第一章・第六節 水飴と雨雲
【前回のあらすじ】
薬で昏倒させられたハナが目を覚ますと、なぜかあの《大棘》を持った状態で置き去りにされていた。
やっかいなものを押しつけられたことに愕然とするハナだったが、捨てるわけにもいかず宿まで持ち帰る。
鞘に収めた《大棘》を、ハナは護身用の刀剣だと言い張ることにした。
ところが師匠からは、帯剣すること自体に難色を示され、珍しく口論になる。
そのうち、思わずハナは士人と会って話したことについて口をすべらせてしまう。
激昂した師匠の口から聞かされたのは、士人の求める『アムリタ』は麻薬であるという信じがたいものだった――
(字数:6,491)
「めずらしいねえ。剣をさげてる薬師さんなんて」
薬を手渡した年配の男性に言われて、ハナはわずかにぎくりとした。
布を巻いた腰の柄を自分で見降ろしながら、おずおずとたずね返す。
「あの……不自然、でしょうか? やはり……」
「うーん、まあ、街中だからねえ。傭兵でもなきゃあ」
「すみません。習慣で……」
「習慣じゃしょうがないね。旅人はなにかとそういうものなんだろうねえ」
納得した様子で笑う男性に他意はなさそうだった。
あとは薬の礼しか言ってこなかったので、ハナも丁寧に応対してつつがなくいとまを告げた。ただそのきわになって、ひとつだけ訊いてみた。
「ところで最近、やたらに大きい人を見かけませんでしたか? 黒い服と黒い帽子で、顔の下半分だけの変わったお面をつけた方なのですが」
「大きい人? このへんの人じゃあなさそうだけど」
「旅人、だとは思います」
「さあ、見たことないと思うなあ。大きいって、嬢ちゃんよりもかい?」
「はい。かなり」
「そりゃあすごいね。嬢ちゃんだってわたしより背があるのに。旅人ってのは皆そうなのかな?」
「そ、それは、どうでしょう……」
礼を告げ、今度こそその家を辞した。
届けものは関節炎用の飲み薬だった。診察時に薬や入れ物が足りなかったり、処方の都度調合した方がいい生薬などの場合、こうしてあとから患者の自宅へ直に届けるようにしている。
配達は弟子であるハナの仕事だ。仮設診療所は午後からが本番なので、準備に充てる午前中や、今のような昼食後の空き時間などに届けに行く。
この街ではおなじ理由でほぼ毎日街に出ているが、帯剣していることを客に指摘されたのは今日が初めてだった。
(だれも口にしないだけで、やっぱり変、なのかな……)
実際にさげているのは剣ではない。
鞘に収めた上から端切れを巻いた《大棘》だ。
これをハナが手に入れてから、もう十日余りがたつ。
その間、街へ出るときは必ず携行するようにしていたが、自分が刀剣じみたものを佩いていることへのぎこちなさや不安以上に、なにを知るはずもない周りの変化をそこはかとなく感じていた。主には視線が腰まわりに集中するようになったなど。
それと、自前の長身によそ者然とした装いの組み合わせでも、そう目立っては向けられてこなかった、警戒と緊張の気配。
(好きで帯びているわけではないのだけど……)
内心で落ち込みながら、四つ辻で立ち止まる。
まっすぐ行けば市場へ向かう道。配達ももう残っていない。
あとは戻るだけだったが、ハナは違う道を選んだ。
診療の開始までまだ時間がある。
ぎりぎりまでハナは遠回りしていくつもりだった。
理由は人捜し。
当然というか、先ほど配達先でもたずねたとおり、《大棘》をハナの元に置き去りにしていった巨体の士人をふたたび捕まえるためだ。
捕まえて、とにかくまずは《大棘》を返す。
そして、できれば彼の真意を彼の口から聞いてみたかった。
師匠からアムリタの正体について聞かされたあの晩、ハナは宿屋に風呂を頼む気力も湧かず、汗でしとど濡れていた服だけ脱ぎ捨てて泥のように眠った。
翌朝目覚めてからもそのまま毛布にくるまっていたかったが、眠る前からずっと手に握り続けていたものがあることに気がついた。士人からもらった赤木の杓子だった。
