第十三話『失われた花の影』
廊下は人影もまばらで、舞踏会の喧騒が遠くに霞んでいた。石造りの壁に沿って並ぶ燭台の炎が揺れ、赤い絨毯の上に伸びる影を震わせる。私は兄のもとへ向かおうと早足で歩いていた。冷たい空気が頬を撫で、胸の奥で鼓動が痛みを伴って鳴り響く。
──その時だった。角を曲がった先に、堂々と立つ人影があった。黄金の糸を織り込んだ礼服、威厳を纏う背筋。見間違えようもない、現国王オーギュスト。私は立ち止まり、思わず息を呑む。心臓が一瞬、凍りついたかのように跳ねた。
彼も私に気づいたのだろう。驚きが混じる瞳が、ゆっくりとこちらに向けられる。そこにはほんのわずかに懐かしさの色が滲んでいた。
「……アリエット」
その声が、空気を震わせた。かつて夢にまで求めた響き。胸の奥に、失われた日々の痛みがよみがえる。だが、次の瞬間、その温もりは氷の刃に変わった。
「かつての輝きは……もう失われてしまったのだな」
突き放すように吐き出された言葉に、肺が詰まるような苦しさを覚えた。唇の端に浮かぶのは、あざ笑うような歪み。視線は冷たく、私の顔に刻まれた皺や疲労を容赦なく抉り出す。まるで先ほどの舞踏会で目を輝かせて見つめていた“サロメ”と、今の私を重ね合わせ、落胆を隠さぬ瞳だった。
「陛下……」
震える声が喉から零れる。必死に視線を逸らそうとしても、王の眼差しが鋭い矢のように突き刺さる。私はただ立ち尽くし、冷や汗が背を伝うのを感じるしかなかった。
「時は残酷だ。あの夜を共にした花が、こうも色褪せるとは……」
オーギュストの声には、後悔とも嘲笑ともつかぬ響きが混じっていた。その瞳は私を透かして、幻のサロメを追い求めている。若さに執着し、老いた姿を拒む眼差し。そこには愛も憐憫もなく、ただ無情な比較が横たわっていた。
胸の奥が裂けるように痛んだ。ほんのひととき、王子の腕に抱かれ、光を浴びた幸福。その対比が、今はあまりにも残酷だった。私は影。サロメは光。過去の栄華と現在の衰退。その差が、鏡のように突きつけられていた。
「……どうして……」思わず唇が震える。「どうして、今さら……そんなことを」
だが、王は答えない。ただ冷ややかに私を見下ろす。その瞳に映るのは、もはや“花”ではない、散り落ちた花弁にすぎない私。私は胸を抑え、かろうじて微笑を繕った。しかしその微笑みは、砕けそうな仮面にすぎなかった。
廊下に重苦しい沈黙が漂っていた。国王オーギュストの冷酷な言葉が心臓に深く突き刺さり、私は足を止めたまま呼吸を忘れていた。胸の奥で鼓動が暴れ、血の気が頬から引いていく。赤い絨毯に映る燭火の影さえ揺らぎ、視界が霞んで見えた。
その時、軽やかな足音が近づいてくる。規則正しく響く靴音が静寂を破り、私の心臓をさらに締めつけた。
「父上……」
若々しい声。振り返ると、蒼い瞳を持つ青年が現れた。レオン王子。王冠の継承者にして、私がサロメとして一夜の夢を見た相手。彼の姿を目にした瞬間、胸の奥に熱と痛みが同時に走った。
「殿下……」
かろうじて声を絞り出した私に、王子は真剣な面持ちで歩み寄った。父王の横に立ちながらも、その視線は私から離れない。けれど、その瞳が追い求めているのは──アリエットではなく、幻影の“サロメ”だと分かっていた。
「そなたは……侯爵家の令嬢でいらっしゃいますね」
静かに、けれど確信をもって告げられた言葉に、私は喉を塞がれたように声が出なかった。唇が震え、ただ小さく頷くことしかできない。王子の蒼い瞳は真摯に揺れ、その奥には強い決意が宿っていた。
「サロメ・ルミエールは……その侯爵家に身を寄せているのでしょう?」
刹那、胸の奥が音を立てて軋んだ。喉までこみ上げた否定の言葉は、純粋な願いに満ちた王子の眼差しに押し戻される。彼の真っ直ぐな視線は、祈りのように私を射抜いていた。
「どうか……どうか、彼女にもう一度お会いしたいのです。私に取次をお願いできませんか」
その瞬間、王子は深々と頭を下げた。身分も誇りも捨て、一人の青年として私に懇願している。その真剣さが痛いほど伝わってくる。けれど同時に、私の心を突き刺す残酷な真実が浮かび上がった。
──彼が求めているのは、私ではない。アリエットではなく、若き日の幻影“サロメ”なのだ。
「殿下……」
唇から零れた声は震えていた。必死に微笑を作ろうとしても、頬が引きつるだけ。胸の奥で孤独の鐘が鳴り響く。背後では国王の冷ややかな眼差しが私を値踏みし、前では王子が切実に願いを告げている。誰ひとり、アリエットという存在を見てはいなかった。
心臓を掴まれるような孤独が胸を締めつけ、息が詰まる。私は仮面のような笑みを保ち、ただ静かに頭を垂れるしかなかった。
