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横須賀  作者: うみの
2/3

トモ



  ――― ト モ ―――


康史、お前が一番守りたいと思っていたものを、俺が代わりに守るんだって、あの頃は思っていた。それが、逆に傷つけることになってしまうなんて、思いもよらなかったんだ。

本当に、許してほしい。


中学の時の塾で、俺と康史はなんとなく気が合って、違う中学だったけど、よく話した。康史は見てくれは良かったけれど、かなりのカタブツ、いわゆるクソ真面目ってヤツ。塾でも、女の子達に遠目にはキャアキャア言われていたけれど、俺の知っている限り、告白されたことは一度もなかった。

「近寄り難いんだよ。スキがないんだよ」と俺が言うと、

「それがナゼいけない?」ってエラソーに言い返すヤツだった。

「それに、康史なら横浜の、もっと偏差値の高い高校でも楽勝なのに、なんでまた、俺らと同じとこ受けるんだよ? 迷惑」

「高校なんて、ある程度以上ならどこでも同じだろうが。わざわざ満員電車に乗って長時間かけて行くぐらいなら、図書室でや塾で勉強したほうがよっぽど有意義だ」

――違うと思うけどな。

「お前もしかして、あの高校受ける中に好きなヤツとか、いるんだろ?」

「いないねー。第一、俺らは今、そんな時期じゃないだろ?」

そう言って、康史は次の授業の予習をしようとしていた。

させるか。

「そんな時期って、どんな時期だよ? 中三.で、高校も楽勝で、もう、恋愛モードしかないだろ?」

「軽いな、トモ」

「軽くて結構。中三の冬は二度と来ないんだよ」

俺達が塾の教室で、授業の合い間に話していた時、康史と同じ中学のヤツが、康史の頭をヘッドロックしながら、言った。

「トモ、康史には、いるんだよ。透が。な?」

「うるせー」

「透って、なんだよ。なに? 康史、透って、男?」

「違う!」

「ほらな! 康史はクソ真面目な顔して、やることはちゃんとやってんだよ。高校だって、透と同じとこに行く約束してんだろ、どーせ?」

俺、チャンス!とばかりに突っ込んだ。

「なに、真っ赤になってんだよ?」

「赤くなってない」

康史は耳まで真っ赤になりながら、それでもテキストを読むふりをしようとしていた。

「なってるって。――あー、そーかそーか。じゃあ、言えるよな? 違うってコト、説明してみろよ」


透の話を聞いたのは、それが初めてだった。

塾の帰り道。恋じゃない、と言い張る康史の表情は、恋しているヤツのそれ、そのものだった。


透は、小学校五年生の時、引っ越してきた女の子だった。

その団地は横須賀の中でも一番都心に近い地域で、横浜や都心のベッドタウンとして、大手不動産会社が山を切り開いて作った高級住宅街だった。住人の半数以上は別の土地から引っ越してきており、駅の周りの下町に対する優越感が無くはなかったと思う。子供は元々はそうじゃなかったかもしれないが、親がそういう会話を家庭内でしていた可能性はある、それがもしかしたら、更に目立つ者を許さない空気を作っていたのかもしれない、と康史は前置きした。

背が高く、足が速くて、明るくて、そこそこ勉強ができた透は、転入早々目立つ存在だった。クラスが違っていた康史にも、彼女の噂は聞こえてきた。私立の小学校から転校してきたという話だった。お嬢様的な言葉遣いで、近寄りがたく、当たり前のように何でもできるという噂。それがプライドの高い奴らの反感を買った。

六年生で同じクラスになり、康史は、イジメがあると知りながら、彼女を庇うことも、イジメに参加することもせず、ただ傍観していた。

それは罪悪感から始まったのかもしれない。そして、イジメに遭いながらも、淡々と登校する彼女に、康史は惹かれていったんだと思う。透の芯の強さと、触れるとこっちが切れてしまいそうな、ナイフのエッジのような彼女に。

無邪気な明るさを失った彼女に、康史は、二度と悲しい思いをさせない、と決心した。

これからは自分が透を守るんだ、と。


そんな話だった。

心があったかくなるような、そんな恋の話じゃなかった。だから、康史は自分では気がついていなかったんだと思う。自分が透に恋していることに。

でも、俺は、いっぺんで透に恋をした。

まだ、一度も会ったことも、見たことすらない、その人に。

そして、透も入学するであろうその高校で、早く出会いたいと、心の底から思った。

横須賀の繁華街の外れにある塾から駅まで、いつも夜十時半を過ぎてはいたが、人通りは多かった。駅へと向かう道は港や飲食店へ繰り出す人達と逆行して、人をかき分けながら、足早に歩く康史を追った。

俺は、透のことをもっと知りたくて、透の話をもっと聞きたかった。毎日、俺は透の話をせがんだ。

「なあ、その透、可愛い?」

「お前は、すぐそれか?」

「それって、結構大事でしょ?」

「ノーコメント」

「ふーん」

「トモ、お前、何考えてんだ?」

「康史、透の手を握りたいとか、抱きしめたいとか、キスしたいとか、思ったこと、ねーの?」

 酔っぱらった女達が、康史に視線を送りながら、きゃあきゃあ言っている。

「ばかなこと言うな。無いに決まってるだろ。そういうんじゃない」

康史は明らかに動揺していた。

「じゃあ、透が他の男と付き合ってもいいのかよ?」

「――いいさ。それが透の幸せならな。その代わり、透を傷つけるヤツは絶対に許さない」

「何、歯の浮くような台詞で、きれいごと言ってんだ。恥ずかしくねーの?」

「なに?」

怒れ、康史! 自分の気持ちに気付け!

「なあ、想像してみろよ。透が他の男の腕の中で、抱かれてるとこ」

康史は想像しようとしなかった。康史の中では、透はアンタッチャブルな、神聖な存在だった。

でもなあ康史、透だって生身のフツーの人間なんだろ?

俺は、抜け駆けはしたくなかった。

だから、卒業間近になって、康史が親の仕事の都合で大阪に引っ越すと言った時、俺は反対したんだ。

「行くな」って。

「俺が透と付き合ってもいいのか」って。

それでも康史は行ってしまった。

今、思えば、仕方のないことだった。何しろ、俺達は中学生だったんだから。でも、あの頃の俺には康史が逃げたとしか思えなかった。


その前に。

俺は一つ問題を抱えていた。

同じ中学の同級生の女の子だった。彼女はレイコといって、幼馴染みだった。幼心に、幼稚園で、結婚の約束なんか、よくあることだろ?

そんなこと、普通、小学校に上がる頃には、忘れるだろ?

俺は、そんなふうに、軽く考えていた。


透の話を初めて聞いた日から数日後の塾の帰り道。

「トモくん」

康史と一緒に駅へ向かっていた時に、後ろから声をかけられた。

「あれえ、レイコじゃん。どうしたの?」

レイコはいつも、俺と結婚するって、幼稚園の頃の約束を回りに言いふらしていた。俺にカノジョができても、今まで何人も付き合っても、それは変わらなかった。まあ、可愛いから、俺もからかわれると、笑ってごまかしていた。レイコはすぐに傷つくから、すぐに泣くから、近所で親同士も仲がよかったし、実際小学校低学年の頃までは仲が良かったし、色々俺なりのしがらみで、否定しづらかったんだ。

「今日から同じ塾なんだよ」

「へーえ」

「ママが、帰りは遅いからトモくんと一緒に帰りなさいって。だから、待ってたんだ」

「あ、そう。聞いてないなあ」

「え?」

泣きそうな表情だ。ほらな、すぐそんな顔をする。

「トモくんと一緒の高校に入りたくて、頑張ることにしたんだ」

「一緒って、レイコ、塾のクラス何?」

「Cクラス」

「ちょっと、キツいんじゃないかなあ」

「え?」

また……。

「まあ、頑張ってみなよ」

「うん。トモくんがそう言ってくれるなら、頑張れそう」

「お前も隅に置けないね」

傍で聞いていた康史が言った。

「まあな」

「付き合ってんの?」

「まさかだろ」と、レイコに聞こえるように言った後、

「俺はもう、透一筋って決めたの」と、目配せとともに小声で囁いた。

「会ったこともないヤツが」

「なになに?」

会話に首を突っ込んできたレイコに、康史が訊いた。

「あの、三崎君と付き合ってるんですか?」

「え?」と言いながらレイコは顔を赤らめた。

「ううん。今、トモくんにはカノジョがいるんですょ~。でも、いつもすぐ別れるって分かってるから、気にしないことにしてるんです。だって、結婚はしようね、って言ってるから」

レイコは臆面もなく言った。普通に考えれば、ジョークだった。俺だって、最初はジョークだと思ってた。けど、最近、時々フッと怖くなるんだ。

一応、俺も、まあ、女の子と付き合うのは楽しかったし、当然好きっていうのもあったけど、レイコへの牽制、ってこともあったんだ。分かってるよな? って。

康史は、ムッとした表情で、俺にだけ聞こえるように言った。

「お前が透と付き合うなんてこと、俺が絶対に許さない」

それから康史はひと言も喋らなかった。

「康史くん、なんで機嫌が悪くなっちゃったのかなあ」

レイコが、康史と駅の改札で別れてから言った。

「そうだね。変なヤツなんだよ」

結局断れない俺は、レイコを家まで送り届けた。

「まあ、トモくん、ありがとう。これからもよろしくね」

レイコの母親は、かなり強引だ。親子って似るもんだ。

「はあ」

 俺は、家に帰ってから、自分の親に当たった。

「なんで断ってくれなかったんだよ!」

「なんでって、家が近いんだから断る理由がないでしょ?」

うちの親も、ノーと言えないタイプ。親子で似てるんだ。

「友達に、俺と結婚するって言ったんだ。勘弁してくれよ」

「まあ、いいじゃない。可愛いんだし。それとも塾にも付き合ってる子がいるの?」

「〝も〟ってなんだよ、〝も〟って」

「だって、あんた、とっかえひっかえじゃない?」

「親の言う台詞かね? みんな三か月は続いてるよ。しかも、だぶってないし」

「自慢してるの?」

「そう、自慢。とにかく、今度なんか言ってきたら断れよ」

「はいはい」

俺は、冷たいようだけど、これで終わったと思った。レイコが同じ高校に入れなくて、終わり。


「トモ、ちょっとお願いがあるんだけど」

日曜日、真面目に勉強しているところへ、お袋がケータイを持って部屋に入ってきた。

「レイコちゃんが、勉強みてほしいんだって」

「ええっ? 断れって言っただろ!」

「じゃあ、自分で断ってよ」

お袋は、自分のケータイを俺に差し出した。できるわけ、ないだろ?

「じゃあ、一時間だけ」

結局行くことにした。お袋が、ごめん、という表情をして手を振った。

レイコの部屋は、久しぶりだった。淡い色のカーテンにベッドカバーにたくさんの縫いぐるみ。女の子の部屋だった。そして、新しい参考書がずらりと並んで、やる気まんまんだった。でも。

「えー? これ、わかんない?」

「――うん」

数学も、英語も、満足というには程遠かった。

「レイコ、厳しいこと言うようだけど、志望校変えたほうがいいよ。高校なんて、他にいいところ、沢山あるんだし。レイコは真面目で内申が良いんだから。もっと、なんていうかさ、推薦でさ、私立で大学まで続いてる女子大とかが合ってるんじゃない? 公立入ったら、苦労するよ?」

レイコは半べそをかいていた。

「だって、トモくんとずっと一緒にいたいの」

「近所なんだから、会えなくなるわけじゃあるまいし」

「嘘。違う高校に行ったら、もうトモくんと会えなくなっちゃう」

「ンなわけないじゃん。女子大生なんて、良い響きじゃん。レイコなら、お嬢様学校に行ったら絶対いいと思うけどなあ」

「じゃあ、トモくん、毎週日曜日に会うって約束して」

俺は絶句した。

「ほらね。トモくん、高校に行って、頭がいい女の子と付き合って、私のことなんて、忘れちゃうんだ」

忘れるっていうか、最初から無いだろ? とはいえ、図星だっただけに、言葉を返せなかった。

「とにかく、どこの高校に入るにしろ、勉強しなきゃいけないんだから」

とりあえずごまかした。

それから週に一回、二時間だけ、レイコの勉強をみてやることになった。

週に三回の塾の帰りと、家庭教師。俺は段々とレイコに絡め取られていくような錯覚に陥った。

レイコは本当に頑張った。夜も、ほとんど寝ていないようだった。塾の帰りも、無駄な会話はせずに、その日、塾でわからなかった問題を質問するようになった。そういう時、康史は教えるのが天才的にうまかった。理路整然と、わかりやすく、感情がこもっていなかった。こんなふうに、俺もレイコに接することができたら、って思ったもんだ。

そして、こんな康史にそこまで想いを寄せさせる透。

それなのに。

冬の或る日、授業の合い間に康史が言った。

「俺、引っ越すことになった」

「どこへ?」

「大阪」

「大阪って、関西の?」

驚いた。

「ああ」

「なんで?」

「親の仕事」

「付いてくの?」

「当然だろ」

「姉貴は? お前、姉貴がいただろ?」

「ああ。姉貴は残る。大学、推薦決まってるから」

「じゃあ、お前も残ればいいだろ? それに、いいのかよ?」

「何が?」

「透」

「お前、なに言ってんの? 俺ら、まだ中学なんだぞ」

「もう、高校だ」

「親がいなくて、勉強に集中できるか?」

「甘えだね。お前、本当は透から逃げるんだろ? 勉強を理由に。透に対してどうしていいか、分からなくなったんだろ」

「……」

「お前、中学の時と、同じだと思うなよ。透だって、誰かにコクハクされて、どこの馬の骨ともしれないヤツと付き合ったり、いいように遊ばれたりするかもしれないんだぞ」

――飛躍しすぎたか? まあ、康史にはいい刺激だろ。

「透に限って、あり得ない」

「お前、バカだね」

「バカじゃねえ。透はそういうんじゃない。今までだって、そうだった」

「バカだよ。これからって時期に透の傍を離れて。お前が離れるんなら、俺が透の傍にいるからな。いいんだな、それで」

「トモ、お前、知ってんの? あの高校、一学年十クラスあって、三年間クラス替えナシなんだぞ。透がどういうヤツか知らないから、そんな気楽なこと言ってんだ。クラスが違えば、まずアウトだね」

「――じゃあ、どういうヤツだよ?」

「あいつは、他人を見ようとしないんだ。誰も信じてない。――『走れメロス』だ。だから、お前みたいな軽いヤツなんか、鼻にもひっかけねーよ」

「なんだよ、突然『走れメロス』?」

「忘れたんなら、まあいいや」

「なんだよ?」

「俺が、お前に言える最大のヒントだよ。まあ、軽いお前はそんなこと忘れてんだろうけど」

「俺が本気になって、本当に軽いヤツかどうか、お前は知らないだろ。ま、俺にも予測不能だけど」

「言ってろ」

「――行くなよ」

俺は、真剣に言った。

「……」

「行くな」

康史は、俺の顏を見ずに、言った。

「――トモ、今の俺じゃ、自信がないんだよ。透に向き合う自信も、透を守る自信も。透に向き合えるだけの自信をつけて、戻ってきたいんだ」

「三年は、長いぞ」

「だけど、俺には多分三年必要なんだ」

「俺が付き合ってもいいんだな?」

「……」

「俺が、本気で透を好きになっても、文句は言うなよ」

「……ああ」

「俺が透を守ってみせる」


そして、康史は行ってしまった。

大阪にある私立高に受かったと、康史と同じ中学のヤツに、塾で聞いた。


レイコは、努力の甲斐あって、同じ高校に合格した。ただ、受かった時には、ボロボロだった。入試があって、発表までの短い期間、レイコは心労で寝込むほどだったんだ。発表は俺が二人分見に行った。合格していてほしい気持ちと、逆の思いと。レイコの番号を見つけた時、俺は、はっきり言って、落ち込んだ。でも、新しい学校で、新しい出会いがあるかもしれない。俺なんかより、レイコに相応しいヤツがきっといるはずだ。そう期待するしかなかった。

小雪が降る中、同じ中学の仲間と肩を抱き合いながら、心の中で呟いていた。

おめでとう、レイコ。

おめでとう、俺。

そして、おめでとう、透。


入学式で、透の名前をクラス名簿で見つけた時、俺は小さくガッツポーズをした。


透を初めて見た時の印象を、どう言葉にしたらいいだろう。

世の中は様々な色彩に満ちていて、様々な音で騒がしい。だけど、透だけはモノトーンで、その周りは輪郭を描くように静寂が漂い、際立っていた、とでも言えばいいのか。

言っておくけど(誰に?)、俺は康史から透を本気で奪おうなんて思ってなかった。まあ、そもそも康史は透と付き合ってた訳でもないけど。

確かに、康史の眼を通して、俺は透に恋してた。でも、実際自分の眼で見て、康史には申し訳ないが、期待とは違っていたってのは否めない。それに、透のせいじゃないけど、俺の勝手な想像だけど、想像上の透は、絶世の美女とまではいかないけど、かなりの美人だった。何しろ、あの康史が気後れするくらいなんだから。

実際透は、康史の話がなければ、単に目立たないクラスメイトという感じだった。

康史が「ノーコメント」と言った気持ちが、別の意味で解る気がした。

――いやいや。もちろん褒めポイントだってある。

スタイルが良かった。肉感的とは真逆。背は高めで均整が取れ、無駄のない体つきだった。痩せてはいないけど細身で、体操服から出ている手足は健康的で、程よく筋肉がついていた。足首の後ろの骨が綺麗に見えた。動きも、無駄がなかった。

可愛く見せようとして、外見を気飾るようなタイプでもオシャレでもなかった。

くそ真面目って印象でもなかった。いつもワイシャツの第一ボタンを外し――、

ああ、そういえば、グラウンドで突風が吹いたとき、他の女子は風をよけて背を向けていたのに、透だけは風に向かっていた。まるで風に挑むかのように。

遠目に、変わってるな、と思った。

そういうのが好みのヤツだってたくさんいる。康史はきっとそうなんだ。


おそらく康史のせいで、目が離せなかった。


康史の話のイメージからして、誰とも喋らないんだと思ってたけれど、全然そんなことはなかった。自分から話しかけていなさそうだったけど、話しかけられれば誰にでもフレンドリーだった。喋るスピードは比較的ゆっくりだった。賢そうな瞳、形の良い眉、常に静かに微笑んでいるような唇。

〝雰囲気美人〟と、自分の中で結論付けた。

透は、康史が言った程とっつきにくそうなヤツじゃない。康史は、小学校の同級生だったから、だからあんなふうに印象を引きずっていただけだ。俺も、康史の真剣さに、つい気持ちが盛り上がったけど、

(ワリと普通じゃん)

 俺なりに結論付けた。そして、

(康史のために、透に悪い虫が付かないようにしてやるんだ)

 

俺は、透に話しかけるきっかけを探し始めた。


入学してすぐ、学力診断テストがあった。この学校は、毎月のように定期テストがある。毎学期、中間、実力、期末。他に県下一斉とか、なんとかかんとか。次々と追い立てられているように感じるのは、俺だけじゃなかったはずだ。今回は、勉強する暇なんか無かったし、まあ中学の時の総復習みたいなもんだったから、ストレスは無し。結果、四百五十人中九十八位。まあ、こんなもんか。

テストの結果が出揃ったその日の夜、レイコの母親がうちに来た。

「トモくん、テスト、どうだった?」

「まあまあですかね」

「何位ぐらい?」

「百ぐらい」

「まあ、すごいのねえ……」

(すごいか?)

