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第一章・第五節 篝火と麻薬

【前回(第四節)のあらすじ】

 面鎧(ハーフメイル)の大男、改め、()(じん)/ミスターから手製のお玉杓子(レードル)を受け取ったハナは、思い切って彼に《大棘(オオイバラ)》の使い道を問う。


 すると士人は、自身に姉がいること、その姉が余命わずかであり、病を癒すには《大棘》から精製できる秘薬・アムリタが必要であることをハナに教える。


 治すべき患者がいることを知ったハナは、薬師の誇りにかけて、師匠から精製の手がかりを聞き出そうと申し出る。


 しかし、不意に士人が取り出した香水のようなものをかがされた途端、なすすべもなく昏倒してしまうのだった――



(字数:7,730)

 

 ――クィックィッ

 ミィィークィックィックィッ


 と、高く鳴くのは、夕暮れどきに起き出して狩りに飛び立つナイザという鳥だ。

 肉はあまりおいしくないが、肝臓は目の病気に、卵はめまいや二日酔いに、羽のお守りは赤ん坊の夜泣きに効くと言われている……

 いや、目が二日酔いで、卵のお守りが夜泣きで、赤ん坊が肝臓だっただろうか……

 赤ん坊が肝臓? いやいや、卵が羽で肝臓の夜泣きがお守りであまりおいしくない肉が赤ん坊の二日酔いに……


(……ふん?)


 ミィィークィックィックィッ


(…………ふんん?)


 ミィィークィックィックィッ


(………………ふんんんんんんん?)


 不意に目が覚めたことにハナは気がついた。

 しかし視界は暗黒であった。


 しかもにおう。なんの匂いか。

 ついでに暑い。夜なのだろうか。

 いやそういう暗さではなかった。まるで目を閉じているようだ。

 けれどまばたきの感触はする。目はたしかにあいている。


 夢の中とも違う。夢ならなにかさっき見ていたような気がする。

 はっきりとは思い出せないが、いろいろありすぎてわけがわからないような感じだった。

 夢とはたぶんにそういうもので、こういうあまりにもなにもないのはむしろ夢ではない。


 というか動けない。身動きができない。


 指先くらいはなんとかなるがそれ以外は無理だった。すごくせまい。

 すごくせまいところに詰め込まれてあお向けに寝かされている。

 おまけに暑くてくさい。

 暑くてくさくてすごくせまいところにあお向けに寝かされて詰め込まれて、まるで熱くてくさい泥の混じった粗悪な(ろう)で封じられているみたいだった。

 実際、体に巻きついているのは古い(あら)(ぬの)のようだったが。


(粗布?)


 なにか心当たりがあるような気がしながら、今度は体全体を起こそうと努力してみる。


 頭を浮かせるとすぐなにかにぶつかり、暗闇に直線的な隙間が走った。


 ピンときたハナは今度は思い切り両足を跳ねあげてみる。


 (,)(,)が浮き、こぶしが通りそうなくらいに隙間が広がって、黄昏(たそがれ)の朱色を(すす)るようにして溶かす()(こん)の夕空が覗く。


 ハナは息を荒げながらも、続けてその隙間に肩をねじ込むようにして、かじりついてくる固い布の中から片腕を引き抜いた。

 その手で(,)(,)(,)(,)をがしりとつかむ。


「んぬ……ごぉぉぉっ!!」


 そんなふうに叫んだ気もする。


 重たいふたを力の限り押し続けると、途中で重心が変わったようにふたは浮きあがってどこかへ消えた。

 もう少し重かったら肩を()っていたかもしれないと思いながら、ハナは息も絶え絶えにして上体を起こす。


 見知らぬ路地だった。

 暗くせまい、建物と建物のあいだのような場所。


 ハナは、その路地の隅に置かれた木箱の中にいた。

 体をくるんでいたのは、自分で天幕用に買った()(ぬの)だ。どうりでにおう。

 木箱自体はハナの体よりも大きく、容積の余りには切られたような四角い石がいくつも詰め込まれていた。


「……石?」


 いったん首を傾げたが、おそらく街が常備してある敷石の予備だった。先にこの箱へ入っていたのはこの石たちの方だ。

 その一部を取り除くか寄せるかして、あいた隙間にハナを押し込んだというところか。


(……だから、なんだ?)


 おのれの困惑ぶりにも弱り果てて目がしらを押さえる。

 熱のこもる場所にいたせいか、頭がくらくらしてもいた。

 めまいにはナイザの肝臓……目玉だったか?