レオン王子の切実な言葉が廊下に響いたあと、国王オーギュストはゆっくりと息を吐き、口元に皮肉めいた笑みを浮かべた。燭台の炎がその横顔を照らし出し、影が冷たく伸びていく。豪奢な礼服に包まれた身体は堂々としているのに、その眼差しは人を突き放すほど冷ややかだった。
「ふん……時の流れというものは、実に残酷なものだな」
低い声が石壁に反響する。彼の視線が、私を頭から足元まで舐めるように走った。そこには温もりも優しさもない。ただ、若き日の幻影と比較して値踏みするような残酷な色しかなかった。
「お前も気づいているだろう。もう誰も、お前自身を求めてなどいない」
その言葉に、胸の奥が激しく抉られた。まるで心臓に氷の針を突き立てられたようで、呼吸が浅くなる。私は必死に扇を持ち上げ、微笑を作った。唇を歪め、笑みを貼り付ける。けれど頬は強張り、眼差しは虚ろに揺れる。
「……陛下。私は……」
かすれた声が喉から漏れる。続きを言おうとしても、言葉が見つからなかった。私の心の奥では、はっきりとした絶望が声を上げていたのだ。
──誰も、私を見てはいない。
レオン王子の蒼い瞳は、切実な熱を帯びながらも、どこか遠くにある理想を追っている。父王の瞳には、老いた私への冷酷な落胆が宿っている。若き日の美貌に注がれていた憧れも熱も、アリエットという現実に戻った瞬間、霧のように消え去った。
唇が乾き、言葉を探す。だが結局、吐き出せたのは小さな独白だけだった。
私は扇の陰に声を沈め、かすかに首を振った。
「……お心にある御方は、私ではございませんのでしょう」
その声は誰に向けるでもなく、空気に溶けて消えていった。国王は冷笑を深め、王子は戸惑うように眉を寄せる。だがその反応ですら、アリエットという存在を見てのものではないと、痛いほど伝わってきた。
かつて社交界の花として注がれた羨望の眼差し、囁かれた甘美な言葉。そのすべてが過去の幻影となり、今の私には残っていない。微笑の仮面の裏で、冷たい孤独が静かに広がっていく。血のように熱かった憧憬の記憶が、氷となって全身を流れる感覚に変わっていくのを、私は止められなかった。
沈黙を裂くように、私は深く頭を下げた。扇の陰に隠した唇はわずかに震えながらも、笑みを繕う。
「殿下のご厚意、しかと承りました。サロメへの取次はいたします。ただし……事前にお手紙を頂ければ、その都合に合わせて彼女をお引き合わせいたしましょう」
自分でも驚くほど穏やかな声が口をついた。胸の内は千々に乱れているのに、外に出た言葉は礼節を保っている。レオン王子の蒼い瞳が輝きを増し、感極まったように頷いた。
「ありがとうございます……!必ずお手紙を届けます。どうか、どうかよろしくお願いいたします」
必死さを帯びた声。彼の真摯な熱意に胸が震える。だがその熱は、アリエットではなく“サロメ”に向けられていると知っているからこそ、痛みとなって心を刺した。私は瞳を伏せ、扇で口元を隠す。横で国王が小さく鼻を鳴らし、嘲るように肩を揺らす気配がした。その皮肉を背に受けながら、私は一礼して踵を返す。
煌めく廊下の灯火が背後に遠ざかっていく。王と王子の視線を背中に感じながら、私は深い息を吐き出した。扇を持つ手が汗ばみ、心臓の鼓動がまだ落ち着かない。
──その瞬間。
「アリエット!」
鋭い声に呼び止められ、思わず立ちすくんだ。振り返ると、そこに兄シャルルが立っていた。鋭い眼差しは暗がりでも揺らぐことなく、焦燥を隠さぬ表情が彼の顔に刻まれている。
「どこにいた?」
短く放たれた問いに、胸が跳ねる。私は慌てて微笑みを作り、扇を軽く傾けた。
「……人混みに紛れて、少し休んでいただけですわ。ご心配をおかけしました」
声は震えそうになるのを必死で抑えた。兄はなおも疑うように私を見つめたが、やがて息を吐いて視線を逸らした。
「……帰るぞ」
低く放たれたその一言に従い、私は兄の背に歩みを合わせた。会場を後にすると、外の夜気が頬を冷たく撫でた。煌めいていた宴の光が背後に遠ざかり、現実の闇が再び私を包み込む。
待ち受けていた馬車の扉が開き、私たちは中へと乗り込んだ。重い扉が閉まると、石畳を叩く車輪の音だけが夜に響き渡った。窓の外には街灯の明かりが流れていき、ぼんやりとした光が車内を照らしては過ぎ去っていく。
私はその光を追うように視線を外に向けた。胸の奥では、まだ王子の声が残響のように響いている。──必ず、と言ったあの言葉。蒼い瞳の切実な光。すべては“サロメ”に向けられたもの。それを思い返すたびに、心は深く沈んでいく。
兄は向かいの席で黙したまま腕を組んでいた。気遣いか、それとも言葉を選んでいるのか。だが、私には何も問いかけられない沈黙の方が、むしろ胸に重くのしかかる。
──誰もアリエットを求めてはいない。ただ、サロメだけが光を持っている。
その残酷な真実を胸に抱えたまま、私は夜の闇に揺られていった。




