第十六話『半日だけのロマンス』
応接室の扉を開けた瞬間、空気が一変した。窓から差し込む午後の光が、金色の埃をきらきらと舞わせている。深紅のカーテンが風に揺れ、淡い香の匂いが鼻をくすぐった。その中央に、レオン王子が立っていた。背筋を伸ばし、深い蒼の瞳がまっすぐに私を射抜いている。
「……サロメ」
王子の声は低く、しかし抑えきれない熱を帯びていた。彼は一歩、二歩と近づいてくる。その足音が床に響くたび、私の心臓が跳ねた。
「会いたかった……ずっと」
囁きと同時に、王子の両腕が私を包み込んだ。胸板の温もりが押し寄せ、息が詰まる。彼の香水の匂いと、鼓動のリズムが重なって私の胸の奥に入り込んでくる。私は一瞬、腕の中で硬直し、唇がかすかに震えた。
「……殿下……」
言葉にならない声が喉の奥で途切れる。胸の鼓動が早鐘のように打ち続け、指先が冷たくなっていく。それでも、彼の腕の中にいる自分を拒めなかった。熱と震えが混じり、まるで夢を見ているかのようだった。
そのとき、頭の奥に声が響いた。
『今日だけよ。次からは帰りに、これで最後にすると王子に言うのよ』
アリエットの声だ。冷たい囁きが脳裏を締めつけ、甘い時間を引き裂く。私は瞳を閉じ、ほんの少し顔を背けた。だが声はなおも続く。
『あなたと私は一緒。入れ替わりの意思は私のもの』
その支配するような響きに、胸の奥で何かが爆ぜる。怒りと反発が同時に湧き上がり、頬にかすかな熱が走った。
(……やめて。私の時間にまで入ってこないで。これは私の瞬間……)
心の中で叫ぶ。だがアリエットの声は静かに笑うように囁きを残し、消えていく。王子の腕の中で、私はわずかに身を震わせながらも、その瞳を見返した。
「殿下……私……」
言葉を紡ぎかけたが、王子の蒼い瞳がその全てを呑み込み、私の唇を沈黙に閉じ込めた。抱擁の強さと、頭の奥の声の重さ。その二つの力がせめぎ合い、私の胸の奥で燃えるような感覚を生み出していた。
王子の腕から離れたのはほんの一瞬のことだった。彼はすぐに私の頬を両手で包み込み、まるで宝石を扱うかのように指先でそっと撫でた。蒼い瞳が真っ直ぐに私を見つめ、その奥に燃える熱が伝わってくる。窓から射し込む光が彼の金の髪に反射し、淡い光輪のように輝いていた。
「……サロメ、あなたをずっと探していた。あの夜から、あなたのことばかり考えている」
囁きは甘く、胸の奥に直接落ちてくるようだった。彼の息が肌に触れ、わずかに香る香水が鼻をくすぐる。私は微笑みを作りながらも、その微笑が震えていることを自分でも感じていた。
(……どうしてこんなに……)
胸の奥では、別の声が囁いていた。
『私を忘れないで。あなたは私の一部……』
アリエットの声。頭の奥に薄い膜のように広がり、耳元で風のように吹き抜ける。その響きが甘い時間を削ぎ落とし、私の心を縛りつける。私は心の中で静かに反論した。
(私は私……あなたとは違う。私は“今”を生きているのよ……)
言葉にはならない叫びが胸の奥で膨らむ。王子の指先が頬の骨をなぞり、その温もりが皮膚の下にじんわりと染みていく。目の奥が熱くなり、視界が揺れた。
「……殿下……そんなふうに見つめられたら……」
思わず漏らした言葉に、王子の唇がふっとほころぶ。彼はさらに顔を近づけ、額を軽く触れさせるように私に寄り添った。
「あなたが微笑むだけで、世界が明るくなる。どうか……隠れないでほしい」
その声は柔らかく、胸の奥をくすぐるように響いた。だがアリエットの声はなおも続く。
『あなたは私……あなたは私の一部……』
(違う……私は私……!)
