第十話『仮面の夜、揺れる心』
オーギュストはバルコニーでの沈黙を破り、ゆるやかに笑みを浮かべた。
「では……私は戻るとしよう。皆が待っているからな」
その声は柔らかく聞こえるのに、底には重石のような響きが潜んでいた。踵を返す直前、彼はふいに私へ視線を向ける。その眼差しに射抜かれ、私は息を詰めた。あまりにも長い、絡みつくような視線。まるで私という存在を刻みつけ、逃さぬように縛り付けているかのようだった。
「サロメ・ルミエール……美しい名だな」
オーギュストの声が低く落ちる。
「名も姿も、まるで私の知らぬはずの懐かしき幻を思わせる。……次に踊るときは、私にもその栄誉を賜りたいものだ」
その言葉に胸がざわめき、扇を持つ指が強張った。笑みを作ろうとしても、唇は冷たく震える。私は深く頭を下げ、声を絞り出した。
「光栄に存じます、陛下」
「ふむ、光栄……か」
王は唇にかすかな笑みを宿し、背を向ける。だがその歩みはゆるやかで、去り際に何度も振り返り、私を見つめ続けていた。その瞳に潜む執着の光が、夜風よりも冷たく私の背を撫でた。
──あの人は必ずまた来る。欲しいものを逃したことのない王が、私を見過ごすはずがない……。
恐怖と直感が胸を締めつけ、心臓は鐘のように乱れて打ち続けた。扇を握る手が小さく震え、それを隣にいたレオン王子が感じ取ったのだろう。そっとその手を包み込み、低く囁く。
「サロメ……怖がらなくていい。大丈夫だ、私がいる」
その声は夜風に溶け、胸の奥に温もりを灯した。けれど王の残していった視線は影のように消えず、確かに私の心に爪痕を刻んでいた。レオンの瞳を見つめながらも、私は知っていた。幸福の裏にはすでに影が忍び込み、ひそやかに広がっているのだと。
王の影が去ったあとも、背筋を撫でるような恐怖の余韻は胸に残っていた。だがレオン王子は私の手を離さず、穏やかな笑みで囁いた。
「……ここでは落ち着かないでしょう。庭を歩きませんか。夜の花々は、星の光を浴びて一層美しいのです」
その言葉に心がほぐれ、私は小さく頷いた。王子に導かれ、石段を降りて庭園へ。月光に包まれた花園はまるで別世界のように広がっていた。白い薔薇は銀に輝き、噴水の水面は星を映して揺らめく。夜風が頬を撫で、遠くの舞踏会のざわめきは夢の外の音に思えた。
「ご覧ください、サロメ。夜の庭は私の憩いの場所なのです」
王子が立ち止まり、星を仰ぐ横顔を見せる。その瞳は深い蒼に光を宿し、私を振り返った。
「殿下が……こんなに静かな庭を愛していらっしゃるとは知りませんでした」
私は胸に手を当てて言った。
「まるで、殿下の心のように澄んでいて……落ち着きます」
王子はかすかに笑い、歩み寄って私の肩に手を置く。
「あなたがそう感じてくれるのなら、この庭もきっと誇らしいでしょう。けれど、本当は……あなたといるからこそ、この景色が美しく思えるのです」
頬が熱を帯び、胸が震えた。
「殿下……そんなふうに仰ってくださるなんて……」
「事実です」
王子は真剣に言い切る。
「サロメ、あなたと過ごす一刻一刻が、私にとって宝石のように輝いている」
心が甘美な陶酔に溶かされ、時を忘れそうになる。だが胸の奥では冷たい棘が疼いていた。──半日だけの契約。鐘が鳴れば、私は老いた姿へ戻らねばならない。幸福の影にひそむ恐怖が、ちらついて離れない。
「殿下……」
私は震える声で囁いた。
「どうか、この夜を忘れさせないでくださいませ」
王子はすぐに応じ、私の手を強く握った。
「忘れるはずがない。サロメ、あなたは私にとって唯一の光です。どれほどの闇が訪れようとも、あなたを思い出すだけで道を見つけられる」
