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第十五話『嘘の綻び、鏡の決断』

 あの舞踏会から、ほぼ一か月が過ぎようとしていた。煌びやかな音楽と灯りが遠い夢だったかのように、侯爵家の屋敷は静かで重苦しい空気に包まれている。長い廊下のカーペットには人の気配が薄れ、燭台の光だけが頼りなく揺れていた。


 私は自室の鏡の前に座り、膝の上に王子からの手紙を抱えていた。便箋はすでに何通目か分からないほどで、封を切るたびに胸がざわつく。「サロメに会いたい」という言葉が繰り返し綴られ、その一字一句が私の胸を締めつけた。


「……サロメは多忙のため、またの機会に……」


 震える手でペンを取り、いつもの嘘を書き記す。宛先を書き終える頃には指先が白くなっていた。便箋をたたむ音がやけに大きく響き、自分の心臓の鼓動と重なって不安を煽る。


 鏡に映る自分は、封筒を抱きしめたまま硬直している。私は思わず鏡の中の自分に話しかけた。


「……ねえ、私じゃだめなの? なぜ、あなたに会いたいと言ってくるの……」


 声がかすれ、涙でにじむ。嘘の返事を重ねる罪悪感と同時に、「サロメに会いたい」と言われることへの嫉妬が胸に渦巻いていた。指先で鏡をなぞると、ひやりとした感触が皮膚に突き刺さるようだ。


「私が……サロメでなければ……」


 喉の奥で言葉が潰れる。鏡の中の自分が、まるで別人のように冷ややかに微笑んでいる気がして、背筋に寒気が走った。


「そうよね……自分がサロメでなければ、愛されない……」


 呟きは部屋の闇に吸い込まれる。蝋燭の火がわずかに揺れ、その影が鏡の中で歪む。サロメへの嫉妬は日に日に増し、胸の奥に黒い棘をつくり続けていた。私自身がつくり出したはずの幻影に、私は今や呑み込まれそうになっていた。


 その日、重苦しい午後の空気が部屋を満たしていた。厚いカーテンの隙間から射す光が細い筋となって床に落ち、埃が静かに舞っている。私は机に肘をつき、王子からの手紙を睨むように見ていた。何度も同じ言葉──「サロメに会いたい」──を読み返し、そのたびに胸がざわめく。


 ──コン、コン。


 扉が小さく、しかしはっきりと叩かれた。その音に心臓が跳ねる。思わず背筋を伸ばし、鏡の方を振り返った。扉の向こうから、慌ただしい足音と共に声が届く。


「お嬢様……失礼いたします」


 侍女エリゼが扉をそっと開け、いつになく強張った顔で部屋に入ってきた。頬がわずかに紅潮し、手にしたエプロンを握りしめている。


「……ど、どうしたの、エリゼ?」


 私の声は自分でもわかるほど上ずっていた。エリゼは深呼吸をひとつし、真剣な眼差しで私を見つめる。


「王子が……王子が来訪されました。是非サロメ様にお会いしたいと、応接室でお待ちです」


 その言葉に、胸が一瞬で凍りついた。指先から血の気が引き、頭の奥で警鐘のような音が響く。唇が乾き、声が出ない。


「……そ、そんな……」


 かすれた声が勝手に漏れる。ここで会わせなければ嘘がばれる。しかしサロメを出せば、今度はエリゼに疑われる。何しろこの一か月、誰一人としてサロメを屋敷で見ていないのだ。胸の奥で、激しい焦りが渦を巻いた。


「お嬢様……どうなさいますか?」


 エリゼが一歩近づき、私の表情を探るように覗き込む。その瞳には戸惑いと同時に、鋭い光が宿っていた。私の曖昧な笑みや嘘を見抜こうとするかのような視線。息が詰まり、胸が締めつけられる。


「……ど、どうしよう……」


 思わず小さく呟く。手の中のハンカチをぎゅっと握り、爪が食い込む痛みだけが現実をつなぎ止めていた。エリゼは沈黙したまま、視線だけを私に向けている。その視線が、私の胸の奥の秘密を暴こうとする刃のように感じられた。


