第四章・第四節<中> 紫藍(しらん)と槍
【前回(前編)のあらすじ】
女王の間で士人に追いついたハナ。
しかし、ベルーデルのことばかり心配しているようなハナの言動に、士人は失望したように部屋を飛び出してく。
再び彼を追うかたちでハナがたどり着いたのは、初代女王のイシヅエを維持するための死産児たちの保管庫にして、余った死産児たちを苗床とする十一視蝶たちの繁殖場だった。
エルヴル王室が死産児たちを弔うと偽って国民から回収していることに憤り、やはり《呪詛》はどこまで行っても《呪詛》だと強く認識し直すハナ。
そこへ、壁越しにベルーデルの悲鳴が届く。
慌てて奥の部屋へと乗り込んだハナが目の当たりにしたのは、隣り合わせで溶け混ざったように一体化したヘイゼルとイズンであり、白いヘビのようなものに襲われているベルーデルの姿だった。
状況を把握するよりも先に、ハナはベルーデルの救出を優先し、夢中で彼女をヘビから引きはがそうとする。
しかし、気がつくともう一体のヘビが目の前で鎌首をもたげており、まさしくハナの眼球を突進で貫こうとしていたのだった――
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木と漆の匂いがして、ハナはようやく息を吐いた。
「ミスター……?」
「……」
士人は無言のまま、ハナたちに背を向けてたたずんでいる。
その手には、エルヴルに来たときから背負っていた石斬りの大ナタ。
足元には切り落とされた白ヘビの頭が転がっていた。
しゃがんだまま、ハナはなぜか呆気に取られて、彼のうしろ姿を見あげていた。
ありがとうございます。でもどこにいたんですか?
言葉が頭の奥でかたちを取らずに浮かんでは消える。
彼の視線の先で誰かが苛立たしげな咆哮をあげていることさえ、聞き流していた。
が、
「ハナ! ああっ! 助けて!」
腕の間のベルーデルから引き続き悲鳴があがる。
彼女の足にはまだ、もう一本の肉の紐が巻きついたままだった。それがさっきよりもまだ強い力で引き始める。
片手で支え切れなくなったハナは背負い箪笥を手放して、がむしゃらにベルーデルにしがみついた。
「ミスタァ!! まだです! ベルの足を!」
「……!」
横目に振り向いた士人が、軽く息を詰めたかと思えばつむじ風のように身をよじる。
ハナの背丈はあろうかという大ナタが風切り羽根のようにひらめくと、白ヘビの胴を裂き通して石の床まで突き刺さった。
断面から噴き出した血が、分厚い刃を汚していく。
ハナは今度こそ小さな勝ち鬨をあげた。
「やった! ベル! 大丈夫? ベル!?」
「……ぁ……が、ぎ……」
「どうしたの? どこか痛――」
「ぃ、ぃぃぁぁぁぁああああああああああああああああ!! ああ!! ああっ!! ぃぎあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああッッッ!!」
「え……?」
絶叫。
誰あろう、小さな王女の体から。
壊れたように全身を痙攣させ、ベルーデルは水に落ちた羽虫のようにのたうち回る。
ヘビに引かれていた足に、手を伸ばして。
「やああ!! あああ!! 足がッ!! ああッ!! あたしの足がッ!!」
「……ベル、ベルっ!? どうして? 足に何が!?」
咄嗟になだめようと彼女の手をつかみかけながら、視線を患部に走らせる。
そして――途方に暮れた。
「なに……こ、れ……?」
ベルーデルの足に、まだ白いぶよぶよとしたヘビのようなものがからみついている。
すでに士人に断ち切られたあとの残骸で、断面から血を流し続けてぐったりとしているが、からみついた部分は皮膚に食い込んだままだ。
――いや、食い込んでなどいない。
ベルーデルのきめ細やかな肌をたどる。途中から血の気のないぶよぶよとした質感に変わって、ヘビの残骸へと境目なく続いていた。
まるで、そう、初めからそれとこれとはひとつながりであったように。
彼女の体の一部のように、ヘビは足に溶け込んでいた。
「あぁぅ……ぅうぁ……ぁ……」
悲鳴が急激にか細く、呼吸が浅くなっていく。