レイコの結果は聞かずに通り過ぎようとした。聞けばきっとまた何か頼まれるに違いない。

「レイコが落ち込んじゃってね。入試でかなり無理したからかしら、今回体調も悪くて、結果が悲惨だったのよ。学校に行きたくないなんて言って……」

おいおい。

「そうですか……」

「そこでトモくんに相談なんだけど……」

ほらきた。相談、じゃなくて命令だろ? 俺は身構えた。

「朝と帰り、レイコに付き添ってやってもらえないかしら」

「え? 付き添うって? 帰りも?」

ナチュラルな反応に、お袋が焦って会話に割って入った。

「あんた、部活、入ったの?」

「テストだったし。でも、もう硬式テニス部の体験の申し込みはした。明日体験行く」

「じゃあ、少し遅らせてよ。レイコちゃんのペースが掴めるまで。ね?」

「いや、ちょっと待っ――」

「あんた、別にプロになるんじゃないんだし、受験前までずっとクラブに通ってたんだし、体験しなくても、ちょっとぐらい、ね?」

俺はあからさまに嫌な顔をお袋に向けた。

「それから」とレイコの母親が続けた。

「え? まだ?」

「週に一回でいいの。また、勉強を教えてやってもらえないかしら」

「はあ」

俺って、ホント、情けない。

翌日から、俺は小学生みたいにレイコを誘って、登校することになった。レイコの両目は腫れて、寝てないか、泣いたか、その両方か、とにかく悲惨だった。そして、レイコの教室の前で別れるとき、レイコは必ず駄々をこねた。

俺の台詞は決まっていた。

「大丈夫だよ。俺がついてるから」

俺はその言葉を口にする度に、自己嫌悪に陥った。うんざりだ。

そして、帰りも。レイコは多分、ホームルームが終わったらソッコーでこっちの教室に来ているに違いなかった。こっちの授業が終わって、ひと息つく間もなかった。そして、俺を見つけると、ほっとした表情で、俺にしがみついてきた。

ざわめき、冷やかし、からかい

毎日、ため息が出た。


入部体験期間が終わる前日に、俺は親にサインを書いてもらった入部届をポケットに入れてテニスコートに行った。その日はレイコが学校を休んでいた。レイコが学校を休むと、ホッとする。入部手続きをするのは、今日しかないと思った。

予定通り硬式テニス部に入ろうと思っていた。

テニスコートは、新校舎の裏に二面。学校自体が斜面を削って建てられていたから、コートの向こうは崖だった。部員は男女合わせて三十名ほどがいた。男女別々のコートだったけど、ふと、その中に俺とレイコの姿が見えた気がした。

そういえば子供の頃、半年ぐらいレイコと一緒にテニススクールに通ってたことがあった。レイコはすぐ辞めたし、中学でもダンス部かなんかに入っていたけど、――もしテニス部に入ったら……。悪い予感が的中するような気がした。

それに、コートは陽が遮られ、風通しの悪い場所だった。気分が落ち込みそうだった。

俺は、十分間位だったか、眺めていて、急に思い立って斜面の上にあるグラウンドに歩いて行った。

グラウンドは、日影が全く無かった。校舎の影も、グラウンドに上がる途中の階段までしか届いていなかった。あるのは、周りを取り囲むまばらな木々だけ。左手には離れたところに住宅街があった。右手を見ると、グラウンドより更に高いところに小さな寺が見えた。

清々しかった。

グラウンドでは、野球部とサッカー部とハンドボール部とラグビー部が、練習をしていた。グラウンドは二段になっていて、メイングラウンドの奥、一段高いところにあるサブグラウンドにラグビー練習場があった。メイングラウンドは、一番手前に陸上のトラックが、奥まったところにサッカーコート、少し手前右側にハンドボールコート、左手に野球のバックネットが見えた。

球技はやっぱり見ていて楽しそうだった。球技なら、ヘタクソでもそれなりに楽しいかもしれない。ボールの感覚ならある。運動センスには自信があった。すぐにレギュラーとはいかないまでも、三年間みっちりやれば、最後の試合には出られるかもしれない……。

その時、ふと、視界を遮るようにして、陸上部員が手前のトラックを走り過ぎていった。改めてトラックの中を見ると、色々な競技の人達がいた。走り高跳びや走り幅跳び。ハードル。砲丸投げか何かのバックネットのようなものも、初めて目にした。走りもうまい走り、下手な走り。全力疾走やそうでない走りがあった。美しい走りは、無駄がなく膝から下が伸びやかで、奇麗だった。

俺は、吸い込まれるようにして、陸上部の方に歩いて行った。


俺は、透に話しかけるきっかけを探し続けていた。入学して既に半月が過ぎていた。ところが、俺としたことが、未だに話しかけられずにいた。

何度も話しかけようとはしていた。その度に、まるで偶然かのように、透は視線を逸らした。

始めの頃は、偶然だと思っていた、けれど、悉くだった。これだけ続くのは、おかしいじゃないか? 

俺に対してだけなのか? そういう目で見てみると、透が目を合わせるのは、ごく限られた人間だけだった。それ以外の他人とは、会話はしていても眼を合わせているようには見えなかった。

例えば、休み時間の度に、わざと目の前を横切ったり軽く接触したりして「ごめん」とか「わりい」とか謝ると、透は微笑みを浮かべ「いえ」とだけ言った。言いながらも目を合わせなかった。 

足元にわざと消しゴムを落として、拾ってもらう。礼を言っても、透が見ているのは俺の差し出した掌。そしてぺこりと頭を下げる。

俺も、そんなわざとらしい自分があまりにガキっぽくて、心の中で自分を罵りながらも、ひたすら話すチャンスを作ろうとした。極たまに、透は俺を見た。でも、表情は微笑んではいても、いつもその向こう側を見ているようだった。俺は透明人間になった気にさせられた。

じきに、休み時間になると席を外すようになった。

避けられてる?

完全にシャットアウトだ。

いつも、暇さえあれば外を見ていた。

康史の言った通りだったと、認めざるを得なかった。本当に、これでクラスが違っていたら、康史の言ったとおり、完全にアウトだ。

一つ、望みがあるとすれば、唯一、透と席が近くてよく話していたのが、俺と同じ中学出身の女の子だった。マリコといって、美人で、頭がよく、言葉鋭く、ちょっと康史に似ていたかもしれない。中学の時から『恋愛相談』と称して、たまに話しかけたりしていた。

また、『相談』といくか。

「マリコぉ」

これが、キツイ表情でこっちを見るんだよな。

「トモ、あんた、透狙いでしょ?」

「どき」

「トモはわかりやすいね、ほんと」

「え? じゃあ、透にも分かっちゃってるかな?」

「まあ、分かるわけないね」

「やっぱり?」

「でも、珍しいね。初めて? トモの方から誰かを好きになるなんて」

「あ――いや、好きってんじゃないんだけど」

「ふーん」

マリコは、明らかに疑わしそうな表情をしていた。

「それよりさあ、俺って、やっぱ、アレかなあ?」

「アレって?」

「もしかして、避けられてる?」

「透に?」

「そう」

「どうかな」

「避けられてるでしょ?」

「まあ、そうかもね」と言ってマリコは苦笑いした。

「やっぱり」

「わかってんじゃない」

「これだけやればね」

多少大げさにため息をついた。

「そんなに好き?」

「だから好きじゃないって」

「じゃあ、何?」

「なんていうか、友情?」

「誰への? まさか透?」

「んな訳ない」

 マリコは、俺の言葉を鼻で笑った。

俺は、改めて訊いた。

「マリコはなんで透と仲いいの?」

「仲いいってことでもないけど。――まず、席が近かった」

「うん。それで?」

「部活が同じだった」

「ああ、美術部ね」

「そう。よく知ってるね」

「そりゃあ、そのくらいリサーチ済み。透、絵、上手いんだ……」

「そうでもないよ」

「キビシイ! まあいいや。それから?」

「あの子は、ベタベタしたところがないんだよね」

「んー、わかる」

「楽なんだよね。ずかずか立ち入ってこない。逆に言うと、近づくなって言われてる感じ。私、そういうの、嫌いじゃないから」

「マリコみたいなタイプ?」

「トモ、改めて思うけど、私のこと全然分かってないね。私、かなりフレンドリーだと思うんだけど。トモのこと、結構好きだし」

「えええっ?」

「リアクション大きすぎ。――気がつかなかったの?」

「ごめん」

「謝るな。まるで私がフラレてるみたいじゃない」

「――いや、なんていうか……。でも、ほんと?」

「まあ、半分くらいね。でなきゃ、こんなくだらない相談、何回も受けてないよ」

「くだらないって……」

「分かってるんだよ、私。トモは私に恋をしない。私も、トモじゃ優しすぎて満足できない。くだらない相談に乗ってる程度が、いい距離感なんだよね」

「――難しいなあ。さっすがマリコ! でも、ゴメンと、ありがと」

「どういたしまして」

「――で、どうすればいいと思う?」

「そうだなあ。まあ、下手に近づかないほうがいいとは思うけど? 今だって、結構ウザいし。ただ、私も透を解ってる訳じゃないから。本当のところ、何が正解かは解らないよね」

「……そっか。――分かった」

「ほんとに分かってんの?」

「分かってる分かってる。オッケーだよ」

「トモ、軽いなあ。心配」

「大丈夫だって。俺、今、使命感に燃えてるから」

「意味わかんないんだけど」

「友情だよ、友情。透に悪い虫が付かないように、俺がガードするんだ」

マリコは胡散臭そうに俺を見て、フンッ、と鼻で笑った。

「まあ、頑張って」

「頑張る!」

「別にいいと思うよ。ミイラ取りがミイラになってもさ」

違うんだけどな。俺はホントに康史のために……。

敢えて口にするほどのことじゃないか。

「一応、念のために聞いておくけど……。本気で好きなら、近づいていいと思う?」

マリコは、口の端で微かにニヤリとした。


四月の終わりにもテストがあった。初めての高校の範囲からの出題で、今まで中学ではトップクラスだったヤツら(俺も含めて)だけど、軒並み見たことのない点数のラッシュだった。

当然、レイコは悲惨で、二日間のテストの後、担任に呼び出されたようだった。部活が終わって、仲間と学校を出ようとしたとき、門のところで俺を待ち構えていたレイコは、両目を真っ赤に腫らしていた。

レイコは、クラスに友達もあまりできないようだった。入学したての頃は、クラスメイトの名前も会話に出てきてたけど、たまにレイコの教室の前を通る時、中を覗くと、レイコは必ず独りぼっちだった。虐められているわけでも、シカトされているわけでもない。いい意味でも悪い意味でも、皆、そういうのにキホン関心が無いんだ。

たまに、ひとりぼっちで弁当を食べてる女子だって、うちのクラスにもいる。でも、寂しそうじゃない。いつも一人ってわけじゃないから。自分の都合で動く。他人に無理に合わせない。自分のことは自分で面倒を見る、そんな感じ。この学校は、レイコが馴染める環境じゃないことは確かだった。

俺は、いつもレイコのことが気掛かりだった。それがストレスだった。放っときゃいいんだろうけど、それもできなかった。

幸か不幸か、陸上部は朝練が無かったから、朝は毎日レイコを誘って登校した。これは、おばさんに「もう一緒に行かなくていい」と言われてなかったからだし、言われてないのにやめるのも気が引けた。帰りも、部活のない水曜日は、レイコと一緒に帰った。自分からやっていることとはいえ、負担だった。

部活後、レイコが校門で待っていることもあった。

ストレスだった。


五月のはじめ

化学基礎が休講と決まったそのすぐあと、透は教室を出て行った。俺は何か予感がして、急いでそっと後をつけた。透は生徒用の昇降口で靴を履き替え、校舎を出て、学校の裏門を出た。

なんと! サボりだった。しかも、授業中に学校を抜け出して。

透は、門を出て右に曲がり、少し坂道を上がったところにある、小さな寺の境内へと向かう長い階段を、一度も振り返らずに駆け上がっていった。

俺は、透の姿が見えなくなってから、その階段を上がった。人生初のサボりにドキドキしながら、そっと。辺りを見回しながら。

階段の一番上まで来ると、右手眼下にグラウンドが見えた。グラウンドから見える寺は、ここだったのか、と初めて知った。境内は狭かったけど、周りが開けているせいで、明るくて解放感があった。砂利を敷き詰めた中に、蘇鉄が南国風だった。

透は、鐘楼の台のところで足をぶらぶらさせながら座って、微笑んでいた。本当に幸せそうに。教室では一度も見せたことのない表情だった。遠くを見つめ、空を仰ぎ、海に挨拶なんかしていた。フツー、海に挨拶するか? フツー、引くだろ。でも、その時の透の表情は、本当にこっちまで幸せになるような、そんな表情だった。

一瞬、恋かと勘違いしそうになった。

(いやいや)

気が緩んだ俺は、つい足元の砂利の音をたててしまった。

透は驚いた様子で振り向いた。強張った表情で俺の顔を見て、視線を下に移し、(多分)制服を見た。それから視線を正面に戻した。

(無視かよ)

俺は、意を決して近づいていった。

自分にとって最高の笑顔をつくりながら。

「よっ」と声をかけた。

 透は、ちらりと俺を見て、軽く会釈をし、またすぐに正面に向いた。

一応、訊いてみる。

「えーっと。俺、同じクラスなんだけど……」

透は怪訝そうな瞳を俺に向け、首だけで頷いた。俺は、心の中でホッと胸を撫で下ろした。

「俺は、三崎(みさき)(さとし)……サトシだけど、みんなトモ、って呼んでる。よろしく」

透の横顔に向かって話しかけた。透は再び振り向いた。今度は、困ったような表情で、それでも軽く会釈をした。

俺って、完全に迷惑なヤツなんだろう。透は、話しかけられて困っているのは明らかだった。だけど、こんなチャンスは二度と無いかもしれない。それに、このまま引き下がったら、ただの軽いヤツって印象だ。何か、インパクトのある話題を……

「俺、透のこと、中学の時から知ってたよ」

透は俺を見て、眉をひそめ、俺のことを思い出そうとしていたようだが、「ごめんなさい」と、申し訳なさそうに言った。

「違う違う。会ったことない」

 俺は笑いながら手を振って否定した。

――そしたら、普通、透が(どうして知ってるの?)とか訊いて、俺が(塾で友達がさ)なんて言って、話は続くはずだった。 女の子ってのは、こっちが黙ってても勝手に喋り続けて、こっちが喋ろうとしても、それを遮ってまで自分が言いたいことを言うもんだと思ってた。

でも、会話(これを会話と呼べるなら、だけど)は、途切れた。透は、少し考え事をしているような表情だったが、会話が途切れたと判断したのか、再び海を向いた。

 約十秒って感じだったと思う。

突然、透が言った。

「すみません」

「何? 何が?」

 俺は、訳が分からなかった。

 透は、登楼の台から飛び降り、あっという間に会談とは逆の出口から走り去っていった。


 あまりに、あっけなかった。アスファルトの坂道を駆け降りる足音が、遠ざかっていく。

 完全な失敗だった。


俺が教室に戻っても、透はまだ戻らず、休み時間に入ってから教室に戻ってきた。マリコが俺と透を見比べていた。


あのままで今日を終わらせたくなかった。

昼休み、俺は、マリコと透が席に着いて話しているところに割って入った。二人が黙って俺を見上げた。十分カッコつけようとしたのに、

「さっきだけど――なんで、すみませんって言ったの?」

 声が上ずった。

 マリコが、俺と透を交互に見比べた。

だけど、最悪のタイミングだった。ばかなヤツが、ちょうどやってきたレイコのことを「カノジョがきた」なんて呼んだんだ。

俺はつい透から目を逸らしてしまった。

ちょっと待てよ、いや、俺に彼女がいようがいまいが、透がどう思おうが関係無い。透と付き合いたいってんじゃないんだし……。だけど、

マリコが怒った顔をしていたのが、視界の隅に見えた。


翌日、理科実験室に教室を移動する時、マリコが俺の傍に来て、低い声で訊いた。

「レイコと付き合ってんの?」

「やめてくれよ」

「でも、どう見たって付き合ってるとしか思えないよ。私、怒ってるんだからね」

「なんで? 俺のこと好きだから?」

「ばか!」

スッコーンと、教科書の角でやられた。

おい、角だぞ、角!

 

あれ以来、俺は部活に行く前に、毎日透に挨拶をすることにした。

「じゃあね。バイバイ」

俺は、自分の教室を出る前に、必ず透に笑顔で、カッコつけ過ぎない程度に、軽く手を振って教室を出た。

当の透はといえば、自分に向けてだと分かっていないかのようだった。

(そんなこと、あるか?)

