第十二話『夢から現実への帰還』
華やかだった舞踏会も、夜が更けるにつれて次第に落ち着きを帯びていた。煌めくワルツの旋律はゆるやかに調子を落とし、弦の音は余韻を引くように甘やかに響く。人々はグラスを手に談笑し、笑い声は静かな波のように広間に広がっていった。シャンデリアの光がドレスの宝石を散らすように照らし、銀の盆に盛られた菓子の香りが甘く漂う。華やぎの裏には、夜の終わりを告げる気配が忍び込んでいた。
私は扇を傾けながら視線を流した。その時だった。群衆の向こうに見覚えのある姿を捉え、胸が跳ね上がる。背筋を伸ばし、鋭い眼差しで辺りを探る紳士──兄、シャルル・ド・モンフォール。その厳格な立ち姿は昔と変わらず、彼の視線はまるで鋭い矢のように周囲を貫いていた。
「……兄上……?」
小さく声が漏れる。唇から零れた言葉に、自分自身が驚いた。王子の隣にいる今、この名を出すことがどれほど危ういことか。
レオン王子が不思議そうに振り向いた。「今、誰かを呼ばれましたか?」
「い、いいえ……」慌てて首を振り、微笑みを作る。「ただ……少し、懐かしい面影を見た気がして」
王子は私をじっと見つめ、眉を寄せた。「顔色が優れません。大丈夫ですか?」
「……ええ、大丈夫ですわ」
言葉ではそう告げながらも、心臓は鐘のように乱れて打ち続ける。兄の目は間違いなく、妹を探す者の目。社交の場に馴染み、常に落ち着きを崩さぬ兄が、あのように焦燥を露わにするなど滅多にない。冷たい汗が背を伝い、扇を持つ指先が震える。
もし兄に見つかれば──この正体が暴かれてしまうかもしれない。サロメの仮面が剥がされ、アリエットとして引きずり出される。想像だけで息が詰まり、胸が苦しくなった。
「……どうすれば……」
心の奥で呟く。まだ少し時間は残されている。けれど、このままでは危うい。今のうちに戻らなければ、兄に疑念を抱かせ、すべてが厄介な方向へ転じてしまう──そう悟った。
胸の奥に、不意に冷たい声が蘇った。
──半日だけ。 ──恋を語れ。
ノクスの囁き。艶やかで冷酷なその響きが頭の奥で繰り返されるたび、心臓を鷲掴みにされるように強く脈打った。煌びやかな大広間の灯火も、王子の温かな手も、一瞬にして薄暗い影に覆われてしまうような錯覚に囚われる。
幸福な夢に酔いしれていたい。レオン王子の瞳に映る自分の姿を、永遠に抱きしめていたい。けれど、現実の私は──侯爵令嬢アリエット。若さは仮初め、残された時間は刻一刻と削られている。胸の奥で、甘美な願いと逃れられぬ焦燥がせめぎ合い、喉を締めつけた。
「……サロメ?」
隣から王子の声が柔らかく響く。真摯な眼差しが、私のわずかな動揺を見逃さない。振り返ると、彼の瞳が心配そうに揺れていた。
「顔色が……優れませんね。お疲れなのでは?」
「いえ……殿下。大丈夫ですわ」
微笑を作ろうとする唇がわずかに震える。私は慌てて扇を口元に寄せ、その陰に揺れる心を隠した。胸の奥で鐘が鳴り響き、背中に冷たい汗が伝う。
「殿下……」
言葉を紡ぎながら、瞳を伏せる。「そろそろ……お時間が近づいてまいりました。これ以上、ご迷惑をおかけするわけには……」
レオン王子は驚いたように目を見開き、すぐに私の手を強く握った。「迷惑だなんて……そんなことは決して思いません。むしろ……あなたが去ってしまう方が、私には辛い」
その真っ直ぐな言葉に胸が揺れた。幸福に包まれそうになる心を、必死に抑える。だが、頭の奥にはなおもノクスの囁きが響き続けていた。
──半日だけ。 ──恋を語れ。
その声は鎖となり、私を現実へと引き戻す。微笑みを保ちながらも、心の奥では涙がこみ上げていた。
私が別れを告げると、レオン王子の表情に驚きが走った。蒼い瞳が大きく見開かれ、握られた手にさらに強い力が込められる。
