第四章・第四節<後> 神蟲と切開刀(メス)
【前回のあらすじ】
エルヴルの衛兵団長ヘイゼルは呪詛憑きに堕ちた。
発現したのは《同化の呪詛》。
大切に思う者と肉体を強制的に融合させる《呪詛》だった。
発現にともない意識のないイズンと融合したヘイゼルは、同時に取り込んだ死産児たちのへその緒を肥大化させて触手とし、次はベルーデルに襲いかかる。
からくもハナがそれを救い出し、士人も立ちはだかるも、すでに触手と片足を融合させられていたベルーデルは、自身の肉体の一部となったその触手が切られたことで、痛みと出血にもだえ苦しむ。
そこへ衛兵たちを引き連れた王配フォルストも乱入。
状況を把握し切った彼は、ヘイゼルを謀反人として処刑することを決断する。
それを聞いたハナは、イズンがまだ生きていることを主張し、全員で協力してヘイゼルを殺さずに無力化するべきだと訴える。
しかし、すでにフォルストらに敵意を向けていた士人は、協調の道をつぶすかのごとく、穀倉庫での崩落事件の犯人が自分であるとその場で自白したのだった――
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「穀袋を崩したのは、俺だ」
「……ッっ!?」
衛兵たちがどよめく。
フォルストは目を伏せ、痛みに耐えるかのように肩を震わせている。
ハナは口を押さえ、声のない慟哭を目の前の背中に投げかけていた。
(どうして……なんで……!)
信じていたのになんて、聞こえがいいだけの虚栄だ。
たとえ裏切られたとしても、診療録をつけるように、彼のありのままを受け止める。
それがアーシャと、そしてハナ自身との約束のはず。
けれど、今このときに、この場所で言葉にしたということは、ただ真実をあらわにしただけではない。
これから起こることを、あらがいようも、救いようも、躱しようも、止めようも、変えようも、忘れようさえもなくしてしまった。
(ミスター、どうしてあなたは、出口のない淀みの底へばかり、自ら閉じこもろうとするのですか……?)
ハナはもうそれ以上、何も見続けていられないような気がした。
おのれの目で見える景色を誰かに譲り渡して、おのれはどこへ行けなくとも、手の届く場所にあるものだけを永遠に抱きしめていたい――
そう思いかけたときだ。
「……………………ぃぃず……」
誰もが言葉を失い、張り詰めた空気の中で。
そのうつろな声は、溶けるように響いた。
「……い……ず……なく、な……し……」
なおも声は、断続的に流れ出す。
つむいでいるのは、部屋の中央に鎮座する異形の、二つの頭のうちの一つ。目を開けたまま壊れた女の、すり切れた喉。
「し、ん……しんで……し……し、し、し……し、し、しししししししししし……」
もはやうわごと以外忘れた口が、同じ音を漏らし続ける。
その鼻先が不意に少し上を向いた途端、ガクンと落ちるように赤黒い唇が大きく開いた。
「ィィィンでなぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ」
歌うように。
旋律を欠いても、想いを謳うように。
咆哮とは異なり、その低く唸るような声は、ゆっくりと揺らすように鳴り渡る。
やがて小さくしぼみ、にじむように消えた。
そして、
「ぐぶ、ぉ……っ!」
別の場所から、苦悶の声があがる。
ハナが振り向くと、衛兵たちの間にいたフォルストが自分で胸を押さえていた。
震えながら膝を折り、うつむいた彼の背後で、衛兵の一人が倒れる。
その衛兵を抱きとめようとした同僚が、むせあげながらまるで老人のような非力さで押しつぶされていった。
方々で咳き込み、うめく声が相次ぐ。
衛兵たちが次々に膝をつき、はいつくばり始めていた。
腹を押さえてうずくまる者。
面兜をはぎ取って嘔吐し始める者。
寝転がって痙攣を起こしている者さえいる。
まともに立っている者は誰一人としていない。
その彼らの上に、ぽとぽとと落ちてくるものがあった。
それはハナの目の前にも落ちてくる。
青白い仄かな光をまとった小さなもの。
白地の翅に十一個の青い眼状紋を浮かべた、はかなげな蝶。
