた。


 そのときだった。胸の奥に、冷たいものが鋭く差し込む。まるで氷の指先で心臓をなぞられるような感覚。耳の奥に、あの声が沈んできた。


『あなた、随分と契約の時間を過ぎてしまったわね──』


 私は反射的に息を飲み、肩がびくりと震えた。馬車の揺れが突然強くなったように感じる。窓ガラスに映る自分の顔が微かに揺れ、頬が青ざめて見えた。まるで鏡の奥に別の誰かが覗いているような錯覚が背筋を這い上がる。


「……ノクス……」


 声にした瞬間、空気が一段と冷たくなった気がした。馬車の中の陽光が一瞬翳り、車輪の音が遠くで軋むように聞こえる。


『アリエットに罰が下ることになるわ。あなた、甘美な時間に溺れすぎたわね』


 ノクスの声は、甘く笑っているのに底が冷たい。まるで深い水底で誰かが鈴を鳴らしているような響きが耳の奥に広がる。私は胸の奥がきゅっと縮み、冷や汗が背筋を伝った。


(罰……アリエットに……どうして……)


 窓ガラスの奥で午後の光がゆらぎ、そこに私の顔と、見えない何かの影が重なった。心臓の鼓動が速くなる。先ほどまでの幸福感が音を立てて崩れ、不安が急速に広がっていく。


「……待って……私、まだ戻って……」


『もう遅いかもしれないわね。でも語ってちょうだい、あなたの“半日だけ”のロマンスを』


 その囁きは甘い毒のように耳をかすめ、私は無意識に胸元を押さえた。王子の笑顔が頭の中で遠ざかっていく。午後の陽光が再び差し込み、馬車は何事もなかったように揺れているのに、私の世界だけが別の色に染まりつつあった。


 昼過ぎの光が屋敷を満たし、長い影が床を滑っていく。馬車から降りた私は、エリゼの声にも答えず、自室へと足を速めた。心臓はまだ午後の光を引きずるように熱く、王子の笑顔が頭の奥で淡く光っている。それなのに胸の底では、あの冷たい声が低く震えていた。


(……罰が下る……ノクスの声……本当に……)


 扉を閉めると、部屋はひときわ静まり返った。ランプに火を灯すと、光が鏡の表面をなぞり、淡い黄金色が揺らめく。私は鏡の前に立ち、深く息を吸った。レースのカーテン越しに外の風が入り込み、微かにドレスの裾を揺らす。


「……ノクス、そこにいるのでしょう……」


 呼びかけると、鏡の奥がじわりと黒く波立った。やがて艶やかな声が、まるで私の耳の奥に直接触れるように囁いた。


『ふふ……語ってちょうだい、あなたの“半日だけ”のロマンスを』


 私は喉をひりつかせながら、鏡に向かって言葉を紡ぐ。王子のプロポーズ、朝の光、胸に残る温もり──すべてが鮮明に蘇り、唇が震える。


「……レオン様が……私に未来を共に、と……」


『まあ、素敵なお言葉。けれど……あなた、十時間も契約を破ったのよ』


 ノクスの笑顔がゆっくりと冷たい形に変わる。鏡の奥に走る細いひびが、蜘蛛の巣のように広がっていく。私は一歩、無意識に後ずさった。


「ま、まだ戻れるわ……今なら……」


『もう遅いの。あなたは甘美な時間に溺れすぎた。その代償は避けられないわ』


 声が鏡の奥から氷のように広がり、部屋の空気が急に冷え込む。ランプの炎が揺れ、天井に映る影が奇妙に伸びる。私は手を胸に押し当て、震えを抑えようとした。


「……罰って……何を……」


『アリエットに十年の歳月が加わる。若さは甘く、しかし時は残酷よ。あなたはその代償を払わなければならない』


 その囁きが胸の奥を鋭くえぐる。指先が冷たくなり、呼吸が浅くなる。鏡の奥ではノクスの瞳が金色に光り、楽しげに私を見下ろしている。


(十年……アリエットに……そんな……)