額には大粒の汗。顔色はみるみるうちに青白く、どころか徐々に紫がかってくる。
「……しつ……師、様?」
「何ぞに?」
ハナの呼びかけに答えながらも、まるで何も聞いていなかったかのように眠たげな声でウルウァが問い返す。
「紫藍症が……なんで、どうして……」
「多量の出血があるなら、呼吸器に障害が出ちおるわぇ。いかに十一視蝶どもの鱗粉があろうと、ないものがあるふりは難しいぞに。もっとも、止血をせずにおけば血の絶対量が減って紫藍は消えよう。無論、その前に死ぬがのぅ」
「出血、って……だって、これは、この血は……!」
白ヘビの残骸からは出血が続いている。
残骸だけの中にあったと言える血液量など、とうに上回っているにもかかわらず。
「誰の血じゃと?」
疾師が問う。
ハナは歯を食いしばると、ほとんど本能に任せ、泣きそうになりながらベルーデルの足に取りついた。
「ごめんなさい」と口走り、貸してもらった長手袋の片方を外して縦に引き裂く。
長くした布をぶよぶよした肉の管の方に外側から巻き付け、きつく結んだ。
止血のための結索を終えた瞬間、床に刺さったままハナの目の前にあった大ナタが突如引き抜かれた。
風切り音を引きながら真上へ振り抜かれる――と、ハナの頭上で固いもの同士が激突する鈍い音が鳴り響く。
驚いて上を向いたハナの頬に、赤く生温かいものが降りかかった。
士人の大ナタではじき飛ばされたのは、血のほとばしる断面の生々しい白ヘビの胴体だった。
首を切り落とされているにもかかわらず、それは士人の迎撃からの追撃を警戒するように、体勢を整えながら後退していく。
その太く長い胴をたどった、根元。
そこに尾の先はない。
一人なのか二人なのかわからない人影が代わりにあって、彼女たちの体とつながっていた。
片方の脇腹が奇妙に隆起していて、その隆起の中央からから肉の管が伸びている。
起きている方の顔と、不意にハナは目が合った。
栗色の髪の合間から覗く、すべて憎むように血走ったはしばみ色の眼と。
「どうなっちおる?」
疾師が問い直す。
「――わかり……ません」
ハナは何も考えられないまま答えた。
「わからないん、です。……ヘイゼルさん、が、そこにいて……体から、触手みたいなものが……それに……それに、イズン様が……イズン様と、くっ……くっついて……っ」
「融合しちおるのかゃ?」
「そう、見えるだけで……そんな、はず――」
「まっこと(まったく)、へご(おそまつ)なことよ。典型的な《同化の呪詛》じゃ」
「じゅ、そ……?」
その言葉を、今日だけで何度耳にしたことだろう。
叶わなかった願いの残滓。
路傍の砂に還るはずのそれが、水底に沈んで生まれた波紋が、そのまま凍りついたのだとしたら、きっと奇跡には違いないのだろう。
水面にふたをして、泳ぐものすべてを閉じ込めて。
条理を不条理でねじ伏せる力。祝福を忘れた忌まわしい夢の爪痕。
燃え尽きた誰かの、焼き尽くしても消えない焔。
「思い人と離れたくない、狂おしいほど一つになりとうてたまらんかった者が発現しうる、《呪詛》の中でもそう珍しくない部類じゃ。思い人のみに効果を示し、まさしく望みのとおり、触れることで一つとなる」
「そんな……そんなっ……だって――」
「発現者は、瘡師も兼ねる兵団長よねぁ」
「だって、ヘイゼルさんが? そんなはず――」
「女王は生きちおるか?」
ハナは朦朧としてただ問われるまま、だらんとうなだれているイズンの方を見やる。
ヘイゼル側にある彼女の腕は、となり合った肩と同化し切って消えてなくなっていた。溶けたように歪んだ肩からは、ヘイゼルの移植で増やした方の腕が垂直に生えている。
その根元――イズンの首元から、銀色に光る何かが突き出していた。
手指のように細いそれは、柄の長いナイフのように見える。
柄の先から血がしたたってはいたが、首を刺したにしては少量の出血にとどまっているようだった。
「……わかりません。頸部に、刃物が刺さっているよう、ですが、浅いようで……でも、意識があるようには……」
「死に切っちはおらんか。どのみち時間の問題じゃのぅ」
「あの刃物……ヘイゼルさんが、イズン様を……?」