床に落ちたそれは、羽ばたくことはおろか、翅をたたむことも忘れて仰向けに寝そべり、毛のように細い肢だけをかすかに動かしている。
「疾師様……」
ハナはあらがいようのない凍えに襲われながら、腰の頭骨に呼びかけた。
「王宮の方々が……それに、十一視蝶も……」
「いかんねぁ。使役者が移りかけちおる」
「使役者?」
「呪詛憑きの側がイシヅエを完全に取り込み始めたちいうことじゃ。そうなりゃあ、取り込まれた側の《呪詛》ははなはだ弱まることになる。呪詛憑きはおのれの《呪詛》を動かすための願いに足が生えちおるようなもんじゃけに、イシヅエにこびりついちおるだけの『死んだ呪詛憑きの願い』なぞたちまちにして食っちまいよるわ。最悪《初代女王の呪詛》は跡形も残らんぞに」
「そんな……それじゃっ……!」
――それじゃあ、ヘイゼルを生かして、イズンを救い出しても、意味がなくなる。
さらに、王室もエルヴル国そのものも、いっぺんに瓦解してしまえば、滅び去るよりほかになくなるだろう。
「小僧も攻めあぐねちおるねぁ?」
ハッとしてハナは士人を見あげる。
彼はすでに衛兵たちから目をそらし、ヘイゼルだけに狙いを澄ましていたが、そこから一歩も動いていなかった。
背後にハナやベルーデルがいるだけのせいではない。
触手たちはさっきまでのようにまとまって動くことをやめ、部屋全体に散開するようにして、あらゆる角度から士人を責められるように位置取りを始めていた。主であるヘイゼルがうつろだというのに、まるで一本一本が狡猾な思考を持っているかのように。
「已むを得ず、病まずを得ずか。……小僧」
不愉快そうにぼやきをこぼすウルウァが、士人に言葉をかけた。
「王女を盾に使いや(つかえ)。触手どもは『思い人』を殺さぬ」
「……は?」
凍りつく。
何を聞いたのか、その瞬間は判然としなかった。
殺さない――おもいびと――少しずつさかのぼっていきながら、その意味を理解できずにただ流されていく。
「まぁ、多少は取り込まれるのぅ。なぁに、間合いに入るまでにすべて取られはすまいよ」
「……何を……言ってるんですか?」
やっと言葉を返す。
しかしそのときには、もう目の前の影は動き出していた。
振り向いた大男が見おろしている。
彼の素顔を、初めてまじまじと見た。
大きくえらが張り、ひどくせり出した下あごが主張している。
まるであのくちばし型の面鎧の下に、もう一枚の面鎧をつけていたかのようだ。
引き結んでもねじれて閉じ切らない唇の合間からは、親指ほども発達した下の犬歯が飛び出している。
鼻先は鎚で叩いたようにひしゃげ、小鼻は伸び切り、刃物で縦に切ったような鼻孔が開いている。
盛り上がった頬骨に押し上げられて細く縮んだ目の奥から、琥珀色の冷たい光が覗いている。
その瞳を、ハナは見たことがあった。
塔のような腕が伸びてくる。
触れられる前から息苦しさを覚え、胸の奥に痛みが走る。
逃げたい。逃げ出したい。
ここは寒くて悲しくてつらいばかりだ。
膝の上に抱いていた者を引き寄せて、かきむしるようにしがみついて、弱々しい鼓動に顔をうずめて。
そこにある陽の匂いを噛みしめたとき――熾火が赤く燃え立つように、ハナは顔をあげた。
犀獣を狩る猛禽のように大きな手が、ハナの頭をおおいかけて、眼前で止まる。
「……どけ、薬師」
「どきません……ッ!」
胸焦がし、ハナは叫んだ。
目の奥が熱い。首から下が濡れそぼった石のように冷たい。
たとえこのまま砕け散り、頭だけになったとしても、それでも、喰らいついていなくてはいけなかった。冷え切った喉の奥から、そう声がしていた。
「あなたは……望んでいるんですか?」
言葉を煎じ、煮出していく。
舌を薬研に。歯を乳鉢に。
「あなたは、手段を選ばない。本当にそうかもしれない。選べないときがあることだって、わかってます。でも、あなたはっ……!」
この瞳孔を天秤に。頼りない手のひらを包紙に。
砕いて、挽いて、量って、練って。
異物なき記憶と想いを、漉して集めて。
「あなたは……この首を折らなかった。絞め落とそうとせず、最初から首を折っていれば、こんな、こんなッ……!!」
――こんなにさむくてかなしいところまで、あなたを追ってこられはしなかったのに。
