3 セイナの旅路
エスバルの王太子デイルにより婚約破棄されたセイナ・クンリーの乗る馬車は、着々と軍事国家ホクレンへの旅程を消化していた。あと3日というところだろうか。
(本当の意味ではたぶん、私は救われてはいない)
セイナは馬車の壁面を眺めて思う。外を見ようという気にすらなれなかった。だがよく目を凝らすと装飾がうっすらと施されていて、壁面一つ取っても退屈しない馬車である。
軍事国家ホクレン筆頭将軍家では、女児の居場所がほとんどない。戻ったところで自分はどうなるのか。
「セイナ様」
向かい側の座席に腰掛けた侍女のミスティが、心配そうに声をかけてきた。黒いお仕着せ姿の、すらりとした細身の女性だ。髪色は白く、それでいて艷やかだ。瞳の色は青色であり、ホクレンでは珍しい組み合わせである。
「大丈夫よ、ミスティ」
セイナは無理に微笑んで返す。
もし自分が筆頭将軍家の長女ならば土着信仰の対象である水竜の神殿で巫女となっていた。だが自分は次女なのである。生まれた順番はどうにもならない。
(何が大丈夫なのかしら?)
自分でも笑ってしまいたくなる物言いだった。
姉、妹、娘が嫁いでいようと、必要とあらば攻め込むのが軍事国家ホクレンという国だ。自分に人質としての価値など無い。
この政略結婚の意味は、エスバル側では研究対象か実験台、ホクレン側の都合としてはミスティのような密偵を送り込むことなのだ。
分かりきっている。
(だから、逆に諦めがついて、耐えられたし、受け入れられた)
十歳のとき、王太子デイルとの婚約でエスバル入りした当初から、自分は痛めつけられ、嘲笑されてきた。
何度も女王ネイリアとその娘アミナに、頑丈な暗い、石造りの実験室に呼び出されたものだ。その度に両手首に拘束具を付けられ、魔力を無理矢理搾り取られた。
(いやっ)
思い出すと寒気が走って、セイナは両腕で自らを抱き締めるようにした。
魔力を搾り取られる悍ましい感覚にはいつまでも慣れることはない。手首には尖った魔石が差し込まれ、血液ごと搾り取られるのだ。自分でなければ死んでいた。
他にもアミナの雷魔術の試し撃ちの的にも何度されたことか。
(殿下)
ボロ雑巾のようになって部屋に戻る度、婚約者だったデイルが抱きとめてくれたから、精神的にも耐えられたのである。
「だって、殿下が、こんな立派な馬車を。私は罪人で追放されるって話は何だったの?これじゃ送迎だわ」
言っている内に、自然と涙が溢れてくる。
意外だったのは、形だけの婚約者だと思っていたデイルが、一貫して味方をしてくれたことだ。
(それだって、最初は私を長く生かして、利用するための猿芝居だって、疑っていたのに)
だが示してくれる情愛を嘘だとも思えず、たびたび女王ネイリアや妹のアミナにも立ち向かってくれた。
自分をなんとか守ろうと居室を改造までしてくれたのだから、疑いようもない。自分はデイルにだけは大事にされてきたのだ。
(あれは、どう見ても、本気で。だから、私)
形ばかりの婚約条件には、デイルが18歳、セイナが16歳となって結婚することとなっていた。
(つまり、私は16歳までに殺される予定だったのかしら?今、思うと)
セイナは薄々、エスバルとホクレン双方の意図に感づいてはいた。
だが、真っ直ぐな気性のデイルが疑いなく純粋にその日を待っていたから、つい自分も同調していたに過ぎない。
(私まで、16歳まで、なんとか生きようっていう気になっちゃった)
自分の命など生まれた時から捨てられるものと決まっていた。それを救おうとしたのがデイルである。
「本当にホクレンへ?しかし」
ミスティが顔を曇らす。
自分をダシにして散々、諜報活動を行ってきた女性なのだが。長い年月を他国で共に過ごす内に情が移ったらしい。
諜報活動の傍ら、真摯にセイナに尽くすという矛盾を行うようになっていた。