 まるで関係のないことを考えそうになって、気がまぎれるよりも余計にわけがわからなくなってくる。

 すでに日暮れどきだ。その事実だけでも頭が痛い。


 そのとき、まだ帆布の中に入っていた方の手が、なにか固いものを握っていたことに気がついた。

 狼狽しすぎて気づいていなかったが、目覚めたときか、あるいはそれ以前からずっと握りしめていたらしい。

 そちらの腕にだけ、帆布が角を使ってやたら厳重に巻きつけられてもいる。


 ハナはまだ(うつ)ろだったが、とりあえず帆布をどけなければ暑くてしょうがないのもあって、つかんでいたものごと腕を引きずり出した。


「……は?」


 それを見て一瞬、放心したのち、血の気が引いていく。


「へ……? は? ひ?」


 ハナは二つのものを束ねて握っていた。


 ひとつは、赤みのある濃い色をした、反りの美しい木製のお玉杓子(レードル)


 もうひとつは、おなじ色の木製の鞘に納められた、白磁のような純白の短剣。

 (つば)の代わりに刃の付け根が菱形(ひしがた)に打たれ、植物の(つる)のように絡みつく緻密な浮き彫りが(つか)がしらまで這う、あたかも典礼用にあつらえられたかのような意匠。


「え……えぇえええええええええぇぇぇ!?!?!?」


 ハナが強烈な既視感しかないその物体に目を奪われてしばらくのち、戸惑いからまろび出る絶叫が路地いっぱいに響き渡った。



 ◆ ◇ ◆



 ハナが押し込められていた路地は、ちょうど宿屋のある川辺の通りにつながっていた。


 とにかく帰らなくては。


 だから、まず、ここはどこだ?


 ほかのことはなにも考えたくないという意味でも、ハナはそのことだけに全力で集中していた。

 だけに、拍子抜けどころであるはずがなかった。

 頭の中身がひとりでにかき混ざって、どろどろと耳から出てきそうに思えた。


 あたりは容赦なく暗さを増していく。

 通りで立ち尽くしているわけにもいかず、ハナはふらふらと歩き始めた。


 せまい場所で昏睡していたせいか、あちこちが痛む。

 もっとも、怪我や乱暴に扱われた形跡などはなかった。

 盗られたものもない。多汗が災いして着衣がまたのっぴきならない感じになっていることの方が取り立てて問題だったくらいだ。

 たたんだ()(ぬの)を抱いておけば前の方はしのげるが、背中や(でん)()には手のほどこしようがなかった。せめて夜が来ていたことが、この件に関してだけは幸いだった。


 お玉杓子(レードル)(,)(,)は帆布の中だ。

 ハナはどちらも一応まだ持っていた。

 頭がはたらかなくて、捨ててしまうか悩むのがおっくうだったせいもある。実際杓子(レードル)は惜しかったし、曲がりなりにもいただきものだと思うと無碍(むげ)にはしづらかった。


 短剣の方は、怖すぎて(さや)の中までたしかめられていないが、まず間違いなく《大棘(オオイバラ)》だろう。

 だとしたら持っているのもおそろしいが、置いていくとどうなるかわからないことの方がよほどおそろしかった。

 剣の一部が直接人目についたり空気にふれたりするのさえためらわれ、帆布の端を小刀で少しだけ切り取って柄に巻きつけておいた。さらに帆布の中へ隠したのはダメ押しのつもりと、なにより師匠のためだ。


 宿屋の灯りが見えたときは、さすがにいくらか救われた気持ちになった。

 思うところはいろいろとあるが、今はとにかく汗と汗に吸いついた砂ぼこりとが気持ち悪い。服を脱ぎたい。湯につかりたい。ちょっと無駄づかいだけれど、杓子(レードル)代が浮いたので許してほしい。