寝ぼけまなこでその木目の美しい曲線を眺めているうち、ハナは、これを作った人ともう一度話をしなければと思い始めた。
アムリタを本当は何に使うつもりなのか。
そもそもアムリタが麻薬だと知っているのか。
もしかしたら、アムリタには師匠も知らないような副次的な薬効があって、それで本当にお姉さんを治療するつもりなのかもしれない。
ハナに《大棘》を押しつけた意図も理解しがたかったが、この際それは考えなくていいとも思えた。どのみちハナにはなにもできないし、師匠にもさせられないし、捨てるつもりもない以上、とにかく返すのだから。
たとえ彼が本当に麻薬としてアムリタを悪用するつもりだったとしても、まずは返す。そう決めていた。
だというのに、
(今日もいない……か)
路地を何度も曲がるうち、見慣れた川辺に出てしまい、ハナは肩を落とした。
実のところ探すといっても、見知らぬ街をまさにあてどなくさまよっているだけだ。入り組んだ路地裏や危なげな気配のする区画にまで、こだわらず入っていけるわけでもない。
一応、彼の身になれば、ハナが《大棘》を捨てる、あるいはなくしてしまう可能性も否定できない以上、そう離れたところにいるはずはないとも考えられた。が、絶対にそうと言い切れないのも不安の種だった。
(一番考えたくないのは、『必要なくなったので押しつけられた』の可能性……)
さすがに、そこまで悪意しか感じられないようなことをわざわざしたがるものか、とハナは自問し、首を振る。
そうして曇り空の下、川面に映り込んでいた自分の顔は、思っていた以上に浮かない様子に見えた。
処分を任された可能性は何度も否定し続けてきたが、このところ人を見る目に関してはひたすら自信をなくす一方でもあった。
そもそも〝士人の姉〟が実在し、《大棘》が本当にその命を握っているのなら、現状は彼女の余命をいたずらに浪費してしまっていることになる。ハナが頼りない行動しか取れていないことを知れば、士人の側から再度接触がなくてはならないだろう。
〝姉〟の余命は、たしかあとぴったり十日。
過剰に具体的な数字。さすがに脅しがききすぎているとは思うものの、そうして鬼気迫るほどの容態には違いないのかもしれない。少なくとも、確実な死以外には待っていないとわかる。
その途上にある彼女は、不安と苦痛の中にはいないだろうか。
ぐるぐると渦を巻く懸念は、ただ空想するしかない刺獣の足音よりも、経験と身近さからはるかに現実味を引き出してハナを苛もうとする。空振りの日にちを数えるごとに、いっそうやきもきとさせられる。
よもや、治療そのものを諦めたということはないだろうか――とさえ。
(考え込むとダメだな……時間ももうない。早く戻ろう)
石積みの岸を離れ、川沿いの道を歩き始める。
少し空が暗い。雨の匂いは濃くはないが、夕立ぐらいは気にしておいてもいいだろう。
市場の端の広場は川岸に面していて、橋のたもとにもつながっている。
ハナたちの診療用天幕は広場の一角に張られていた。
橋が近づくにつれ、市場に出入りする人々に混じって、杖にすがる人や毛布をかぶって歩く人の姿が目につき始める。
ハナたちの診療所は良心的で腕もよしと、この街でも好評だ。七日目くらいになると街中から傷病者が訪れるようになり、診療開始前から人が並ぶようにもなっていた。
市場のこみ合う朝方から昼過ぎまでは、診療所をあけられない。そういう約束になっていたが、広場に人が集まりすぎれば、やむなく開始を早めることもあるかもしれない。
予想していたはずのことを思い出し、ハナは慌てて足を速める。
橋のたもとまで来ると、案の定、天幕の前に人だかりができていた。
想像以上の人数だ。
これは夜までに診終わるだろうかと一瞬めげそうになりながらも、とにかく師匠を助けなければという思いで小天幕側に回り込みかけ――ふと、立ち止まる。
(なにか、変……?)