 私は視線を床に落とし、心の中で繰り返した。──ここでどうする? 嘘を重ねるのか、それとも……。胸の奥のざわめきが、蝋燭の炎のように不安定に揺れ続けていた。


 エリゼが去ったあと、私は自室の扉を閉め、背中でそっと鍵をかけた。屋敷のざわめきは遠くに消え、蝋燭の炎が揺らめく音だけが耳に残る。心臓は早鐘を打ち、手のひらには冷たい汗がにじんでいた。私は長いスカートの裾を握りしめ、鏡の前に立つ。


「……今ここでサロメにならなければ……」


 喉の奥から漏れた声はかすれて震え、まるで他人のもののように聞こえた。鏡面はぼんやりと揺れ、私の老いた顔を映している。だがその奥には、かつての若さの残像がちらついている気がして、背筋に寒気が走った。


 私は震える手を鏡に伸ばした。冷たい硝子に指先が触れると、ざらりとした感触が走り、胸が強く縮む。背後の空気がふと変わり、甘くも冷たい香りが鼻をかすめた。次の瞬間、耳元で囁くような声が響く。


「ずいぶんとご無沙汰ね、アリエット」


 ノクスの声だった。妖艶で冷たい、あの忘れられない響き。笑みを含んだ声音が、私の心を見透かすように続く。


「約束は守ってもらうよ。長く逃げていたようだけど……契約は絶対だもの」


 その言葉に肩が震える。私は唇を噛み、鏡を見つめ返した。鏡の奥には、うっすらとサロメの姿が浮かび、微笑を深めている。それはまるで、私の決断を嘲笑するかのようだった。


「……わかってる……」


 吐き出すように呟き、私は目を閉じた。胸の奥には恐怖と屈辱が入り混じり、喉を締めつける。だが、このままでは全てが崩れる──そう思うと、逃げ道はもうなかった。


 蝋燭の光が一瞬消えたかのように揺らぎ、鏡の中で光の粒が舞い上がる。ノクスの囁きがさらに深く、耳の奥に届く。


「そう、それでいい……。お前は物語を続けなければならない」


 私は両手を鏡に当て、深く息を吸い込む。身体が熱くなり、皮膚の下を光が走る。骨の形、髪の色、肌の張り──すべてが変わっていくのを感じる。老いたアリエットが剥がれ、若きサロメがそこから現れるかのように。


 目を開いたとき、鏡の中にはもう私ではない姿が立っていた。サロメの瞳がこちらを見返し、微笑がさらに深くなる。艶やかなその笑顔は、勝ち誇ったようで、冷たくて、どこか残酷だった。


「これでいいのね……」


 私の唇が呟くと、ノクスの笑い声が鏡の奥で静かに響いた。その声は甘やかでありながら、逃れられぬ鎖の音のように重く、私の胸を締めつけた。


 応接室へ向かう廊下の空気は、いつもよりも冷たく重く感じられた。王子が来訪している──その知らせを受けた瞬間、胸の奥にしんとした緊張が走った。白いドレスの裾を持ち上げ、静かに歩みを進める。蝋燭の光が廊下の石壁にゆらゆらと踊り、私の影を長く引き延ばした。


 視線の先に、エリゼが立っていた。銀の盆を胸元に抱き、眉を寄せて私を見ている。その眼差しには驚きと警戒、そして言葉にならない戸惑いが混じっているように感じた。ひと月の間、彼女は“サロメ”を一度も見ていない。なのに、突然現れた私に、どう思っているのだろう。


「……お久しぶりね、エリゼ。王子がお待ちとのこと……」


 私はできるだけ柔らかな声を作り、微笑んだ。唇の端をゆっくりと上げると、その仕草だけで緊張が解けるふりができる。けれど、胸の奥では彼女の視線が私を探る刃のように突き刺さっているのを、ひりひりと感じていた。


「はい……応接室にてお待ちです。どうぞこちらへ……」


 エリゼの声は一応落ち着いていたが、その奥にわずかな硬さが潜んでいる。彼女は慎重な足取りで先を歩きながら、ちらちらと私を振り返る。視線の先には“私”の仕草や呼吸を読み取ろうとする探る気配がある。私はそのことを敏感に感じ、胸がざわめいた。


