人生100年 〜1/4〜
自分の生い立ちを誰かに知ってもらいたいのと
現在人生のターニングポイントにいるため自分への振り返りとして淡々と綴っていきます!
2001年1月14日
自分は、栃木県宇都宮市に生まれました
幼少期は、家族に恵まれ、普通に幼稚園に行き
幼い子供ながらに将来平凡な人並みの人生を送るのだろうとこの頃考えていました
だけども運命のイタズラか幼稚園の卒業とともに
小山市に急遽引っ越すこととなったのです
この先生き地獄が待ち受けているとも知らずに
この時は、幼いながらワクワクと希望に満ち溢れていました
引っ越しがひと段落つき小学校入学を終え学校生活が始まりました
当時を思い返すと普通に学校に登校して
友達とワイワイやって昼休みにドロケイとか
放課後公園でたむろって友達みんなでDSとか
当時のステレオタイプな小学生でした
ただ小学生ながら不思議だったのが
学校が終わった後母親に別の学校に車で送迎をしてもらい『言葉の教室』なるものに通っていた事と
年に2回ほど東京西国分寺までわざわざ出向き
都立総合病院で年配のお医者さんの診察を受け
陰部を見せて帰路に着くというよくわからない事が2つあったのを覚えています
学校周りの友達達にその話しをしても
俺んちは、そんなんないよとか驚かれたんで
ないよとか言われてたので
思い切って母親に理由を問正した事があったんです
だけども理由は、具体的に聞かせてもらえず
この頃は、わからないままでした
小学校6年間は、
友達に恵まれ習い事自分は、
テニスや水泳、サッカー、絵画とか色々やらして
もらえハワイやグアムサイパンなど家族旅行をしたり友達とキャンプしたりなどと充実した日々を送り卒業を迎えました
本当にノスタルジーでかけがえのない時間でした
一生ものの思い出です!
それから地元の中学校へと進学したのですが、
今考えるとここが人生の岐路だったんかなと
思います
進学して半年が立った頃ある違和感に気づきます
自分は、小学時代にやっていたのも相まってか
テニス部に入部しました
最初の頃は、やってたのもあって同年代と差をつける程のアドバンテージがありましたしかし半年程
立つと全く追いつけなくなりました
朝練でみんなで走る際体力がないのと
筋肉が信じらんない程つかないためすぐばててヘトヘトとなり遅れをとって他の部員も連帯責任で走らされる感じで
案の定ヘイトを買っていじめが始まりました
実をいうと中学3年間生き地獄すぎて思い返して
書き出すのも嫌な程なので端折らせてもらいます‥
いじめもあってか高校は、栃木県内で最底辺の
小山南高校に進学しました
入学したのは、いいものの身も心もボロボロで
人付き合いは、うまくいっていたものの辛かった
です‥
なんとか自分に鞭打って学校に行ってましたが
入学から7ヶ月がたち夏休みの三者面談を終えたあたりに母親から唐突にバスケ部 orカヌー部への入部をしつこく言われました
最初は、断ったのですが学校に行く朝も帰ってきてからの実家でも毎時ずーと鬱でおかしくなるほど勧誘されたのでバスケ部に入ってしまいました‥
夏休み中精神を病んでいたのか1ヶ月半丸ごと
部屋に引きこもっているような生活でしたので
入部初日バスケ部のある体育館内がサウナみたいに暑くて1時間いただけで熱中症気味になりました‥
先輩に優しい方がいたんでアクエリ飲ましてくれたりしましたがその帰り気持ち悪くて間々田駅の校内にあるトイレで吐いたり死ぬかと思いました‥
死にものぐるいで家に帰りソファーで横たわるのですがぐわんぐわん視界もおかしくなってきて
咄嗟に塩分取らなきゃと思いアクエリがぶ飲みに
ご飯にドバドバ醤油をかけて胃にかきこんだのを覚えてます
ですが意識もさらにやばくなってきた最中母親が
話しかけてきて
『これから東京のじいちゃんの一周忌行くよ
早くしなよ! 』
呂律も回らない程になっていて
『ムリシヌキョウイケナイ‥ヤスマシテ‥』と
虫の息で母の言葉を拒否したのですが‥
怠けてないで行くよと母に担がれて
家を出されました
これは、やばいと思い
『イケナイ‥イケナイ‥ホントヤメテシヌ‥』と
言葉で抵抗するのですが
馬の耳に念仏か家族の待つクソ暑い車に連行され
東京まで車を走らされるのでした
それから蓮田パーキングについたあと意識と精神が限界を迎えます 本当殺されるそう思いました
錯乱していたためか車のドアが開いた瞬間
『ヤバイオヤニコロサレル!シヌータスケテー!』
などと外に向けて助けを求めたあたりでございます視界がブラックアウトしました‥
気がつくと内科かなんかの病院のベットの上で
手に紐が縛ってありました
あとあと聞いたら熱中症で搬送された後ひきつけで
体がもの凄く動いていたらしくそのために拘束しただとかで
その後無事退院し、
学校生活を再開するのですが、廃人そのものの風貌になっていたのを自分ながら覚えています
幼なじみの親友からも自分の風貌からか心配して
もらった事を覚えています
それからつらすぎたのか記憶が曖昧ですが勇気を
振り絞って淡々と綴っていきます‥
母親がバスケ部を自分に進めた担任の福田先生という女性の先生に熱中症で倒れたことを話したらしく