 湯あみの快感を妄想しながら、早くものぼせた羽虫のように灯りを目指して近づいていく――と、玄関扉に独り背中を預けてたたずんでいる人物と目が合った。


 ハナと目が合ったその人が、愛想よくほほ笑む。

 それはそれは愛想よく、にっこりと。


「おかえりなさい、ハナちゃん?」


 妄想の中に広がる湯の海原が、暗く冷え切った沼に転じた。


 とっくに汗だくだったはずのハナの額や首すじを、新しい(しずく)が伝って落ちる。


 できるだけ考えないようにはしていた。

 が、そもそも気にかける余力もなかったとはいえ、遅くなった言いわけのひとつも考えてこなかったことをハナは吐きそうなほど後悔した。


 実のところハナは叱られた経験自体が少なかったりする。約束を破ったことがほとんどない。

 だからいざ、今のように寒気しか感じない笑顔を前にどういう態度が賢いのかも思いつかず、とりあえず真似るように愛想笑いを努力した。


「た、ただいま戻りました、師匠……」

「ずいぶん遅かったわねー? 心配したのよー?」


 師匠が明るい顔のまま歩み寄ってくる。

 思いのほか軽やかに核心にふれてきたのを見て、帰りが遅くなったことに対する憤りよりも無事に帰ってきた安心の方が実は勝っているのではないかと、ハナはほのかに希望を抱く。


「はい、すみません。その、いろいろとありまして……」

「日の沈み切らないうちに帰ってきてくれてよかったわー? 布は買えたのかしらー?」

「え、ええ。ほら、これです。古道具屋で、街道馬車の(ほろ)に使われていたものが安く手に入りました。少しにおいますが、荷物の覆いには充分だとお、も……」


 師匠が近寄ってくる。

 だんだんと近寄ってくる。

 ずっと近寄ってくる。


 灰色の瞳に映り込むハナの姿がハナ自身に見えるくらいになってもまだ近づいてくる。

 頭ひとつ低い師匠の顔をハナは見おろすかたちだが、なぜか目をそらせない。

 そらせないままあとずさりしかけたハナの両肩を、下から勢いよく伸びてきた二つの細い手がガシイッと捕まえた。


「なんぼなんでも遅すぎじゃない?」

「ヒぃッ!?」


 吐息の当たる距離に師匠の笑みがある。その距離で見てようやく知った。


 目が笑ってない。全然笑っていない。


 冷たい指が二の腕のつけ根に深々と食い込んでくる。すごい力だ。動ける気がしない。そもそも視線に縫いとめられて動こうとさえ思わない。


 師匠もそこから動かずにいた。

 模造品じみた笑顔を完璧に保持したまま、ハナのあごの下にびったり鼻先を向けてハナの目をぐりぐり覗き込んでいる。

 怖い。意図もよくわからない。せめてまばたきをしてほしい。

 ハナには対処もまるで見当がつかなかった。血ばかり頭に押し寄せてきて、目玉が破裂しそうだ。


 失神を予期した自己防衛本能がハナにささやく。

 なにがあったか、もう洗いざらい打ち明けてしまうしかないぞと。


 そこへ、足もとの石畳を、なにか固いもので打つ音がした。


 師匠の作り笑いがフッと解ける。

 ハナも我に返る。


 互いに突き合わせた胸の合間から見おろすと、抱えていた帆布のちょうど真下あたりに、帆布の中に入れていたはずの杓子と短剣が転がり落ちていた。


「あら――」

「ううわあああっ!?」

 ハナはとっさにかがみ込み、帆布を投げ出して地面の二つに覆いかぶせた。視界からは消えた。


「いや、隠せてないんだけど……」

「なにがですか!?」

「木器だと傷んじゃうわよ?」

「!?」


 言われてハナは火がついたように帆布をめくって杓子と短剣を引っ張り出す。

 木でできてよく磨かれた部分に目立つ傷は見受けられない。

 ホッとしながらもハナはかがんだまま、ふたたびそれらを隠すように抱きしめる。


「ハナちゃん、それは……」

「こッ、ここっここれも投げ売りです! 古道具ではありませんが、見切り品で! け、決して派手なお金の使いみちではっ……!」


 しどろもどろに申し開きを始めたハナを見おろして、師匠は軽くため息をついた。

 今度はひねりもなく、露骨に困り顔をして。


「ハナちゃん? お料理の道具なら、ハナちゃんのしたいようにしてくれていいわ。いつもおまかせしちゃってるんだし。でも、剣は……」


 口調もいぶかしげではあれ、なじみのある調子に戻っている。

 重ねて、短剣の正体に気づいている気配もなかった。


 ハナは九死に一生を得た心地で胸をなでおろしつつ、顔に出さないよう努めながら、それらしい建て前を探す。


「な、なにを言っているのですかししょぅ? こちらは、ごしゅ……護身用に、決まってるではありませんか?」


「護身用って……」師匠のおもざしにかえって険しさが増す。


杖術(じょうじゅつ)旗杖術(きじょうじゅつ)なら教えているでしょう? 不慣れな刃物なんか使うのは、かえって危険だわ」

「そ、それは心得ています。実際に使うのではなく、あくまで()(かく)というか牽制(けんせい)というか、持っているだけでも、違うのではと思いまして」

「違うって?」

「へ?」


 思いつくままに答えていたハナは、思いがけないところを問いただされて(せつ)()(ぼう)(ぜん)とした。


 師匠は()(げん)なまなざしをしている。

 責めるような目ではなかったが、むしろうかがうような気配があった。なにかに(おび)えているような……。


(怯え……?)