広場には、傷病者と思しき人々がそこかしこにいて、当然ながら天幕の入り口付近が一番密集している。
ただその密集地帯と、比較的ばらけている群衆とのあいだに、へだたりがあるのをハナは気がついた。
天幕から離れて待っている人々は、心なしか、不審がるような目つきで天幕前の人だかりをうかがっている。
一方の詰めかけている側には、なぜか取り立てて貧しい者ばかりが集っていると、ハナも最初に見て取った。
事実、どこを見てもばさばさの髪とボロボロの衣服。
もっとも、格安で診療に応じ、物品との交換も受け入れるハナたち旅薬師にしてみれば、彼らは主要な客層ではある。
不自然なのは、彼らが全体に溌剌としているということ。
顔色はだれしも決してよくはなかった。
しかし落ちくぼんだ目の奥だけは、一様に爛々と輝いてばかりいる。
すきっ歯の合間に白っぽい舌を覗かせ、うすら笑いを浮かべている者も多い。
そしてよくよく見ると、明らかに身なりのいい紳士や、恰幅のいいドレス姿の女性などもその中に混じっていた。
貧民たちから距離を取らず、どころか慣れたようにまぎれ込んでいる彼らもまた、異様に光る目をして、口の端をぴくぴくとしきりに動かすような笑い方をしている。
どことなく、期待を抑えられずにいるといった表情。
身なりの格差を超えて混然一体となるその者たちが、群衆の異質ぶりに拍車をかける。
その先頭、天幕の正面間近からは、なにやら揉めるような声も聞こえていた。
ハナが本能的に警戒を覚えつつ人だかりの外から回り込むと、天幕の入り口に立って貧民たちと向かい合う師匠の姿が見えた。
「なんのお話をされているのかわかりかねます」
普段どおり愛想よく、涼しい顔をして師匠は、異様な者らにも臆することなく応対しているようだった。
しかし、
「しらばくれんな!!」
突然に大声で怒鳴られては、さすがに身をすくませてしまう。
ひとりの青年が、人だかりから身を乗り出すようにして師匠に詰め寄っていた。
すり切れたズボンをはいて、痩せた上半身には砂ぼこりをまぶしていたが、張りのある筋肉をまとってもいる。骨ばった輪郭や全身の刺青ともあいまって凄味があった。
「なんのお話だぁ? 薬師の里の薬師さんには、おれらが水アメせびりにやって来るガキどもとおんなじに見えるのかよ? 《陰清》に決まってんだろ《陰清》にぃ!」
高圧的に覗き込まれ、背の低い師匠は表情を固くする。
薬師の里の薬師――そう師匠のことを呼んだ青年は、次に奇妙な名を口にした。
いんせい。陰清。ハナは聞いたことのない響き。
口ぶりからして、薬の名か。
押し黙った師匠を見て、青年は今度は気を良くしたように口角を吊りあげた。
「おい、知ってんだぜぇ? あんたが卸しのための原液持ってるってことはよぉ」
「っな!?」
師匠が目をむき、血相を変える。「どこでそんな――」
「裏通りでうわさになってんだよ。おかしな話じゃねえよなぁ? 里の薬師ってのは年に何度も出稼ぎに出るらしいじゃねえか。そんな働き者の連中が、わざわざ外の人間を仲買いに使うかねぇ?」
師匠は憤然とした態度で青年をにらみあげる。
ただ勢いがない。言い返そうにもうまく言葉が出てこないといった様子だ。
「そうイキんなよ。別にタカろうってわけじゃねえ」青年はますます上機嫌で、まるであやすように声色を変えた。
「ただおれたちは、ここにいる全員で金持ちの上客ひとり分ってことにして、卸しちゃくれねえかって話がしてえだけなのさ」
青年が「全員」と言った途端、うしろの人だかりが一斉に気配を膨らませたように見えた。
一様に軽薄な笑みを浮かべた全員が、ギラつく無数の視線で師匠を射貫く。
青年が口を動かし身振りをまじえるたび、ほかのひとりひとりが同時におなじ言葉を口にし、おなじ動きをしていると錯覚する。
師匠も似たような感覚に襲われているだろうか。同調し増長する彼らの気配の矛をもろに受け、当初の毅然とした態度も次第に跡形もなくなっていくようだった。
青年もそれを追い討つように話し続けている。
「あんたらも田舎モンのわりにずいぶんかしこく儲けてんだなぁ。最初はクズ酒みてえな値で純品流してやがったくせに、いつの間にやら『ご霊薬様』だ。いっぺん使わせりゃあ病みつきだもんな。薄めて値をつりあげてもアホみたいに売れる。アホみたいに売れるから、仲買いのクズどもが買い占めてさらに薄める。おかげでおれたちみてえのに回ってくるのはただの水だ。酔えるだけクズ酒のがまだマシって代物さ」
背後にいる全員の不平と渇望を代弁するように、青年は皮肉たっぷりの笑みを浮かべる。今や師匠と額がふれあいそうな距離にまで詰め寄っている。顔を背ける師匠の耳に息を吐きかけるようにしながら、ねぶるようにささやく。
「頼むぜ、なぁ。あるだけ寄越せって言ってるわけじゃねえ。おれたちはただ卸し値で買いてえだけなんだ。損はさせねえし、なんならつけようじゃねえか。おまけをさ」
「――――ッ!?」
(なっ!?)