「さて、ウルの見立てでは違う……ねども、今はどうでも良いけに」
「どうでもって……だって、ヘイゼルさんは、あんなにイズン様のことを!」
「あんなに思うちおったからこそ、こうなりよったんじゃ。まだわからんかゃ?」
「まだ、って――」
言葉を完全に失いつつあったハナに、疾師ははっきりと告げた。
「エルヴル国衛兵士団団長、ヘイゼル何某は、いとしき女王を生かしたいあまりに呪詛憑きへ堕ちたちいうことぞに。瘡師の目で見て女王の生存にとって必要な、イシヅエの子宮と胎盤、そして大量の死産児どもとそのへその緒をも取り込んでねぁ」
「――っっ!」
涙と嗚咽が噴き出して、ハナは口を押さえた。
熱を帯びて潤み切った視界の中央で、呪詛憑きが二本の左手を広げている。
彼女のふくらみ切った背後から、新たに十本に近い数の白い触手が姿を現していた。
死体のように見開かれたままの目の下で、赤い唇がただれるように声を紡ぐ。
「い……イ……」
「ヘイゼルさん……」
「しょ……ぃ……」
――いっしょに。
「次は王女ぞに」
壊れてうめく声に、疾師が声を重ね「ひぃぃぃぃぃぃいぃぃぃぃぅぅぃめええええええええええいいいいいっしょおおおおおおおおおおおおおおううぅうぅぅぅぅぅぅううううううううううううううううううううんにいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいぃぃぃぃッッッ!!!!」
咆哮とともに触手たちが一斉に突き進んできた。
その直線上に立つ士人が、おもむろに一歩踏み込む。
床に積もる青い鱗粉が湧きたつように舞い上がる。
彼が全身を勢いよくひねった瞬間、風がふくらむような音がした。
両手で持ちあげた大ナタが真横へ振り抜かれる。
飛び込んできた触手たちが、轟音とともに揃ってその先端を爆ぜ散らした。
けぶり立つ青い霧の中、赤い雨が降る。
しかし、触手たちは後退しながら、それ以上血を吐いてはいなかった。
頭をもぎ取られた先端が見る間につぶれ、変形し、また元のように整形される。
最初に士人が切り飛ばした二本も、同様に復活していた。
「触手状のものちいうのは、おおかた死産児のへその緒ぞに」
ウルウァが言う。
「兵団長、もとい、イシヅエの維持を担う瘡師の目には、『つなぐもの』として映っちおったはずじゃけにのぅ。欲する思い人を捕らえ、同化するための〝手〟としては、まさにうってつけぞに」
「うってつけって……」
そんな生やさしいものには到底見えはしない。自在に動く触手はハナの腕よりも太く、どこまでも伸びるように改変されている。
あれも願いを叶える《呪詛》の作用ということなのか。
「……あれに捕まったら、ベルの足と同じように?」
「否や。《同化の呪詛》の対象は思い人のみじゃけに、お呼びでない者はただ排除される。無論、邪魔立てすれば――……小僧」
触手たちとにらみ合い、再び大ナタを振りあげてたたずんでいた士人に、ウルウァが呼びかける。
「入り口をふさぎ。『手』が増えるぞに」
入り口。
そう呼べるものは、ここに一つしかない。
そしてその唯一の扉の向こうには、十一視蝶の繁殖場がある。へその緒のついたままの死産児たちが、大量に眠っている。
《同化の呪詛》がさらに死産児たちを取り込むことを許すなら、ヘイゼルは触手の数を今の何倍にも増やすことができる。
いかに半オルクの膂力が規格外にすさまじくとも、相手の手数が増えすぎれば、所詮単騎に過ぎない士人では防ぎ切れない。
狂気に燃え尽き廃人と化しても目的のための思考は回るのか、ヘイゼルもすでに二本の触手を入り口へ伸ばそうとしていた。
士人がそれを追うために足を踏み出すも、阻むべく別の触手たちが彼に迫る。
正面から突っ込んできた触手を、士人は迷わず切り飛ばそうとした。
しかし、
「ミスター!」
「……っ!?」
ハナが叫んだことで、側面からも別の触手が迫っていたことを感知する。
身をよじってそちらを先に薙ぎ払い、再び正面を向いたが、踏み込みを入れる暇がなく、ナタを棒きれのように振り回して触手たちをはじき返すのがやっとだった。触手側の突進の勢いにも押され、ほとんど元の位置まで戻される。
