第一章・第四節 杓子と香水
【前回のあらすじ】
師匠は《大棘》のことを知っていた。
はぐらかし切れなくなった彼女から、ハナは《大棘》を本来の持ち主――『刺獣』について教えられる。刺獣は特別な不死の獣であり、盗られた《大棘》をどこまでも追ってくるのだという。
ハナはその話で、《大棘》の危険性については一応の納得がいったものの、その現所持者である大男まで拒絶しなくてはならないという師匠の強硬な態度の方は、まだ腑に落ちずにいた。
そんな折、次に訪れた街で、思いがけずその男とすれ違う。
名も知らぬ彼のことを、ハナはとっさに『士人』と呼んで引きとめたのだった――
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☆ 挿絵協力:伊呂波 和 さま (@NAGOMI_IROHA on Twitter)
木製のお玉杓子をいただいてしまった。
「……ぇ? いただけるのですか?」
話を切り出すためにもまずは落ち着ける場所へ。
そう思って長い階段になっている路地を見つけ、そこへ腰をおろしたところへ出し抜けに思わぬものを手渡され、ハナは出鼻をくじかれるかたちで頭の中が真っ白になっていた。
手渡されたものがお玉杓子で、ちょうど自分が欲しかったもので、彼がなにも言わないことも加味してようやく意図が見えてきたものの、依然として現実味が追いついてこない。我に返るや否や、察したままを思わず訊き返してしまったが、当の大男はまばたきを二回しただけで、こともなげにあごを引くしぐさをした。
ふわふわした気持ちのまま、いただいたものを改めて眺める。
やはり杓子だ。
赤みのある濃い色の木でできていて、反った長めの柄の先が深い半球状の器になっている。ハナの持っていた無頂木のものよりはやや重たかったが、均整の取れた造形といい、柄の絶妙な反り具合といい、素材の木などもはや問題にならなかった。
半球部分は表と裏がそれぞれなめらかな丸みを帯び、指先が映り込むほど磨きあげられた様はまるで溶けた宝石のよう。
矯めつ眇めつ、見れば見るほど、ハナは手の中にあるものが自分の空想でない自信を失くしていった。
「ほ……ほんとにいたた、だ、だぃいて、ぃってしまって、ぃ、ぃぃいいのですかっ? おぉ、おか、おかねは……」
――無いですよ?
散々どもり倒した末に言いかけて、飲み込む。
金がない、つまり買えない、と言ってしまったが最後、この美術品を手放さなくてはならなくなるだろうと気づいたからだった。実際、買えそうにないのは事実だったが、せめて少しでも長く手に持っていたかった。
先ほどから手汗がすごいので、あわよくば――ではなく、難癖をつけられたら、買い取らざるをえなくなるかもしれないが、それなら願ったり叶ったり――じゃなくて、金銭以外でさし出せるものがあるだろうかと、ハナは目を回しそうになりながら懸命に頭の中をひっくり返す。
「話を」
しかし彼の――士人の方は、またもあっさり首を振ると、それだけ言ってハナを促した。
自分だけが取り乱していたことに気づいて、ハナはかあっと顔を熱くする。
それも原因は相手に他意ありと勝手に思い込んだためときていた。
自身の浅ましさに追加の汗も噴き出てくる。
とはいえ、それこそ話がしたいと言って引き留めたのも自分だ。
促された手前、いじけているわけにもいかない。
ハナはいったん目をつむり、気持ちを切り替えるように深呼吸をし、努めて落ち着いているつもりになって――実際は目を開くとまだ若干喘ぎ気味ではあったが――どうにか順序立てて口がきけそうな気合いを取り戻した。
「まずは……いえ、なにより、ありがとうございます。こんな素敵なものをいただいたことと、それから、以前に助けていただいたときのこと。あのときは、まともにお礼を伝える余裕もなくて……あっ、先ほどの、階段のところでもですっ。本当に、ありがとうございました!」
ひととおり謝辞を口にし尽したところで、ハナはほとんど八日ぶりに人心地つけた気がした。
士人はまたキョトンとしていたが、ハナも彼を納得させたかったわけではない。
むしろこれは身勝手な寄り道だとわかっていたので、なるべく早く本題へ移ろうと――しかけて、また少しうろたえた。
「あ、その……こっち、お座りください。すみません、えぇと、こっち。どうぞ」
ハナはできるだけ階段の隅に詰めて座っていた。
となりには、最初から十分な空間があいている。士人の大きな体がそこへ収まっても、さほど窮屈ではないはずだ。
人通りがあればどかなくてはならないが、幸いこの路地にその気配はない。
ハナはまたどもりながらも、士人に腰をおろすようそつなく勧めた。
しかし、士人は路地の入り口で荷をおろすと、そこの壁に背を持たせかけて腕を組み始める。
座る気分ではない、ということだろうか。
それにしても妙な距離を感じると、ハナは戸惑いながら、しかし明らかに話を聞く姿勢で待っている相手を前にそれ以上まごつくわけにもいかず、気を取り直して話し始めた。
「えぇと、では、その……《大棘》は、今持っておいでですか?」
たずねると、彼は首肯するとともに顔の向きで、自分の担いでいたずだ袋を指すようにした。態度を見る限り、《大棘》はあの刀剣の形状のまま、特に進展もないようだった。
「精製の目途は、つきそうですか?」
念のために問う。
案の定、士人はかぶりを振る。
「そうですか……その、じぶんは」ハナはずっと思っていたことを切り出した。