ハナも目を疑う。骨ばった手が、師匠の服ごとその下の際立つふくらみをつかんでいた。
「やめっ……離して!」
「いっしょに楽しませてやるよ。どうせあんたらもちょいちょい使ってんだろ? 女ふたり旅でさみしいもんなぁ? あのノッポのお弟子ちゃんと夜ごとなぐさめ合ってよぉ?」
「そんなわけ! そもそもそんなもの持っていませ――痛っ!」
「ンだよ、まだシラ切ろうっての? それか、人前でひん剥かれるのが好きか?」
「この……っ!」
青年の片手が逃れられないよう師匠の腰骨をつかみ、もう片方の手が襟に指をかけようとしていた。
ハナは一瞬懊悩し躊躇する。
この手の場面で感情的に飛び出してはいけないとは、師匠から再三にして諭されてきたことだった。
思い悩むわりにあなたはいざとなるとカッとなりやすい。
周りをよく見て。相手をよく見て。
思いを馳せるべきは言葉か、使い慣れた杖の在り処か――。
ふと、腰の柄に指がふれる。
ハナには今これがある。
牽制や威嚇になるだろう。
ハナ自身がいきんでそう言ったのだが根拠はなかった。
群衆はみな丸腰だ。
刃物を見せればひるむだろうか。
あの異様にぎらつく目を曇らせ、にやけた唇を引き結んで、潮が引くように家路につくのだろうか。
師匠の白い首すじに、赤黒い舌が這い寄るのを見て――
頭の中を駆けめぐっていたものが、残らずかき消える。
(汚い手で師匠に……!!)
くいしばった歯列のすき間から鋭く息を吸い、ためらいがちに置いていただけの指で全力で柄を握り込む。沸騰した脳裏から噴きあがるものを髪の先にまでほとばしらせて、目鼻口のすべてからなにもかも撃ち出そうとした、その瞬間――
(……………………え?)
その瞬間、
薄紙の裂けるような声を、たしかに聞いた。
「わたしは……追放された身です」
耳を澄ましていた。
辺りの喧騒がぼやけて遠い。
自分の鼓動だけがおそろしく近い。
聞いてはいけない。耳をそばだててはいけない。
息苦しく痛いほどの警鐘がドクンドクンと響いている。
にもかかわらず、声は、今にもつぶれて消えてなくなりそうに湿り切ったその声だけは、生まれて一度も聞いたことのないあの人の涙声は、まるで耳もとでささやくよりも色濃く、くっきりと、ハナの鼓膜に痕を残した。
「わたしは《洞》を……薬師の里を追われて久しく、いやしい薬師くずれです。もう、里とかかわりは持っていません。《陰清》を持ち出すなんて……」
ぽつと、柄を握る手に、雫が当たる。
ぽつり、ぽつりと、石畳に小さな黒点がつき始める。
冷たい音が、上気した体温を冷ましていく。
青年が師匠を離し、くずおれる彼女を見おろしていた。「ぁんだそりゃ……」老いた蛙のように毒づくと、乾いた息をつきつき、頭をかく。
「シラけたじゃねえか。アホクソ女め」
つばを吐き捨て、青年は立ち去る。
つられるように、天幕の前の人だかりもぞろぞろと解散を始めていく。
思い思いの向きへばらけていく彼らは、今は一様にむっつりと具合の悪そうな顔をして、うつろな目をしている。
去りゆく人々のすき間から、座り込んでうなだれる女性をハナは見ていた。
雨脚はまだ弱いのに、彼女は今にも凍えそうだ。
飛んでいって、毛布をかけてあげたかった。
手を取って、天幕の中へ運んで、湯冷ましに白湯を注いで、ナイザの卵黄粉を少し溶いて……。
思うばかり。体は動かない。「師匠」とようやく呼びかけた声もしぼみ切って、ただのひとりごとのように、浅くつぶやいただけだった。
なのに、目が合った。
聞こえるはずはなかったのに、彼女は顔をあげ、真っすぐにハナを見た。
その瞳に克明に浮きあがる、恐怖と、悲しみ。
まるでおのれの死体を見たような目に、ハナを映す。
ハナは見つめ返し切れなかった。
「ハナちゃん! 待って!!」
金切り声を振り切って、きびすを返し、走り出す。
どこかで遠雷が、敷石を切るように響いていた。
明日昼頃次話掲載予定【済】
☆ 2021年1月30日、再推敲版に差し替えました。文章の洗練と漢字レベルの調整、ルビの振り直しなどを行っております。内容に変更はありません。