 そうだろうか。

 そんなはずがないだろう、とハナは自分で否定した。

 否定したものの、どことなくうすら寒い。


 少なくとも今の師匠の問いかけは――なにが違うのか、と――本気でハナからその部分(,)(,)(,)(,)(,)を聞くために出たものでは、なかっただろうか。


 なにが違うのか。


 なぜそう思ったのか。


 ハナは考える。


 思えば、なにかと即興が苦手なはずの自分の口から、薬師として帯剣する理由がすらすら出てきたのも不自然だった。


 建て前ではなく、本音として思うところはもっと前からあった。そう、おそらくは。


「……じぶんは」


 ハナは思い返し、噛みしめるようにうつむく。


「あの野盗のような者たちが現れたとき、じぶんには、なにもできないんだを思い知りました。あの人数と飛び道具……たとえ(じょう)になるものが手もとにあったとしても、結果は変わらなかったでしょう」

「……それはあなたが剣士であってもおなじことだったわ、ハナちゃん」

「わかってます。それはわかってるんです。でも、体は動いた! 剣士でなく薬師でしかないじぶんにも、気持ちの余地はあったんです。なのに、じぶんはあの場にいないも同然だった……あれからずっと怖いんです。あの者たちは、われわれ自体に興味があったわけではなかったではありませんか。もしも彼らの目当てが違っていたらと思うと……」


 旅とは本来おそろしいものだ。


 修羅場は何度もあった。

 にもかかわらず、存外に残る傷もなくこれまでやってこられた。


 そんな自分たちは、うまくやってきた、のではなく、運がよかっただけなのかもしれない。


 常々そうどこかで感じながら、感じていないふりをし続けていた。それをあの夜、ひそかにあばき立てられたような気がした。

 すぐにまた知らないふりに戻りはしても、成長し自立した不安は、胸の奥底で水面(みなも)に爪を立てつづけていた。


「気休めでいいんです。見せかけでかまわない。ほんの少しでも牽制になるなら、あのときのような状況そのものを遠ざけられるかもしれないのですから」

「だから剣を?」

「はい」

「そう……なら、わたしが預かっておく」

「……は?」


 師匠の顔は、ずっと正面にあった。

 そのはずが、いつの間にか別人に代わっていたかのようだった。あるいは最初から。


 今ニコリともしていない彼女は、険しさすらも鳴りを潜め、冷たい表情でハナの前に片手をさし出している。


 耳を疑う余地もなく、ハナは今日一番に取り乱した。


「ど、どうしてそんな! それでは意味が――」

「生意気を言わないで」

「っ……な!?」

「あなたのためよ。渡しなさい」


 今、なにを聞いたのか、目の前にいる人がだれなのか、ハナには信じられなかった。


 渡せない。

 渡すわけにはいかない。この短剣は《大棘(オオイバラ)》だ。

 偽装してはいても、ほんの少し抜くだけでバレる。それもたしかなこと。


 だが、たった今ハナが打ち明けたことは、そんな事情とは関係のない、ハナだけの本音で、本心で、本懐だった。

 うそ偽りのない、本物の感傷だった。


 それはたしかに届いたはずだった――と信じたかった――のに、《大棘》を、いや、ハナが自ら帯びようとする刀剣を、引き取るために伸びてくる手がある。

 (,)(,)(,)(,)(,)(,)と、この上なくもっともらしい(いわ)れを押し売って。


 師匠は――

 親のいないハナを育ててくれた彼女は――

 ずっと共にいて、共に里を出てからも飽かず寄り添い遂げ合ってきたハナの師匠は――そんな人ではなかった。


「……嫌、です」


 ハナは、自分でも愕然とするほど低く重たい声で言った。


 感情をなくしたような顔をしていた師匠が、色めき目を丸くする。


「今の師匠は、変です。おかしいです! 今だけでなく、あの《大棘》を目にしたときからずっと……なぜです? なにをそんなに怯えて、なにを隠しているんですか!?」

「……なにも隠してなんかいないわ。わたしは当たり前の反応しかしていない」


 ふたたび感情を消した師匠が、座り込んだままのハナを見おろし、正し返すように言う。


「あなたがわかってないだけよ、ハナちゃん。《大棘》と刺獣は、それくらい危険なものだっていうのに」

「だとしても! われわれは薬師ですよ? 病に悩み苦しむ人の支えになることが、われわれの仕事であるはずです。いかに刺獣がおそろしく、アムリタの精製も諦めざるをえないとしても、それを必要としている人がいるなら、別のかたちで寄り添ったって――」