いつもマリコと一緒にいる透は、俺の「バイバイ」は、マリコに向けてだと勘違いしていたはずだ。というのも、透は必ずマリコに促されて、その気が無さそうに(と俺には思えた)遅れて軽く会釈をするだけだったからだ。

本当は、もっと何か喋りたかったけれど、ほんとは一緒にいたかったけれど、レイコが教室に来て、レイコといるところを透に見られたくなかった。だから、なるべく早く教室を出た。

帰り際、しつこくならないように、あっさりと、って自分に言い聞かせながら、教室を出た。

それなのに、「バイバイ」って言う度に、今日も透に無視されるんだろうって思う度に、日に日に心臓の音が大きく速くなっていくような気がした。遂には、教室を出て隣のクラスの前に来て、「やべえ」って声に出してしゃがみ込んだ。

(勘違いするな、俺!) 

 無視されるかもしれないって不安からくるドキドキが、『吊り橋効果』ってヤツなんだ、こうやって人は恋に落ちたと勘違いするんだ、って何度も自分に言い聞かせなきゃならなかった。


五月の終わりには、次の休講まで待ってる余裕が、自分の中に無くなっていた。

入学して三度目の定期テストが近づいた或る日、最後の授業の漢文が、五分程早く終わった。

「今日は、部活無いんでしょ?」

俺は意を決して――意を決しなければ、透に話しかけることさえできなくなっていた――透の机に行き、彼女の鞄を持った。

「帰ろ」

周りにいたヤツらの、「おぉ!」っていう冷やかしの声が聞こえた気がした。

俺は、レイコに見つかる前に、ってそれだけで、透の返事も聞かずに昇降口へと歩き出した。靴を履き替え、裏門を出て、校舎の中から見えないところで、透を待った。

追ってきた透は軽く息が上がっていた。

「はい」

笑顔で鞄を差し出すと、透は不機嫌そうな表情で鞄を受け取り、そのままもと来た方へ歩き出そうとした。俺は透を引き留めたくて、咄嗟にその腕を掴んだ。

「一緒に帰ろ?」

振り返った透の眼は一瞬鋭く冷たい光を放ち、訳が分からないという表情をした。俺は思わず掴んだ腕を離しそうになった。

透は、その隙に行こうとしたから、透の腕を持つ力がグッと強くなった。痛いかもしれなかった。でも、離すとこのまま終わってしまいそうだった。

「なに?」

透は、顔は笑っていたけれど、低い声だった。

「離してください」

「じゃ、じゃあ、一緒に帰ろ。いいじゃん、たまには。折角同じクラスになったんだしさ」

 しどろもどろになりながら、精いっぱいおどけて見せた。

「意味が解りませんけど」

 皮肉を含んだように微かに笑った。脇をすり抜けていく生徒たちが、大袈裟に俺らをよけていく。

何分くらい経ったろう? ほんの僅かだったかもしれない。

透は、右側に視線をちらりと移した。

「トモくん!」

透の肩を突き飛ばすようにして、レイコが俺の腕にしがみついてきた。透は予想していたかのように、突き飛ばされつつも軽く身を躱した。

レイコは、人が変わったような恐ろしい形相をしていた。

「透って人でしょ? 康史くんと付き合ってるくせに。 康史くんがいるのに、トモくんに手を出さないでよ!」

「レイコ!」

 透は、驚いた表情でレイコを真っすぐに見ていた。いつもの、視線を避けるような眼じゃなかった。透は何か言おうとした。口元がほんの少し動いたように見えたけど、結局何も言わなかった。

 レイコはそんな透を見て、余計に頭に血が上ったようだった。

「言いたいことがあるなら言ったら? 何? 言いなよ! こんなの、康史くんだって可哀そうじゃん!」

 レイコは自分の言葉に更に興奮していた。これ以上何か喋ったら、手が付けられなくなりそうだった。

「サイテー! 何とか言いなよ! 黙ってるなんて、ズルい!」

 透は黙ったまま、レイコを見つめていた。

「トモくん!」

 レイコの俺を見上げる目は、俺の知ってるレイコじゃなかった。俺は、咄嗟に透から手を離し、その同じ手でレイコの手を引っ張った。

「レイコ、帰ろう」

――俺は、失望した、自分に。

透、もし、透が何か言ってくれたら、康史のことでもいい、何かひと言でも俺を引き留める何かを言ってくれたら、俺はレイコを振り切れただろうか。

俺の耳は、透の遠ざかっていく足音を追っていた。

帰り道、レイコが訊いた。

「トモくん、あの子でしょ? 康史くんの――」

「いや」俺は答えるのも億劫だった。

「あたし、あの子、やだ」

「そう」

「いい子ぶっちゃって。大人しそうなフリして、康史くんも趣味悪い」

「……」

「トモくん?」

黙れ。黙れ、レイコ!


翌日、学校へ行くと、昨日の俺らのことが、噂になっていた。

俺らが教室を出た後、レイコが教室に来て、誰かが俺と透のことを喋ったのか、かなり逆上していたらしい。俺は、そんなレイコの姿を想像すると、気が重くなった。

透はいつも通りだった。いつも通り、何も見ず、静かに微笑むだけだった。レイコが言ったように、中学の同級生、つまり、康史と付き合っているという噂が以前からあって、俺と二股かけていると言われていた。俺も同じだ。レイコと透。俺らは非難の的、俺と透の一挙手一投足が注目の的になっていた。俺は、それをいちいち否定していた。笑って、透のことを否定していた。透を傷つけたくなくて。透の名誉を守りたくて。でも、それはつまり、透よりレイコを取った、という解釈をするヤツもいた。透の耳に、どんな噂が入っても、いい気持ちはしないに違いなかった。そして透は、誰の質問にも、「さあ」と感情の無い笑いを向けていた。

俺の目には、透が耳を塞いでいるように見えた。

二限目。休講になった。透はあっという間に姿を消した。マリコが俺の席にやってきて、「ちょっと」と教室の外へ連れ出した。

完璧に怒っていた。

「ほんと、バカ。トモは中途半端なんだよ。そんなの、優しさじゃない」

「ごめん」

「私に謝ってどうするの?」

「うん」

「透に謝りなさいよ」

「え?」

「どこにいるか、知ってんでしょ?」

「もしかしたら、ってとこはあるけど……」

「じゃあ、行け」

「でも、これ以上疑われるようなことしたら、透が噂の的になる……」

「そんなこと。だから私がわざわざ今、あんたを廊下に連れ出してるんでしょうが」

「マリコ」

「早く行け、あんぽんたん!」

俺は走った。あの場所へ。透が幸せになれる場所。


「やっぱりここだった。ここにいなかったらどうしようかと思ったよ」

透は一瞬こっちを見たけれど、すぐに前に向き直った。俺は、透が座っているところから、五十センチメートルは離れているところに腰を下ろしたのに、透はさらに十センチメートル程離れた。

屋外は梅雨空で、雨は降っていなかったけど、異常に蒸し暑かった、俺は、必死に走った暑さで、ワイシャツの胸の辺りを扇いだ。ぱたぱた……。

マジで暑い。

ぱたぱたぱた……。

俺は何と言っていいか分からなかった。

こう言っちゃなんだけど、俺は誰とだってうまくやってこれた。今まで、こんなふうに、こんなことしなくたって、今までの俺なら。俺の周りにはこんな面倒なヤツなんて、いなかったし。

透は面倒くさいヤツだった。よく言うキャッチボールに譬えるとしたら、俺が軽く投げたボールはそれがまるで陽炎のような透の身体を通り抜ける。強く投げたボールは投げた以上の鋭さで跳ね返ってくるようなものだった。どうしたらいいか分からなかった。

康史、おまえはどうしてた? 跳ね返ったボールに傷ついたこともあったのか? だから、逃げたのか?

とにかく、レイコのことを謝らなきゃいけない。

一体どう言えばいいんだ? 

どうしようもなくて、ワイシャツの胸元を仰ぎ続けた。

どれくらい俺らは無言だったんだろう。透は鐘楼から飛び降りた。

「どこ、行くの?」

ほんとにマヌケだ。

「独りになれる所」

透は、向こうを向いたまま嫌味を言った。

――とにかく、今は謝る。

「ごめん」

「何が?」

「何がって……。あれやこれや」

透は冷たく笑った。

「昨日は、ほんとにごめん。自分の勝手で透のこと、気持ちとか、考えないで。ほんと、――」

「放っておいてくれないかな」

透は、俺の言葉を遮った。俺を見た。冷たい目で、射るようだった。本当に心臓を射抜かれたように痛かった。

「え?」

「謝ったりしなくていいから、放っておいてくれればいいよ」

俺は、返す言葉がなかった。

「放っておいて」

 透は、ゆっくりと、冷たく言い切った。

「とにかく、放っておいて。噂なんて、黙ってれば消える。三崎くん、今朝、あっちこっちに言い訳して。無駄な労力だよ。――じゃあ」と、透は、再び行こうとした。

下手に喋って、またテキトーなセリフで、誤魔化して失敗したくなかった。

「好きなんだ!」

 透は驚いた表情で振り向いた。俺自身、自分の言葉に驚いた。

「俺、透のこと、よく知らないのかもしれないけど、もっと知りたい。透ともっと話したいし、もっと一緒にいたい」

本当のことだった。言いながら、頭がじんじんして、血が上っている感覚があった。

(ああ、これが本当は好きって気持ちなんだ)、と改めて感じて、実は感動していた。今まで、誰に対しても、そんなこと感じたことは無かった。唇が震えていた。俺は、誰かを今、透を本当に好きなんだ、と感動していた。

対して、透は何も応えなかった。

俺は、深呼吸をした。透を目の前にすると、自分が自分じゃなくなってしまうような気がした。取り繕おうとして、余計なことを口走ってしまう。透には、嘘は通じない。嘘を許さない雰囲気を持っていた。

「レイコのこと、ほんとにごめん。レイコは幼馴染で、腐れ縁で、今ちょっと気持ちが参ってて、それであんなふうに」

 透は、口元を引き締めて、静かに首を振った。

「謝ることじゃないし。彼女のことも、言わなくていい。何も言わなくていい」

『何も』――それは、何に対してなのか測りかねた。俺は、訊かれもしないのに話し続けた。

「レイコと高橋康史と、塾が一緒だったんだ。レイコは、時々康史に勉強教えてもらってて、それで……」

 こんな話をしたいんじゃない。一度に一つのことしか言えないのがもどかしかった。もっともっと言いたいことがあった。もっともっと訊きたいことがあった。だけど、話の優先順位をつけられなかった。何かを先に聞くと、別のことで誤解されるような気がした。 

そして、俺は、透の言葉を待っている。だけど、透から問いかけたり話をしたりする訳がなかった。


「――付き合ってるヤツ、いるの?」

 思い切って切り出した。

康史の話じゃ、中学時代にはいなかった。康史の話から想像する透の性格からすると、マリコの話からも、今の透の様子からしても、そんなヤツいるわけなかった。でも、透は答えない。

「好きなヤツは? いる?」

「いる」

 即答だった。いるとしたら、アイツしかいなかった。

「康史?」

「違う」

「誰?」

「三崎くんの知らない人だよ」

 透は海を見たまま、答えた。俺は、賭けた。

「嘘だ」

「嘘じゃない」

「嘘だ。面倒なんだろ? 好きって言ったら、俺が引き下がると思ってるからだろ?」

透は笑った。冷笑だった。ダメで元々だ。ダメならダメで、白黒はっきりさせたかった。

「俺のこと、好きになるのが怖いんだ」

 透は「はあ?」と可笑しそうに笑った。乾いた笑いだった。

俺は、後悔した。誠実さとは程遠いやり方だった。

「三崎くん、何が目的? そうやっていつも口説いてるの?」

透はかなり毒舌だった。でも、ここで引き下がるわけにはいかなかった。

「違うね。俺、口説いたことないよ」

「はあ、そうですか」

透は、呆れた、という表情で笑った。

会話が途切れた。でも、ここで引き下がってはいられない。

「それに、目的って言ったけど、目的って、何?」

「こっちが聞きたい」

「付き合いたい、以外の目的がある?」

言っていて、訳が分からなくなってくる。告白してるのに、なんでこんな冷たい会話になってるんだ?

俺は、改めて言った。

「――あのさあ、付き合わない?」

「だから、好きな人がいる」

「そんなことない」

「なんでそんなこと分かるの?」

「わかるさ。大体、断る時に『ほかに好きな人がいる』って言うのは、常套句だからね」

「断るって意味では同じだよ。 それに、三崎君のは気の迷いだから」

「違う――」と言いかけた時、透が俺をまともに見た。

 無言だった。何秒間か俺をじっと見て、真面目な顔をして言った。

「付き合おうなんて、言わなくていい。帳尻合わせをしようとしなくても、大丈夫だよ。私はあれくらいのことで傷ついたりしないから」

「帳尻合わせって? 透に悪いことしたから、好きって言えばチャラになると俺が思ってるって?」

――頭に来た。俺をなんだと思ってるんだ? 勇気を出して告白してる相手の気持ちにもなってみろってんだ。

 俺はその場を立ち去ってやろうかと思った。

――けど、よくよく思い返してみれば、全ては俺の都合から始まったことだった。


 今、俺を見る透の目は本気だった。

じゃあ、ちゃんとした俺の気持ちを伝えるには、どうすればいい? 

『あれくらいのこと』――透は、昔、もっと傷ついていた。

俺はもう、自分にガッカリしたくなかった。

「透は、本気で誰か好きになったこと、ないだろ? 今だって、好きなヤツがいるって言ったけど、違うだろ? だから、俺の言ってることが分かんないんだよ。好きって、特別なんだ。一方通行じゃいられない」

 俺は、一気に喋った。

本当は、何もかも言ってしまいたかった。でも、それは俺だけのことじゃなくて、レイコのことを、レイコの精神的なことや、成績や、いろんな事を言うってことだった。だから、まだ、言えない。

「レイコのことは……」

透は俺から視線を逸らさない。黙ったままだった。

「理由は、今はまだ言えない」

どうしようもなかった。

「だけど、俺の気持ちは嘘じゃない」

それしか言えなかった。

透は、何かを察したようだった。透の表情が、少しだけ緩んだ気がした。

――透、今、俺に見せてくれている真剣な瞳が、俺に希望を与えてくれる。真剣に伝えようとする言葉には、きっと真剣に応えてくれる。断られようが、何だろうが、透は真剣な瞳で、俺にちゃんと向き合ってくれている。

こうして精一杯の俺の気持ちを言葉に乗せれば、少しずつ心を開いてくれる、って。いつか俺を信じてくれるんだ、って。

そして、俺は感じていた。

康史は『守りたい』と言ったけれど、俺は違う。俺は、透を守りたいんじゃない。

――例えば、そう。透に笑顔になってほしかったり……。

俺は透に近づいていった。透は今度は逃げなかった。一メートル以内に入っていくと、透は微かにびくっとした。俺は、そのままスピードを緩めずに透の目の前に立ち、左手を握りしめた。透はびっくりして、手を引っ込めようとしたけど、俺はその手を目の前に掲げて、言った。

「今までのケーケンじゃ、

〝つきあってください!

かわいーなー。いいよ。

きゃー❤

〈おわり〉〟

ってかんじ?」

明るく! 明るく!

それから、俺は、一つ訊いてみたかった。康史は透の中で、どんな存在なのか、知りたかった。

「透は? 今まで付き合ったこと、ある?」

俺は透の手を握ったまま、その眼を見て、訊いた。

「ホントのこと、教えて」

透は俺の視線を避けるように俯いた。

「好きって、ほんとは、康史?」

「ううん。そういうんじゃ、ない」

――康史。

「康史もかわいそーなヤツだな」

「なんで?」

透はその言葉のままに、問いかけるような瞳をした。

「だって、つまり、こーゆーことしてるの、俺が最初じゃん?」

俺は、手を引っ込めようとする透の眼を見て、握った手に力を込めた。

――それから、例えば、そう。こんなふうに傍にいて手を握っていたり……。

康史、知っていたか? おまえは、透の眼を、本当に見たことがあるのか?

俺の気のせいでなければ、透の瞳は、一瞬、柔らかい光を帯びることがあるんだ。解ってほしいと訴えるような瞳をすることだってある。口では決して何も言わないけれど。

康史、おまえが透の言葉に傷つく時、その言葉を言う時の透の瞳を覗いたことがあるか?

