ウサギ沼に落ちた男の話
もしも無数のウサギたちが集まっていたら、私は迷わずその中に飛び込むだろう。
それが底なしの、ウサギ沼だとしても。
※本作は、ありま氷炎様主催の「第八回春節企画」参加作品です。
ハムスターでも飼おうかと思って、ふらっと立ち寄ったペットショップ。
そこが始まりだった。
入口付近のケージには、三匹の仔ウサギがいた。
ウサギかあ。
そういえば、祖母ちゃん家で飼ってたな。
白くてデカくて、鋭い歯をしてた。
ケージの中の仔ウサギたちは、黒と茶色と灰色だった。
掌に乗るくらいの大きさだ。
「可愛いでしょ? あんまり大きくならないですよ」
寄って来た店員は、悪魔の一言を口にした。
「ちょっと、抱いてみますか?」
結局、抱いた黒い仔ウサギと、ウサギ飼育セット一式を買って自宅に戻った。
妻は呆れながらも、ウサギ用ケージのために部屋を片付けた。
祖母の家で飼っていた頃のウサギには、その辺に生えていた野草と、いくつかの野菜クズを与えていたが、最近は違うようだ。
餌は専用の固形飼料と牧草。水はいつでも飲めるようにしておくこと。
ケージにそっとウサギを入れる。
鼻をピクピクしながら、コロコロと糞をする。
「名前は?」
妻に訊かれた。
考えてなかった。
ウサとか、ウーちゃんとか、ありきたりだよな。
ケージの探索に飽きたのか、黒い仔ウサギは手足を丸めていた。
「クロスケ」
「クロスケ?」
「うん。黒いから。オスだし」
我ながら安易だと思ったが、ケージの中の黒ウサギに呼びかけてみた。
「おいクロスケ。お前はクロスケ。ウチの息子」
クロスケは耳をピクっと動かした。
それからの生活は、ウサギ中心となる。
ペットホテルにクロスケを預けるのは可哀そうだと、夫婦二人で泊まるような旅行は行けなくなった。
ネットでウサギ飼育の情報を調べたり、近くの獣医さんに電話をかけて、ウサギを診ることが出来るか聞いたりした。
基本はケージ飼いだが、妻か私が帰宅してから数時間は、室内で自由に遊ばせた。
コード類には齧られても平気なように、テーピングした。
フローリングだとウサギが滑るから、毛の短いマットを敷き詰めた。
ウサギは単語を三十くらい覚えるそうだ。
おはようやお休みの挨拶以外にも、「ご飯」「お水」はすぐに覚えた。
一番早く覚えた単語は「可愛い」だ。
夫婦二人で何度も何度も「可愛い」と言い続けたからだろう。
店員が言った通り、成体になっても一キロ未満のクロスケは、世界一可愛いウサギだと思った。
獣医さんにはお世話になった。
爪切りを始め、少しでも食欲が落ちるとすぐに病院へ連れて行った。
日本の獣医学部では、そもそもペットとしての小動物に関して、講義をしていないという。
そこで獣医仲間と数人で、アメリカで刊行されていたウサギの疾病に関する本を、読み進めたのだという。
人間は生体として長寿である。
ペット(コンパニオン・アニマル)たちの寿命は、比較すれば短い。
だから必ず、お別れの日は来る。
自然の摂理は理解していた。
それでも十年以上、四季折々を一緒に過ごした。
クロスケが八歳を越えた頃から、一緒の布団で寝るようになった。
クロスケを見送る時、私は泣いた。
親の葬式でも、泣かなかったのに。
月には、動物たちの天国があるという。
飼い主であった人間が今生に別れを告げる時、かつてのペットが月から迎えに来てくれるそうだ。
きっとクロスケも背中に小さな羽をつけ、迎えに来てくれるんだろうな。
絶対、迎えに来てくれよ。
ウサギ天使となったクロスケに、私はこう言うのだ。
「クロスケ、可愛いいいい!!」
補足です。
2017年に、ウサギの生態に関する専門書が出ましたので、最近の獣医さんは、ウサギの診察出来る方が多くなりました。
また、獣医学部でも、愛玩動物に関する講義など、組むようになってきたと思います。動物看護士が間もなく、国家資格になるそうですし。
高取個人の体験を基に書かせていただきましたが、創作です。