胸がとろけるように熱くなり、私は涙をこらえた。月明かりに照らされた花園で、私たちはただ二人きりの世界に閉じ込められた。だがその幸福の奥底では、時を刻む冷たい影が、なおも囁き続けていた。
庭園での散策を終え、大広間へ戻るために石造りの廊下を歩いていた。
煌々と並ぶ燭台の炎がゆらめき、長い影を壁に映し出す。豪奢な絨毯に靴音が吸い込まれるたび、胸の鼓動がいやに大きく響いた。
その途中──古びた金の縁取りをした大きな姿見が目に入った。ふとした好奇心で足を止め、視線を移した瞬間、私は息を呑む。
鏡には、若きサロメの姿が映っていた。艶やかな髪、薔薇のように染まった頬、輝く瞳。夢に描いた美女の姿。だが次の瞬間、背後に別の影が重なった。
──アリエット。
皺の刻まれた頬、疲れの刻まれた瞳。現実の私。
胸が強く締めつけられ、指先が冷たく震える。幻か現か、鏡の中の像は二重に揺らぎ、若さと老いが入り混じっていた。
その時、耳の奥に艶やかな囁きが忍び込む。
「忘れるな……仮面は永遠じゃない」
ノクスの声。冷たい気配が背を撫でる。思わず視線を逸らしたが、心臓の鼓動は乱れたままだった。
「サロメ?」
振り返ると、レオン王子が歩み寄ってきていた。彼の瞳は心配そうに揺れ、私を見つめている。
「どうなさいましたか。顔色が……蒼い」
「……いいえ。ただ、少し疲れただけですわ」扇を口元に寄せ、笑顔を作る。
「本当ですか?」
王子は眉を寄せ、さらに近づいた。「無理をなさっていませんか。もし休みたいのなら、私が付き添います」
胸が熱くなり、同時に冷たい影が胸の奥でうずく。
「殿下……ご心配をかけてしまって」
「心配もします。あなたは、私にとって大切な方だから」
王子の声が低く響き、真摯な眼差しが心を貫いた。
私はたまらず彼の手を握り返した。「殿下……私、本当に……」
言葉が詰まりそうになる。──“老いた私”を知られてはならない。それでも、今だけは甘い夢に縋りたかった。
「本当に、殿下がいてくださるから……安心いたします」
「安心していいのです。サロメ。どんなに不安が押し寄せても、私はあなたを離さない」
王子の手が温かく私を包み込む。だが背後の鏡には、老いたアリエットの影がなおも潜み、冷たい眼差しでこちらを見返していた。幸福と恐怖の二重奏が、胸の奥でせめぎ合っていた。
廊下を歩むうちに、大広間から流れる音楽が再び耳に届いた。遠いざわめきと楽団の旋律が夜の空気に溶け、胸をくすぐるように響く。
月光は窓から差し込み、冷たい石畳に銀の模様を描いていた。私はその光に照らされるたび、自分が夢の中を歩んでいるような錯覚に囚われる。
レオン王子は足を止め、私の方へ静かに振り返った。月光に浮かぶ彼の横顔は、凛々しさの中にどこか幼さを残し、その瞳には真摯な熱が宿っていた。
「サロメ……私は、この夜を忘れさせたくない」
低く囁かれた声が胸の奥深くに落ちていく。心臓が甘く震え、私はその場に釘付けになった。彼の眼差しがまっすぐに私を捉えて離さず、世界が二人だけに縮まったように思えた。
「殿下……私も同じです。けれど……」
私は扇を口元に寄せ、震える声で続けた。
「夜が明ければ、この夢も消えてしまうのではと……恐ろしくなるのです」
王子は一歩近づき、私の手をそっと取り包み込む。その掌は温かく、安心を溶かし込むようだった。
「夜が明けても夢では終わらせない。あなたと過ごした時は、私の心に永遠に刻まれる」
その言葉に胸が熱を帯び、瞳の奥に涙が浮かびそうになる。私は必死に笑みを作りながら、問いかけるように囁いた。
「本当に……永遠に?」
「ええ、永遠にです」
王子は力強く答える。
「あなたの笑みも、声も、温もりも……すべてを忘れません」
