第四章・第五節 石とつばさ
ヘイゼルが自身の《同化の呪詛》をより深めたために、イズンとともに取り込まれつつあった《初代女王の呪詛》が消滅の兆しを見せ始める。
ウルウァからの警告と指示を受け、ベルーデルを盾にした強襲を図ろうとする士人。
しかしハナがそれをさえぎり、士人がハナの体を秘薬の材料になると誤解したとき、ハナを即死させなかったことに言及。「手段を選ばないのは自分の意志か」と問いかける。
すると士人は、ハナに「誰を救う(誰を救わない)つもりか」と問い返し、ハナが「全員」と答えるのを聞くと、彼女に虫くだしを渡すよう要求。
それを使って、体内に飼っていた『狒々神蟲』を吐き出すと、神蟲が抑え込んでいた奇病『セキテング焦血熱』を発症。
“症状”として片腕を炎上させると、融合しかけのヘイゼルとイズンに飛びかかり、二人の境界を焼き切ったのだった。
そうしてイズンを取り戻すも、虫の息の彼女を救うには、イシヅエをベルーデルに移植する以外に道はなかった。
ウルウァは、士人に持たせていた小さい《大棘》を、切開刀としてハナに取らせ、彼女に覚悟を問う。
自分の人を救いたい気持ちが本物であることを確かめたハナは、意を決して施術に取りかかる。
だがその瞬間、ハナの服部を、ヘイゼルが触手と同じように伸ばした彼女の副腕で貫いたのだった――
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のぼっていく青白い光。
そして落ちていく。
「――置いていかないでッ!」
自分の声に揺さぶられ、体を起こしながら目を開いた。
途端、正面から強い日差しが飛び込んできて、思わずうめきながら顔をそらす。
渇き切った喉を息が初めて通るようにこすり上げて、そのまま激しくせき込んだ。
「あらあら。大丈夫?」
不安そうな声を聞いて、ハナは顔を持ちあげた。
すぐそばに、見覚えのない女性がいた。
両膝をついた姿勢で、こちらを覗き込んでいる。
若草色の上品そうなローブに身を包んだ、細身の女性だった。
初老というほどではないが、高年なりの肌をしている。
肩から前に垂らした麦穂色の三つ編みを、指先でしきりになで下ろしていた。
「よかったわ。目が覚めたのねえ」
ハナと目が合うと、女性はホッとしたように顔をほころばせ、髪をなでるのをやめた。
目尻に少し涙が浮かんでいる。
吊り気味でぱっちりとした大きな目と、主張の強い輪郭を見て、他の誰かを思い出せそうな気がした。
「本当によかったわ。目覚めなかったらどうしようかと思っていたの。お城の中にはもう、だぁれもいなくって、あなた一人だけ、ここに寝ていたから」
「誰も……?」
言われてようやく、あたりを見渡す。
女王の間からつながっていた、扇状のあの部屋だ。
丸い飾り窓が粉々に砕け散っていたが、霊樹の絵がそこにあしらわれていたことを思い出せる。窓枠に残されたギザギザのガラスが、朝の日差しにきらめいていた。
部屋の中央にはひしゃげた寝台が残り、そこにいた異形は影もかたちもない。
黒々とした何かの跡が、そこを中心にべったりと広がっているだけだった。
かろうじて小さな骨や、切開刀や鉗子などの施術道具も散らばっているのが見える。
フォルストや衛兵たちの姿もない。
代わりに脱ぎ捨てられた甲冑と槍が、壊された入り口付近に折り重なるようにして転がっていた。
フォルストが着ていたのとよく似た、銀ボタンの胴衣や、柄を詰めた斧槍も合間に見える。
あれだけいた十一視蝶たちもいない。
イズンも、ベルーデルの姿もなかった。
亜人の血を引く、あの小山のような巨体も、その体内で飼っていたという巨大な赤い蟲ごとそっくり消えていた。
