第十七話『夕暮れの市場、禁断の誘い』
馬車を降りた瞬間、街の匂いが胸いっぱいに広がった。焼きたてのパンの香り、異国の香辛料、甘い果物の匂いが混ざり合い、胸の奥までくすぐる。市場の入り口には、色鮮やかな布地やアクセサリーがずらりと並び、呼び込みの声があちこちから飛んでくる。活気あるざわめきが風と一緒に押し寄せ、まるで世界がひとつの祝祭になったかのようだった。
「サロメ、こちらを見てごらん」
王子が微笑み、私の手をしっかりと握った。指先に伝わる温もりと力強さに、胸の奥がふっとほどけていく。彼の蒼い瞳はいつもの宮廷の光を離れ、どこか自由な光を宿している。私は自然に微笑み返し、二人で市場の通りへと足を踏み入れた。
屋台には香辛料の山が宝石のように積まれ、果物の鮮やかな色彩が夕陽に照らされて輝いている。布地屋では異国風の模様が風に踊り、アクセサリーの小さな鈴が涼やかに鳴っていた。人々の笑い声や楽器の音が渦を巻き、どこかで子どもたちが紙風船を追いかけて走っている。
「こんなに賑やかな場所、久しぶり……」
私がつぶやくと、王子は嬉しそうに微笑み、そっと私の指を絡めてきた。
「あなたに見せたかったのです、サロメ。この街の息づかいを」
その言葉に胸が震える。私は王子の横顔を見上げ、夕暮れの光が彼の髪を黄金色に染めるのを見た。その姿は、宮廷で見せる誰よりも人間らしく、温かかった。
「……殿下……まるで夢を歩いているようですわ」
私の声は自分でも驚くほど柔らかくなっていた。王子は頬をわずかに赤らめ、私の手を軽く引いた。
「夢じゃありません、サロメ。あなたといると、世界が夢のように見えるだけです」
胸の奥に甘い痛みが広がる。二人で笑いながら屋台を巡り、布や香辛料を見ては「これ似合うかしら」「これなら宮廷にも」と小さな冗談を交わした。時間が溶けていくようで、私の心の時計は止まってしまったかのようだった。
ふと気づけば、空が茜色に染まり、屋台のひとつひとつが店じまいを始めていた。人々の声も、少しずつ夕暮れのざわめきに変わっていく。
「あっという間に……こんな時間……」
思わず口にしたその言葉に、王子は笑って頷いた。その笑顔に胸を打たれ、私は一瞬、世界から切り離されたような感覚に陥った。夕暮れの市場が黄金色の夢に変わり、私と王子の手だけが現実の証として温かく結ばれていた。
夕暮れの市場は、先ほどまでの賑やかさが嘘のように、少しずつ静けさを取り戻していた。屋台の店主たちが品物を片づけ、橙色の光が軒先に長い影を落としている。果物の甘い香りと香辛料の刺激的な匂いが混ざり、どこか名残惜しい空気が漂っていた。
私はふと足を止め、胸に溜まっていた息をそっと吐き出した。王子の横顔は夕陽に照らされ、金色に縁取られている。市場のざわめきの中で、その姿だけがやけに鮮明に感じられた。
「殿下……そろそろ侯爵家に戻らないと、アリエットに叱られてしまいますわ」
微笑みながらそう言うと、自分の声がどこか震えているのに気づいた。王子は眉をひそめ、すぐに私の手を取った。その指先の温もりが、冷えた夕風に抗うように強く私を包む。
「もう少しだけ……サロメ。あなたと一緒にいる時間は、あまりにも一瞬で過ぎてしまう」
彼の声は夕暮れの光に溶け込み、胸の奥まで届いてくる。私は視線を落とし、つないだ手を見つめた。王子の指先が微かに震えているのが、まるで心の奥の願いを映しているようだった。
「……殿下……」
その一言を吐き出すまでに、胸の奥で何度もためらいが渦を巻いた。王子の蒼い瞳が、私を離すまいとする光で満たされている。彼はさらに一歩、私に近づき、声を落とした。