康史、どうだ。

俺は言いたかった。おまえが逃げている間に俺が透を変えてみせる。

愛のチカラで。


透は、俺がフッと手の力を抜いた途端、走り去ってしまった。

だけど、勝手な想像かもしれないけど、何かが通じた気がしたんだ。


「マァリィちゃん!」

昼休み、食堂でパンを買って教室に戻る途中のマリコに声をかけた。

「なに?」

睨むなよ。

「あのさあ、俺のどこが好き?」

他のクラスの女子が、俺の言葉に驚き、クスクスと笑いながらすれ違っていった。

「なに? 一体」

マリコと雖も、さすがに赤面していた。

「俺、透といると、俺らしくないっていうかさ」

「ふーん」

「どうすればいいと思う?」

「トモ、そういうこと私に訊いて、酷いと思わないの?」

「ごめん」

「憎めないところも、スキだよ。あと、実は不器用なとことか、ウソつけないとことか」

「それって、ホメてんの?」

「ホメてるよ。しかも、今言ったとこ、透と似てるとこだよ」

「そうなの?」

「多分ね。あんたたち、似てるんじゃないかな」

「そうなんだ……」

「あと……

マリコは一瞬言葉を切って、周りの人波が切れたのを確認した。

「なに?」

「トモは、優しくて素直なんだ」

マリコは照れていた。なんだよ、俺こそ照れるじゃん。

「トモはなんで透が好きなの?」

「……中学のとき、塾で仲良かったヤツが透と同じ中学でさ、そいつが透のこと、スキだったんだよね」

「もしかして、噂の? 引っ越したっていう?」

「そう」

「で?」

「で?って。だから」

「それだけで?」

「最初は、まあね。透、昔いろいろあったみたいでさ、そいつ、透のこと、守りたいって言ったんだ。俺、そいつが引っ越すって言った時、代わりに俺が透を守るって言ったんだよ。だけど、最近違うような気がしてるんだ。――俺、太陽になりたいんだよね」

「太陽?」

「あるじゃん、『北風と太陽』って話。その、太陽」

「全く、譬えが幼稚だね」

「良く言えば、素直?」

「意味が違う」

「つまり、守るとか、そういうんじゃなくて、あっためるとか、そーゆーヤツ」

「事実をぼかし過ぎて要領を得ない」

「……あ、だけど、太陽って旅人を遠くからあっためるだけなんだった。じゃあ、ダメじゃん。俺、欲求不満になる」

「バカ!」

「ってノリで、話、透にはできないんだよなあ」

「――トモってホント、透が好きなんだね」

「なんでわかんの?」

「好きだから、自分を出せないんでしょ? トモもうぶだね」

「そうなんだー。俺、ほんと、スキ。あー、」

「トモ、おいで」

「?」

 マリコは俺の返事も聞かず、さっさと前を歩き始めた。

教室に戻ると、透がマリコを待って、弁当を前に、座って外を眺めていた。

「透、今日はトモも一緒だよ」

「え?」

不安げな顔。そういう顔されると、僅かな自信がさらに打ち砕かれる気がする。透といると、俺の気持ちは上がったり下がったりだ。

窓際の席、初夏の日差しを受けながら、俺達は弁当を広げた。マリコは気付かないふりをして、とにかく俺に話しかけてくれた。普段の俺とマリコの会話。そして、時々透に合槌や意見を求めた。段々に透の緊張が解けていっているのが分かった。たまにだけど、話している俺のことを見たりした。

「トモは今、好きな子、いるの?」

マリコは素知らぬ顔で訊いてきた。

「え? まあ」

緊張するだろ。

「コクハク、するの?」

「実は、もうしちゃってんだよね」

「うそ!」

マリコはマジで驚いてた。言う暇が無かったし。

「さっきね。だけどさあ、心に響かないっていうか。どう思う?」

俺は透に尋ねた。

「さあ」

透は視線を外した。

「さあ?」

マリコが透の真似をしながらにやりと笑った。

「トモ、てめえ、マリコを一人占めすんなよ!」

そう言いながら、いつもつるんでいるクラスのヤツらが割り込んできた。

――ああ、こんなに楽しいのは、久しぶりだ。

おまえらも分かってないね。俺だけが分かってるんだ。


俺は、名案を思いついた。

レイコが精神的に不安定になったのは、勉強についていけないからなんだ。それなら、勉強が分かるようになれば、それがテストの点に繋がれば、精神も安定するんじゃないか?勉強で、レイコが自信をつければいいんだ。

勉強を教えてやってくれと言われて(教えられるほど俺も分かってるわけじゃなし)、週一回イヤイヤ付き合っていたけれど、レイコはそもそもヤル気のある生徒なんだから、こんなに楽なことはない。

 手始めに、何か一つ、レイコの得意科目を作ればいい。

『生物』

 これしかない。

暗記科目なら何とかなるに違いない。レイコは血液型占いとか好きだし、地理とかよりも、レイコに合ってる気がした。

(俺って、あったまいい!)

 レイコは、根が真面目だから、俺の提案に一も二もなく賛成してくれた。

早速、俺はレイコに、毎朝の登校中に生物の問題を出し始めた。歩きながらだと血流が良くなって、記憶力が上がるような気がした。テスト中に思い出そうとする時、歩いている風景をまず思い出し、そこから連想ゲームみたいに答を思い出せるかもしれない。

 今月末の中間試験まで、あと一週間もない。だけど、範囲が狭い中間試験だ。ヤマを張って、一部でも自習したところが正解したら、きっと自信に繋がるはずだ。

 次のステップは、どこかの塾に入って英語かなんかをやればいい。英語なら、時間をかければ力がつくはずだ。

 そしたら――

 俺は、その結果を想像して、レイコの勉強に付き合うのも負担じゃなくなった。

 最初の頃は、レイコの暗記力は圧倒的に低かった。何度同じところをやっても、毎回間違えた。これでよく受験を突破したと思ったほどだった。

多分、ストレスで頭が働かなくなったんだ。中学の頃は、もっと出来てたはずだ。レイコ自身もそれを感じていて、自信を無くしかけて、「もうダメだ」と、最初から泣く始末だった。

 でも、レイコも俺も、諦めなかった。毎朝、俺は透の笑顔を思い浮かべて。レイコは――俺しか縋る相手がいなかった。俺に見放されたくない一心だと言った)。

 一週間を過ぎた頃、レイコに変化が起き始めた。一問一答に正解するようになったんだ。それに伴って、レイコの表情が明るくなっていった。

 光が見え始めた。


 テストは、ほとんどの教科において、レイコはやっぱり悲惨だったけど、生物の、一緒に勉強したところだけは、ほぼ完ぺきに正解した。

 その上、レイコは自分だけで漢字を勉強していて(レイコは昔から漢字が得意だった)、漢字も結構――俺より出来ていた。

 俺は、レイコに「すごいじゃん!」と二十回くらい褒めた。

 いろんなことが、良い方に向かっているように思えた。


昼休みは、いつも透達と一緒に過ごした。透は、俺の顔を見るたびに複雑な表情をしていたけど、嫌そうにも見えなかった。

席は、いつも窓際の透の席の近辺だった。そこは、もう日差しは暑かったけれど、気にならなかった。逆に、明るくて気分が晴れた。

透は、決して自分からは話をしなかった。いつも話を振られて、初めて喋りだす。〝もたもた〟とか〝おっとり〟って感じじゃなかったけど、早口とは程遠かった。

康史、知ってたか?

透は子供の頃、昔砂金が採れてた(!)川の近くに住んでて、砂金を取って遊んでたんだ。とはいえ、一回も砂金に巡り合えなかったらしいけど。

子供の頃、探検が好きで、基地を作って遊んでた。友達とヒーローごっこをするのが好きだった。放課後、田舎町をリレーをして遊ぶ(リレーって、放課後の遊びか?)のが好きだった。他の集落の子達と遊び場の縄張り争いをしてた。いつも野山を駆け巡ってた――って。

まるで男の子だろ? 

俺が、透に惹かれる理由は、そんな男の子みたいな子供時代を過ごしたからこそなのかもしれないって。

透は、康史が言ったような、真面目な優等生なんかじゃなかった。透が、横須賀の住宅地に引っ越してきて、馴染めなかった理由が分かった気がした。異分子だったんだ。

虐めが、透の心の自由を奪ったんだ。透は、虐められてたことを決して言わないけど、俺は、当時の透の悲しみを想うと、自分の心臓が痛くなる気がした。

そうそう。透は今でも、毎朝、走ってるんだ。夜、筋トレもしてる。均整の取れてる身体は、努力の賜物だった。理由を聞いたら、自己満足だって笑った。俺の、陸上部の練習メニューの話題に食いついてたから、「陸上部に入れば」って言ったら、寂しそうに「苦手なんだよね」と答えた。何が苦手なのかは、聞けなかった。

俺は、そんな今の透も、めちゃくちゃ好きだ。

透の何もかもが好きで、どうにかなりそうだよ、康史。


俺も、夜、走ることにした。どうせやるなら、県大会まで行ってみたい。走るのには自信があったけど、さすがに本当の短距離は無理だから、八〇〇メートルに照準を絞った。先輩に教わった、陸上に詳しい店員がいるスポーツショップに行って、普段のシューズも練習用のシューズも変えた。最初は歩くのも、歩く癖のせいで靴が当たって痛かったけど、耐えた(って程じゃないけど)。

朝も、部活に朝練は無かったけど、有志が練習をしていて、レイコが休む日はそれに加わることにした。

俺は練習に打ち込んだ。走り方を矯正されて、一時的に逆に走りにくくなったけど、それも最初だけだ、フォームが安定したらタイムが伸びる、とアドバイスされて、毎日努力した。

すごく充実していた。

高校に入って、初めて充実していると実感できた。


六月の実力テストが近づいた。試験前、放課後の部活は無くなったけど、俺は毎日、一時間だけグラウンドで自主練をした。夜、家の近所を走るのも欠かさなかった。

レイコは、塾に通い始めていた。近くの大手予備校で、英数国と化学を受けていると、お袋から聞いた。また、そんなに急に頑張って無理しなきゃいいけど、とちょっとだけ思ったけど、(プロに任せておけば安心だ)と思い直した。

普段の生活が充実していると、不思議と勉強にも打ち込めた。

ほんとは、勉強の合間に透とメールのやりとりでもしたかったけど、透はそんなタイプじゃなかった。

だから、俺は透にメールしたことが無かった。永遠に返信が来なかったりしたら、立ち直れない。

そういう訳で、勉強をしていても気も散らなかった。高校受験の勉強の時でさえ感じなかったのに、集中できたと実感できたのは初めてだった。


だけど、結局、何も変わっていなかった。

四日間の実力テストの期間中は、俺もレイコに付き合って、登校した。

初日、レイコは意気揚々としていた。

「今度は任せて!」と笑顔で言った。

「だけど、地理は自信無いんだ。塾でもやってないし。トモくん、問題出してくれる?」

以前、生物でやっていたように、地理の一問一答をした。最初の、ほんとに常識問題的な二-三問は覚えていた。でも、それ以上は全く頭に入っていなかったんだ。

レイコは青ざめていた。俺は、一瞬反応に困ったが、「大丈夫、大丈夫。今の、ちょっと難しかった。実は、俺もちゃんと覚えてないとこなんだよね」と言って、「ここは出そうな気がする」と一緒に覚えるふりをして、十問程度、答えを叩き込んだ。

 その日の帰り。レイコはちょっとだけ元気が無かったが、レイコ自身「塾でやってない教科だし」と言い訳ができたせいか、「トモくんが教えてくれたとこ、ばっちり出たね!」と喜んでいた。

 二日目の朝は、英語の単語をやった。

 驚くほど――というか、愕然とするほど、覚えていなかった。塾でどんな授業を受けているのか知らないけど、教科書レベルの単語すら、スペルが曖昧だった。関係代名詞の使い方も、きちんと分かっていなかった。俺は、最低限のアクセントとスペルだけ、レイコに覚えさせた。だけど、アクセントや単語をいくつか覚えたからって、焼け石に水だってことは、分かってる。だけど、それ以上、どうすればよかったっていうんだ?

三日目は、レイコは朝から元気が無かった。一限目は数学で、俺も教えられるほど得意って訳じゃなかったし。登校中に、なんとかなるようなもんじゃなかった。

最終日は、とうとうレイコはなかなか家から出てこなかった。無理やり親から押し出されるように玄関を出てきたレイコは、目を真っ赤に腫らしていた。

実際、今回は実力テストで、教科書の何ページから何ページまで、といった狭い範囲の対策さえすればいいようなテストじゃない。付け焼刃のような対策で結果が出るような代物じゃなかった。

登校する間、俺達は何も言葉を交わさなかった。話をしないまま、レイコの教室の前まで、レイコを送り届けた。

レイコは教室に一人で入りたくないと泣き始め、俺に抱きつき、俺はそれを離し、レイコの頭をなでて、『大丈夫だよ。俺がついてるから。だから行っておいで』と言った。

俺のイメージの中では、駄々をこねる子どもを宥めすかして教室へ送り込む、って図として、できあがっていたことだった。

儀式みたいなもんだと、半ば諦め、半ば平気な顔で、〝そんなこと〟をした。


レイコにバイバイしたあと、自分の教室に向かおうと振り返った時だった。透とマリコがこっちを見ていた。マリコの眼は怒っていた。マリコの反応で、俺は初めて気づいたんだ。

俺の、レイコへの態度は、普通じゃなかった。

更に、透に見られていた、と思うと、自分がやっていることが、明らかに透に対する裏切りだと今さらながら思われた。

透とは眼が合って、透は俺に微笑みかけた。それなのに、俺は何も言い訳のできない状況に、パニクッていた。だから、透を避けて、踵を返してしまった。

罪悪感から出た行動だった。

透はいつも朝、遅いから、今まで見られることはなかった。それをいいことに、俺は……。どんなに後悔しても、取り返しがつかなかった。

どうすればいいのか、わからなかった。いや、ああなる前に、俺がきちんとすべきだったんだ。

透は教室に入ってこなかった。マリコは、俺に嫌味一つ、言うことすらしなかった。

言い訳もできない。俺は、少しずつ、少しずつ、透の心の扉を開けている気でいた。俺は本当にとんでもないバカ野郎だ。

グズグズしてたら、テストが始まってしまう。

俺は、教室を出て、走った。

(あそこに違いない)

階段を駆け上がって、鐘楼の所を見ると、透が飛び降りて、立ち去ろうとしているところだった。俺が現れる前に、逃げようとした。

俺は透の前に回り込んで、行く手を遮った。

そして、透の腕に触れようとした時……

透は、笑顔だった。泣いているかと思ったのに、

「おはよう」

 透の声は、普段と一緒だった。俺は、透の腕に触れようとした手を、伸ばすことも引っ込めることも、どうすることもできなかった。

「お、はよう」

そのあと、言葉が続けられなかった。

「どうしたの? 試験が始まるよ。早く戻らなくちゃ」

 笑顔で、優しい口調だった。

『透に向き合えるだけの自信が無いんだ――』

康史、おまえは本当に賢いよ。俺が透を変えてみせるとか、おまえは分かってないとか、エラソーなこと、言ったけど。守るとか、そうじゃないとか、それ以前の問題だ。

「化学。好きなんだよね。父親が、昔、高校の化学の教師やってて。そのあと、一般企業に入って、今は開発やってるんだけど。技術士って、知ってる? 私、数学は苦手だけど、化学は好きなんだ。それで――」

「透!」

 透は、いつもと違って饒舌だった。そんな透は初めてだった。透は、俺との間に高く高く壁を築く。

透は俺の言葉を聞こうとしなかった。

「早く戻らなくちゃ。化学記号、まだ完璧じゃないんだ。ここで覚えようと思ってたのに、教科書忘れてきちゃった」

康史に何も聞かず、透のことを知らずにクラスメイトになっていたら。

「知ってる? 親の世代が習った周期表と、今のは違うんだって。新しく発見された元素があるんだって。凄くない?」

「透、聞いて!」

 でも、俺はやっぱり透を見つけたと思う。

 透は、俺の言葉を振り切るように、足を踏み出した。

「透、ごめん」

 俺は、頭を下げた。

「何のこと? とにかく、教室に戻ろう」

「ごめん」

 頭を下げたまま言った。

「先に戻ってるよ」

透の声は、笑っていた。

「透、待って」

でも、俺は康史、おまえとは違う。俺は、自信が無くても、目の前の透を、透が、欲しかった。どんどん大きくなっていくこの気持ちは、もうどうしようもなかった。

それを分かってほしいと思うのは、自然なことだろ? 分かって、受け容れてほしいと思うのは、当然のことだろ? 守るとか、向き合うとか、そういう難しいことじゃない。

俺の想いは本物だと、信じてほしかった。レイコのこと、あんなことをした後なのに、俺のことを、信じてほしかった。

ちょうどその時、予鈴が鳴った。俺は、速足で歩く透の隣を歩く。俺は、ひと言ひと言心を込めて、透に話しかけた。

「俺、自分でいいかげんだなんて思ってなかったし。簡単に考えてた。レイコのことも。――けど、それって、自分勝手だった。――ごめん、透。でも、ほんとに本気なんだ、透のこと。うまく言えないけど」

透は微笑んでいる。真っすぐ進行方向を向いて歩く。

「レイコのこと、きちんとさせる。透に分かってもらえるように、説明できるようにするよ」

透はひと言も喋らなかった。

裏門の手前で、透は急に立ち止まり、顔を上げて、俺をじっと見て、氷のような冷たい表情で言った。

「付き合おう」

――え?

 透は、俺の表情を見て、フッと寂しそうに笑った。

「口では何とでも言える。言っとくけど、私は、三崎くんが嘘つきだなんて思ってないし、誠意が無い人だとも思ってない」

 そこで、一旦言葉を切った。俺は、混乱した。意図が分からず、何も言葉を返せない。

「レイコさんのことも、三崎くんがすごく優しいって分かる。三崎くんは良い人だね。本当に尊敬してる」

透の眼は、真剣だった。嘘じゃない、からかいでもないことは、その眼から分かった。でも、意図が分からない。

「だから、もっと自分を大切にして。三崎くん、疲れてるんだよ。自棄にならないで。いまにきっと本当に好きな人が現れるよ」

「違う!」

 そうなのか。透は、俺を全く信じていない。この一か月、俺の気持ちを、少しずつ信じてくれてると思ってたなんて、俺はなんて甘いんだ!

透を想うのと同じくらい、腹が立った。

俺は、どんな表情をしていただろう。

「焦らないで。自棄にならないで。私じゃない」

 俺の眼を真っすぐに見る透は、きっぱりと唇を結びながら、口元は小さく震えていた。俺は、裏門を目の前にして、最後に言った。

「好きって気持ちをストレートに伝えるのがこんなに難しいなんて、考えたことなかったよ。好きだから、一緒にいたい。好きだから、付き合いたい。それだけだよ」

透は、微笑みを浮かべながら、前を向いたまま、静かにかぶりを振った。

俺達は、それから黙って歩いた。

上履きに履き替えたところで、透は言った。

「先に行くね。じゃあ」


レイコは、明らかに病気だと思われた。

受験のストレスから快復しないまま、テストどころか、日々の授業ですら、どんどん追い込まれていっっていた。

近頃、新聞やテレビに、精神的な病についての話題がいかに多いか、今更ながら気が付いた。その中で、耳にしたのは、鬱は、複数の要素が絡んで罹る病気だということだ。レイコが病気になる原因の一つは、勉強だ。勉強だけでは鬱にならないんだとしたら。

――じゃあ、別の起因は?

朝、家を出てくる時のその眼は、虚ろだった。身支度は母親が手伝っているようだった。いっそのこと、学校を休めばいいと俺は言ったけれど、レイコが休みたがらなかった。俺まで離れてしまうのが怖いんだと、レイコは言った。

――じゃあ、別の起因は、俺なのか?