 私は鏡に手を伸ばすが、表面は氷のように冷たい。触れた瞬間、白い息がガラスにかかり、そこに老いた自分の顔がぼんやりと浮かんだ。恐怖と羞恥と罪悪感が一度に押し寄せ、足が床に縫いとめられたように動けなくなる。


 ノクスの声は甘美な笑みとともに、鐘の音に似た低い響きを伴って耳の奥に落ちていった。私は息を飲み、鏡に映る自分の瞳がわずかに揺らぐのを見つめた。昼過ぎの光の中、部屋全体がゆっくりと凍りつくように静まり返っていく。


 鏡の表面がひび割れた氷のようにきしむ音を立て、部屋の空気が一気に重く沈んだ。昼過ぎの光がまだ差し込んでいるはずなのに、室内は薄暗く、空気に透明な冷気が混じっている。私は鏡の前に立ち尽くし、指先がかすかに震えていた。心臓が胸の奥で早鐘を打ち、ノクスの瞳が奥でゆらゆらと揺れている。


『さあ、始めましょうか──あなたが選んだ罰の時間を』


 ノクスの囁きが鏡の奥からしみ出し、足元の空気がひやりと這い上がってくる。私は反射的に後ずさりしたが、鏡に映る自分の姿が勝手に前へ進む。まるで映像と現実が逆転したようで、息が詰まった。


「やめて……まだ戻せるはず……」


『戻せないわ。十時間の契約違反には十年の代償。これは契約の理──あなたが求めた若さの裏返しよ』


 鏡の奥の光が黒く変質し、私の周囲に冷たい風が渦巻く。髪が逆立ち、裾がふわりと浮き上がる。鏡に手を伸ばした瞬間、奥から見慣れた自分の姿──アリエットの本来の姿──がゆっくりと浮かび上がった。


(あれは……私……?)


 だがその姿は、もう私が知っているアリエットではなかった。髪に白いものが混じり、顔や腕にシミが浮かび、肌の張りは消えている。瞳の奥に深い疲労と恐怖の影が宿っていた。鏡の中の彼女は苦しそうに胸元を押さえ、何かを言おうとして口を動かしている。


「そんな……これが……罰……」


『そう、これが“真実のあなた”よ。あなたは半日だけ仮面を被った──今、時がまとめて流れ込むの』


 ノクスの声は甘く、しかし氷の棘のように鋭い。鏡の奥で音もなく鎖がほどけ、代わりに重く冷たい鎖が私の身体に巻きつくような錯覚が走る。視界の端が白く霞み、足元からじわじわと感覚が消えていく。


 次の瞬間、強い引力が私を鏡の奥へと引き込んだ。冷たい水の中に沈むような感覚。胸が締めつけられ、声が喉で溶ける。目を開けると、そこには現実の部屋──そしてアリエットの身体が鏡のこちら側に立っていた。


 彼女──私──は十年を一気に重ねた姿だった。白いものが混じった髪、頬のシミ、重そうな肩、呼吸の浅さ。ドレスの袖から見える腕には、年齢を刻むような淡い斑が浮かび上がっていた。私は鏡の奥からその姿を見つめ、胸の奥で何かが崩れる音を聞いた。


「……これが、私……」


 ノクスは金色の瞳を細め、楽しげに笑う。


『十年の歳月──それが代償よ。あなたが望んだ若さは、もう払われた』


 その言葉が胸に突き刺さり、足元が崩れ落ちる感覚に襲われる。鏡の奥で私の指先が震え、現実の私は鏡の前に膝をついた。昼過ぎの光がなおも部屋に差し込んでいるのに、その光は遠いものに思えた。


(王子……レオン様……)


 頭の奥で彼の声が遠くに霞み、プロポーズの記憶が溶けていく。胸の奥に残るのは、冷たく重い時間の鎖と、自分自身の老いた姿だけだった。


「いやあああああっ!」


 私──アリエットの喉から、張り裂けるような叫びが迸った。昼過ぎの光にその声がぶつかり、部屋全体が震えるほどに響き渡った。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