彼の吐き出した血だまりと、二つに折れた大ナタだけが、床の上に残されている。
静かだった。
割れた窓の向こうの植え込みと、その背後の城壁に至るまで、そよぐ風の音と、小さな鳥の声しかしない。
まるで初めからこの場所には、自分以外の誰も訪れてはいないかのようだった。
「いったい、何が……」
「あなたも、何が起こったのかわからないの?」
「……」
「そう……」
答えられないハナを見て、女性も途方に暮れたようにまた髪をなで始める。
そのとき、彼女のもう一方の手に、細い銀色に光るものが握られているのを見つけて、ハナの心臓が跳ねた。
ぶら下がっていた花飾りや銀細工のほとんどがなくなってしまっているが、間違いなかった。
ベルーデルがハナに貸してくれた髪飾り。確か、カンザシという。
「……あな、たは?」
「え?」
思わずつぶやくようにたずねたハナを見返して、女性が一時きょとんとした顔をする。
その紫がかった瞳の茜色は、沈む夕陽と追う宵の狭間の色に近かった。
突き出し気味の小さな口を手で隠し、「あら、いやだ」と女性は自分自身に驚く様子を見せる。
「ごめんなさい、名乗りもしないで。わたくしは、フィオール。この国の、一つ前の女王にあたる者です」
「へぇ!?」
ハナは裏返った声をあげて息を呑んだ。お腹の底の熱が、急に首元までせり上がってくる。
「先代女王様……じゃあ、ベルの……?」
「あら……」
先代女王も、ハナを見て再度驚いたような顔をした。
だが今度は、すぐに頬を色づかせ、晴れやかに華やいだ笑みを見せて、
「ええ、そうよ。現女王イズンの母親。ベルーデルはわたくしの孫にあたります」
ハナは思いがけなさに、しばし唖然とした。
確かに考えてみれば、即位前に産んだ子供が十四、五になって王位を継ぐしきたりなら、女王の退位もかなり若いうちということになる。
退位後も十一視蝶の恩恵を受けるなら、持病があっても早逝してしまう可能性は低い。
先代どころか先々代、さらに以前の代の女王が存命でも不思議はないだろう。
ただ、なぜかハナは、王宮で彼ら、『旧の女王たち』に会うことはないような気がしていた。
女王と巫女の任から解き放たれた彼女たちは、誰も知らないような遠い場所へ行くのだと。
「そうねえ……」
その女王たちの一人、フィオールはフィオールで、柔和な表情から一転、難しそうに何かを考え込むようなしぐさをしていた。
ハナに対しては、まだ名乗りを返されていないにもかかわらず、わずかにあった警戒心を解いたようにも見える。
逡巡しながらも、「信じられないだろうから、黙っていたのだけれど」と言って、彼女は知っていることを話し始めた。
退位した女王たちは、王宮の背面にある『神殿』という建物で暮らしている。
あの女王の間にある、王宮本館からの入り口の対面にあるもう一つの扉から行けるそうだ。
神殿から本館へ戻ることはめったにないらしいが、側仕えがたくさんいるため、彼女たちは何不自由なく暮らしている。
小さな庭もあり、また自分の母や祖母らに囲まれて、女王を担っていた頃ほどの退屈さやさみしさは感じずにいられるとのこと。
昨晩も、フィオールは先々代の女王たちと暖炉を囲んで茶を飲んでいた。
うたた寝をしていて、ふと目覚めると、神殿中から悲鳴が上がっているのを聞いた。
そばにいた給仕や母親たちも様子がおかしく、何があったのかをたずねる暇もないうちに、みな全身が蝶に変わってしまったのだという。
「蝶に……?」
「ええ。ええ」
フィオールは肯定を二度くり返した。
「よく知る青い蝶たちのかたまりになって、バラバラに飛んでいってしまったの。あとには服しか残っていなかったわ」