「……もう少しだけ。せめて、あと一曲だけでも」
その声音には必死さが滲んでいた。大広間を包む談笑や楽団の音色が遠のき、彼の声だけが私の胸に深く落ちてくる。心は揺れ、彼の求めに応えたい衝動が甘美に疼いた。
けれど、私は首を横に振った。扇を口元に寄せ、微笑を崩さぬようにしながら言葉を絞り出す。
「殿下……私も名残惜しく思います。ですが、どうかご容赦くださいませ。またお会いできる日を……心から願っております」
レオン王子の瞳が熱を帯び、真剣に私を見つめる。その眼差しには誠実さと情熱が混じり合い、胸を貫いてきた。
「必ず……またお会いしたい。あなたと過ごすひとときは、私にとって何よりも大切なのです」
その言葉に胸が震える。幸福の波が押し寄せ、涙がこぼれそうになった。だが同時に、冷たい鎖が心を締めつける。ノクスとの契約──半日だけの若さ。夢は儚く、永遠ではない。
私は必死に微笑を保ち、王子の手をそっと離した。温もりが遠ざかる瞬間、胸の奥に熱と冷たさが同時に走り、心が引き裂かれるように疼いた。
別れの言葉を交わした後も、レオン王子は私の手を放そうとしなかった。その掌の温もりが痛いほど伝わり、蒼い瞳には迷いと切実さが揺れている。周囲では楽団が次の曲の準備を始め、貴族たちがグラスを手に談笑していたが、私の世界は彼の声と視線だけで満たされていた。
「……サロメ」
低く囁くような声。彼の指先がわずかに震え、さらに強く私の手を握り込む。「私は、どこへ行けばあなたに会えるのですか。次に会う時を、どうすれば約束できるのです」
胸が強く締めつけられる。永遠に夢を続けられるのなら、甘く優しい言葉を返せただろう。だが現実は冷たく、ノクスとの契約が鎖のように心に絡みついていた。私は一瞬ためらい、視線を落とす。胸の奥で、幸福と焦燥がせめぎ合った。
「……殿下」
扇を口元に寄せ、笑みを形作りながら静かに答える。「私は、アリエット侯爵家にお世話になっております。もしお望みでしたら……アリエット様にお伝えくださいませ」
その瞬間、王子の瞳に強い決意の光が宿った。彼は深く頷き、言葉を噛みしめるように囁いた。「必ず……伝えましょう。私が必ず」
胸が震える。涙が込み上げ、今にも零れ落ちそうになる。私は必死に微笑を保ちながら頭を深く垂れた。「ありがとうございます、殿下……」
裾を翻し、人々の群れの中へと歩みを進める。背後から王子の視線が突き刺さるように感じられ、その熱は背中を焦がすほどだった。私は振り返ることができず、ただ前へと進むしかなかった。
──契約の影。兄の存在。逃れられぬ現実は確実に迫っている。
幸福と恐怖の狭間で揺れる心を抱えたまま、私は人々の中に溶け込んだ。煌めく灯りの下で微笑みを繕いながらも、胸の奥には冷たい震えが残り続けていた。幕は静かに閉じ、次の夜への緊張だけが残された。
化粧室に戻った私は、重い扉を押し開けた瞬間、熱に浮かされていた心が一気に冷めるのを感じた。華やかな音楽と灯火の気配が背後に遠ざかり、ひんやりとした静寂が肌にまとわりつく。壁に掛けられた燭台の炎がわずかに揺れ、広い鏡に映る自分の姿を妖しく照らしていた。
鏡の中に立つのは、もう若き日の“サロメ”ではなかった。白粉に覆いきれぬ皺が刻まれた頬、疲労を滲ませた眼差し──侯爵令嬢アリエットの姿がそこにあった。胸が強く締めつけられ、私は思わず裾を握り締める。王子の温かな手の感触がまだ指先に残っている。甘美な囁きが耳の奥に残響のように響き続けていた。
「……終わってしまったのね」
呟いた瞬間、鏡面に影が滲み、夜の闇を纏った女が姿を現した。黒髪が流れるように揺れ、紅の唇が艶やかに歪む。妖艶な魔女ノクスが、仄暗い笑みを浮かべて私を見つめていた。