その隙に、開け放たれていた扉の中へ、二本の触手が飛び込んでいくのが見えた。
ハナは息を呑む。
もはや手遅れ――
そう思いかけたそのとき、隣室から触手が逃げるように引き返してきた。
触手の先端には、ぱっくりと開いた切り傷と鮮血。
それを追うように扉の奥からがしゃがしゃとやかましい足音が近づいてきて、飛び込んできたのは甲冑に身を包む衛兵たちだった。
「う、おおおっ! なんだこりゃ!?」
「兵団長!? おい、嘘だろ!」
「何だ? うぇぇえっ、どうなってんだ……!?」
変わり果てたヘイゼルの姿を目の当たりにするや、衛兵たちは浮き足立つ。
総勢十数人。残らず手に槍を構え、危険を感じ取ってはいるようだったが、何が起きているかはさっぱりだろう。
「イズン……」
ただ一人、重苦しい声をこぼしながら、しんがりにいたフォルストが歩み出てくる。
彼だけ平服のまま、革の篭手だけをつけて短い斧槍を提げていた。
呼びかけても妻が答えないことを知ると、何かに耐えるように目を閉じる。
「……聞こえるかね、ヘイゼル兵団長?」
やがて目を開けたフォルストは、女王の守り人に向かって静かに問うた。
はしばみ色のうつろな目は、彼の方を見もしない。
「イズンが、望んだのか?」
「ぃ……お……」
「……苦労をかけた」
悟り尽くしたようにそう言うと、フォルストは今度はハナと目を合わせた。
「ハナ殿。お呼びいただき助かりました」
「フォルスト様……」
女王の間へ行く途中で、ハナは衛兵たちにフォルストを呼んでくるよう頼んでいたのだった。
何のためにかは伏せていたし、実際こんなことのためではなかったことをフォルストもわかっているようだったが、彼がハナに問いただすことはなかった。
「ベルーデルは、無事ですか?」
「今は、落ち着いています。でも、足を……」
「……助かれば、歩けますかな?」
「……」
歩ける――という言葉は、耳の奥でうたかたのように浮かんで消えた。
判断がつかなかったのではない。ただずっと考えないようにしていただけ。
肥大化したへその緒と同化させられたベルーデルの片足は、すでに原形を留めていないようだった。
もしも推測どおり血管までつなげられているのだとしたら、骨格まで歪められていてもまた不思議ではない。
余計な部分を削ぎ落としたとしても、元の足に戻ることはないだろう。長さも変わり、関節の動きも制限される。
歩ける。
きっと歩けるとハナは信じている。
だが、ただ歩くことはできても、遠いどこかへ行けるようにまでは……。
「……わかりました。ありがとうございます。重ねてもうしばし、お世話をお願い致します」
穏やかな物腰でそう告げると、フォルストは斧槍を両手で持ち直した。
うめき声を漏らし続けるヘイゼルへと、再び向き直る。
「衛兵隊。構え」
「……!?」
彼のくっきりとした厳格な声に、戸惑いながらも衛兵たちが槍の穂先をそろえていく。
「ヘイゼル兵団長、乱心と見る。女王イズン陛下をその手にかけ、ベルーデル王女殿下とその客人らをも傷つけた極罪人であること、もはや疑いようもなし」
「まさか……待って、フォルスト様!」
王配の意図に気づいたハナが、思わず呼び止めようとする。しかし彼は目もくれず、
「皆、わかっておるな? 相手は四腕のヘイゼル。今や腕は四本どころか十はある。うつろとて、生半にかかれば腕をもがれると思――っ!?」
突然目を見張ったフォルストの前を、両側の兵士の槍が素早くふさぐ。
ほとんど同時に大ナタがそこへぶち当たり、三人を跳ね飛ばしてそれ自体も宙を舞った。
部屋を揺らして反響し続ける轟音に、巨大な刃物と石の床の穿ち合う激音が重なる。
「……ミス、ター?」
ハナは強張ったままつぶやいて、そばにいるはずの大男を見あげた。
はたして彼の巨躯はまだそこにあって、その代わり、今しがた振り下ろしたとおぼしき手の中に何も持っていなかった。
上体を起こす彼の手が、同時に彼自身の顔に伸びていく。
手袋越しの太い指先が触れたのは、死舞鳥のように黒光りするくちばし型の面鎧。
鋼を打ってできたそれが、ハナの目の前に落ちてきて、重く耳障りな音を響かせる。