「サロメ、あなたと過ごす時間が私にどれほどの意味を持つか、わかっているのですか?」
その言葉は甘く、痛いほどに真剣だった。胸が高鳴り、私は思わず視線を逸らす。けれど、手は離せなかった。
「……わかっておりますわ。でも……」
口元に笑みを保ちながらも、胸の奥に複雑な感情が渦を巻く。自分がサロメでいる時間、その甘美さ、そしてアリエットとしての義務。そのすべてが交錯し、頭の奥で小さな警鐘を鳴らしていた。
「でも……?」
王子がそっと問いかける。私は一瞬目を閉じ、深呼吸をひとつしてから王子の蒼い瞳を見上げた。その瞳に映る自分が、サロメなのか、アリエットなのか、もうわからなくなっていた。
「……このひとときが夢であっても、どうか壊れないで……そう願ってしまうのです」
私の声は震え、風に溶けていった。王子は目を細め、私の頬にそっと手を添えた。指先の温もりが、ひやりと冷えた頬にじんわりと染みていく。その瞳には迷いがなく、ただ私を見つめる熱だけが宿っている。
「壊れませんよ」
その声は囁きのように低く、けれど強い確信を伴っていた。胸の奥がきゅっと締めつけられる。
「私が壊させない。サロメ、あなたは私の光だから」
王子の言葉は甘く、胸の奥に直接流れ込んできた。心臓が一瞬止まったような感覚に襲われ、私は息を飲んだ。
「……殿下……壊れるって、何を……私は……」
思わず漏らした問いに、王子は微かに微笑み、指先で私の頬を撫でた。まるでその仕草だけで不安を消そうとしているかのように。
「あなたが怯えていること──私にも感じ取れる。でも、その心を私に預けてほしい」
その囁きは甘く、同時に胸の奥を強く揺らす。私の瞳が潤み、夕暮れの光がその雫に反射してきらめいた。自分でも気づかないうちに、肩が小さく震えている。
「殿下……私、怖いんです。何が怖いのか、自分でもはっきりしなくて……」
声が掠れ、指先に力が入る。王子は私の両手を包み込み、そっと息を吐いた。
「怖がらなくていい。わたしが傍にいたら怖くないでしょ」
その言葉に胸の奥で熱が膨らみ、頬がかすかに熱を帯びた。頭の奥にアリエットの声が薄く残っているのに、それを押し返すような力が王子の瞳にあった。
笑顔を崩さずにいられるのは、もはや自分への防御のように思えた。胸の奥では言葉にならない想いがせめぎ合い、夕暮れの空気がそれを包み隠してくれている気がした。王子の指先のぬくもりと声が、いまだけは私を現実に繋ぎ止めていた。
市場のざわめきが静まり、夕陽が沈む頃、空は茜から紫へと変わっていった。店じまいの音が遠くに響き、果物の香りが風に溶けていく。二人の足元には長く伸びた影が重なり、その上に夜の気配が忍び寄っていた。
王子は立ち止まり、私の手をそっと引いた。蒼い瞳が真剣に光り、その奥に決意の炎が揺らめいている。
「……サロメ。今晩は君と朝まで一緒にいたい」
その言葉は空気を切り裂くように私の胸に落ちてきた。心臓が一瞬で高鳴り、耳の奥が熱くなる。王子はさらに一歩近づき、低い声で続けた。
「この近くに別荘があるんだ。君を帰したくない」
切なさと情熱を混ぜたその声は、夕暮れの街路に溶け、私の鼓膜を甘く震わせた。私の胸に“朝まで一緒”という言葉が甘美に響き、体の奥に火が灯るような感覚が広がる。しかし同時に、冷たい鎖の感触が頭の奥を締めつけてきた。
(……だめ、朝までなんて……)
