第十四話『嫉妬の芽吹き、鏡の囁き』
舞踏会の余韻がまだ街の片隅に残っている頃、私は重い足取りで侯爵家の屋敷に戻った。玄関の扉が閉まると、あの煌めく世界は嘘のように遠ざかり、ただ静まり返った闇が私を包んだ。ドレスを解き放ち、髪を乱したまま自室へと入り込む。蝋燭の炎だけが頼りなく揺れ、影を長く伸ばしている。
鏡の前に立つと、そこには若き日の面影を失った私がいた。深く刻まれた皺、かつては艶やかだった頬も今は弛み、疲労と孤独を宿した眼差し。私はその姿から目を逸らすことができなかった。
「……これが、私……」
呟いた声は震え、静かな部屋に吸い込まれていく。指先で頬をなぞると、弾力を失った肌の感触が指先に重く伝わり、胸が痛んだ。まぶたを閉じれば、思い出すのはレオン王子の蒼い瞳。あの瞳に映っていたのは私ではなく──若き“サロメ”の姿だった。
王子の真摯な言葉、必死な眼差し。そのすべてが、サロメへと注がれていた。アリエットとしての私は、誰の目にも映らなかった。胸の奥が締めつけられ、息が浅く乱れていく。
「……私は、誰からも……」
喉の奥で言葉が潰れる。鏡に触れた手が震え、冷たい硝子の感触が余計に心を刺した。
「もう、二度と……サロメにはならない」
そう告げた声は、決意を帯びていたはずなのに、どこか悲鳴のように響いた。唇を噛みしめ、涙がこぼれそうになる。だが、それでも心は安らぐことはなかった。なぜなら、その決意の底には、別の感情が芽生えていたからだ。
「サロメは……私なのに……」
吐き捨てるように鏡に囁いた。サロメという仮面の姿ばかりが、王子に愛され、光を浴びる。アリエットは誰からも顧みられず、陰に追いやられる。その理不尽さに、胸の奥から嫉妬が黒い炎のように立ち上がる。
「どうして……お前ばかり……」
唇から漏れた言葉は、鏡の中に映る自分へと突き刺さった。だがそこに映る顔は、まるで他人のように冷ややかに私を見返していた。虚無と嫉妬が渦を巻き、心の奥でどす黒い影を広げていく。私は鏡に映るその瞳から逃れられず、震える吐息をこぼし続けた。
その夜、屋敷はひっそりと静まり返っていた。舞踏会の華やぎが遠い幻のように思えるほど、重苦しい沈黙が部屋を支配している。蝋燭の炎が揺らめき、壁や天井に不気味な影を踊らせていた。私は鏡の前に腰を下ろし、冷たい床に裾を広げた。鏡面に映る自分の姿は、いつもよりも老いを帯びて見える。心臓が不規則に打ち、吐息が胸の奥で震えた。
ふと、鏡の奥に靄がかかるように影が現れる。次第に輪郭を帯び、夜の闇を纏った女の姿が浮かび上がった。漆黒の髪、紅の唇、そして人を射抜くような冷ややかな瞳。ノクスが現れた。
「さあ、アリエット」
彼女は妖しく微笑み、指先をひらりと動かす。その仕草が命令のように響いた。
「舞踏会での夜を聞かせてもらおうか。どんな恋の物語を紡いできたのかしら?」
私は胸を締めつけられるように息を呑み、両手を膝の上で握りしめた。唇は乾き、言葉がうまく出てこない。やっと声を振り絞る。
「……殿下は……サロメに、深く惹かれておられました。あの蒼い瞳で、ずっと……私を──いいえ、サロメを見つめて……。別れのときには、必ずまた会いたいと……強く、仰っていました」
言葉を重ねるごとに胸の奥に棘が刺さる。王子の声も、手の温もりも、すべては“サロメ”に向けられていた。私はそのことを語りながら、声を震わせずにはいられなかった。
「……サロメは愛され、アリエットは……捨てられたのです」
喉の奥で押し殺したはずの言葉が、涙のように零れた。次の瞬間、鏡の中のノクスの表情が激しく揺らいだ。紅の唇が冷たく歪み、瞳の奥に怒りの炎が宿る。
「アリエット……!」
その声は低く鋭く、私の全身を震わせた。
「契約を忘れたのかい? お前がどんな感情を抱こうと、約束は絶対だ。背けば……鏡も、お前も……酷いことになる」
言葉は刃のように鋭く、私の耳を切り裂く。蝋燭の炎が大きく揺れ、影が壁を這いまわる。私は恐怖に駆られ、両腕を抱きしめるように震えた。
「……わ、私は……」
必死に言葉を返そうとしたが、喉が塞がれたように声にならない。ノクスの冷たい瞳が鋭く突き刺さり、呼吸さえ苦しい。それでも胸の奥では、別の感情がじわじわと芽吹いていた。
──それでも、私はサロメになりたくない。
恐怖と反発。その二つの感情が心を裂き、矛盾の中で燃え盛る。ノクスは艶やかに笑い、冷たい声で囁いた。
「抗おうとするほど、契約の鎖はきつく締まる。忘れるな、アリエット」
私は鏡の前で震えながら、その言葉を噛みしめた。ノクスの笑みは闇の奥に揺らめき、蝋燭の光が滲む中で、胸の奥に黒い影だけが広がっていった。
舞踏会の夜から数日、私は一度も鏡の前に座らなかった。サロメに入れ替わることを拒み続け、屋敷の中で老いた自分の姿だけを抱えて過ごした。重苦しい沈黙が日々を覆い、廊下を歩くたびに、絨毯に吸い込まれる足音が心細く響いた。