俺はそんなレイコに、突き放すような台詞は到底言えなかった。

もっと早く突き放すべき時があったはずだった。例えば、小学校の時とか。中学に入る頃とか。せめて、塾に入った時とか。そうしておけば、レイコも受験で無理をせずに済んだかもしれなかった。曖昧だった自分が、今の状況を作っていた。

レイコは、留年覚悟でゆっくり休んで英気を養うか、転校するか、素人目にもどちらかしかないと、思われた。

だから、無理しなければよかったのに。

――そんなこと、言える状況じゃなかった。

俺は、透との約束を果たせずにいた。毎日レイコを迎えに行った。

昼休み、透やマリコや友達と昼飯を食っている時ですら、透への約束が守れないことへのストレスを感じずにはいられなかった。

部活で、何も考えずに走っている時が、一番ホッとできた。トラックを走っている時、周回毎に見えるあの寺に、いるはずのない透の姿を探した。仲間と一緒に帰りにどこかに寄ったり、遊んだりする気力は無かった。

疲れた。

限界だ……。


 実力テストが終わって、十日ほど経った。

部活で走っている時だった、

『透はきっと誰かを信じたいんだ』

それは、突然浮かんだ考えだった。

きっと、透は、そうは思っても、否、きっと、思えば思うほど、過去の記憶が透の心を縛って、一層硬く自分の殻を閉じてしまうのかもしれない。俺が、透を欲しいと思うその気持ちが、透の心を一層頑なにさせてしまうのかもしれない。

それか、その逆か。

『信じない』と心に決めているのに、信じたがっている自分に戸惑っているか。その矛盾に、透自身が苦しんでいるのかもしれない。

半分は、俺に都合のいい解釈のような気がした。だけど、全く違っているとも思えなかった。

『走れメロス』

そうだ。思い出した。

あれをどんなふうに解釈したヤツがいたと康史は言っていたっけ?

確か、作者は友情なんて信じていないんだ、と言っていなかったっけ? 信じていないからこそ、あんなバカバカしい友情物語を書きながら、せせら笑っていたんだ、って。

俺は、中学三年の初めの頃に、それを、相当ひねくれたヤツがいるもんだ、って思いながら聞いていた。

今になって分かる。それは、きっと透のことだったんだ。康史は最後にそれを俺に教えたかったんだ。俺に、それだけ透のことを理解できるのか、って言いたかったんだ。

――だけど、康史、おまえは気づいたか?

透は、多分、違う。

その解釈には、きっと、まだ先がある。

作者は、本当は信じたかったんだ。それは、信じたい、という気持ちの裏返しなんだ。

――透は、きっと、誰かを信じたいんだ。

独りでいいヤツなんて、いるわけないんだ。誰も信じなくていいヤツなんて、いるわけない。

 俺は、トラックから外れて、新校舎へと走っていった。部活の連中が呼んでいる声が、聞こえる。その声に、後ろ手に手を振った。

美術室は四階だった。土足のまま階段を二段飛ばしで駆け上がり、美術室の引き戸を勢いよく開け放った。

「透!」

 プラスチックの果物を取り囲んでいた皆が、一斉に俺を振り返った。

「トモ!」

 マリコが驚いた声を上げた。透は勢いよく立ち上がったせいで、椅子が「バン!」と大きな音を立ててひっくり返った。

――今度こそ、もう間違えない。

「透、話がある」

 心臓が大きく高鳴って、息が切れている。これは、吊り橋効果なんかじゃない。

――好きだ

 透は、困った顔で、おずおずと近づいてきた。俺は、透の腕を掴んで戸口から引っ張り出した。

「分かったんだ!」

俺は、透の眼の高さに自分の眼の高さを合わせた。透は眉をひそめた。

「運動すると、やっぱ、脳も血の巡りが良くなるんだね。凄いよ!」

「何のこと?」

「透、この前、『付き合おう』って言ってくれたじゃん? オッケーしてくれたってことだよね?」

「え? そんなこと、言って……」

 透は、後ろを振り返り、戸が閉まっていることを確認していた。そして、ますます困った顔をした。

「言った」

 俺は、勝ち誇った気分だった。

それに対して、透は声のトーンを下げて、小声で答えた。

「言ったけど、そういう意味じゃない。分かってるよね?」

「分かってる。分かったんだ。オッケーだよね?」

 俺は、嬉しかった。透は、言葉を失っていた。 

「いやいや。照れなくても、いいよ。分かってるって」

いつか。

いつか、きっと信じてくれる。

「だから」

「?」

「今度、海に行こう。――も、もちろん、いきなり海水浴とかじゃなくてさ」

 俺は一瞬、透の水着姿を想像しかけて、顔が熱くなった。

「はあっ?」透は、半分怒った顔をしている。

俺の一番好きな場所。誰にも教えたことのない場所だ。透だけに教えたい。透と一緒に行きたい。

「行こう、透」

 透は、少し思案を巡らせたようだったが、小さな声で答えた。

「海は、好きだよ」

透は、俺の胸元に視線を落とした。それから下を向き、俺の足元を指さした。

「あ、土足!」

 照れてるんだろ?


一学期最後の、期末試験直前の部活が休みの日。

今週は部活が無かったけど、透とマリコは部室へ行った。部活が無い日はレイコが来るとわかっているから、最近、透はホームルームが終わるとすぐに教室を出て行っていた。あんなことを言った後だから、余計に心苦しかった。

今日は、陸上部も休みだった。レイコが教室に来て、一緒に帰った。

もう、試験の話はしなかった。試験の話どころか、会話すら無かった。レイコは無口になり、いつも俯き、時々怯えた目で俺を見上げるだけだった。

「疲れただろ? 今日はゆっくり休みなよ」

そう言って、レイコを家に送り届けた。

まだ昼だった。無性に透に会いたくなった。透と一緒に学校の帰り道を歩きたかった。

俺は、目一杯のオシャレをした。派手すぎず、真面目すぎず。とっかえひっかえ服をコーディネートした。細かいところにも凝って。透がファッションに興味があるとは思えなかったけど、自然と力が入った。

久し振りに、心が浮き立った。

「俺、ちょっと学校行ってくる」

中学二年の妹が驚いて行った。 

「お兄ちゃん、私服で行くの?」

「ああ。忘れ物だから」

「ちょっとぉ、それにしてはリキ入ってんじゃない?」

「うるさいなあ。最近は遊びに行く暇が無いから、たまにはいいんだよ」

「いーなー、お兄ちゃんの学校、自由で。私も絶対あそこに入るんだ」

「まあ、無理するなよ」

可愛い妹。生意気な妹。おまえには受験にとらわれずに大らかに歩んでほしい、って、俺は親か?

心が軽かった。

オシャレに時間がかかって、学校に着いた時には、三時近かった。セーフ。

美術準備室の前で、暫く待った。

ノックしようかと迷っていたところ、ドアが開いてマリコと一緒に透が出てきた。

「どうしたの?」

「忘れ物」と言った俺の言葉に、マリコがすかさず言った。

「忘れ物は透、でしょ?」

「さすがマリコ、相変わらず鋭いね!」

「ジャマ者は退散!」

マリコは早口で言い残し、すたすたと行ってしまった。

マリコのおかげだよ。透とすれ違わずにこうして向き合えているのは。いつかそう言いたかった。

二人きりになって、言った。

「こんなふうにしか会えなくて、ごめん」

「嬉しいよ。付き合ってるみたい」

「付き合ってるし。――一緒に帰りたかったんだ」

「付き合ってないけどね。でも、それなら制服がよかったな」

「え? そうなの?」

「冗談だよ。――私服の三崎くんって、こんななんだ……」

「あのさ、〝三崎くん〟て、やめない?」

「でも」

「トモ、ってさ」

 透は困った顔をした。俺は、話題を元に戻した。

「こんなって、ヘン?」

透は俺の私服をひと通り眺めた。

「ううん。何気にオシャレだね」

『何気に』ってところが伝わって、嬉しかったなあ。

「だろ? 気合い入れてきたから。透に俺のミリョク、見せつけたかったのさ」

俺は腰に手を当てて、威張ってみせた。それを見た透は、口を開けて笑った。

ああ、透、俺は気がつかなかったよ。透が、そんな笑い方をしたところなんて見たことがなかった。

「笑ったね」

「え?」

「初めて俺の前で本当に笑った」

「そうかな?」と、透は照れた。

「教室でも、透、本当には笑わないんだよ。自分で気づいてた?」

「……よく、わかんないな……」

嬉しいよ、透。本当に嬉しい。これからは俺が透をたくさんたくさん笑わせるよ。

「透、笑うと可愛いよ。うん、もっと笑って」

俺は思いっきり変な顔をして見せた。

「笑った時だけ?」

「笑わなくても可愛いけど! でも、笑ったほうがもっとカワイイ」

「そういうこと言って、よく恥ずかしくないね」

「言わせたくせに。それに、だって、ほんとだから。どうしたらもっと笑うかなあ? くすぐってあげようか?」

「い・や・だ。くすぐられるの、だいっきらい」

「そーかなー? やってみないとわかんないよ」

俺達は声を上げて笑いながら学校の帰り道を走った。

笑うと、本当に楽しいね、透。

 

透と一緒だと、駅までの道程はあっという間だった。透は駅のロータリー発のバスに乗り、俺は電車に乗る。

「今度は私が送ってあげるよ」

「え? いいの?」

「いつもより早い時間だし。来てくれたお礼」

俺は、もう少しで涙が零れそうになった。

透は、鞄からパスケースを取り出し、路線図を見上げた。

「一駅なんだね」と淋しそうに呟いた。

「うん。すぐだよ」

「まあ、気持ちだから、いっか」

「サンキュ」

自動改札を入り、線路をくぐる階段を下りて、上がって、ホームに出た。ホームに上がると電車はすぐに来た。

俺達は黙って電車に乗り込んだ。席はたくさん空いていたけれど、透はドアの脇の手すりに摑まった。俺は同じ手すりに摑まって、透の隣に立った。二人で進行方向に向かって、窓の外を何も言わずに眺めた。電車が揺れるたび、触れそうになる透の肩、背中。そこから透の体温が伝わってくるようだった。

透は俯いて自分の胸に手を当てた。

駅が近づいてきた。右手は住宅地。左手に少し離れて私鉄の線路が並行して走っていた。遠くには海があった。

電車が駅に到着しても、下りたくなかった。このまま、ずっと――。

けれど、ドアが開いた途端、透が言った。

「私、私鉄で帰る。そしたら乗り換えナシで帰れるから。じゃあ、ここでね」

「え?」

「この町に、カノジョも住んでるんでしょ? 噂にでもなったら……」

そうなのか。

俺はこうしてまた、透を裏切る。何気無い一つひとつのことが、知らず知らずのうちに透を傷つける。

透は笑って言った。

「だから、じゃあね。今日はアリガト。バイバイ」

そして、俺の方を見ずに、駆け出していった。一人で勝手にバイバイして。

透、泣いている顔が目に見えるようだった。

俺にできることは何だ? レイコのことをいつも気にして、いつも気遣わせて、結局俺達はなんなんだ?

俺は走った。改札が開くのももどかしかった。透の姿はもう見えなかった。駅前広場を横切り、横断歩道を駆け抜け、私鉄の改札を抜けて走った。ホームに駆け上がると、特急が行ったばかりだった。

間に合わなかった!

呆然と列車を見送って、階段を下りようとしたその時、待ち合わせていた普通電車に透の姿が見えた。

神様!

車両の繋ぎ目の、一番端に腰をかけるところだった。俺は透を押すように、くっついて座った。

透がびっくりした顔をしてこっちを見た。

「今度は俺が送る番」

「なに?」

「女の子に送らせて、男が廃る」

「やだ、せっかく送ってあげたのに。私達、バカみたいじゃない」

「いいじゃん、バカで。一緒にいたいんだから」

透は、初めて泣いた。

俺の前でなら、いくらでも泣いていいよ。そして、たくさん笑ってくれ。

いつも一緒にいよう。

「手、つなご」

透の駅まで三十分。

俺達は黙ったまま、手を繋いで、眼を閉じて、頭を凭れ合った。


暗くなって家に帰ると、妹がニヤニヤしながら「おかえり」と言った。

「忘れ物、あった?」

「ああ」

「どれ?」

「友達に渡してきた」

「ふ~ん」

「んだよ?」

「ラヴ」

「何?」

「ラヴを渡してきたんでしょ?」と言ってニヤリとした。しかも、「ヴ」のところで唇を噛んでそれらしく発音しようとしてた。

「何訳分かんないこと言ってんだ? ませガキ」

「失礼ねえ。もう中二だよ。カレシぐらいいるんだから」

「ほー。そいつのシュミの悪さもハンパじゃないね」

「お兄ちゃん!」

そこへ、おふくろがエプロンのポケットに手を突っ込みながら、ブラブラやってきた。不良かよ。

「トモ、あんた、今日、私鉄に乗ったでしょ?」

俺は顔が熱くなるのを感じた。

無視。

「お母さんがスーパーで買い物してたら、友達が教えてくれたのよ。電車で女の子と、手、繋いでたんだって? しかも、泣かして」

「泣かしてたの?」

妹が大きな声で言った。

「泣かしてねえよ」

だから小さい町は嫌なんだ。

「感動させてたの」

「泣かしてたんじゃない」ませガキ。

「新しいカノジョなの?」不良母。

「うるせーな。違うよ」

「怪しーなー。でも、お兄ちゃん、最近カノジョいない歴長かったから、よかったね」

「違うって言ってんだろ」

 おふくろが、急に真面目な顔で聞いてきた。

「その子、レイコちゃんのこと、知ってんの?」

「……同じクラスだから、なんとなく知ってんじゃない?」

「お兄ちゃんたらね、レイコちゃんと抱き合ったりしてるって、友達のお姉ちゃんが言ってた」

「トモ、ほんとなの?」

「……抱き合ってなんか、ねーよ」

「あ、間違えた。レイコちゃんが抱きついてるんだった」

おめー、わざと間違えたな。

「トモ、だからその子、泣いてたの?」

「……違う」

「トモ、あんた最近疲れてるみたいだし、レイコちゃんのこと、いいよ。お母さんからレイコちゃんのお母さんに言ってあげるよ」

 俺の頭の中で、何かがパチンと弾けた。

「―――今さら、なんだよ?」

「え?」

「今さら何だ、って言ってんだよ。おふくろ、最近のレイコ、見たことあんのか? そんなこと、今さら言えるような状態じゃないんだよ!」

俺は、親に怒鳴ってしまった。自己嫌悪だ。自分の優柔不断さを棚に上げて、親に八つ当たりして。

最近、ダメだ、俺。


 レイコは、とうとう期末テストを受けることができなかった。


「何、ボーっとしてんの?」

マリコが机の前に立って、俺の目の前に手を翳して振った。

「夏休みの間、マリコに会えないのかなーと思って」

「嘘つけ」とマリコは口を尖らせた。

 透が、心配そうな口調で「レイコさん、大丈夫?」と言った。

こういう事を言う時、透ってどういう気持ちなんだろうと、不思議になる。俺への気持ちを、ちゃんと聞いたことがないから、不安になる。

「良くない、と思う。でも……」

 今までのこと、今朝のこと、言いたいことは、山ほどあった。でも、言い始めると愚痴になってしまいそうで、やめた。

「夏休み、私達に会える方法はあるよ」

 マリコが話題を変えた。

「体育祭の役割担当で、美術になればいいんだよ」

 夏休み明けに行われる体育祭で、生徒は全員、美術担当になるか、応援団に入るか、選ばなければならなかった。そして、夏休みの後半は、その準備や応援団の練習に毎日駆り出されるということだった。

 今日は、その担当決めだった。

「いやいや。ここは一つ、応援団で男らしさをアピールするだろ?」

 俺は、椅子を後ろに傾けて揺らしながら、微妙なバランス位置を探した。

「へー、いいんだ? 同じ担当になると、打ち上げまでに、かなりカップルができるって話だけど。縦割りで二・三年生の先輩とかいるし。一年生の女子が三年生の男子と付き合うって、結構あるんだってさ。いいんだ? ふーん」

 マリコは、わざと焚き付けるようなことを言ってくる。俺は話題を変えた。

「そういえばさ、思ったんだけど。うちのクラス、音楽クラスなのに、マリコは美術部っておかしくない? フツ―美術クラスに入るんじゃね?」

 俺が音楽クラスにしたのは、単に絵と書道は激苦手だったからだ。

「それは素人の考え方。絵を描くときは、集中したいんだよね。授業で、周りでチャラチャラやられると、ムカつく」

 マリコらしい理由だった。

「透は?」

「消去法。音楽しかなかった。書道は苦手だし、高校の美術の授業って、イメージできなかったから」

 それを運命だと感じたい。そんな小さなこと(小さくないか)が、今の俺を支えていた。

俺達は、レイコを気にしてる。だけど、レイコがいないのをいいことに、どうにかなりたいとは思わなかった。

だから、会わない。

 それはそれとして、実際、応援団で大きな声を張り上げたい気分だった。

それに、応援団に入るのはワリと目立つ元気で派手系なヤツで、美術は地味で大人しいヤツって聞いたから、コクハクされることは無いか? あ、でも、インテリ系で、透が惹かれたらどうしよう。

じゃあ透が応援団に入れば、とも一瞬考えたけど、ミニスカートとか穿いて、スタイルが良いからそれこそ先輩の目に留まったりしたら……

 妄想は止まらない。

「俺、毎日美術見に行ってやるよ」

「うざ」

 マリコがまるで怒っているかのように、吐き捨てるみたいに言った。


数学の難問を解いたり、英語の長文を読んでいる時のほうが、余計な事を考えずにすんで、よっぽど楽だった。

そして、救いは透の微かな笑顔だった。それは、『愛』と呼べるような、確かなものじゃないけれど。

例えば、ふとした時に眼が合うと、微笑んでくれた。音楽室や理科実験室で、席が自由な時、自然と近くにいるようになった。男子に人気があるマリコと、何人かで一緒に話すこともあった。そんな時、隣にいて、軽く触れ合ったりすると、本当に幸せだった。

俺は、少しでも時間があると、あの場所へ行った。授業がほんの数分早く終わって次の授業まで、五分でも一緒にいられるような時。そんな時、待ち合わせたように透も必ずそこに来てくれた。そこでの透は構えてなくて、俺達は自然に話ができた。いろんな事を話した。好きなこと、苦手なこと、なんということもないこと、取るに足りないことを、あれこれと話した。俺さえけじめをきちんとつければ、毎日こんなふうにできるんだろうと思うと、その日が待ち遠しかった。

俺は、癒された。

透に元気をもらって、翌朝、レイコと一緒に登校した。


俺は、決心した。

その日は、一学期の修了式の日の朝。

明日から、迎えに行かなくてもいいという思いが、気を大きくさせていた。

いつものようにレイコを迎えに行った。いつものようにレイコの母親が玄関で出迎えた。レイコの母親も、十分疲れていた。レイコはまだ、玄関に姿を現さなかった。

「トモくん、いつも悪いわね」

「あの」

「なあに?」

「レイコ、病院に行ったほうがいいと思うんです」

「そうね」

「僕、調べたんです」

「ありがとう。でも、レイコが嫌がってるのよ」

「あの、病院っていっても、カウンセリングみたいなものだって。最近そういう病気、多いし」

「分かってるわ」

レイコの母親は、微かに苛立ちを含んだ声で俺の言葉を遮った。でも、俺は続けた。

「心療内科って名前で、レイコも、気持ち的にハードルが低い感じがすると思うんです」

 レイコの母親は、最早苛立たしそうな表情を隠そうとはしなかった。

「でもね、トモくん。もう夏休みだし、一か月半、ゆっくり休めるでしょ。その間、様子を見て、それでも駄目だったら、無理矢理にでも連れて行こうと思ってるのよ」

「そうなんですか。でも……」

 いつもなら、ここで引き下がるところだ。でも、今日は違う。

「おばさんも知ってると思いますけど、今、心の病気に罹る人が多いって。社会人とか。ストレス抱えてる人が多いって。心療内科はそういう人たちのためにあって――」

「分かってるって言ってるでしょ」

おばさんは、俺を押さえつけるかのような言い方をした。だけど、今、ここで引き下がったら、この状況が永遠に続くような気がした。

「すごく流行ってるんです。初診で、二~三か月待たされるのはざらだって。テレビでも言ってて。だから、今から予約だけでもして、その時必要ないと思ったら、キャンセルすればいいんじゃないかって」

 おばさんの眉が上がり、口元が歪んだ。

「トモくん、いつもお世話になってて、こんな事言うのは悪いけど、トモくんはいいわよ。成績も良くて。何もかも恵まれてて。何も悩み事なんて無いじゃない。だから、テレビの受け売りなんかを、本当に悩んでる私達に教えてくれるのね」

 嫌味な言いように、俺は絶句した。

俺が、悩み事が無いって? 