彼の声は真摯で、誓いのように響いた。胸が甘美な幸福に満たされる一方で、その奥底に冷たい影が囁く。──半日だけ、という契約。鐘が鳴れば、すべては崩れる。
まるでその思いを確かめるように、遠くから重々しい鐘の音が響いた。低く深い音が石造りの壁を震わせ、私の心臓を冷たい鎖で締めつける。残された時間が確実に削られていく。
私は笑みを崩さぬように、王子の手を強く握り返した。
「殿下……どうか、私をこの夜に閉じ込めてくださいませ」
「閉じ込めるのではなく……あなたを解き放ちたいのです」王子の声はさらに近く、吐息が頬をかすめた。
「サロメ、あなたは私の光だ。どれほどの闇が訪れようとも、その光があれば私は進める」
その囁きに胸が震え、涙が溢れそうになった。私は必死にそれをこらえ、微笑みを返す。
だが耳の奥には、鐘の音と重なるようにノクスの囁きが忍び寄る。
「忘れるな……仮面は永遠じゃない」
幸福と恐怖が胸の中で交錯し、甘美な旋律と冷たい影が絡み合う。月光の下で、私の心は二重奏を奏でていた。
ここまでのあらすじ
侯爵令嬢アリエット・ド・ヴァロワ(41)。かつて“社交界の花”と呼ばれた美貌は、今や皺や疲れに覆われ、若き娘たちの中で居場所を失っていた。夜会で成長したレオン王子の姿を目にするも、声をかけることもできず、老いの残酷さを噛みしめて涙する日々。そんな彼女の前に、鏡から妖艶な魔女ノクスが現れる。
ノクスが差し出した契約は──「半日だけ若さを取り戻せる代わりに、毎夜、恋の物語を語る」というもの。迷いの末に承諾したアリエットは、若き日の姿“サロメ・ルミエール”となって社交界に舞い戻る。ただし、その間の本体は仮死のように鏡に囚われるのだった。
初めての外出で、サロメとして街を歩いたアリエットは男たちの視線や厚意に触れ、失った若さの魔力を再び味わう。心は歓喜に震えるが、ノクスは「時間を忘れれば破滅が訪れる」と冷たく釘を刺す。
やがて王家主催の舞踏会への招待状が届く。そこにはレオン王子の名があった。兄シャルルは出席を命じ、侍女エリゼは怪しむような眼差しを向ける中、アリエットは「サロメの姿で王子に会いたい」との衝動を抑えきれず、手鏡を使って会場で変身する決意を固める。
舞踏会当日──人々の前に現れたサロメは、その美貌で一瞬にして場を魅了する。「あの美女は誰だ」と貴族たちがざわめく中、彼女の姿に心を奪われたレオン王子と視線が絡む。二人の世界は静止したかのように熱を帯び、やがて王子は「最初の一曲を」と誘い、サロメを舞踏の輪へと導く。
煌めくワルツの中で、二人の距離は一気に縮まり、囁き合う声は甘美な誓いへと変わっていく。レオンの「どこかで会った気がする」という言葉に、サロメは名を告げ、アリエットの影を心の奥に隠したまま恋の昂揚に酔いしれた。
だが幸福の最中、バルコニーに現れたのは現国王オーギュスト。かつてアリエットと禁断の恋を交わした男であり、今や国を背負う存在。息子を探して訪れた王は、サロメの美貌に衝撃を受け、その視線を逸らさず「欲しいものは必ず手に入れる」という性分を滲ませる。レオンは毅然とサロメを庇うが、王の影は確かに忍び込み始めていた。
王が去った後、サロメは王子に導かれて月光の庭園を歩く。星の下で交わされる会話は甘美そのもので、互いを唯一の光と呼び合う。しかし、廊下に飾られた鏡に映ったのは“二重の自分”──若きサロメの背後に老いたアリエットの影が重なり、ノクスの囁きが再び胸を締めつける。
それでも王子の「この夜を忘れさせたくない」という誓いに心を震わせ、サロメは幸福の中に身を浸す。だが遠くで響く鐘の音が、無情にも残された時間の少なさを告げるのだった。