その先生から『熱中症で倒れるくらいじゃダメだ』などと物凄く叱責されました
それから
心は、壊れつつも部活をこなしていったんですが、意外と先輩方からは、可愛がられていました
自分の姓は、シュンタなのでシュン君のあだ名で
呼ばれ頑張ってるとか褒めてもらったのを覚えています
順調ちゃ順調だったのですけども
しかし11月あたりに衝撃的な物を目にしました
体育館での練習の際体育館の上にあるウェイトリフティング場に行ったのですが
教師の目がなく先輩と後輩しかいないからか
和田くんという内気でラブライブとかのアニメ好きの子がいたのですが
その子がダンベルのトレーニングをやってる最中
いきなりやんちゃな先輩や同級生達がダンベルを
ぽんぽん重くしてくんです‥
和田くんは、高校生でガタイがいいとは、いえ
100キロ近くなんて急に持たされたら潰れます‥
それを面白がってケラケラしててショックでした‥
自分は、容量は、悪く馬鹿なのでそんな毎日が続く中いじめの主犯の同級生に一旦です
『和田いじめんのやめろよ!』と
そしたら自分にいじめが飛び火して部活中は、もちろんの事関係ないクラスの教室まで先輩や同級生が乗り込んできて‥
死にたい限界そう思いました‥
ある時事切れたのか母にいじめを打ち明け
母が学校と顧問に連絡してくれました
端的に言うと無事部活は、辞められたのですが、
後味の良いものでは、ありませんでした‥
結局和田くんの件を
親と先生、顧問に話したのですがあとあと部活を辞めたあとも和田くんがいじめられた話を風の噂で耳にしたので黙殺されたのでしょう
それで部活を辞めた際に親と顧問からやる気がないや信じらんない言葉で部活に戻って欲しいなどと言われたのを覚えています
そっから精神がさらに病んでいき普通の学校生活も覚束なくなりました
学校に行く際駅に行くのですがトイレで吐いたり、
小金井駅〜間々田駅を永遠と日が暮れるまで往復したりと
側から見たら完全に異常者でした
ついには、駅も行けなくなり自室から出れなくなりました
母親は、毎朝毎朝自室から出そうとするのですが
ついには、自分の精神が限界を迎え赤マジックとa4画用紙を手に取り
母親への憤怒を込めた罵詈雑言を書き殴って
家の塀などに貼り付けたのを鮮明に覚えています
母親が動揺してパニくり警察を呼びその際自分は、母親にタコ殴りされました
警察が家に来ました
自分は、当時未成年なのもあり咄嗟に逮捕の2文字が浮かび取り乱しましたが
いざ警察がきても思ったより怖くて怒鳴られるような感じでなく優しく話を聞いてくれました
母親に殴られた話も辛かったねなどと言ってもらえ
その際に警察の方から
栃木県立精神科病院 岡本台病院さんの方に一度
受診するように言われたのと
その日から警察の方の意見で親と一緒にいない方がいいとの事で自分は、宇都宮の祖父母の家にしばらく泊まるよう促されました
そしてその日の夕方岡本台病院に祖父母に連れ添われ初受診
最初ドアを開ける前は、警察からの紹介もあってか不安でいっぱいでした
物凄く怒られるかもとか逮捕されるとか恐怖で
いっぱいでしたがドアを開きその一歩を踏み出しました
今思えばその一歩が中学〜高校時代の地獄の日々を終わらせる救いの扉だったんだと思います
診察である程度自分の経緯を話し
それを話し終えたあと精神科医の先生が辛かったでしょ頑張ったねと君は、強いと言っていただけた
時は、鳥肌が立ったのと涙が出ました‥
それから高校は、何とか卒業したいと
母に掛け合い通信制高校へと編入する手筈となりました
その間自分は、先生の勧めもあり精神科へ
休憩入院の名目で任意入院を一ヶ月ほどし、
そこで自分の人生で本当に信頼できる友人2人と
出会ったのです
1人の方は、男性で歳は、36才と自分にとって
ひと回りも上のお兄ちゃん的存在で
もう一人の方は、女性で歳は、47歳と
なんだか年も性別も超越してかけがえのない
友人ができました
今でも付き合いがあり週末一緒にランチにいったりしています!
そして退院明け母から自治医科大学への診察を
何故か告げられ急遽診察をする事になりました
そこでお医者様の方からある病名を告げられました
『国指定難病カルマン症候群』と
自分は、最初横文字もあり何が何だかわからずに
いました医者の口から淡々と説明を受けたのですが頭に入らず
家に帰ったあと自分でグーグルを使い調べた所
その病気は、第2次成長いわゆる思春期の訪れない病気だったんです‥
そこで中学時代何故か周りに体つきでついていけなかった事が繋がり1人自室で号泣しました
『自分の人生返してくれともうちょっと早く言って くれればこんな辛い思いしなくてすんだのに』
その一件のあと自分は、作業所にて働きつつ
社会復帰に向けて日々頑張っています
まだまだ心の消化は、出来ませんが明るい気持ちで生きていればきっと救われるの一心です
最近は、世界的なアートの祭典パラリンアートに
作品を出したりと希望に満ち溢れています!
これから先希望で一杯です!
また進展がありましたら自分のエッセイの続編も
今度は、辛いことばかりでなく明るさ100%にしたいです!
拙く短く暗い文章でしたが最後まで読んでいただきありがとうございます
それでは、人生全身全霊で頑張って楽しんで参ります!