誰のせいで苦しんでると思ってんだ! 

誰のせいで、透まで傷つけて! 

誰のせいで!

レイコの為を思ってないとでも? 

そうでなければ、今すぐにでも、ここを出たっていいんだ! 

もう二度と、この家に来なくったって!

――俺は握りこぶしに力を入れ、ゆっくりと息を吐いた。

「すみません。僕は、本当にレイコのことを心配してるんです。でも、僕が口を出すべきことじゃありませんでした」

 おばさんは、口元を抑え、小さく震えた。泣いているのだった。大人が泣くなんて、よほどのことだろう、とは思ったけど。

俺は、何か、謝ってくれるのかと待ったが、何も言葉は無かった。

「すみません、本当に」

 俺は仕方なく言い、おばさんは、更に肩を震わせた。


夏休みが始まるってのに、憂鬱だった。


その日、結局レイコは休んだ。通知表を見てショックを受けるレイコを、どうフォローしたらいいか分からなかった俺は、罪悪感を覚えながらも少しホッとした。

 

 夏休みは、部活と宿題と、後半はそれに加えて体育祭の応援団の練習に明け暮れた。

 透とは、一度も個人的に連絡を取り合わなかった。電話も、メールも。

 その代わりに、俺は毎日透にメールを打った。打って、保存した。一度も送信しなかった。

 最初の頃は、他人行儀っていうか、当たり障りのない内容だったけど、どうせ送信しないんだと思うと、段々と本音を打つようになった。

 透を知ったきっかけとか、好きになった理由とか、会って最初は好きじゃないと思い込もうとしたとか、透と出会ってからの毎日を、トレースするように、毎日打った。

本当は、毎日会いたいことも、レイコの詳しい話も、どんなに好きかってことも。打って、物足りない時は、日に二度三度と打った。

 どんどん未送信メールが溜まっていった。

 現実世界では、マリコがたまに俺に連絡をくれて、明日は何時から何時までどこでやってるとか、お互いの部活は何時かとか、教え合った。

 だから、週に三回ぐらい、俺は透の顔を見に行き、透もマリコに連れられて、週二回ぐらい応援団の練習を見物しに来た。マリコが姿を現すと、先輩達のテンションが上がる。さすが、マリコ。クラスの半数が応援団だったから、別に不自然でもなんでもなかった。

 透とは、たまに話をした。

 透は俺に、「焼けたね」と言って笑った。

 陸上の大会があることを伝えたこともあったけど、応援に来るとも来ないとも言わなかった。透の様子からすると、結構厳しそうな家庭だった。四歳上の、相当デキるらしい兄貴がいて、彼は遊びとかとは無縁そうだった。カノジョの話も聞いたことがないって言ってた。

 期待はしなかったけど、レースを終える度に、スタンドに透の姿を探した。


 レイコとは、一度も会わなかった。あんなことがあって、もちろんレイコのことは心配だったけど、俺なりに気分を害したし、おばさんも、俺に会いたくないだろうと思ったんだ。

 レイコの家は、俺ん家より奥にあったから、家の前を通ることも無かった。気になりつつも、一度も訪ねなかった。

 お袋にも尋ねなかった。おばさんとお袋は、わりと仲が良かったけど、俺がおばさんとあんな風に言い合って、ギクシャクさせたかも、と思うと、何となく訊けなかった。

 もしかしたら、レイコは本当に具合が良くなってるかもしれないし。


 そんな風にして、夏休みが過ぎて行った。


 明日から二学期が始まるという日の夜。

 二階の自分の部屋にいた時、来客があった。何となく耳を澄ませるでもなく澄ませていると、「トモくん」という単語が聞こえた。

レイコのおばさん?

 俺は、階段を下りて、玄関を覗いた。

「トモくん!」

 おばさんは、俺を見上げると、悲痛な声を上げた。ハンカチで口元を押さえ、泣いていた。

 話を聞かなくても、レイコの状況は想像できた、が、

――何のために来た?

 本来なら、レイコの心配をすべき場面なのに、俺は自分の心配をしていた。お袋に目をやると、眉をひそめて、俺に「出てくるな」と言っているようだった。

 おばさんは、俺を見上げながら訴えた。

「あれから、トモくんの言う通り、クリニックに電話してみたの。トモくんの言った通りだったわ。その時は、十月にならないと予約を入れられないって。トモくんの言った通り。だけど、私もその頃ならレイコも治ってるだろうって高を括ってたの」

おばさんは、「トモくんの言った通り」を何度も繰り返した。

「今、レイコは、朝は全然起きられなくて、部屋もカーテンを閉め切ったままで」

そこで、おばさんは言葉を区切った。

「ちょっとしたことで切れたり落ち込んだり、布団に潜り込んで泣き叫んだり」

 おばさんは、右手で目元を押さえた。その押さえた手の甲を見て、俺はぎょっとした。くっきりと何本もの長い傷があった。多分、ひっかき傷だ。改めておばさんの顔を見ると、化粧で目立たなくはなっているけど、痣や傷がいくつもあった。

「死ぬなんて言って……、刃物はみんな隠したわ。だから、料理だって、ここのところずっと作ってないし、全然寝られないの。さっきも言い合いになって……。――こんな恥ずかしいこと、誰にも言えないわ。トモくんだから言うのよ。だから、誰にも言わないでね」

俺は、答えられなかった。

レイコ……多分、隣近所には、レイコの叫び声が聞こえているんだろう。ケンカの声だって、周りに聞こえていない訳が無い。隣や裏の家の怒鳴り声やドアをバタンと占める音は、ウチにだって聞こえる。噂になっていない訳がない。

「クリニックに何度も電話したの。もう耐えられない、助けてほしいって。そしたら、明日、急にキャンセルが入ったって」

「まぁ! 良かったわねぇ」

 お袋が、すかさずお気楽そうな明るい声を出した。お袋だって分かっているんだ。おばさんに会話の主導権を握られると、行きつくところは、いつも同じところだって。お袋なりに抵抗しようとしているんだ。

だけど、俺は、無駄な抵抗だと感じていた。

「良かないわ。さっきの言い合いもそう。もう、私じゃダメなの……。もう私じゃ手に負えないの……」

 俺はもう、次の言葉を正確に予想できた。

「トモくんとなら、医者に行ってもいいって」

予想を裏切らない台詞だった。

「トモくんじゃなきゃダメなの」

「ちょっと待って!」

 お袋が、焦って割って入った。

「でも、明日から学校なのよ。今日なら良かったんだけど」

俺は、お袋がはっきりと断るのを、初めて見た。だけど、おばさんは全く意に介さなかった。

「レイコに会ってくれれば分かるわ。そんなこと言ってられないって。明日は始業式があるだけでしょ? それ以上、迷惑はかけないわ。最初の一回だけ。ね? トモくん、お願い」

お袋は、俺に首を横に振って見せた。断れ、ということだ。

明日だけで済まないことは、お袋にも俺にも分かっていた。今までもずっとそうだった。遠慮というものが無い。今までは、渋々でも応えていた。だけど今回は、ああそうですか、といって受けられるような話じゃない。

だけど

俺に拒否できるか? おばさんはともかく、レイコだ。レイコが、俺に助けを求めてる。――本当は、断りたい。レイコといると、気持ちが引きずられそうになる。一学期から夏休みまでがそうだった。最近、ようやく気持ちが元に戻ってきたところなんだ。俺は、自分が引きずられずに踏ん張れる自信がなかった。

――でも、レイコが、俺となら医者に行くって言ってる。つまり、俺にしか、助けを求められない。俺にしか助けられない。医者に行くってことは、治っていくってことだ。最初は引きずられそうになるかもしれない。でも、じきに……。

――それに、こうなった責任は、俺に全く無いとは言えない。

 レイコが元気になれば、何もかも解決する。そのためには、医者に行かないことには、話が始まらない。俺が付き添わなきゃレイコが医者に行かないって言うなら……。

散々迷った挙句、

「分かりました」

「トモ!」

 母親が、怒ったように小さく声を上げた。

「僕の立場じゃ、診察室には入れないと思いますけど、それでもいいですか?」

「ありがとう、トモくん。レイコ、きっと良くなるわ。やっぱりトモくんじゃなきゃダメね」

 おばさんはさっきまでの様子とは打って変わったように、笑顔で帰っていった。


「あんた、人が良すぎるわ。レイコちゃん、あんたがいなきゃダメだって、そんな訳ない。どうするの? 一生、レイコちゃんの面倒を見るわけじゃないでしょ? 治るのに何年かかると思ってるの? 今からでも、断りなさい。なんなら、明日の朝、風邪ひいたって、電話してあげる」

お袋は、半分怒って、半分泣きそうな声で言った。

でも、仕方がないんだ。俺は、レイコが元気になるのに賭ける。でなきゃ、誰も幸せにはなれないんだ。

俺はお袋を見ずに一言「いい」と言って、自分の部屋に戻った。


今日はレイコの初診の日だった。マリコにも透にも、学校を休むって伝えてなかった。今日が終わったら、今までの事、透に全部ちゃんと説明しよう――そう思っていた。

レイコとおばさんが診察室に入って、三十分は有に経っていた。

診察室はいくつもあるのに、待合室は順番を待つ人たちでいっぱいだった。どこが悪いんだろうと思う人もいたけど、ずっと俯いたまま呟いている人や、奇声を発している人、虚ろな目をした人、サラリーマンだけではなく、子どもや、主婦と思える人たちもいた。俺は、世の中、一体どうなってるんだ、と思った。

 レイコもその一人だった。朝、迎えに行った時のレイコは、虚ろな目をして、まるで精気が無かった。肌が荒れて、むくんでいた。俺にしがみつく感情もなかった。

「おはよう」と言っても、応えなかった。俺は待合室のベンチに座りながら、このクリニックに来るまでのレイコの様子を、何度も反芻した。とても元のレイコに戻るとは思えなかった。

気持ちがどんどん塞いでいった。

暫くして、レイコとおばさんが診察室から出てきた。レイコは泣いていた。俺は立ち上がって二人を迎えた。

「大きな病院を紹介してもらったの。入院するかもしれないわ」

おばさんが言った。

「私もそのほうがレイコにはいいと思うの」

「嫌。絶対に嫌!」

「でもね、レイコ、先生が仰ったでしょ? その方が早く治るのよ」

「嫌。学校が遅れちゃう。皆にバカにされる! 私、病気なんかじゃないのに!」

「レイコ、あなたは病気なの! 早く治して! 今のままじゃ、進級だってできないのよ」

「イヤイヤイヤイヤイヤイヤ!」

 レイコの様子は、まるで訳の分からない子供だった。人目を憚らずにキレて暴れる子供……。それに、おばさんの言い方も、酷かった。

「トモくん……」

おばさんが、俺に縋るような眼をした。

レイコも、俺の後ろに回ってしがみついてきた。

「トモくんが毎日お見舞いに来てくれるのなら、入院してもいい」

「え?」

「トモくんがいなきゃ、生きていけない」

「レイコ、やめなさい。これ以上トモくんを頼っちゃだめよ。トモくんに迷惑がかかってるって、分からないの?」

「だって、結婚するんだから! 結婚するんだから!」

レイコは取り乱して、泣き叫んだ。クリニック中に響き渡るほどの大声で悲鳴を上げた。

俺は、奈落の底へ突き落とされていっているようだった。

いや、これは病気だからだ。この病気は治る。病気が治って、冷静に戻って、ちゃんと話せばいいんだ。

でも、それには何年かかる?

二年か? 三年か? 五年か?

……

目の前が真っ暗だった。

透の顔が浮かんだ。泣き顔が浮かんだ。


「――わかった。入院したら、毎日見舞いに行くよ。だから、大きな病院で診てもらいなよ」

「トモくん、……ごめんね」

おばさんが消え入りそうな声で言った。

レイコが苦しんでるのは分かってる。同情するし、本当に治ってほしいと思ってる。だけど、嵌められた感は、どうしても拭えなかった。

こうなることは、半ば予想がついていた……。

俺は、まるで蟻地獄か底なし沼に嵌ったような絶望感を覚えた。


家に帰って、何も手につかなかった。何か考えようとすると、いいことなんか、一つも浮かばないような気がしたから、何も考えなかった。ベッドの上に寝転んで、ずっと天井を見た。眼を閉じると、透の顔が浮かんできそうで、怖かった。

家の電話が一階の廊下で鳴っている。

「お兄ちゃん出て!」

妹が風呂から叫んだ。

「もしもし?」

「もしもし。あの、透です」

透だった。

どうして電話番号が分かったんだろう。どうして携帯に電話してこないんだろう。

ああ、そうか、クラス名簿か。携帯に電話しないのは、透なりのけじめのつけ方だ。考えるともなく、ぼんやりと考えていた。

「トモ?」

「あ、うん」

「ごめんね、電話して」

「いや」

「今日、休んだから心配になって。大丈夫?」

「うん」

「明日は来られる?」

「うん」

「そう。なら、いいんだ。じゃあ」

「あ、ちょっと待って」

「え?」

「いや、なんでもない」

俺は、何か透に言いたかった。でも、何も言うことはなかった。まだ何も考えられなかった。もっと声を聞いていたかったけれど、話すことはなかった。

「そう、じゃあね」

「うん、じゃあ」

透から電話を切った。


俺は、一晩中寝ないで考えた。一番いい方法を。透を傷つけるのが、一回で済む方法を。長い間、何度も泣かさずに済む方法を。

一つしか思いつかなかった。


「今日、部活休める?」

朝、透に話しかけた。透は迷いもせず「うん」と答えた。

「一緒に帰ろう」

「カノジョは?」

「休み」

「そう。いいよ」

こうやって、気兼ねせずに済む方法を。

帰り、これからの透のために、教室は先に出た。噂で透を苦しめないために。

昇降口で透を待った。

「帰ろうか」

初めてだった。こんなふうに、普通に一緒に帰るのは。

「俺んち、来る? 見てほしいものがあるんだ」

この前、ここを二人で通った時は、本当に楽しかったね。あの時は、これから何度もそんなふうに語り合えると思ったのに。何度も何度もあんなふうに笑い合えると思っていたのに。

俺は、自分の決心が鈍りそうで、何も話しかけられなかった。

一緒に電車を降り、一緒に改札を出た。一緒に歩く。恋人を自分の部屋へ招待する。

ああ、透は恋人じゃない。ただの、クラスメイト。

そんなことを考えながら歩いた。わざと遠回りをして、レイコの家の前を通った。

「ここがレイコんち」

ひっそりとしていた。レイコは、もう、雨戸を閉め、カーテンを閉め切った部屋にしかいられなかった。

「ただいま」と言って玄関を開けると、お袋が出てきた。

「まあ」

「はじめまして、クラスメイトで……」

透は、律儀に挨拶なんかしようとしていた。

挨拶なんか、いいんだ。もう、二度と会わないんだから。――そう言いたかった。

「三十分くらい、来ないで」

俺は、透を二階の自分の部屋へ誘った。

俺は鞄を置き、小さい頃の、古いアルバムを取り出して、机の上に広げた。透に座るようには勧めなかった。すぐに帰るかもしれないから。

「見て」

俺は自分の幼稚園の頃の写真を指差した。

「かわいいね」

「だろ?」

微笑もうとしたけれど、うまくできなかった。そして次を指差した。女の子とツーショットの写真。

「これ。レイコだよ」

「かわいいね」

透はさっきと同じトーンで言った。

そうだ、透。そんなふうに、心の中に氷を張り巡らせておいてくれ。最初に出会った頃のように。傷つかないように、心を閉ざしておいてくれ。

「この頃、よくあるじゃん。大きくなったらトモくんのおよめさんになる!ってヤツ」

「ああ、あるね」

「レイコはさあ、未だにそんなこと、言ってる」

俺はレイコとのツーショットがあるページを選んでは、透に見せた。

「俺はさあ、そんなの、忘れててさ。普通、そうじゃん? 軽く考えてたんだ、レイコの気持ち。それが、高校受験の頃、レイコの成績からして、今の高校に入れないって、先生に言われて……」

「ああ」と、透は思い出すような遠い目をした。

「知ってんの?」

「マリコがちょっと言ってた」

マリコ、最後まで恩に着るよ。

「塾の他に、俺も勉強教えたりして。――レイコ、かなり無理したんだ。いわゆる受験鬱。でもまあ、入れてよかったね、なんて言ってて。でも、この高校、入ってからいきなり、毎月テストテストだろ。精神的にもまだ受験の影響が残ってたのに、勉強が追いつかなくて、取る点取る点、悲惨で。根が真面目だから、参っちゃって。

