第十八話『もう引き返せない夜』
気が付くと、私は王子の別荘にいた。長い道のりの記憶が曖昧なまま、目の前に広がる光景だけが鮮明だった。静かな湖のほとり、夜風に揺れるランプが淡い光を投げかけ、窓辺には白いカーテンが風にそよいでいる。木の香りが館の隅々にまで染み込んでいて、息を吸うたびに胸の奥まで澄んでいくような気がした。
「ようこそ、サロメ。ここが私の隠れ家です」
王子の声は柔らかく、どこか誇らしげだった。彼はジャケットを脱ぎ、袖をまくると市場で買ったばかりの食材を調理台に並べた。ランプの光が彼の横顔を金色に染め、蒼い瞳が愉しげに輝いている。
「こんなところまで……殿下、私……」
言いかけた私の声は、すぐに彼の笑顔に遮られた。
「いいんですよ。せっかく市場で食材を選んだのですから、私が腕を振るいます。今日は私があなたをもてなしたい」
包丁がまな板にあたる心地よい音が響き、オリーブオイルの香りと香草の匂いが部屋いっぱいに広がっていく。私は椅子に座り、王子の動きを目で追っていた。その手際の良さ、楽しげな表情に、胸の奥が不思議と温かくなる。
「……殿下、お料理がこんなにお上手だったなんて」
思わず微笑むと、王子は肩をすくめ、いたずらっぽい笑みを返した。
「あなたが笑ってくれるなら、いくらでも作りますよ」
その言葉に頬が熱くなり、心臓が少し早く打ち始めた。ランプの光がテーブルクロスをやわらかく照らし、二人の影を壁に長く落とす。ナイフとフォークが触れ合う音、ワインのグラスが揺れる音、外から聞こえる湖のさざ波──すべてが調和して、この空間だけが別世界のように感じられた。
(……もう帰る時間……)
その言葉が喉にひっかかる。胸の奥では警鐘が小さく鳴っているのに、王子の笑顔がそれをやわらげてしまう。彼と目が合うたび、声が喉に戻ってしまう。気づけば、私の口元には笑みだけが残っていた。
「殿下……とても、幸せですわ」
自分でも驚くほど素直な言葉が唇からこぼれ落ちた。王子はその声に一瞬驚いたように目を見開き、すぐに穏やかな微笑を浮かべた。
「その言葉だけで、ここに連れてきた甲斐があります」
その一言が胸の奥に染み入り、私は視線を落とした。ワインの液面がゆらめき、ランプの光がその中で踊っている。楽しさと王子の笑顔に飲み込まれながら、私は帰るべき言葉を失っていた。
食事を終え、ワインの香りがほんのりと部屋に残っていた。湖のほとりの夜風が窓から入り込み、カーテンをゆっくりと揺らしている。ランプの光は柔らかくソファに落ち、私と王子を包むように温もりを放っていた。
私はソファに深く腰を下ろし、グラスを両手で包んだ。ワインの紅がランプの光に透け、血のように濃く輝いている。隣に座る王子は、くつろいだ笑顔を浮かべ、脚を組んでグラスを傾けた。その仕草ひとつひとつが、私の胸を静かに揺らしてくる。
(今から戻れば、契約は守れる……)
頭の奥にノクスの声が微かに響く。その冷たい囁きは、まるでガラスの破片が心の奥を引っかくようだった。
『帰れ。今ならまだ間に合う。今夜のうちに戻らなければ……』
私はグラスを唇に運び、深く息を吸った。ワインの香りが喉を通り抜けると同時に、心の奥で別の声が浮かび上がる。
(今夜は……あなたとここにいたい)
罪悪感と幸福感が胸の奥で交錯する。目の前にいる王子のさりげない仕草、指先の動き、微笑むときの瞳の揺らぎ──そのすべてが、私の“帰る”という決意を少しずつ溶かしていく。
「……殿下……」
思わず名前を呼ぶと、王子が首を傾げて私を見る。蒼い瞳がまっすぐに射抜き、私の頬にそっと指先を伸ばした。
「どうしました? サロメ。そんなに真剣な顔をして」
その声はやさしく、胸の奥をくすぐる。私はかすかな笑みを浮かべ、グラスをソファのテーブルに置いた。
「いえ……ただ、こんな穏やかな時間が夢のようで……」
王子はその言葉にふっと笑い、ワインをもう一口含んだ。
「夢じゃありません。あなたといると、現実がこんなに温かいものになる」
その言葉が胸に染み入り、私は王子の肩に頭を預けた。ランプの光が髪を照らし、王子の横顔がすぐ近くにある。湖からの風が甘く流れ込み、ドレスの裾をかすかに揺らす。
(……このまま、もう少しだけ……)