「アムリタ……?」


 薬壺(やっこ)を――


 ひときわ深いその底を打つような声だった。


 ハナは言葉を失う。


 青ざめ切ったかんばせが見つめ返していた。

 あわれなほど心細い色の目だった。

 澄んだ美しい灰色をしながら、まるでそこに映る人がだれなのか忘れてしまったような、困惑と失望の色。


 ハナは遅れて自分の悪手を理解し、まぶたの裏で沸き立っていた血潮の遠のくように冷えていく感覚をとらえた。


「し……師匠、違うのです、あの……」

「あなた……あの男と会ったの?」

「話を聞いてください。ミスターのお姉さんには、もうほとんど時間が残されていないのです。治療にはアムリタがどうしても必要なのに、材料以外の手がかりがまるで見つからなくて、だから――」


 ミスターは――まで言えたのかよくわからない。


 ただ、痛かった。


 視界が勝手に横へ動き、頬のひりつく痛みのことで頭の中がいっぱいになって、それ以外真っ白で、真っ暗だった。


 石畳に斜めに手を突き、茫然としていたハナを、だれかが強引に引き起こした。

 ボレロの襟をつかまれて前を向かされる。

 見たことのない表情の――でも、どこか師匠らしく、見開いた目に涙をいっぱいに溜めて、あえぐようにくちびるをわななかせている、その人がいた。


「アムリタはッ!! ――……麻薬なのよ」

「…………え?」


 痛かった。


 生まれて初めて張られた頬も。

 今言葉を聞いた耳も。

 心臓も。肺臓も。

 なにか握りしめた手のひらも。


 こんなに痛いのは、初めてだ。


 襟をつかんでいた手が離れ、ハナの体はふたたび石畳に落ちる。

 鳴き続けることを辞めた雛鳥のようにへたり込む。


「ま……や、く……?」

「そう……あらゆる痛みを忘れられる『虚夢(きょむ)(しずく)』。それなしでは生きられられなくなるほどの、極上のまどろみを人に与えてしまう……」

「し……しかし、ミスターは、お姉さんに……」

「口実よ。売れば一城を築けるとまで言われているもの。うそぐらい、つく人は平気でつけるわ」

「……」

「……今日はもう休みなさい、ハナ」


 石畳を見つめるハナの頭上に、体温の気配が近づいて、すぐに遠ざかっていった。


 おなじ気配が、ハナの横を通り過ぎる。足音は背後で一度止まる。


「帯剣は、好きになさい。でも、抜かないで、絶対に。約束して。もしも抜いたら……破門だから」


 か弱く苦笑するような声色。

 しぼり出したような笑みの匂い。


 水音に目覚めた獣のように、ハナは重たいあごをもたげ、乾いた鼻先をめぐらせ、なじみ深く甘い明かりを夜闇のうちに見出そうとする。


 けれど、見えたのは遠のく背中だけ。


「すぐ帰るわ。日暮れに往診を頼まれてしまったの」

「し、しょぅ……?」

「寝る前にお水を飲みなさいね、ハナちゃん。忘れないで」


 言い置いて、去っていく。


 彼女の行く先、川辺を示す篝火(かがりび)のそばに、女の姿がある。


 ふたりの女性を見て、ハナはぼんやりした意識の中、ちょっぴり変だなと感じていた。

 共にボレロを羽織ったうしろ姿はやけに似ていて、連れ立って夜闇にまぎれていくふたつの影は、今ここにいてほしい人の表と裏のようだった。



本日深夜次話掲載予定【済】


☆ 2020年10月28日、再推敲版に差し替えました。文章の洗練と漢字レベルの調整、ルビの振り直しなどを行っております。内容に変更はありません。

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― 新着の感想 ―
[良い点] 一生懸命な未熟さ…… 癖の無いまっすぐなコって新鮮ですね!(問題発言 ししょーの貫禄すげぇ。 [気になる点] っと、ミスターはどうしてハナちゃんをこんなふうにしたんですかねー。 口下…
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