痛みでも、苦みのためでもなく。
せめて淀みの出口を照らせるように。
「……」
頭上の指が動く。
握りつぶす動きと見て取って、ハナは目をかたく閉ざす。
肉のつぶれる音。頬に生温かい風。
次に目を開いたとき、目の前に白く鋭利なかたちの肉片が落ちていた。
視界の端には、血まみれの大きな握りこぶし。
横から伸びてきた肉の管の先端が、その手の中で握りつぶされている。
「薬師……」
視線を後方へ投げた格好で、半亜の巨漢がハナに問う。
「誰を救う?」
ハナは自分の腕の中を見た。
冷や汗を浮かべ、浅い息を繰り返す少女がそこにいる。
今にも途切れてしまいそうなのに、彼女は必死で息をしている。
扉の近くにいる衛兵たちを見た。
生まれてこの方、味わったことのない痛みと苦しみに、戸惑い、もがきながらも、彼らは懸命に立とうとしている。フォルストも、武器を杖にして、まだ膝をついていない。
部屋の中央にいる異形を見た。
血走ったまま凍りついた目は、依然ハナたちを吸い込もうとするように見据えている。
条理を越えた願いの化身。
漉しすぎた純水が命にとっての毒となるように、彼女は一途に捧げすぎただけ。
そして、同じように澄みすぎた黒い背中を見る。
誰もその水に棲めはしないのだろう。
けれどまだ、木と土は香っている。
「全員……」
ハナは、血を流し込むように叫んだ。
「全、員、ですッ!!」
大ナタが閃き、再生を始めていた触手が二度、断ち切られる。
「めぇぇぇぇえぇぇえぇアァァあァァァぁあぁぁぁんまァァぁぁぁあぁああああああ!!」
呪詛憑きのヘイゼルが奇態な咆哮を始めていた。
徐々ににじり寄ってきていた触手たちが、一斉に士人に向かって飛びかかってくる。
士人は獣のように身を低くしながら、大ナタの間合いに飛び込んできたものを余さず薙ぎ払った。
疲れを知らない彼の精密さと敏捷さは、触手の手数に再生する優位を加えてもまだまだ拮抗し続けている。
しかし、絶え間ない連撃に残らず対応させられるために、前進する猶予がない。
「薬師!」
背後から来た二本をまとめて斬り飛ばし、息継ぎに合わせて彼が吠えた。
「虫くだしを」
「へ……?」
ポカンとしたハナの頭上を分厚い刃物が駆け抜けていく。暴風とともに白い肉片と鮮血が壁に散る。
「あるなら出せ。早く!」
耳を疑う言葉よりも、彼に急かされたこと、いや、頼まれたことの方が驚きだったかもしれない。
血潮が指先にめぐるのを感じながら、ハナはすばやく自分の背負い箪笥を引き寄せた。
鍵を探しそうになるが、ベルーデルの首からさがっているのを同時に見つける。
箪笥の扉を開き、小瓶挿しの列から一番古ぼけて地味な薬瓶を取り出した。
薄緑色をした薬液が揺れる。
「ミスター!」
ハナが呼んだ瞬間、士人は挟撃を見舞う触手を輪を描く一閃で吹き飛ばしながら、振り抜きざまに手を開いた。
宙に放たれた大ナタが回転しながらヘイゼルめがけてすっ飛んでいく。
間髪入れず動ける全触手がその進路をふさぎ、残らず引き千切られながらも軌道をそらし切る。
その間に、ハナは小瓶を投げた。
「馬鹿者が」
どこからかウルウァの声がする。
振り向きざま、士人はその大あごをばっくりと開くと、飛んできた小瓶に迷わず喰らいついた。
勢いよく閉じた口からばぎん、と音が鳴り、端からガラスの破片と血が飛び出す。
「ちょ……!?」
ハナもさすがに面食らう。が、残りのガラス片ごと嚥下した士人の様子が変わるのを目の当たりにし、さらに言葉を失った。
「バハァァッ!!」
再び開かれた士人の口から、大量の血が噴き出す。
喀血。しかしガラスで気管を切ったような次元ではない。
まるで燃えあがる息を吐き出したように、血は大きく高く舞いあがる。
その血飛沫の中に、蟲がいた。
「ギキィィィィィッ!」
奇声をあげながらそれは床に落ちてくる。
血よりも紅く、長い体を持つ虫だった。
左右に細く短い肢が無数に並んでいる。
先端には鋭いあごと、ムチのようにしなる触覚。
細かい節と節の間の皮膚は固い甲羅そのもので、それが士人の背丈よりも長く連なり、また太さも彼の腕より太いようだった。
「追い出したのぅ、『狒々神蟲』を」
