第四章・第3.5節:side D_partⅱ
もう一度だけ彼。
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女王の間には人けがなかった。
寝台の上にも人影はない。
けぶるほどの鱗粉を吐き出す青白い蝶の群れが、異端なき楽園として半球状の石室を享受している。
ドリューは念のため天蓋の垂れ幕をめくってみながら、収穫を得られそうもないことに焦りを覚えていた。
先に寝台のわきの小箪笥や、裏手の棚を漁ってみたが、女王のための日用品や着替え以外には見つからない。一国の長の身の回りの品としては質素極まりない、という印象を抱いただけだった。
天蓋の柱のそばには、あの女兵士の鎧とねじれヅノの面兜が無造作にころがされていた。
なんとなくだが、彼女は鎧を着直さないまま城の本館へ戻ることはしないように思える。
女兵士が女王を連れて本館以外へ向かった。
この部屋は本館からまっすぐ伸びた通路の先にあるため、入り口以外に二つある扉はどちらも、その先でわざわざ湾曲していなければ王宮の外へ向かっていることだろう。大きな扉と、小さな扉。
ひとまずは落ち着いて、この部屋がどこへ繋がっているのかを確かめるべきだ。
どのみちあの女兵士がいては、女王を説得するにしても、力ずくで連れ出すにしても難しい。
ハーフオルクとしてのカンのようなものが、あの四本腕と長身が見かけ倒しや虚飾のたぐいでないことを、ずっとささやき続けていた。
何より、人より多い腕を動かすたびに、あのひさしの奥で揺らめいていた、鬼気迫るようなはしばみ色の怪しい光。
不条理に増やした腕に神経を食われ、あの女は狂いかけてはいなかったか。
作為的に歪まされた女の骨格が、ドリューの本能の部分に警鐘を鳴らさせるせいで、そう見えただけなのかもしれなかったが。
首筋がチリチリと熱い。
長く突き出した黒帽子のひさしを押さえ、面鎧の奥で深く息を吐きながら、ドリューはまず大きい方の扉へ向かおうとした。
「そっちじゃないよ」
声。
おとなしく、だがどこか弾むような。
無邪気で、あどけなく、含むような。
ドリューは、背を向けたばかりの寝台を振り返る。
どこかで見た少年が、そこにいた。
青い蝶たちが群がり、翅を休めている中へ腰をおろし、琥珀色の目をした少年がこちらを見ている。
「たぶんね」
半身で振り向いたドリューと目が合うと、少年は形のいい唇を弓なりに曲げて微笑んだ。
屈託のなさそうな清純な笑み。
髪は、そこだけ記憶と異なる漆黒。だが見覚えはある。
「どうしてかっていえば、〝出口〟っぽいからかな」
ドリューの無言の視線を問いかけと受け取ったのか、少年がおどけた調子で答える。相手にしてもらえたことを喜んでいるようにも見える。
ドリューはもう一度、両開きの大扉を見やった。
本館とつながる扉と対称の位置にあるそれは、確かに大きさも、作りや意匠も向かいのものとほとんど変わらないようだった。
対になる片方が入るためだけの扉ならば、もう片方は出ていくためのもの。出るだけの扉からは、誰も帰ってこない。
少年が声を立てて笑う。
「まだ、そっちに行かれちゃあ困るよね?」
再び目を合わせると、少年はいっそう細い目してみせた。
しばらく無言で見返し、ドリューはもう一枚の扉の方を向く。
小さい、といっても片開きのせいで、間口が半分になっているだけのことだった。
ドリューの巨体でも、少し横を向けば通れそうだ。
意匠は簡素だが、鉄扉のためか、どことなく重苦しい雰囲気がある。
ただの備品庫にしては、物々しいようにも思えた。
「どうして最初に選ばなかったの?」
少年が、ことさら不思議がるように問うてきた。
「本当はわかってたよね? あっちじゃない、って」
ドリューは無視して、依然扉を眺めている。
鉄枠のふちの変色が気になった。血のついた手で触れたあとのような……。
「まだ信じてるの?」
思わず、視線が動く。
目が合うほどではないが、視界の端に少年の姿を捉える。
シーツの上に手をつき、足を揺らしながら、少年は少年らしからぬ、どこかのいけ好かない疾師のような笑みを浮かべている。
「わかってたじゃないか。彼女はなんにも関係がない。ただ薬師だったっていうだけだよ。それに《呪詛》が大嫌いみたいだからね。その証拠に、きみの『姉さん』の話を、あの場で一度でも聞いたかい?」
「……」
薬師が《呪詛》を好きであってたまるものか。
そう思いながらも、玉座の間で見た横顔を想起せずにはいられなかった。
王配から受け止めがたい事実を次々と聞かされている間、終始うろたえ、今にも倒れてしまいそうだった彼女。
しかしその目の色は決して、喪失と悲しみのうちに沈んではいなかった。
弱々しく揺れる水面の奥で燃えていたのは、怒りに似た激しい何か。
彼女は、きっと変えようとする。
その意志は、ついていくにはあまりに熱くまぶしすぎた。
「それでも、ボクの髪は黒くなった」
少年が自分の頭を、指先ではじくようにする。
その手つきとはずんだ毛先とを吸い寄せられるように目で追って、不覚にも視線がぶつかり合う。至極無邪気そうな満面の笑みと出くわす。
「問題ないよ。気に入らないことは自由にすればいい。清らかでまぶしすぎるなら、汚してしまえばいいじゃないか。向こうから追ってきたんだ。遠慮なくモノにしてしまおうよ? それで早く――」
――早く、あこがれをほんものに変えてよ、おとうさん。
「……っ!?」
不意に、少年のとなりにもう一人いると気がついた。
寝台の上に座り込んだ、より小さな体。
黒髪をおさげにした青い目の少女が、少年と手をつないでいる。
思わず踏み出しかけて、顔の前を光が横切った。
足元にいた蝶たちが一斉に飛び立ち、羽ばたきと燐光で視界をおおい隠す。
たまらず払いのけ、もう一度寝台の上に目をこらした。
しかし、幼い人影はどこにも見当たらなくなっていた。
「迷わないでね、ミスター?」
耳元で声がする。そこに姿も息づかいもないことはわかっている。
息を詰め、沸き立ちかける血潮を押さえ込むと、ドリューはゆっくりとした歩みで小さい方の扉へ近づいた。
固いノブを掴んだところで、すでにわずかに開いていたことに気がつく。
そのとき、視界の端で別の扉が開いた。
〝入り口〟にあたる方の大扉だ。
重たい扉が開き切らないうちから、ねじ込むようにして息を切らせた顔が覗く。
ほとんどその瞬間にドリューの姿を認めるや否や、汗と焦りを目元ににじませながらも、心の底から安堵したように、青い瞳がパッと華やいだ。
「よっ、よかったっ、見つけました! お話がしたいんです! ミスター!」
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