「ふふ……惜しかったわね。まだ少し時間は残っていたのに。王子と甘い夜を過ごすかと期待していたのに、もう帰ってしまうなんて」
冷ややかに囁かれた声に、私は胸を押さえた。恋に酔い、彼の瞳に映る自分をもっと抱きしめていたかった。その願いが叶わないことが、痛みとなって迫ってくる。
「……私も、サロメのままでいられるなら、もう少し……彼の傍にいたかった。けれど、あなたとの契約が……頭をよぎったのです。時間が分からない。気づけば破滅が待っている……それが怖くて」
ノクスは細い指で頬を撫でるような仕草をし、艶やかに笑った。
「恋に夢中になって、時間の概念さえ忘れてしまう……それこそが真の恋じゃないかしら。あなたの王子も、きっともっと酔いしれてくれたでしょうに」
私は俯き、震える声を押し殺す。皺の刻まれた手を組み、唇を噛んだ。
「せめて……せめて、一時間前に知らせていただけませんか。そうすれば、残りの時を心置きなく……夢に浸れます」
しばしの沈黙。鏡の奥でノクスの紅い唇がゆっくりと持ち上がった。炎の揺らめきに照らされたその笑みは、冷酷にして美しい。
「いいわ。一時間前に知らせてあげる。けれどね……それがあなたの恋を甘く長引かせるのか、それとも切なさを募らせるのか……私は知らないわ」
その声は蜜のように甘く、刃のように鋭かった。私は震える指で胸元を押さえ、鏡に映る自分の老いた顔を見つめた。瞳の奥にまだ残るのは、王子の蒼い瞳に映された“光”の残像。
若さは仮面、契約は鎖。けれど私は、まだ夢を見ていたい──あの手に再び触れ、あの声をもう一度聞くために。
※ ここまでのあらすじ
興味を抱かれた方は是非一話からどうぞ。テーマは老いとルッキズムです(;^_^A
侯爵令嬢 アリエット・ド・ヴァロワ(41) は、かつて“社交界の花”と称えられた美貌を持っていた。だが、歳月は残酷にその輝きを奪い去り、皺と疲れが顔を覆い、若い娘たちの中で居場所を失っていく。そんな彼女の心を揺らしたのは、成長した レオン・ド・ソレイユ王子(20) の姿だった。しかし、老いた自分では到底彼に近づくことはできない──そう思い知らされ、涙に暮れる日々を過ごしていた。
ある夜、鏡の中から妖艶な魔女 ノクス が現れる。ノクスが差し出した契約は「半日だけ若さを取り戻す代わりに、毎夜“恋の物語”を語る」というもの。迷いの末に契約を結んだアリエットは、若き日の姿 “サロメ・ルミエール”(外見20) となって社交界に舞い戻る。ただし、その間の本体は鏡に囚われ、仮死状態となるという制約があった。
初めて外に出たサロメは、街で再び若さがもたらす注目と視線を浴び、その魔力を味わう。だが、ノクスは「時間を忘れれば破滅が訪れる」と冷たく警告する。
やがて王家主催の舞踏会への招待状が届き、アリエットは衝動を抑えきれず、サロメの姿で会場へ。華やかな大広間で、レオン王子と運命的な再会を果たす。二人は視線を絡ませ、舞踏の輪に導かれ、甘美な囁きを交わすまでに至る。王子は「どこかで会った気がする」と言い、サロメは本当の名を隠したまま恋の昂揚に酔った。
だが幸福の只中に現れたのは、現国王でありレオンの父、オーギュスト。かつてアリエットが禁断の恋を交わした男だった。国を背負う王となった彼は、サロメの美貌に衝撃を受け、執着の色を隠さず「次は必ず踊ろう」と告げる。父と子の間に緊張が走り、サロメの胸には恐怖が刻まれる。
その後、月光に包まれた庭園でレオン王子と二人きりになり、互いを唯一の光と呼び合う幸福の時を過ごす。だが廊下に飾られた大きな鏡に、若きサロメの背後に老いたアリエットが重なって映り、ノクスの「仮面は永遠じゃない」という囁きが響く。鐘の音が時を告げるたびに、残された時間の少なさが突きつけられ、幸福と恐怖の二重奏が胸を苛んでいく。