目を閉じると、頭の奥のノクスの声がかき消え、王子の笑顔だけが胸の奥に残った。罪悪感と幸福感の境目が曖昧になり、帰るべき言葉はもうどこかに消えてしまったかのようだった。
ランプの光が徐々に深まり、部屋全体が琥珀色に染まっていく。湖の方からは夜の気配が濃くなり、カーテンの隙間から入る風がほんのりと肌を撫でた。ソファに座る私の横に、王子の姿がある。彼はワインのグラスをテーブルに置き、静かに私に向き直った。
「……サロメ」
呼ばれた名前が胸の奥に甘く落ちる。次の瞬間、王子はそっと私の頬に手を添え、何の前触れもなく唇を重ねた。柔らかな感触が、鼓動を一気に早鐘に変える。世界の音がすべて遠のき、ランプの光だけがやけに鮮明に感じられた。
「……レオン様……」
かすれた声が私の唇から零れる。頭の奥でノクスの警告が鋭く響く。
『もう引き返せない……今すぐ戻らなければ……』
その声は冷たい鎖のように私を締めつけるが、王子の温もりがその鎖を緩めてしまう。恐怖と欲望が同時に胸の奥で膨らみ、息が浅くなる。
(怖い……でも、どうして……この瞬間が欲しい……)
王子は私の両肩をそっと包み込み、蒼い瞳でじっと見つめてくる。その視線に心が吸い込まれそうになり、私は息を飲んだ。唇の端に残るワインの香りが、さらに現実感を強める。
「サロメ……」
王子の声が低く、やわらかく響く。その瞳は熱を帯び、私の全てを引き寄せようとしているようだった。
「……レオン様……私……」
震える声で返した瞬間、王子の指先が私の手を絡め取った。指と指が触れ合うたびに、電流のような熱が全身に走る。
「ベッドルームへ……」
その囁きは夜の奥から響く甘い召喚のようだった。胸の奥が激しく脈打ち、息が止まりそうになる。ノクスの声がなおも続く。
『行けば、戻れない……罰が下る……』
しかし、その冷たい囁きを押しのけるように、王子の手の温もりが私を包む。頬が熱くなり、視界が霞む。私はためらいながらも、その手を振りほどくことができなかった。
「レオン様……」
言葉にならない声が胸の奥で弾ける。レオン様の瞳の奥に見える切なさと情熱に、心が捕らわれていく。ソファの影が長く伸び、二人の影が重なって溶けていった。
ベッドルームのランプが柔らかく揺れて、壁に大きな影を映していた。王子の手が私の頬を撫で、その指先がゆっくりと髪をすくい上げる。吐息が重なり、目の前の世界がぼやけていく。肌に触れる温もり、交わされる視線、重なる唇──すべてが甘い海のように私を包み込んでいた。
「サロメ……」
レオン様の囁きが耳元で震え、胸の奥まで届く。名前を呼ばれるたびに、心臓がひときわ高く打つ。王子の腕の中で時間が溶け、世界の境目が消えていった。
夜が更けるにつれ、私の耳にだけ、遠くで鐘の音が鳴り始めた。最初はかすかな響きだったが、次第に重く、鋭く、背筋を貫くようになっていく。契約の鐘──その音が、私の背中を冷たく撫で、心の奥に恐怖の波紋を広げた。
(……鳴っている……もう時間が……)
頭の奥でノクスの声が微かに囁く。
『帰らなければ、罰が下る。二度とサロメには戻れない……』
だが私は、王子の腕の中から離れられなかった。レオン様の吐息が首筋をかすめるたびに、冷たい鎖がほどけ、ただひとつの熱だけが胸に残る。恐怖と快楽が入り混じり、胸の奥に重く沈んでいく。
「……レオン様……」
震える声を出すと、レオン様は瞳を細め、そっと私の頬にキスを落とした。
「大丈夫だ。私がここにいる。サロメ、今は私だけを見て」
その言葉が胸の奥に溶け、鐘の音が遠くなる。私は瞳を閉じ、王子の鼓動と自分の鼓動をひとつに重ねた。遠くで鳴り続ける鐘が、まるで夢の外から響く警告のように感じられる。
やがて、東の空がうっすらと白み始めた。カーテンの隙間から朝の光が差し込み、部屋の輪郭が少しずつ浮かび上がる。王子は眠りに落ち、穏やかな寝顔を見せていた。長いまつげの影が頬に落ち、安らかな息遣いが胸に触れる。
(……もう二度と戻れないかもしれない……)
その予感が胸に重くのしかかり、指先がかすかに震える。私はそっとシーツを握りしめ、王子の寝顔を見つめた。契約の罰と愛の余韻が重なり、朝の光の中で淡く揺れている。
鐘の音がまだ胸の奥でこだまし続ける中、私はただ、その温もりに身を委ねていた。