高校入って、最初の定期テストのあと、レイコのお母さんに頼まれたんだ。登下校、一緒にしてくれって。勉強も、また、見てやってくれないかって。まあ、俺もちょっと責任感じてたし、軽い気持ちで引き受けて。

――透も気がついただろ? レイコ、病気なんだ。

一緒にいると、よくわかるんだ。レイコには、今、――俺しかないんだって……」

俺はアルバムから目を逸らさずに喋った。透の顔を、見られなかった。アルバムを開いた手が、手が震えそうで、拳を握った。

これが、けじめだ。

俺は、透を切ろうとしている。

「昨日はレイコの医者に行ったんだ。それまでは医者には行きたくないって言ってたんだけど。俺が一緒なら行くって。

――治るまでに何年もかかるんだ。

――レイコ、入院することになると思う。そしたら、俺、毎日見舞いに行くって約束した。だから……」

 俺は、顔を上げて、透を真っすぐに見た。

その先だ。

次のひと言を。

早く言うんだ。

そう頭では思っても、言葉が出なかった。

 透は、俺をじっと見返した。何も言わずに、俺達はまるで睨み合っているかのようだった。俺は、思わず視線を逸らした。

「分かった」

透は静かに部屋を出て行った。階段をゆっくりと下りて、玄関を開ける音がした。せめて耳でだけでも透を追いたかった。靴音が最初はゆっくりと、やがて走って遠ざかっていった。

お袋が入ってきた。

「あの子が、そうなんでしょ?」

「……」

「泣いてたわ」

透、泣いていたのか。俺には涙を見せなかった。

泣きながら走って駅に行くんだ。今度は特急で。早くこの街から離れたくて。

俺から、離れたくて。


「好きな子、泣かして。自分が犠牲になって。バカよ」

お袋も泣いているのが分かった。

でも俺は。

「じゃあ、どうしろっていうんだ! おまえらが、おまえらが、俺にレイコを押しつけたんだろ! 出てけ! 早く出てけ!」

俺は、サイテーだ。

お袋にも、レイコにも、透にも。


康史、ごめん。


レイコは入院した。

俺は、約束通り、毎日レイコの見舞いに行った。体育祭が近づいて、準備や応援団の練習で遅くなることも多かった。それなのに、レイコは俺が遅く行くと疑い、疲れて早く帰ろうとすると、駄々をこねた。とはいえ、俺も、自分の部屋にいると、透の泣き顔が浮かんで、家にいたくなかった。

部活でも、あの寺が視界に入らないように、下を向いて走った。以前はトラックを走るのが、苦しくても楽しかったのに、今は苦痛でしかなかった。

体育祭を目の前にして、みんな浮かれ気分だった。俺だけが、多分透も(と身勝手な願いだったけど)そんな気分になれなかった。

勉強しているのが、一番楽だった。だから、病院の面会室を、俺は図書室代わりにして勉強した。国語以外。現代文も、古文も、漢文も、心を揺さぶられそうな文章には、触れたくなかった。

ひたすら勉強した。皆みたいに予備校へ行ってなかったから、ちょうどよかった。レイコとの会話も億劫だった。レイコは、俺の感情には気付きもしなかった。レイコは自分しか見えていない。自分の苦しさだけで精一杯だったんだろう。

一度、俺が「治ったらカレシができるよ」みたいに、口を滑らせた時、「トモくんはそんなふうにレイコのことを思ってたんだ!」と泣き叫ばれた。

以来、俺は、レイコとの会話に細心の注意を払うようになった。それまでは、分かっていたつもりでも配慮が足りなかった。

せめて、勉強をする間だけは、一人にさせてほしい、と病室を出て面会室に行った。時々、レイコが俺がいるかどうか、確かめに来た。

疲れた。疲れたよ、透。

そんな時、俺は、ケータイを取り出した。そして送信しないメールを打った。透に。

「ごめん」と謝った。「会いたい」と繰り返して。「好きだ」と繰り返して。「本当は、体育祭の後夜祭で一緒に過ごしたいと思ってた」と。挙句の果ては、「待ってほしい」と。

――どうせ透は読まないんだし――勝手なことを打った。

 もう、妄想の世界だった。メールを打っている時だけは、幸せだった。それだけが、救いだった。


 学校での透は、今までと何も変わらなかった。薄々事の次第に勘付いているらしきマリコが、一度、俺にカマをかけてきたけど、上手く言えなかった。

――上手く言う?

 俺は、この期に及んで、取り繕おうとしているのか? 透はマリコに何も言わないのかと、不思議だった。俺に対する文句の一つぐらい言ってくれたほうが、気が楽なのに。

 だから、俺達は相変わらず、たまに一緒に昼飯を食ったりバカ話をしたりした。俺の前で笑う透。俺に話しかける透。

 でも、気付いてた。俺の方を見る透の眼は、透明な俺を通り越して壁を、外を見ていた。最初の頃のように。

 最初の頃のように、透が俺を見ていない時、俺はいつも透を目で追っていた。

時々、視界の中に、俺を見ているマリコがいた。最初の頃と、まるで同じだったのに、何もかもが違ってた。


 現実の体育祭は、俺のすぐ横を通り過ぎて行ったようなものだった。今の俺には、感動も感激も喜びも何もない。密かに楽しみにしていた後夜祭にも出ず、レイコの見舞いに行った。

 後夜祭の後のバカ話の中で、マリコが三人にコクハクされたことと、透のことを好きな、大人しい三年がいるらしいという話を聞いた。透は、現象は顕在化しなければ実在しないのと一緒だなんて、小難しいことを言っていた。

「好き」って言われてないから、「好きじゃない」のと同じだ、ってことだ。俺は好きって言ったのに、最初は信じてもらえなかったんだぞ、と思ったけど、尚更悲しくなった。そして、氷のように冷たくあろうとする透に、泣きたくなった。


レイコが入院して三週間ほどが過ぎた。

レイコも病院生活に慣れて、つまり俺のいる生活に慣れていたのかもしれなかった。


日曜日。今日は俺の誕生日だった。

朝、いつものように病室に顔を出した。

レイコは、今日が俺の誕生日だ、って覚えていないようだった。俺はそれで安心してしまったんだ。そのあと、いつものように面会室で勉強をした。今日は、なぜか透の顔が浮かんでしかたがなかった。 

 透は俺の誕生日を知っているだろうか? 誕生日ぐらい顔を見たい。そうだ、海へ行く約束を果たしていなかった。

――そんなことが浮かんできて、勉強が手につかなくなってきた。

俺は、今日だけ、今日だけだと自分に言い訳して、わざと荷物を残して病院を出た。もちろん、また戻ってくるつもりだった。電車に乗って、透が模試を受けに行くと言っていた予備校のある駅へ向かった。ちょうど、試験が終わったのか、高校生達が駅に向かって歩いてきていた。知り合いも何人かいた。そして、ひと通りみんな帰ったあと、一人で歩いてくる透が見えた。

透は俺を認めると、軽く会釈をして通り過ぎようとした。まるで、入学したての頃みたいに。「おす」と俺が言うと、一瞬歩みが遅くなったが、結局立ち止まらずに俺の眼を見ずに「こんにちは」と言って通り過ぎようとした。

俺は透の隣を歩き出した。透が立ち止まったのを、手招きして誘った。駅で切符を二枚買い、一枚を透に手渡した。

俺はいつもメールで透に話しかけていたから、違和感をあまり感じなかったのかもしれない。

透は何も訊かずについて来た。俺はそれだけで嬉しかった。

着いたその駅は、半島の先端にあった。中学時代、暇さえあればチャリでよく半島中を巡っていた時に、偶然見つけた場所だった。俺は、そこと、そこへ行く道が気に入って、いつか大切な人と来たいと、心に決めていた。

「一番好きな場所なんだ」

一つ手前の駅までは半島のあちらこちらの海水浴場に行く客も多く降りるけれど、ここまで来ると、整備された手頃な砂浜が無いせいか、海水浴シーズンでさえ、古い水族館にでも行こうかという家族連れの客がまばらに降り立つだけの静かな駅だった。

俺達は駅前のロータリーを回り込んで県道を渡り、右に二百メートル程下った所ですぐまた左に折れた。短い坂道を上がると、急に視界が開ける。見渡す限りに広がる西瓜畑。目の前を真っ直ぐに伸びる道路。片側一車線の道路の右側に、等間隔に並ぶ電信柱。それらが正面で集まって一つの点になって、その向こうには海が見えた。暮れ行く空と海と、中央に薄っすらと見える富士の山。

「真夏はもっと奇麗だよ。真っ青な空と海と、真っ白な入道雲」

その言葉に、透はやっと微かに微笑んだ。俺達は黙って歩いた。透はもう、俺の隣を歩かなかった。少し下がって、その顔が見えないくらい、決して手の届かないところを歩いた。俺は、透がそれ以上俺から離れないように、ゆっくりと歩いた。

遮るものが何もない小高い丘に、秋の風が強く吹き抜ける。透は襟元を合わせ、寒さをしのいでいるようだった。本当は、肩を抱いて、透を風から守ることができたら……。

今までずっと来たかった場所なのに、願い通り大切な人と来れたのに、悲しかった。

道路は急に左へと折れるけれど、俺達は空き地をそのまま真っすぐに突っ切って歩いた。背の高い草の生い茂った中に、踏み固められてできた人一人がやっと通れるだけの坂道があった。そこを這うようにして降りた所が、お気に入りの場所だった。静かな小さな砂浜。 

朽ち果てたクラブハウスと、古い格納庫。砂浜の両側は岩場だった。

俺達は、右手の岩場に少し離れて座った。

「海だね?」

透は約束を覚えていてくれた。

「やっと、約束、果たせた」

そして、訊いた。

「知ってた? 今日、俺の誕生日」

透は当然のように「ううん」と答えた。

模試のことを、聞く気もなく、訊いた。

「全然ダメ。特に数学。勉強の基礎ができてない、って感じがした。惨敗」と、透は笑った。

全然できてないと言いながら笑うんだ、と変に感心した。レイコもそうだったら良かったのに、なんてボンヤリと考えながら。同時に、ここでレイコのことを思い出した自分が、哀しかった。

「じゃあ、塾、行くの?」

「どうかな」

行くとも行かないとも言わず、透はそれっきり黙った。それから、俯いて、足元の岩の割れ目に寄せては返す波を見ていた。

「海が好きなんだ」

透もそうだろ? ――言いたかった。けど、否定されるような気がした。


「透、俺、最初から透のこと、好きって言ったじゃん?」

「うん」

「信じた?」

「どうかな」

透と出会って、俺は、俺にできることは、何だっただろう、と考えた。

俺には透を傷つけることしかできなかったんだろうか、と。

俺は、信じてほしかった。透の心の中に張った氷は、俺には溶かすことができなかったけれど、誰かがきっと溶かしてくれるんだと。人を信じていいんだ、と。

そう、例えば、康史。

「康史が。――高橋康史と」

俺は、正々堂々と。

「塾が一緒で、仲良かったんだ。で、康史が透のこと、話してくれたんだ」

「うん」

「だから、康史と付き合ってるって噂、嘘だって知ってたけど、透の口から本当のことを聞きたかったんだ」

「そう」

透は、俺の言葉を聞き流していた。いや、まるで俺の言葉を捨てているように思えた。

『言葉でしかない』、そう言ってた。

でも、俺は、今、この言葉に全てを賭けているんだよ、透。

「透、ちゃんと聞いて。俺……」

正々堂々と。俺は透に康史のことを、気付かせようとしている。

透は、俺を見て、表情を変え、「わかった」と言った。

「――康史は自分でも気がついてなかったけど、透のこと、好きだったんだ」

透は驚いていた。やっぱり気が付いていなかったんだ。俺は、康史が戻ってきた時のことを思い、胸が張り裂けそうになった。

「だから、康史が透のことを話してくれた時、俺は康史の気持ちのまま、透を好きになったよ。早く高校に入って、透に会いたかった。知り合う前から、透を好きだったよ」

 透は何を思っているのだろう。じっと動かないままだった。

それから、全ての始まりの、虐めのこと。

「――小学校のとき、イジメ、受けたんだって?」

「そう」

「辛かった?」

「そうだね」

「なんで、耐えられたの?」

「それは……自分を信じてたからだよ。自分の世界があって、自分が正しいって信じてたから」

「そうなんだ」

「だから、眼を閉じて、耳を塞いで、心に鍵をかけた。他人を憎むことで、均衡を保った。他人は、誰も、信じない、そう思えば、耐えられたよ。――信じるから、傷つくんだ」

――それは、俺への言葉だ。

俺は言った。

「康史は、後悔したって言ってた。そんな透を見て、傍観してた自分を恥じてたよ。これからは何があっても、自分が透を守るんだって」

「どうやって?」

透は皮肉のように笑った。

「そうだね。でも、康史は、引っ越す前に、必ず戻るって言っていった。だけど、それを聞いた時、俺が透を守るって康史に言った」

「大袈裟だね」

透はまた笑った。

わかっていた。透はそうやって傷つくまいと、自分を守ってきたんだ。

「私は誰にも守ってもらわなくったって、大丈夫だよ」

「透……」

「独りで大丈夫。誰も、要らない」

きっと、透はそうやっていつもいつも自分に言い聞かせてきたんだ。

「透、康史は戻ってくるよ。絶対に。康史は信じていいんだ」

以前なら口が裂けても言いたくなかったのに。

「いいよ、もう」

透は言った。

そうじゃない。俺が本当に言いたかったのは、そんなことじゃなかった。

そんな、康史のことなんかじゃない。

……

「こんな俺が、言う資格無いけど、俺も、必ず透のところに戻る」

そうだ。透を諦められるわけがない。

こんなに好きなのに!

「いいってば!」

透は半分泣いていた。

「透……」

「聞きたくない!」

どうしようもなかった。

透を思い切り抱きしめて、強引にキスをした。

渡さない! 渡せるわけない!

こんなに好きなのに!

「好きだよ、透。どうしようもないくらい。どうしていいかわからないくらい」

それだけだよ、透。

守るとか、そういうんじゃないんだ。

こんなふうに、近くにいたいだけなんだ。その気持ちだけ、信じてほしい。

――透

俺達は、もう一度本当のキスをした。


真っ暗になってから、駅へと戻った。薄暗い街灯の下、手を繋いで。誰も通らない道で、時に頬に触れ、時に寒さに震える肩を抱き、今までの分を取り戻すかのように、時々立ち止まっては抱き合った。

駅のホームでベンチに座り、俺は透の髪に触れては囁いた。何度言葉にしても気持ちを表すのには足りなかった。

何本も何本も電車を過ごした。

でも。

「女の子が、これ以上、遅くなったらダメだ」

九時をまわったのに気がついて、俺は言った。

透は俺を見上げて、寂しそうに頷いた。

透の駅まで送り、改札で透を見送る時、繋いだ手を離すのが、こんなに辛いとは思わなかった。


帰りの電車の中で、俺は透にメールを打った。何度も何度も打ち直して、やっとこれだけ。

✉透、これからはずっと一緒にいよう

そして電車を降りる間際に、初めて送信マークを押した。


家に帰ると、お袋が待ち構えていた。

「どこに行ってたの?」

問い詰める響きは無かった。答えなかった。

リビングのテーブルに俺の荷物があった。

「病院に行ったの?」

「そう。あんたが忘れてるからって。ちゃんと携帯出てよ」

「何か、あったの?」

そう言いながらリュックの中を見ると、小さなプレゼントの箱があった。

「レイコ、俺の誕生日だって知ってたの?」

お袋の顔色が変わった。

「だって、これ……」

俺は嫌な予感がした。そうだ、レイコが忘れるわけがない。今日こそ一緒にいなきゃいけなかったんだ。それを、俺は、自分のことしか頭になくて……。

「何か、あった?」

もう一度、訊いた。

「……」

電話が鳴った。

お袋が出るより早く、受話器を取った。

「もしもし?」

「もしもし、トモくん? 帰ったのね? ――どうしてレイコを放っておいたの! レイコが、レイコが……」

レイコのおばさんの、取り乱した姿を彷彿とさせる声だった。

「レイコがどうかしたんですか?」

「レイコが暴れて……」

「すぐ、行きます!」

受話器を乱暴に置いて、出て行こうとする俺に、妹が縋った。

「お兄ちゃん、行かないで!」

「なんで、言ってくれなかったんだ!」

俺はお袋を責めた。

「だって、あんたはもう十分やったから。もうこれ以上は、レイコちゃんの為にもならないわ。行くことないの!」

ああ、レイコは俺をびっくりさせようとしていたんだ。俺はなんて浅はかなんだ!