舞踏会も終わりに近づいた頃、群衆の中に兄 シャルル の姿を見つけたサロメは、冷たい汗に襲われる。妹を探していると直感し、このままでは正体を疑われると焦燥する。契約の鎖を思い出し、ここでアリエットに戻らねばと決意。
王子に「そろそろお時間が」と切り出すと、レオンは驚き、必死に「もう少しだけ」と引き止める。だがサロメは微笑みを崩さず、「またお会いできる日を願っています」と告げる。王子も深い熱を込めて「必ず……またお会いしたい」と囁き、二人の心は強く結ばれる。
去り際、王子が「どこへ行けばあなたに会えるのですか」と問う。サロメは一瞬ためらい、静かに答える。「私はアリエット侯爵家にお世話になっております。もしお望みでしたら、アリエット様にお伝えくださいませ」──その言葉に王子は真剣に頷き、サロメは深く頭を下げて群衆の中に消える。背後から刺さるような王子の視線を感じながら、契約の影と兄の存在を意識しつつ、次なる幕が上がろうとしていた。
登場人物紹介
◆ アリエット・ド・ヴァロワ(41)
侯爵家の令嬢。かつて“社交界の花”と呼ばれるほどの絶世の美女だったが、今では老いと疲れがその輝きを覆い隠している。
若い娘たちに囲まれるたび、自分がもう主役ではないと痛感し、孤独と喪失感を抱える。
魔女ノクスとの契約で若き日の姿“サロメ”を得るが、仮面のような若さと真実の自分との板挟みに苦しむ。
◆ サロメ・ルミエール(外見20)
アリエットが契約によって得た若返りの姿。名は“光”を意味する。
社交界に突然現れた謎めいた美女として話題をさらい、王子レオンの心を強く惹きつける。
しかしその裏に「老いたアリエット」がいることを誰も知らない。
◆ レオン・ド・ソレイユ王子(20)
現国王オーギュストの一子。聡明で礼節を重んじ、剣術にも秀でる未来の王。
若き社交界の中心であり、数多の令嬢たちの憧れの的。
サロメに強く惹かれつつも、彼女の中にどこか懐かしい面影を感じ取る。
幼少期には、かつてのアリエットの腕に抱かれたことがある。
◆ オーギュスト・ド・ソレイユ国王(40代後半)
現国王。かつてアリエットと禁断の恋を交わした過去を持つ。
彼女を手放し王となったが、その選択を内心では後悔している。
舞踏会でサロメを目にし、再び執着を燃やす。
「欲しいものは必ず手に入れる」性分であり、その眼差しはサロメを逃がさぬ影となる。
◆ ミラ・ド・グレン(19)
王子の婚約候補に推される伯爵令嬢。
純粋で誠実、まっすぐな心を持つ娘。
いわゆる“悪役令嬢”ではなく、その清らかさがかえってアリエットを苦しめる存在となる。
彼女の透明な思いは、サロメの仮面を暴く鏡のように描かれていく。
◆ ノクス(Nox)
鏡に棲む魔女。妖艶で冷酷、契約を囁く存在。
「半日だけ若さを与える代わりに、毎夜“恋の物語”を語れ」とアリエットに条件を課す。
契約を破れば「ひびが入るのは鏡だけではない」と警告し、常に背後から冷たい囁きを響かせる。
恋を糧に生きる存在であり、全てを見透かすような笑みを浮かべる。
◆ エリゼ
アリエットに仕える忠実な侍女。
長年彼女を支えてきたが、主の変化や鏡の秘密に気づき始めている。
“真実を守るか、暴くか”葛藤を抱く存在。
◆ シャルル・ド・モンフォール
アリエットの兄で侯爵家の現当主。
家の存続と名誉を第一に考える現実主義者。
妹を心配しているが、行動は時に厳しい。舞踏会で妹を探す姿は、物語を現実へ引き戻す圧力として描かれる。
◆ カトリーヌ夫人
かつてアリエットと美を競ったライバル。
今では年長の貴婦人として社交界に影響力を持ち、時に皮肉を浴びせる。
“老いと美”というテーマを浮き彫りにする役割を果たす。