何がそこにあるかを察してウルウァがささやく。
「十一視蝶と並ぶ古代の怪虫。生き物の体内にひそみ、百年かけて宿主の肉体を繭に変える。飲まず食わずも死なず、また酸も炎も受けつけず、そして宿主にかかる毒と病の身代わりとなる」
「……!?」
ハナは愕然とした。よみがえる記憶を脳裏に見た。
士人はかつて、《濁》の毒矢と《陰清》の曝露を同時に食らいながら、ほとんど影響を受けずに立ちあがっていた。
半オルクの驚異的な身体能力のなせる業。
ハナはそう考えていたが、真相は常軌をはるかに逸していたのだ。
「どこぞの愚国の専売ではないちいうことぞに。古き蟲を飼い慣らし、病を抑えるはねぁ」
「病を抑えるため? それじゃあ……」
血だまりの中で震えている紅い虫から、立ち尽くしている士人に目を移す。
帽子を床に落とし、虚空に向かって口を開けたまま、彼は見たこともないほど肩を上下させていた。
呼吸は次第に落ち着いていくどころか、ひと息ごとに深く大きく荒々しくなっていく。
そしてハナは、彼の白濁する濃厚な吐息の中に、確かに緋色の火花を見た。
瞬間、士人がそれを飲み込むように口を閉じる。
発達した奥歯のかち合う物々しい音が鳴り響く。
彼の手がかきむしるように自分の胸ぐらを掴むと、片腕を残して上衣をまるごと引き千切った。
あらわになる黒い肌。
隆々としたその皮膚のいたるところから蒸気があがる。
噴き出す汗が噴き出す端から沸騰し、熱波となって放たれていた。
鐵の熔炉を間近にしたかのような錯覚に、ハナは固唾を飲むのも忘れて目を見張る。
「血液が沸点を越え、鉄の熔点にまで至る異常熱……」
疾師が誇らしげに語る。
「ひと呼んで、『セキテング焦血熱』。ウルが神蟲の寄生とともに与えたもうた、もう一つの病ぞに。常人であればたちまちのうちに焼け死ぬるねど、寸刻でもこれに耐えうるならば――」
士人が手袋の片方を脱ぎ捨てた。
泡立つ汗が指先から白煙となって噴きあげる。
手首から先が、次第に炉にくべた石のように赤く光り始める。
そして握られたこぶしは、爆ぜるようにして燃えあがった。
「血沸き、肉燃ゆる……手先は炎をまとい、焼けた鉄分のめぐる身体は、飛躍する」
次に、爆発した。
激しい熱波を後方に放ちながら、士人が一瞬にしてヘイゼルに肉迫する。
そしてすり抜けざま、再生したばかりだった触手たちをその手で残らず捕まえた。
まとめて抱え込んだ触手たちを、着地と同時にねじあげる。
「フゥゥゥゥッッ!!」
火の粉の混ざる吐息を噴き出しながら、士人はヘイゼルの触手を根こそぎ引き抜いた。
根元の肉塊が千切れ飛び、小さな骨が大量に吐き出される。
「ギャアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア!!」
痛みに絶叫したヘイゼルの背中に、再び飛びかかる士人。
彼女に身をよじる隙を与えず、燃える手でイズンとつながっている方の肩をわしづかむ。
もう片方の手袋をはめたままの手は、イズンの逆側の腕に。
彼女の体を引くようにしながら、士人は二人の女性の溶け合った境目をひと息に焼き切った。
「オオオオオオオオオオオォォッッッ!!」
赤熱する手のひらが肉の中を突き進むとともに、炎が士人の肩まで迫ってくる。
顔を飲み込まれる前に彼は腕を真下まで振り抜くと、引きはがしたイズンの半身を持ち上げた。
同時にヘイゼルを蹴り飛ばし、反動を利用してハナたちのいる方へ跳躍する。
だがその足を、皮一枚でつながっていたヘイゼルの〝副腕〟が捕まえた。
「っグ……!?」
引き倒されかけながら、士人はイズンを放り投げた。
ハナに向かってではない。
斧槍を杖に懸命に歩み出てきていた、その者に。
「フォルストォッ!!」
「むゥッ!」
ハッと顔をあげた王配、フォルストは、斧槍を投げ出して両足で立つと、飛んできた妻の体を力強く受け止めた。
「イズンっ……!」その重みに崩れ落ちそうになりながらも、渾身の力で踏みとどまる。
その彼の足もとに、イズンの腰の断面から何かがすべり落ちた。
肉色をした袋状の物体。手のひらほどの小さな臓器。
左右対称に腕のような管が生えている。