(気づいている……? まさか、そんなはず……でも……)


 考えれば考えるほど、背筋に冷たい汗が流れる。私はそれを悟られまいと、より一層微笑を深めた。自分の笑顔がどんな表情になっているか、もはや確かめる勇気はなかった。


 応接室の前に着いたとき、私は一度深呼吸をした。エリゼの肩越しにちらりと見える扉。王子があの向こうにいる。胸の鼓動が早くなり、指先が冷たくなる。


 ふと、エリゼの視線と目が合った。彼女の瞳は冷たく光り、まるで心の奥まで見透かすかのようだった。私は一瞬、笑顔を固めたまま動けなくなったが、すぐに視線を逸らし、ドレスの裾を整える仕草でごまかした。


「ありがとう、エリゼ。……大丈夫、行けるわ」


 そう言う声が自分でもかすかに震えているのがわかる。エリゼは無言で小さく頷き、盆を胸に抱いたまま一歩下がった。その動作に、疑念の影が差しているように思えた。私はその気配を背中に感じながら、ゆっくりと扉に手をかけた。


 ──エリゼの視線が背中に刺さる。何かを見抜こうとしている、そんな確信が心に広がる。私の笑顔は、果たして彼女を欺けているのだろうか。


 扉を開ける寸前、振り返ってエリゼに微笑んだ。自分でもその笑顔がどんなものか分からない。優しさか、挑戦か、あるいは恐れの裏返しか──ただ、エリゼの目がわずかに細くなったのだけは見て取れた。


 視線と微笑が交錯したその瞬間、時間が止まったように思えた。私の胸に、得体の知れない緊張が走る。エリゼは何を考えているのだろう、そして私は、どこまで彼女を欺けるのだろうか。


 応接室へ向かう廊下の途中、私は胸の奥でざわめきを覚えていた。白いドレスの裾を持ち上げる手が微かに震え、胸の奥の鼓動が波のように揺れ続ける。燭台の光が壁に映す影が二重になり、まるで私自身の心の裂け目を映しているようだった。


(なぜ……私がエリゼの視線に怯えなければならないの……)


 歩を進めるたび、視線の奥にひりひりとした緊張が生まれる。エリゼの瞳は私を測り、探り、突き刺すように感じられる。王子に会う前のこの短い時間だけが、私にとって真実の心を覗ける瞬間だった。


(ああ……これはアリエットのせいね。嫉妬心から、私を遠ざけたから……)


 胸の奥に、声が響く。それは私自身のもののようで、別の誰かのもののようでもあった。アリエットと私は同一の存在。けれど、心が徐々に分離し始めている。サロメとしての私が、アリエットに憎しみを抱くことを覚え始めている。まるでひとつの身体に二つの心が入り込み、互いを押しのけ合うように。


(私だって……王子に愛される権利がある。アリエットが嫉妬して閉じ込めたから、私はここにしかいられない……)


 思考は鋭くなり、胸の奥に黒い棘が突き立つ感覚がした。私は唇を噛み、息を潜める。エリゼの目が追ってくる──その視線の中に、恐れと疑いが混じっているのを感じる。


「……私とアリエットは同じ……同じはずなのに……」


 声に出すと、廊下の空気がひやりと震えた。歩く足取りが重くなり、白いドレスの裾が床を擦る音だけが響く。心の奥で、二つの声がささやき合う。


(いいえ、あなたは私じゃない──私は私……)


(私はあなた──私こそが“本物”……)


 言葉にならない声が重なり、胸の奥に渦を巻く。サロメの笑顔は作り物の仮面に変わり、その下で芽吹いたもうひとりの私がゆっくりと息づいているのを感じた。


 ──アリエットと私は同一なのに、心は分裂し始めている。私の中にもうひとりの私が生まれ、影のように私の後ろを歩き始めた。


 エリゼの視線が背中に刺さるたび、その影が濃くなっていく。私は王子のもとへ向かいながらも、心の奥で「誰が本当の私なのか」分からなくなっていった。

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