半日だけという契約が、鋭い警鐘のように心の奥で鳴る。ノクスの顔が脳裏にちらつき、その冷たい笑みが私の胸を凍らせた。息が詰まり、指先がわずかに震える。
「殿下……そんなこと……私は……」
言葉を紡ごうとしても、喉が詰まり声にならない。王子は私の両手を取り、深く見つめてくる。その蒼い瞳には、熱と迷い、そして私を失う恐れが映っていた。
「サロメ、君がどれだけ大切か、どれだけ離れがたいか……どうすれば伝わるのだろう」
その囁きは甘く、同時に胸を締めつけるほど真剣だった。私は目を伏せ、胸の奥で激しく鳴る鼓動を抑えようとする。夕暮れの空気が頬を撫で、髪を揺らす。
(……いけない……でも、いまだけは……)
私の胸は二つの感情に裂かれていた。甘い誘いに身を委ねたい自分と、契約の鎖に縛られた自分。王子の香り、手の温もり、近づく息遣い──そのすべてが私を現実から遠ざけ、夢のような時間へと引き込んでいく。
「殿下……」
ようやく出た声は、ささやきのようにか細く震えていた。王子はその声に微笑み、さらに私をそっと引き寄せた。夕暮れの街路に二人の影が重なり、夜の始まりが甘い匂いを運んできたように私は感じていた。
夕暮れの市場の終わりの通り。人影が少なくなり、店じまいの木箱が軋む音だけが風に混じっていた。橙から紫に染まった空が、夜の境目を告げるように私たちを包み込んでいる。王子は私の手をしっかりと握ったまま、蒼い瞳で私を見つめていた。その瞳の奥には、切実な情熱と、なにか決意のような影が揺らいでいる。
そのときだった──頭の奥に、冷たい声がすべり込んできた。
『罰が下るのはアリエット。帰ったらお前は二度とサロメになれないかもしれないよ』
ノクスの声。甘く、しかし冷酷に、氷の刃を思わせる響き。耳元で囁かれたかのような感覚に、胸の奥が一瞬で凍りついた。身体が固まり、視界が遠のく。
「……っ……」
思わず息を詰める私に、王子は眉を寄せて囁いた。
「サロメ……どうしました?顔色が……」
その声が、まるで夢から現実へと引き戻す錨のように響いた。だが、頭の奥ではノクスの声がなおも続いていた。
『夢に溺れるか、現実に戻るか。選ぶのはあなた。でも忘れないで、契約は絶対よ……』
胸の奥で恐怖と甘い誘惑がせめぎ合う。王子の手の温もりが皮膚を通じて全身に広がり、ノクスの冷たい声が背筋を這う。二つの感覚が私の中で交錯し、心臓の鼓動が早鐘を打つ。
「殿下……私……」
言葉にならない声を吐き出し、私は王子の蒼い瞳を見つめた。その瞳は真摯で、私だけを映しているように見えるのに、胸の奥ではノクスの冷たい囁きがなおも鳴り響く。
(このまま夢に溺れるか、現実に戻るか……)
頭の中で自分の声がこだまし、選択を迫られているのを感じる。王子の手を離せば、すべてが消えてしまう気がした。だがこの手を握り続ければ、もう二度と戻れないかもしれない。
「……殿下……」
やっと声にした言葉は、微かな震えとなって唇を離れた。王子はその震えに気づき、さらにそっと手を強く握り返す。その指先の温もりは、ノクスの声をかき消そうとするかのように、熱を持って私を包んだ。
夕暮れの空気が一瞬静まり返ったように感じられた。王子の手の温もりと、ノクスの冷たい声。その二つが胸の奥でぶつかり合い、世界がゆっくりと揺らいでいく。
(……どちらに行くの、私……)
息を呑むと、胸の奥でノクスの笑い声が微かに響いた。その声は甘やかでいて、鎖の音のように重い。王子の瞳の奥の熱と、頭の奥の冷たさが交錯する緊張感の中、私たちは夕暮れの通りに立ち尽くしていた。その一瞬の狭間で静かに私の心は幕を閉じた。