そして中央部には、別の管を挿し込むために切り開かれた、亀裂のような穴。
「薬師殿ッ!」
ハナの心音は急に高鳴り始め、耳をふさぐほどになりかかっていた。
その音の膜を貫いて声が届く。
顔をあげたハナの目にフォルストの眼差しが届く。
悲哀の色はなく、決意をたたえた瞳で。
「まぁ、他に道はないねぁ」
ウルウァがつぶやた。
「切開刀を取れ、洟垂らし。女王から王女へ、子宮を植え移すぞに」
「っな……!?」
おののいてハナは、もう一度イシヅエと、そしてイズンを見やった。
引き裂かれた断面は焼きつぶされたのか、ほとんど血を流していない。
それでも肩から脇腹にかけての大部分と、片足を大腿から丸ごと失っていた。
蘇生には、十一視蝶の鱗粉では足りないかもしれない。《王家の丸薬》、もとい卵鞘を直接埋め込みでもしなくては助かりそうにない。
それもイシヅエがこのまま完全に機能停止してしまえば、空想に終わる。
「でも……でもっ、それで助かっても、ベルは――」
「おんしが決めるなや」
震える喉からこぼれ落ちる葛藤に、疾師の声が突き刺さる。
「おんしが決められるのは、おのれが腹をくくるか、くくらぬかじゃ。全員を救うのではなかったのかゃ? えぇ、薬師よ?」
膝の先に、こつりと当たるもの。
月明かりを吸い取り、それは陽の下にあるときよりも明るく光っているようだった。
士人の脱ぎ捨てたローブの中から転がり出てきた、細いガラスの容器。
その澄んだ固い殻を透かして、中にある純白の薄い刃が目に映る。
「おお……いばら……?」
「ウルが小僧に持たせちおいた。それが切開刀じゃ」
疾師が告げる。予言のように。
「それで切れば痛みはない。患者も暴れず、他の臓器への負荷も抑えられる」
母と師匠が夢見た、万能の麻酔薬。
「あとはどれだけ下手につなごうち不潔じゃろうち、イシヅエが健在ならば、予後はどうとでもなるぞに」
ただし激しい幻覚症状をともない、そして強烈な依存に見舞われる。
「肝要なるは、迅速のみ」
患者の体液が《陰清》となって気化するなら、施術を行うハナ自身も無事では済まない。
二度目の曝露は、患者とともにきっと引き返せなくなる。
だとしても――ハナは、横たわる少女を見おろす。
青みが差した頬。
笑うたびに愛らしく色づくのを知っている。
紫色の唇。
話をすると白い歯がこぼれるのを知っている。
汗ばんで乱れた髪。
陽の下で黄金に輝くのを知っている。
土気色のまぶた。
その下の夕陽を焼きつけた瞳を知っている。
今日会ったばかりだ。ハナはきっと彼女の何も知らない。
それでも、まだ知りたい。見たい。
たとえともに歩いてはいけなくても。
もう一度あの城壁に二人で立てたなら。
――行けるところまで行けたなら
――きっと嬉しいんじゃないかしら、って
ガラスの容器の栓を取り、白く小さな刃を手に取る。
鋭い切っ先を見つめ、祈るように一度だけ目を閉じてみる。
(腹をくくるか、くくらないか……)
震える手にそっと、ここにいない誰かの手が重なる。
ハナは目を見開き、息を吸い込んだ。
「ごめんなさい……ベル……!」
そして手を伸ばし、王女の服を開こうとした。
そのとき、
「……………………へ……?」
手が、目の前を――
目の前を、手が横切った気がした。
同時に、目の奥で光がはじけた。
意識の片隅に、火のついたような熱さを覚える。
見おろせば、脇腹のあたりに横切るものがあった。
人の腕。のようでいて、ずいぶんと長い。
ハナに向かってまっすぐに伸びていて、すぐそばを通り抜けているようで。
腰を見ると、そこに提げてあった仔水牛の頭骨が、砕けて大部分が飛び散っている。
同じ場所でドレスがやぶけて、見事な生地が台なしになっていた。これで返せるだろうかと、頭の隅で考えている。
脇腹が熱い。
薄赤色の生地が、破けた部分から次第に黒く染まり始める。
そばをすり抜けたと思っていた誰かの腕は、ハナの体と、へそのすぐそばのあたりで不自然に交差していて。
「……ぁ、れ?」
視界が傾く。
明日昼頃次話投稿予定。毎日更新中。
完結まであと6回。ただしあと4日。
終盤に極端に短い節が連続するため、日曜完結になるよう調整します。