「……」
夢の中で、ハナも似たような光景を見た気がする。
実は夢ではなく、現実に起こっていたことをおぼろげな意識のまま認識していたということなのか。
そしてフォルストや衛兵たちも、同じように蝶に……。
「言いにくいけれど、まるでみんなの体の中の卵や幼虫が、一斉に羽化したみたいだった。だから、卵鞘を飲んでいなかったわたくしだけが、何ともないまま取り残されたんだとは思うわ」
「《丸薬》を?」
ハナははたと気づいて訊き返す。フィオールは静かにうなずいた。
「ええ。女王をやめたら飲んでもいいことになっているの。神殿には、わたくしのお母さまとひいおばあ様、それにひいひいおばあ様――つまり先々代と四代前、五代前の女王様までいらしたけれど、わたくしが一番老けて見えるんですのよ? ただ、三代前の女王にあたるわたくしのおばあ様は、生涯一度も《王家の丸薬》を口にしなかった。わたくしもなんとなく、飲む気になれなくって、結局自分のお部屋で蝶を飼い続けていたわ。寒くて嫌なのだけれどね」
フィオールは少し気恥ずかしそうに語った。
ただ、そのはにかみで隠した一抹のさみしさもその目に感じ取って、ハナは黙り込む。
若々しい母親たちを見ながら、自分だけが老いていくのはどんな感覚なのだろうか。
せめて母に看取ってもらえるという確信に支えられていた部分も、あったのかもしれない。
それが突如としてあべこべに置いていかれることとなって、彼女が何を思っているのか、ハナには想像もつかなかった。
(置いていかれる……十一視蝶たちに乗って、飛んでいく……? あぁ、これって……)
不意に思い出す。
あの城壁の上で聞いたお伽噺。幼い頃の王女の夢。
――ずっと信じてた。
――蝶たちがたくさん集まって、乗せていってくれるのよ。
「羽化の……呪詛……?」
「え……?」
「まさか、ベルーデルが……?」
不意にかみ合った滑車にくり出されるままつぶやいて、ハナは自分で目を見張った。
ベルーデルが横たわっていたはずの場所に目を走らせるが、そこには誰もいない。
引き千切られた萌木色の外衣の切れ端が、吹き込む風に揺られているだけだった。
ベルーデルは《丸薬》を飲んでいない。当然、イズンもだ。
フィオールの見立てが当たっているならば、二人の体はここに残っていなくてはいけない。
ただ――士人の姿も消えていることを思えば、つじつまの合う筋書きは容易に思い浮かんだ。
ハナはただ青ざめるしかなかった。
「あの……もっと言いにくかったのだけれど……」
フィオールが、おずおずとした様子で何かを切り出してくる。「本当に、痛くないのかしら、それ……」と言いながら、ハナの腰のあたりを指でさした。
「へ?」
半分呆然としたまま、ただ指先につられて視線を落とす。
そうした瞬間、ハナはもう一度気を失いそうなほど戦慄した。
ズタズタになった薄紅色のドレスは、腰の上のあたりから特に大きく破れて汚れてしまっている。
破れ目のすぐそばにくくりつけてあった仔水牛の頭骨は、無残に砕かれて紐に破片が引っかかっているだけだった。
まるで全速力で走る勢いのまま、腰から机の角にでもぶつけたみたいだ。
服飾だけを見ればそう。
破れ目の内側、ハナ自身の体の、脇腹の部分に、半円状の空洞ができていた。
こぶし一つ入ってしまいそうな陥没だ。
皮膚どころか、その下の組織から何から何までえぐり飛ばされて、円筒状に削ぎ取られているのだ。
断面からは当然のようにいろいろなものが丸ごと見えている。見えてはいけないはずのものが。
「な……に、これ……?」
ありえない。ありえなさすぎる状態だった。