「およそ、まともな力になれないだろうとは、やっぱり、先に言っておきます。むしろなにも知らなくて……ただ、よろしければ、あなたの知っていることを教えていただけないでしょうか?」
士人は無言だ。
ただその目はずっとハナを見ていた。体も動かす気配がない。
続けてかまわないという意思表示にとらえて、ハナもうなずいた。
「では……士人? ミスターは、正確には、《大棘》を原料とする薬を求めているのですよね?」
首肯。ハナは続ける。
「その薬について、教えていただけませんか? 師匠はやはり、知っているようなのですが、訊いても教えてもらえなくて。薬の名前すら……」
「……アムリタ」
士人がようやく口を開いた。
「アムリタ? それが薬の?」
士人はまた無言でうなずく。
アムリタ……ハナはくちびるにこぶしを当てて記憶の糸を手繰る。が、やはり聞いたことのない薬名だった。
士人も旅人のようだったが、わざわざ薬師の里の出身者を頼るくらいには精製の仕方を探しあぐねていたとわかる。並みの薬問屋をいくつ訪ねてみたところで、おそらく手がかりは得られなかっただろう。
「……立ち入ったこと、とは思いますが、あなたは〝治療〟が目的で、そのアムリタを探しておられるのですよね? その、お気を悪くされたら申しわけないのですが、あなた自身がなにかを患っているようにはお見受けしないので……」
「姉だ」
士人は、今度は間髪入れずに答えた。
このときだけ、彼のこもりがちな声がいくらか明瞭さを増し、なにか意志めいたものが差したようだった。
「姉を治す、ためだ」
「お姉さんが……そうだったのですね」
得心がいったハナは、神妙に応えつつも、内心で安堵し、その意地汚さを省みながら、少し喜んでもいた。
薬を求める理由は、病を癒すため。
罹患者は、彼の身内。
どちらも前々から予感がしていたことだったが、さらに的中していれば、彼を呼び止めたのは薬師として正しい選択だったと自分でも認められるような気がしていた。
迷いが消えれば、俄然とやる気も湧いてくる。
いささか不心得気味なやる気ではあったが、動機の貴賤よりも薬師の本懐の方が大事だと言えるくらいには、ハナも手に職がついていた。
「ご容体は?」
「……あと二十二日」
「あと?」
訊き返してから、ハッと息を呑む。
余命だ。
容体など、とうにさしたる問題ではなかった。死病なのだ。
ハナが事の差し迫りを悟ったことは、その顔を見れば明らかだっただろう。
士人も無言の肯定を返す。
(ほかの治療法を探している時間は、おそらくない……本当にじぶんたちに賭けて来たんだ)
ハナは高揚した意気はそのままに、身の引き締まる思いがした。
(やはりじぶんがやらなくては。しかし……)
「ミスター、『刺獣』のことは、承知しておられますか?」
「……」
士人はその名を聞いた途端、気配を固くしたようだった。
その反応を肯定と、刺獣が依然脅威として健在であるという意味にとらえて、ハナは続けた。
「正直なところ、じぶんは刺獣の危険性を正しく評価できていません。師匠から『関わるな』と言われてしまえば、もう従わざるをえない……独断で動いて心配をかけるのも、本意ではありませんし。ただ、それでも――」
それでも――病に悩み、苦しみ、闘っている誰かが目の前に現れたなら、薬師として、最後まで寄り添っていたい――
それはハナが、師匠と旅に出てから今日までずっと、なによりも大切に抱いてきた薬師としての志だった。
「……ミスター? 少なくともあなたは、その刺獣から《大棘》を奪い、これまで無事に逃げおおせてきた。もしあなたから刺獣への対処を保証していただけるなら、じぶんも師匠へかけあってみようと思うんです。師匠だって薬師ですから、お姉さんの話を持ち出せば、さすがに放ってはおけないでしょうし。最低でも、手がかりぐらいは聞き出せるかと」
あまり自信はありませんが――ハナは今にもそう付け加えそうになる自分を抑え切った。
ほとんど思いつくままを声に出していたわりには、あらかじめ抱いていた腹積もりを言葉に変えたあとのような晴れやかさがあった。
「とにかく問題は刺獣です。本当にどれだけおそろしいのか、その名を口にしたときの師匠は取りつく島もないほどで。ミスターが《大棘》を持って現れてからの師匠の態度も、じぶんが見たことないものばかりなんです。今の師匠と話をするには、もしかしたら相当な根気と説得力を求められるかもしれませんが、具体的にはどのような刺獣対策を?」
ハナは核心をたずねたつもりだった。
しかし、士人はじっとなにかを考えるように黙り込んでいる。
なにか困らせるようなことを言ってしまったかと気をもみつつ、ハナも口を閉じて答えを待った。
すると、おもむろに士人がしゃがみ込んで、自分の荷袋をあさり始めた。
やがて取り出されたのは、水滴のように丸く美しい波模様の小瓶だった。
細口の先に金属のふたがかぶさっていて、ふたの側面にはバルーン式のポンプもついている。
士人は黙ってそれをハナにさし出す。
「香水……?」
反射的に受け取ろうとしかけたハナの目の前で、士人が噴霧器を軽くつまんだ。
ふたの反対側にあいた砂粒のような穴から、シュッと青く色のついた霧が吹き出す。
その霧はとても爽やかでいい匂いがしたはずなのだが、よくわからないうちにハナの意識は溶けて途切れた。
今週中ごろ次話掲載予定【済】
☆ 2020年10月26日、再推敲版に差し替えました。文章の洗練と漢字レベルの調整、ルビの振り直しなどを行っております。内容に変更はありません。