心の中で叫びながら、私は王子の蒼い瞳を見返した。その瞬間、現実感が強烈に押し寄せた。香水の匂い、手の温もり、息遣い──すべてが夢ではなく現実としてそこにある。
瞳が潤み、胸の奥に甘い痛みが広がった。王子の指先に包まれた頬から、その温もりが全身へと伝わり、私はかすかに身を震わせた。甘美な囁きと、頭の奥の声、二つの世界の狭間で心が裂かれそうになっていた。
応接室に柔らかな風が流れ込み、カーテンがゆるやかに揺れた。王子は私の頬に触れた手をそっと下ろし、その蒼い瞳に優しい光を宿しながら微笑んだ。彼の存在は、部屋の空気を丸ごと変えてしまうほどの温もりを帯びている。
「……サロメ。少し街の中を巡ってみませんか?」
囁く声が私の胸に落ちた瞬間、時が止まったように感じた。王子は立ち上がり、長い指先を私に差し伸べる。窓から差し込む午後の光が彼の髪に反射し、淡い金色の光輪を描く。
「馬車が屋敷に置いてあります。さあ行きましょう」
その言葉は魔法のように響き、私の胸の奥に甘い波紋を広げた。指先が伸ばされ、手を取ればそのまま世界が変わる気がした。私はわずかにためらい、唇を噛む。半日だけという制約が、頭の奥で冷たい鎖のように揺れる。
(……いけない、これ以上は……)
そのとき、アリエットの声が強く響いた。
『これで最後にして。これ以上は許さない』
その声は鋭く、まるで耳元で命令するかのようだった。胸の奥がひりつき、思わず目を閉じる。だが次の瞬間、王子の指先が私の手に触れた。温もりが皮膚に伝わり、脈打つように鼓動が広がる。
「……殿下……」
私は目を開き、彼の蒼い瞳を見つめ返した。そこには真摯な光が宿り、私のためだけに差し出されている手があった。アリエットの声が遠ざかり、胸の奥に甘美な熱が残る。
(……今だけは……私のもの……)
私はゆっくりと笑みを作った。その笑顔は、頭の奥の声をかき消すための鎧であり、同時に甘い冒険への扉を開く鍵でもあった。
「ええ……殿下。ご一緒させていただきます」
言葉にした瞬間、胸の奥で何かが解き放たれる。王子の顔に安堵の笑みが広がり、その手が私の手を包み込んだ。指先の温もりが心臓に届き、鼓動が速まる。午後の光の中、私たちは二人だけの世界に足を踏み入れた。
馬車の車輪の音が遠くで待っているように感じられる。その音を想像するだけで胸が高鳴り、頬が自然に熱くなる。半日だけの夢、半日だけのロマンス──そのすべてを抱きしめるように、私は王子の手を握り返した。
馬車の扉が閉まると同時に、世界が柔らかな揺れに包まれた。厚いカーテンの隙間から、陽光が金色の線を描きながら差し込む。外の街路樹が風にそよぎ、窓越しに見える景色がゆっくりと流れていく。石畳の音、遠くから聞こえる楽師の音色、香辛料の匂い──すべてが混ざり合い、胸の奥に甘く沁みた。
王子は隣に座り、優しい視線をこちらに向けていた。馬車の中は狭いのに、その空間が世界でいちばん安全な場所のように感じられる。彼はそっと私の手を握り、微笑んだ。
「……あなたに見せたい景色があるのです」
その声は低く、あたたかく、私の心をくすぐる。指先の温もりが皮膚を伝い、胸の奥に小さな光が灯ったように思えた。私は微笑みを返しながらも、胸の奥の鼓動が速くなるのを隠せない。
(……こんな時間が続けば……)
窓の外には、次第に市場の色彩が広がっていく。屋台の幌が赤や青や金で彩られ、果物や花、香辛料が鮮やかに並んでいた。賑やかな呼び声、笑い声、楽器の音が溢れ、活気ある街の心臓に触れたような気持ちになる。
その時、頭の奥でいつもの声がかすかに響いた。
『……これで最後にして……あなたは私の一部……』
アリエットの声。だがその囁きは、街のざわめきと王子の笑顔にかき消され、遠くへ薄れていった。胸の奥でその音が霧散し、代わりに甘美な熱だけが残る。
(この時間だけは……私のもの……)
心の中でそっとつぶやく。王子の横顔に目をやると、光に透ける金髪が風に揺れ、蒼い瞳が輝いていた。その笑顔に胸を打たれ、胸の奥にある小さな棘がやわらいでいく。
「……殿下、まるで夢のようですわ」
私の声に、王子はふっと笑い、指先で私の手を軽く押した。
「夢ではありません。あなたと一緒に見る景色こそ、現実なのです」
その言葉は胸に染み入り、全身がふわりと浮くような感覚に包まれる。市場の入り口に到着した馬車が止まり、扉が開いた。陽光があふれ、色とりどりの匂いや音が一気に流れ込んできた。
私はドレスの裾を持ち上げ、王子の差し出す手を取って馬車を降りた。人混みのざわめき、屋台の香り、遠くで響く笛の音。すべてが眩しく、すべてが甘い。
王子がそっと耳元で囁く。
「さあ、行きましょう。あなたに見せたいものがたくさんあります」
私は彼の手をぎゅっと握り返し、笑みを深めた。市場の人々の波に身を委ね、二人はそのまま人混みの中へと溶け込んでいく。半日だけの夢──この時間だけが、確かに私のものだった。