「ドリュー殿……」
起きあがったフォルストが、士人の方を見て表情を曇らせていた。
「そのつぶれた鼻梁に大あご……滅びの種の……?」
「……」
フォルストが言い終わらないうちに、士人はかみ合わないあごの隙間から激しく息を噴き上げた。
部屋の冷気とぶつかり合い、熱気は顔の周りで雲になる。
その雲を食い千切り、巨体がとんでもない速度で飛び出した。
「……なッ!?」
一番近い衛兵の一人が、驚愕しながらも槍を前に出す。
士人は構わず突っ込み、突き出されるのに合わせて槍の穂先をつかむと、そのまま持ち主ごと縦に持ちあげた。
「うおおっ!?」
「ンンンッ!」
突き進みながら衛兵がついたままの槍を今度は水平に一回転。
横ざまに並んでいた衛兵たちの列に、真横から槍の柄と人間一人を叩きつける。
倒れていく衛兵たちを飛び越えながら、彼らが手放した槍の二本を両手で拾いあげた。
「なんだ! くそ!」
着地点のすぐ奥にいた衛兵が、罵倒を口走りながら遮二無二槍を突き出そうとする。
同時に士人はまた横回転。薙ぎ払った穂先で迫る刺突をはじき飛ばし、姿勢を崩したところへ背中を当て、近くの二人を巻きぞえに吹き飛ばした。
止まらない連撃。
かつて夜盗に扮した《濁》たちを、ハナたちの野営地で追い払ったときの比ではない。
並外れた巨躯からは想像もできない速さと動きの軽やかさに、誰もが呆気にとられ、まともに反応することができない。
ただ、最初からその背中を見ていたハナだけが、噴き出るような焦りに飲み込まれ、無意識に大声で叫んでいた。
「ダメです! ミスターッ!!」
瞬間、ハナ自身が我に返って気がつく。
頭上から先端を尖らせた二本の触手が飛びかかってきていた。
咄嗟に背負い箪笥をつかんで盾にすることを思いつくも、同時に間に合わないことを悟る。
ハナにできることは、膝の上で動かないベルーデルを抱きしめてかばうことだけだった。
「――ッ!!」
ドンドンと、続けざまに突き刺さる音。
しかし衝撃も痛みもこない。
ハナが目を開けて振り返ると、頭上にあったはずの触手たちが残らず石壁に張りつけられていた。
それぞれに胴を槍で貫かれ、縫いとめられている。
さらに正面に気配がして向き直ると、再び黒い背中がそこにあった。
片手に大ナタを取り戻し、崩れたフォルストたちの隊列と、触手の数本を根元付近から断たれたらしいヘイゼルとを、両目でにらんでいる。
「薬師」
低く濁り切った声がハナを呼ぶ。
士人はもう片方の手を横に伸ばし、槍をまだ一本持っていることを彼女に教えた。
「扱えるか?」
「……じ、杖術を、応用すれば――でも」
ハナは手を伸ばせない。目の前の柄を手に取れば、彼はまた……。
「……」
士人は槍の穂先を床へ向けると、ハナの手の届く距離に突き刺し、手を離した。
ハナは拒む余地がなくなることを予感し、青ざめる。
「――ドリュー殿」
ようやく立ち上がったフォルストが、兵たちにかばわれながら士人とハナの方を向いていた。
彼の目は悲しげで、それ以上にどこか苦しげだった。
「疾師様との約束を違えること、きっと許してはくれぬのでしょうな」
「……」
士人は何も言わずに大ナタの峰を肩に当て、姿勢を低くし始める。
「フォルスト様ッ!」
ハナは士人を追い越すように叫んだ。
「イズン様は、まだ亡くなられていません! わかってるでしょう!?」
責めるような物言いも厭わずに問いかける。
イズンの生命活動が完全停止しているなら、彼女の体内にあるイシヅエも死んでいるはずだ。
そうなれば、《初代女王の呪詛》も消滅し、この部屋を飛んでいる十一視蝶や、《丸薬》で正常な肉体を維持しているフォルストたち自身にもよくないことが起きる。
まだそのときは来ていない。
「力を合わせてヘイゼルさんを止めて、瘡師の業で分離の施術をすれば、まだっ――」
「フォルスト」
懸命に訴えるハナをさえぎって、士人が口を開いた。
それは、これから起こる何もかもを、止めようも、変えようも、忘れようさえもなくしてしまう告白だった。
「穀袋を崩したのは、俺だ」
明日昼頃次話投稿予定。毎日更新中。
完結まであと7回。