「トモ! 行っちゃだめ!」

俺が悪かったんだ。中途半端に、レイコまで傷つけて。

やる事成す事、全部裏目に出る。いつもいつも後悔してばかりだ。


俺は走った。


病室に走り込むと、デコレーションケーキが無残な状態で床に落ちていた。レイコはベッドの上でナイフを握って泣き喚いていた。病院のスタッフが遠巻きに回りを取り囲んでいた。レイコは俺を見つけると、

「トモくん、やっと来た! 早く来て! 助けて!」と叫んだ。

スタッフが、小さな声で、「行っちゃダメだ」と言った。

でも。

俺は微笑みながら、レイコのもとへ、歩いて行った。

「レイコ、ごめん、遅くなって。一緒に誕生日、祝ってくれるの?」

「そうだよ。ずっと待ってた。なのに、トモくん、いなくなっちゃった」

レイコは泣きながら喋った。

「ケーキだってあるのに!」

レイコはケーキが床に落ちて潰れているのを見て、絶叫した。

「ケーキが! ケーキが!」

俺は、レイコの視線を、ケーキから俺に戻そうとした。

「大丈夫だよ」

 俺は、とにかくレイコを落ち着かせたかった。ゆっくりとベッドの足元に行った。

「レイコ、落ち着いて」

レイコは、怯えた目で視線を動かしていた。

「怖いの?」

俺の言葉に、レイコは何度も細かく頷いた。

「じゃあ……、あ、そうだ、カーテンを閉めようか?」

 レイコは再び細かく頷いた。俺は、静かにカーテンを閉めようとした。スタッフが、閉めようとしたカーテンを押さえて、首を横に振った。俺は、「大丈夫です」と小声で囁いた。

俺は静かにベッドの周りのカーテンを閉めた。

「カーテンを閉めたよ。もう大丈夫。誰も見えなくなった」

俺は、レイコに微笑んで見せた。レイコは、少しだけ気を鎮めたように見えた。

「どこ、行ってたの?」

こんな時、咄嗟に巧い言い訳ができれば良かったんだ。でも、俺は、たとえ離れていても、透に嘘をつきたくなかった。

「あの人のところなの?」

「……」

「あの人のところなんでしょ⁉」

「……」

「誕生日、あの人とお祝いしたんでしょ⁉」

 レイコの声は、次第に激しくなっていった。

「してないよ。誕生日のお祝いは、レイコとするから」

 嘘じゃなかった。

「ほんと?」

「ほんとだよ。俺、嘘ついたこと、ある?」

「ないよ」

「そうだろ?」

「じゃあ、もうどこにも行かないで。ずっとレイコと一緒にいて」

もう、ベッドの真ん中辺り、レイコのすぐ傍まで来ていた。手を伸ばせば届く所。レイコは、答えられない俺に、苛立つ表情をした。

「トモくんは、レイコと結婚するんだよね?」

それにも俺は答えられなかった。

「約束したよね?」

レイコの中の何かが爆発しそうだった。

「トモくん、今、結婚しよ」

「え?」

レイコは俺にしがみついてきた。俺は咄嗟の事に、勢いをつけて全体重をかけてきたレイコを支えることができず、バランスを崩した。

――カーテンを誰か、開けて……

 遠くで叫び声が聞こえた。






透……泣かないで。


透は、朝起きてすぐ、トモにメールを打った。

✉おはよう 

メールなんて、初めてだから照れ臭いね 

本当は、昨日の夜、すぐに返信しようと思ってたんだけど、感傷的になりそうで、朝まで待ちました

最初に謝らせてください

ごめんなさい。いつもいつも謝らせてごめんなさい


もっと伝えたいことがあるのに、一晩考えても、うまい表現が浮かびません。だから、これから先は、会って話します


とにかく、謝りたかった

じゃあね、後でね



透は、トモがいなくなったことを、朝のホームルームで知った。






それからの透は、生きていながら死んでいた。

小学校のあの頃のように、淡々と登校し、下校した。

痩せて、そして時々静かに微笑むだけだった。

クラスでは、トモとのことが知られていなかったから、噂されることはなかった。

「透、笑って」

トモの笑顔と朗らかな声を思い出しては、涙を流した。一緒に歩いた風景を眺めては、涙が溢れた。たくさん泣いたからといって、涙は枯れることはないんだと、知った。

マリコだけが、唯一、心配していた。

けれども、どうしようもなかった。




一か月ほど経った或る日、透の携帯にメールが来た。

✉ 透さんですか?

トモからだった。

透は信じられなかった。半信半疑のまま、すぐに返信した。

✉ トモ?

✉ 妹のカナです。会えませんか?

✉ 喜んで!

透は生き返った気がした。悲しくても、トモの話ができるのは、嬉しかった。独りで思い出を抱えるには辛すぎた。

休日、待ち合わせに選んだ場所は、中学生のカナのことを考えて、カナの、つまりトモの家の近くの私鉄のあの駅の、改札前にした。透は待ち合わせより十五分程早く着いた。人ごみの中でも見つけられるように、待ち合わせの十時ぴったりに、透がトモの電話を鳴らすことにしていた。

十時、透がトモに電話をかけた。すると、五メートル程離れた所で、女の子が鳴っている携帯を振って透に笑いかけていた。快活そうなその女の子を、トモは愛しんだことだろう。そう思うだけで、透は涙が零れた。

カナは、透に近づいて、笑いながら言った。

「お兄ちゃんのカノジョ、何人か見たことありますけど、透さん、雰囲気違うから、最初わかんなかった。 ――だけど、一番いいですョ」

最後の言葉を、カナは淋しそうに笑って言った。

透は、何か気の利いたことを言おうと思ったが、涙が先に出た。

「――あの、透さんからのメール、読んじゃいました。ごめんなさい」

透は無言のまま、頭を振った。

「結局、お兄ちゃんは透さんのメール、読めなかったんですけど。……このケータイ、未送信のメールのところ、見てください」

カナは手に持っている携帯電話を差し出した。黒くて、最新機種だった。

透はメールのメニューを出した。未送信ボックスを開いた。333件。

「その未送信メール、全部透さん宛なんです。バカでしょ、……で、ごめんなさい、ほとんど読んじゃった」

透は、メールを開けなかった。開くのが恐かった。

「あの、このケータイ、透さんに持っててもらうのが一番かなって。親は、そんなことしたら、透さんを苦しめることになるから止めろって言ったんですけど、私、分からなくて。だって、お兄ちゃんは透さんに読んでもらいたかったし、透さんも、お兄ちゃんの事、好き――ですよね?」

泣き出しそうなカナを、透は愛おしいと思った。可愛い妹。透はカナの頭を、多分トモならそうしただろうと思われるように、優しく撫でた。

「好き。世の中で一番大切な人だよ」

 カナは、透を見上げて、本当に嬉しそうだった。

「この中に、お兄ちゃんの、透さんへの気持ちが全部、入ってます」

カナは、きっぱりと言った後、にっこりと微笑んだ。その笑顔は、トモのそれにそっくりだった。透は、涙が溢れて、俯いた。

「一年間、そのケータイ、生かしてますから。使ってください。

――お兄ちゃんもきっと喜んでくれると思います」

明るく言った後、カナは涙を零した。




✉ 昨日は、ごめん

✉ 好きだよ

✉ 会いたい

一つひとつ、開いていった。トモが耳元で囁いているようだった。透が断ち切ろうとしていたものを、トモは一人で、一つずつ紡いでいっていた。トモの気持ちを想うと、愛おしさで胸が潰れそうだった。

一気に読みたい気持ちと、読んでしまうと全てが終わってしまいそうな恐れで、それから先は開くことができなかった。

透は、一日に一件ずつ、自分の携帯へそのメールを送信することにした。

朝、起きて一番にそれをするのが日課になった。

✉ おはよう、透

そして透は返信する。

✉ おはよう、トモ

それだけで、元気が出た。

マリコは透の変化に気づいた。でも、それがどうしてかは分からなかった。多分、時が悲しみを癒してくれているのだろうと、思った。

✉ 今朝、透の夢を見たよ。透、泣いてた。透が泣いたら、俺も悲しい

✉ トモがいてくれるから、大丈夫だよ。もう泣かない





透、俺はいつも近くにいるよ。

俺が送ることができなかったメールを、透が送ってくれる。本当に嬉しいよ。

メールを読んで、微笑んでくれたり、泣いたりすると、透の心が動くのがわかる。

もう、形ある手で透を強く抱きしめたり、涙をぬぐうことはできないけれど、髪を撫でたり、唇に触れたり、透のその全てを包み込むことで、透は俺のものだと思える。

透を、今、幸せにできるのは、笑顔にできるのは、俺だけだ。


メール以外でも透は俺に話しかけるようになった。

(今日は天気がいいね)とか、(今日の授業はつまんなかったね)とか、(お腹が空いたね)とか。ほんの小さなこと。

いつもいつも傍にいた。

透は俺だけを見て、俺だけを感じ、俺だけを愛した。

幸せだった。



高校二年 秋

一年前、俺が最後に透と会った日。

✉ 今日、俺の誕生日。これから会おう。一緒に約束した海へ行こう。一番好きな場所なんだ。

透は笑顔で「嬉しい」と答えた。

透は学校を休み、午後、俺達は一緒にあの海へ行った。

でも、もう悲しくなかった。二人で一緒に微笑んで、並んで歩いた。岩場に肩を寄せ合って座り、ずっと海を見ていた。

俺達は、一つだ。

透も、もう悲しまなかった。いつも俺が傍にいるから。俺とメールのやりとりができなくなっても、毎日充電してくれた。そして、もう二度と離れないように、二つの携帯電話をいつも一緒に持ち歩いた。




そして透も高校三年になった。

一年の頃の、子どもっぽさを残したようなところは、ほとんど無くなり、女になった。俺はいつもいつも透を包み込んだ。


マリコは、やっぱりなんとなくヘンだと感じていた。

トモが死んで、一か月位してから、透は次第に元気になっていったと思っていたけれど、少し違うような気がしていた。透は以前にも増して、心を閉ざしているようだった。でも、以前のような、切羽詰ったような、身構えたところが無かった。おかしな言い方だけれど、透は幸せそうに見えた。マリコはその理由を知りたかった。

その日、三限目の授業が休講になった。後をつけるなんて趣味じゃなかったけれど、仕方がない、と自分に言い訳をした。

昇降口を出て、裏門を出て、右へ折れて、坂道を上がった所にある小さな寺の境内だった。その鐘楼の所に、遠くを眺めながら透は腰をかけていた。マリコはつい、靴音をたててしまった。

「トモ?」

透は確かにそう言った。

マリコは身が凍るようだった。マリコはなるべく明るく、透に話しかけた。

「残念。私」

「ああ、マリコ。珍しいね、こんな所に来るなんて」

「うん。――トモと、よくここで会ってたの?」

何気なさを装いながら、透と並んで腰をかけた。

「そう。トモはいつもマリコに感謝してるって言ってたよ」

「あいつはほんとに手のかかるヤツだったからね」

透は声をたてずに笑った。愛おしそうに。

「中学の時も、よく恋愛相談受けてたんだ」

「そうなんだってね」

「それが、いつも別れの相談で」

「へーえ」

「コクハクされて、とりあえず三か月は試用期間みたいに付き合うんだけど、いつも違うなーって思って、これって別れるべき?って」

「トモ、ひどいなあ」

「でしょ? だから、高校入って、いきなり透のこと、相談に来た時は、驚いたよ」

「なんで?」

「自分から好きになるなんてこと、なかったから」

「――そう」

「ちょっとショックだったよ。それまでは、次は私にも希望があるかな、なんて、別れの相談を受ける度に思ってたから」

「ごめん」

「あはは。トモも、ゴメンとありがとって言ったよ」

「そうなんだ」

 マリコは、そこで一呼吸入れた。これからが本題だ。

「――ねえ、透」

「うん?」

「トモは死んだんだよ。わかってる?」

「わかってるよ、それくらい」

その時、透は左手で制服の上着のポケットを押さえた。

「透、そのポケットの中、何?」

「何って、ケータイ」

透は微かに動揺を見せた。

「見せて」

「いいよ」

携帯電話を取り出す時、何か、ポケットの中で、探っているようだった。そして、見慣れた青い携帯を取り出した。

「ねえ、まだ入ってるでしょ?」

マリコは透のポケットを見ながら言った。

「え?」

「それも見せて」

「え?」

 透は微かに怯えた表情をした。

「見せて」

マリコは強い口調で言った。透は仕方なくもう一つの携帯電話を取り出した。黒い見たことのない携帯だった。

「これ、誰の?」

透は、表情を硬くしたまま答えない。それが、答えだった。

「中、見ていい?」

「だめ」

「なんで? 見せて。見るよ」

透が咄嗟に止めようとするより早く、マリコは立ち上がって一歩退いた。

きっとメールだ、と思った。

何百というメールが唯一つの宛先に送信済みだった。透。

この携帯はトモのだと確信した。

その一つを開いてみた。

✉ 透、今、何してる?

送信された日付を見て、マリコは驚いた。トモが死んでから、半年は経っていた。

「透、これ、どういうこと?」

透は、少し青ざめていた。

「このメール、トモが死んでから透に送ってるよ」

 透はやはり答えない。

「透、責めてるんじゃないの。ただ、知りたいだけだよ。だから、教えて」

透は、観念したように話しだした。

最後に会った日、トモから初めてメールが来たこと。翌朝、何も知らずにメールしたこと。一か月ほど経って、妹から返信があったこと。携帯を預かったこと。その中に入っていたメールはすべて未送信だったこと。毎日一件ずつ自分の携帯に送信したこと。

マリコは納得した。そういうことだったのか。透が元気になった理由も。幸せそうな理由も。心を閉ざしている理由も。今の透にはトモしか見えていないんだ、と。死んだということは頭では分かっていても、こんな携帯があるんじゃ、とても先へは進めない。

マリコは、これ以上透を傷つけないように、言葉を選んで話した。

「じゃあ、メールは全部透のケータイの中に入ってるんだよね?」

透は頷いた。

「このケータイ、借りてたんだよね?」

透は、マリコが言うであろう内容を察知して、淋しそうに頷いた。

「カナちゃん、今一年生で、この学校にいるから、後で一緒に返しに行こう」

透は返事ができなかった。

「その時説明するけど、今、このケータイが必要なのは、カナちゃんだと思うんだ」


昼休み、二人は一年生の教室へ行って、カナを廊下に呼び出してもらった。

「マリコ先輩!」

一年生の間でも、美人で有名な憧れの先輩に呼び出されて、カナは嬉しそうだった。

そして、透の姿を認めると、にっこり微笑んで、「お久しぶりです」と挨拶した。

透も。

マリコは透からトモの携帯を受け取って、話した。

「カナちゃん、このケータイ、トモのなんだって?」

 カナは目を見開き、戸惑いながら返事をした。

「はい」

「返しに来たよ」

「え? いいんですか?」

「うん。メールはもう、全部透に送信したから」

カナは遠慮しているのか、透をチラチラと見ながら、まだトモの携帯に手を出さない。

「カナちゃん、トモのことで、いろいろ言われてるんでしょ?」

「え? まあ」

 カナは視線を落とした。

透は驚いた。

「いろいろって?」

「兄が、女の人に殺されたって。その理由とか、あることないこと……」

カナは、少し口ごもりながら、眼を逸らした。

「だから、返しに来たんだよ。カナちゃんのお兄ちゃんは、透のこと、本当に愛してたでしょ?」

カナは頷いた。

「噂なんか、全部嘘だって、知ってるよね?」

「はい」とカナは力強くうなずいた。

「でも、言われるの、やだよね? そんな時、このケータイを持ってたら、トモの本当の、きれいな気持ちを、信じられるよね?」

「はい」

カナは泣いていた。

「くだらない噂なんて、バカがすることだよ。これからは、このケータイがカナちゃんを守ってくれるから」

「ありがとうございます」

カナは泣きながら、トモの携帯電話を胸に抱いた。


ありがとう、マリコ。お前は本当に頼りになる良いヤツだよ。


マリコは一瞬、トモを感じた気がした。

(ねえ、トモ) 

マリコは心の中でトモに語りかけた。

(感謝する? 感謝するなら私の願いを聞いて。一つだけだよ。透を返して。このままじゃ、透が今を生きてないんだよ。わかるでしょ? あんた、透が本当には生きてないって。だからお願い、もう透を放してやって)

マリコの心の中に、トモの答えは聞こえてこなかった。

マリコは、(まさかね)と、フッと笑った。


俺は感じるだけだ。透も、俺を感じるだけだ。それだけだ。


わかっていた。もうすぐ終わりの日が来ることを。

でも、それまではこのままで。


また、夏休みがやってきた。もうすぐだ。

康史。


トモがいなくなって、もうすぐ二年が経とうとしていた。透は、自分のスマホの中に納まったトモの言葉を繰り返し繰り返し読んで、もうほとんどそらで言える程だった。いつもトモの言葉が透の中を木霊していた。

それでも、最後のあの日が近づくにつれて、透の不安は大きくなっていった。

(トモ、ずっと一緒にいてね)

何度も何度もトモに語りかけた。トモは必ず微笑んでくれた。

トモが以前そうしていたように、透は勉強中、ふとメールを開いては、トモからのメールを読んだ。

もうすぐ夏休みが終わる頃、透は、良いことを思い付いた。いや、トモが誘ってくれたような気がしたのだ。

朝一番に、透はメールを開けた。

✉ 今日、俺の誕生日。これから会おう。一緒に約束した海へ行こう。一番好きな場所なんだ。

トモの誕生日には、あと一か月以上あったけれど、今年は、その前に一度行ってみよう、

と思い付いた。

その日は、さすがに暑かった。猛暑日で、朝から三十度を上回っていた。午後、透はいつものように身支度を整え、駅へと向かった。あまり汗をかく方ではないけれど、広く開いた胸元に、汗が滲むのがわかった。

(今日は特別暑いね! さすがにキツイ)

そして、駅へと上がる階段の下に着いた。透は、軽く息を吸い、一気に駆け上がった。改札前に立ち、最近落ちた視力で、電車の到着時刻を報せる電光掲示板を、眼を細めて見た。腕時計と見比べた。もうすぐ電車が来る。足を早めた。


透は気がつかなかった。康史とすれ違ったことに。


康史、この偶然は、俺からの最初で最後のプレゼントだ。

透をよく見ておけ!


夏休みも終わり近く、海水浴客もほとんど乗らなくなって、空いた電車のシートに腰をかけ、絶えず姿を変える窓の外の風景に眼をやりながら、透はトモの存在の心地よさを感じていた。電車が終点の駅に滑り込むと、二人で電車を降り、改札を出た。外の眩しさがやけに眼にしみた。

抜けるような青空。太陽の光を眩しく反射している海。真っ白な入道雲。広がる西瓜畑。電信柱。真っ直ぐに伸びる道路。完璧な一点消失法。トモが教えてくれた通りだった。

透がトモを見つめると、トモは悲しそうな顔をしていた。

(どうしたの? 悲しいの?)

トモは首を横に振って、微笑んだ。

(ずっと、一緒だよね?)

トモは静かに微笑んだ。

海辺に下りると、去年のように、並んで座った。

突然、透は感じた。

トモの深い悲しみを。

(トモ、泣かないで)

(トモ、行ってしまわないで)

(トモ、私を独りにしないで!)


トモはあの時のように、突然ぎゅっと透を抱きしめた。

そして、そのまま、消えた。


透は認めたくなかった。

トモが消えてしまったということを。

トモがもういないということを。

(必ず戻ってくると約束したのに!)


この世の中で、たった独りぼっちになった。

それは、以前透が求めていた世界だった。

トモと出会う前の、自分だけで始まって、自分だけで終わる、完璧な世界。


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