「だって、そう決まったのでしょう?そのとおりにしないと、殿下が困るもの」
無理矢理に笑ってセイナは答えた。
(殿下でもホクレンの内情までは知る由もない)
今更、ホクレンに戻っても、何の利用価値も無い自分など、よくて再びどこかの人質、もしくは高い確率で即座に処断される。
軍事国家ホクレンへの帰還など、自分にとっては、全く救いではないのだ。
(殿下は私を大切にして下さった。結婚は出来なかったけど。それだけが私の人生の救い)
軍事国家ホクレンでも楽しい思い出など、ほとんど無い。筆頭将軍家の人間として、訓練を課される毎日だった。
(それに比べて、エスバルではまだ)
今も囚人用の檻車ではなく、どう見ても貴族用の馬車を準備してしまっている。
セイナとしては泣きながら笑いたくなってしまうほどだった。
(私が16歳になるまで守り切れないって。そう確信してしまうほどの何かがあったんだわ。だから)
ずっとそんなことばかりをセイナは考えてしまう。
馬車の揺れすらもほとんど感じない。護送についてくれたグレンという騎士に至っては、牢役人どころか、とても丁寧に下にも置かない扱いをしてくれる。
「セイナ様。その。殿下には申し訳ありませんが。ホクレンに戻られても、救いはありません」
決然とした顔でミスティが切り出した。
(そんなのは分かってる。でも、ミスティ、貴方がそもそも)
表向き、祖国のためにミスティが諜報活動をしたから、自分は破談されている。口には出さなかった。
それについて謝罪も何も無いまま、ただ助けたいなど、今更、虫が良すぎるのである。
「この騎士どもを突破しましょう。私とセイナ様なら出来ます。そして、これからは1個人として自由に生きましょう。私が、お守りしますから」
罪悪感がミスティにそう言わせているのだ、とセイナには分かる。おそらく、本気は本気なのだろう。
「ダメよ、ミスティ。この人たちに暴力なんて」
セイナは馬車の外に目をやって返した。
職務に忠実であり、何の非もないグレンら騎士たちに攻撃などするつもりには、到底なれない。まして、デイルがつけてくれた護衛なのだ。怪我一つさせたくなかった。
「ですが、このままではお嬢様は」
ミスティが昔の呼び方をした。無意識の産物だろうか。今年で23歳になる。ずっと面倒をみてくれた女性だが、密偵でもあった。
軍事国家ホクレンからの指示とセイナへの愛着との板挟みで苦しんできたのだろう、とも分かる。
だからセイナはミスティも責められないのだった。
「分かってる、でも、それでも、ダメなの」
セイナは俯いた。単純にデイルからの、最後の心尽くしが嬉しいのだ。
苦痛と嘲りに満ちた、あまりに苦しかった生活に、ポツリと1つだけ灯った温かい光がデイルとの思い出である。
「お嬢様、たとえデイル殿下が婚約破棄の詳細や女王陛下の所業をホクレンへ報せていたとしても、ホクレン側が興味を示すことも同情することもありえません」
全くもってミスティの言うとおりだとセイナにも分かる。
「そして、たとえ私でもホクレンまで帰り着いてしまえば、ホクレン軍相手では脱出できません。ですが、脆弱なエスバルの騎兵を蹴散らすのは、簡単です。今ならそれだけで済みます。どうか」
ミスティが懇願するように告げた。
(そう、ね。ミスティ、貴方にとっては、この展開は予想外だったのね)
自身の任務が、命まで失う旅路にセイナを送り込むことになると想像も出来なかったのだろう。
セイナは背筋を伸ばしたまま、スッと目を閉じる。
魔導大国エスバルでの思い出。ほとんどが痛みを伴う。
それでも黙って首を横に振る。
目を開くとミスティの顔が苦しげに歪んでいた。
「私の人生は悪くなかった。殿下もいて、貴方もいてくれたから」
心の底からセイナは告げるのであった。
馬車はただ淡々とホクレンへと進んでいく。