まるでそこに精緻で立体的すぎる絵が描いてあるかのようだ。
しかし、ハナは体の内側に風を感じてしまっていた。
意識すると奇妙でえもいわれぬような感覚がある。
確かに痛みだけはなく、また失血もしていない。
懸念されるような症状は、今視覚的に受けている衝撃によって引き起こされた動悸、寒気、嘔吐感のみ。
「血は、止まってる……けど……なんで、これで……」
「さすがに痕が残っちゃうわよねえ、これじゃあ」
フィオールが心から憐れむように言う。だがそういう次元の話ではない。
「が、《丸薬》を使った……とか?」
「いいえ。わたくしが飼っていた蝶たちも、保管されていた卵鞘もみんな消えてしまったの。残っていたのはこれだけ」
フィオールがローブの袖から何かを取り出す。
手のひらに置いた黒いその物体は、小さく折って丸めた木の葉のようにも見えた。
「これは?」
「蝶の蛹の化石ね。初代女王のフラガ様が研究に使っていた残りなの。近くにあるだけなら何ともないけれど、コツがあってね?」
そう言うと、フィオールはおもむろに蛹を握りつぶすようにした。
石の割れる音がするまで手に力を込め続け、ゆっくりと開く。
「……!?」
黒い石の残骸の中に、小さな翅を揺らして立っていた。
白地に青い鱗粉で、両翼合わせて五対の眼状紋を描いている。
その翅を広げ、藍色の胴で十一番目の〝眼〟をあらわにしながら、ふわりと飛び立つ。
「十一視蝶……じゃあ、まだイシヅエが、ここに……!?」
「ええ。どうやら、わたくしの中に」
「!?」
フィオールの言葉を聞いて、ハナは再び心臓が跳ねるのを感じた。
驚愕と同時に、激しい感情に襲われる。
不安とも恐れともつかない、重たい影の落ちる感覚。
「一度植え移したものを切り取ったときに、かけらか何かが残ったんでしょうね。わたくしの周りの、ほんの狭い範囲しか飛べないようだけれど」
ひらひらとただよう十一視蝶を見あげて、フィオールが語る。
その手は無意識にか、自身の下腹部に添えられていた。
きっと今は空洞のその場所。
ハナは疾師の言葉を思い出す。
――《呪詛》は、生きている最も大きな肉片に宿る。
「じゃあ、イシヅエの本体は……」
「……」
フィオールは答えない。
少しさみしそうな目をして、降りてきた十一視蝶をもう一度手の上に乗せる。
目を閉じると、一度深く息を吸って、うなだれかけていたハナに視線を投げ、そっと微笑んでみせた。
「そのドレス……ベルーデルが同じものを持っていたわね」
言われて、ハナはもう一度自分を見おろす。
凄惨に破れ切ってしまったドレス。
脇腹以外も、擦り傷からにじんだハナの血で汚れて、きらびやかだった頃の面影はどこにもない。
引き千切られた花飾りたちの残骸が、雨に見捨てられた荒野で朽ちていく、若苗の列を思わせた。
「一度、わたくしにだけ、着ているところを見せに来てくれたの。もちろん、ぶかぶかでおかしかったわ。けれどあの子、きっと今に大きくなるからって、自信満々で」
「あ……」
紫がかった茜色の瞳。夕陽とほとんど同じ色だ。
惹かれるように伸ばしかけた手が、落ちる前に拾われる。
飛び立つ青い翅が耳をかすめ、朝陽の中に白い燐光を残していく。
「あなたは、あの子のおともだち?」
フィオールがたずねて、穏やかに微笑む。
同じ瞳の色でも、違う声、違う匂い、違う手のひら。
知っていたのだと気づいて、もうここにいないのだと知って。
つめたい手を握り返し、嗚咽をこらえて返事をした。
「はい……はいっ……!」
陽が昇っていく。地平線をめがけて。
本日深夜と明日昼頃、連続次話投稿予定。毎日更新中。
完結まであと3回(2日)。
最終話投稿は日曜正午の予定です。