朝も昼も、鏡は沈黙を保っていた。だが私は、部屋の隅に佇むその存在を意識せずにはいられなかった。カーテンの隙間から差し込む光が鏡面を照らすたび、何かがそこに潜んでいるように感じる。背筋が冷たくなり、視線を逸らすことしかできなかった。
「お嬢様……」
ある午後、侍女エリゼが盆を手に私の部屋を訪れた。銀の盆に乗ったスープはまだ湯気を立て、ハーブの香りがほのかに漂っている。彼女はそっと卓に置き、私の前に立って深く頭を下げた。眉には憂いの影が差している。
「このところ、本当にお顔色が優れません。食事もろくに召し上がらず、夜もあまりお休みになっていないご様子……。どうか、わたくしに心配をさせないでくださいませ」
その声音に胸が詰まる。私は慌てて笑みを作り、扇の代わりに指先で口元を覆った。
「……大丈夫よ、エリゼ。ただ、少し疲れているだけ。だから本当に、心配はいらないの」
けれども、その笑みが曖昧で頼りないことは自分でも分かっていた。エリゼはなおも私を見つめ、何か言いたげに口を開きかける。しかし結局は深い溜息と共に、静かに頭を垂れた。
「……承知しました。ですが、どうかご自愛くださいませ」
彼女が去り、扉が閉まると、再び部屋は静寂に包まれる。私は視線を落とし、盆に置かれたスープを一口も口にせず、ただ椅子に沈み込んだ。心臓の鼓動が空虚に響き、孤独が一層濃くなる。
やがて、意識は自然と鏡へと引き寄せられる。そこには──ぼんやりとした輪郭が映っていた。霞の向こうから浮かび上がる若い女の姿。サロメ。彼女は柔らかく微笑んでいるように見えた。蝋燭の明かりが揺れると、その笑みも揺れ、まるで何かを楽しんでいるかのようだった。
「……あの夜の余裕かしら」
私は震える声で囁いた。王子の蒼い瞳に愛され、熱い言葉を注がれた者だけが持つ自信。その残響が鏡越しにこちらを見下ろしているように思えて、胸の奥がじくじくと焼ける。
「お前ばかりが……」
呟きは鏡に吸い込まれ、返事はなかった。ただ、サロメの笑みだけが確かにそこにあり、私を嘲るかのように見返していた。その微笑が幻影でありながら、棘となって私の心を突き刺し続けていた。
深夜、屋敷の廊下は冷たい静寂に包まれていた。外では風が木々を軋ませ、窓ガラスをかすかに叩く音が耳に届く。部屋の中には蝋燭が一本、か細い炎を揺らめかせているだけだった。淡い光は家具や壁に長い影を落とし、静寂の中で生き物のように揺れ動いていた。
私は鏡の前に立ち尽くしていた。冷たい床石が素足に重くのしかかり、心臓の鼓動が耳の奥で不規則に鳴り響く。鏡はただの硝子であるはずなのに、その奥に何かが潜んでいる気配がして、息が浅くなった。
やがて──鏡面に、若き日の私が浮かび上がる。艶やかな髪、張りのある頬、真珠のように輝く肌。サロメ。あの夜、王子の視線を奪った幻影が、そこに在った。彼女は柔らかく微笑み、まるで私を歓迎するかのように視線を絡めてくる。私は息を呑み、喉が詰まるような感覚に襲われた。
「……お前ばっかり、いい思いをして……」
低く吐き出した声が、ひんやりとした空気に溶けて消えた。だがその瞬間、鏡の中のサロメの笑みがわずかに深まった。艶やかな唇が、確かに動いたように見えた。私は凍りついたように立ち尽くし、全身から冷たい汗が噴き出す。
「な……今のは……」
声が震え、足が勝手に後ずさる。だが視線はどうしても鏡から離れない。サロメの笑みは揺らぐことなく、むしろ嘲るような色を帯びていた。胸の奥がかき乱され、恐怖と怒りがないまぜになって押し寄せる。
「……お前……私なのに……私じゃない……」
掠れた声が唇を震わせ、耳に届いた瞬間、自分の言葉ではないように響いた。胸の奥に直感が走る。──自分の中に、サロメとは別の人格が芽生え始めている。光を纏うサロメと、影に沈むアリエット。二つの存在は同じ器に収まりきれず、私の中で分裂しようとしていた。
私は無意識に鏡へと歩み寄り、震える指先を鏡面に触れさせた。冷たい硝子が拒むように硬く、指が小刻みに震える。蝋燭の炎がぱちりと音を立て、影が大きく揺れた。
「サロメは光……アリエットは影……」
その言葉が漏れ出た瞬間、背筋にぞくりとした寒気が走った。声は確かに自分のもののはずなのに、どこか別の誰かが囁いているように聞こえたのだ。鏡の奥から誰かが応じている──そんな錯覚に心が捕らわれる。
私は息を詰め、鏡越しに微笑むサロメを見返した。彼女の瞳には、私を支配するような強い光が宿っている。胸が痛み、脚が震え、立っているのもやっとだった。部屋の中の静寂が一層濃くなり、外の風の音さえ遠のいていく。
幕は静かに閉じ、嫉妬と恐怖に彩られた次の夜が、忍び寄るように訪れようとしていた。
 




