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第四章・第三節 偽薬と英雄

【前々回(第二節後編)のあらすじ】

 絶滅したはずの十一視蝶を復活させたのは、エルヴルの初代女王からイシヅエのかたちで連綿と受け継がれる《呪詛》だった。

 そしてイシヅエは初代女王の子宮と胎盤であり、代々の女王の体に移植することで維持されていた。王宮に集められた死産児たちは、胎盤を機能させ続けるために使われているのだった。


 しかも、国民たちの愛飲する《王家の丸薬》もまた、《呪詛》によって維持される十一視蝶たちの卵鞘(らんしょう)であると聞かされる。

 戦慄するハナだったが、そんなエルヴルの歴史ある営みを自然でないと批判したのは、ほかならぬ王配フォルストだった。


 そして彼は、代を重ねるごとに《初代女王の呪詛》の効果範囲が縮小されていることを打ち明け、ベルーデルの代になる前に、王室を解体してイシヅエを廃棄する必要があると告白する。

 ただ、そうすると延命できなくなるイズンとベルーデル、ひいては医療者のいないこの国のために、薬師として雇われてはくれないかと、ウルウァとハナに持ちかけたのだった。


 ウルウァは当然のようにこれを拒否するが、イズンとベルーデルを延命させる薬の用意だけは手伝ってもいいと譲歩する。その代わり、延命薬を渡したら、国の改革の成否にかかわらずすぐにイシヅエを寄越せと条件を出す。


 一方のハナは、ウルウァからは身の振り方に関知しないと突き放される。

 フォルストの期待にも戸惑って答えられずにいるその背中を、もの言わぬ士人がじっと見つめていた――



(字数:9,429)

 

(……ベル?)


 考え込んでいるうちに、うとうととしてきたのだろうか。

 あのにぎやかな姫君に名前を呼ばれた気がして、ハナは膝から顔をあげた。


 あてがわれた客室に人けはない。背中を預けている扉が外から叩かれている様子もなかった。


 部屋に戻って以来――というか、部屋に入って扉を閉めた瞬間、ハナはその場で座り込んで、以来、ずっと膝を抱えていた。

 自覚していた以上に足がなえ切っていた。頭の中身をぐるぐるとかき混ぜられているような感じがした。

 無理もない、とひとりごちる自分の中の自分は、どこか人ごとを見ているみたいだった。


 あるいは、整理はついているのかもしれない。

 十一視蝶の復活に関わる《初代女王の呪詛》のこと。

 《丸薬》とエルヴルの死産率と、そしてイシヅエの継承のこと。


 残酷でおぞましいからくり。卑劣さもあることは捉え直しようがない。


 だが、その糸車(いとぐるま)を回し続けることを選択しなければ、王家の人たちの命は危ぶまれた。

 だというのなら、受け止められない事実ではないとも思える。薬師として。


 何より、当事者たるベルーデルがすでに現実を受け入れ、受け入れながら抗おうとしているのだった。

 彼女の助けとなると自ら約束したハナが、目をそらして足踏みをしているわけにはいかない。


 本当の大きな問題は、からくりそのものが揺らいでいることの方だ。


 《初代女王の呪詛》はもはや風前の灯火。

 たとえ針の山でも踏みようはあるが、そのなけなしの足場さえもベルーデルたちからは失われようとしている。


 彼女たちの落ちる先が病の業火の中である以上、改めて薬師として手を差し伸べなくてはいけないと、理解はしていた。そう、薬師として。


 なのに、今は何も思い出したくなかった。疲れて、淀んでいた。

 まぶたの裏にぼんやりと残る夕陽色の瞳と、憂いと純真さの入り混じる強い輝きとだけを、意味もなく眺めている。



 ――きっとよ? 約束だからね、ハナ!



「――はな……はな……し――なたらし。これ、(はな)()らしよ」


 茫漠(ぼうばく)が破られる。唐突に鳴り出す雨音のような、甘たるい声。


「聞いちおるかゃ?」


 非難がましく気だるげな響き。ハナは覚醒を余儀なくされる。


 脇腹のあたりで、そこへ結わえつけた小さな水牛の頭骨が揺れていた。

 再びひもを通したそれを、玉座の間から出る際、今度はドレスの外の、腰の花飾り(コサージュ)のあたりにくくり直しておいたのだった。


「疾師様……何ですか?」

「ナニもカニもあるかゃ、(ほう)けよって。温室育ちの虚弱娘どもに延命薬を調合しちやるための段取りぞに。ウルがそちらにおらん以上、おんしの手を使い倒すよりほかなかろうがぇ」

「……いても同じじゃないですか」

「ンじゃと? うん? いや、確かにねぁ」


 頭骨の眼窩の奥でウルウァの鼻白む声がする。


 ハナも内心で少し、自分の冷めた物言いに驚いていた。

 ただ頭の中では、ウルウァの言ったハナがやるしかないという話の方が、わだかまって渦を巻く。


「すいません……聞いていなくて」

「ケッ。まあ()いわ。ねども、待てという話ならば聞かんぞに。この国にウルは義理も恩義はありゃせんけに」

「……初代女王様の指示書というのは、関係ないんですか?」

「知らんねぁ。所詮、病に()りつかれ狂い()ちた女ぞに。都合よく疾師が訪ねて来よるのを、切望しちおっただけのことよ」


 ウルウァはすげなく吐き捨てたが、指示書にある『疾師』が自分を指していないとは言わなかった。

 おおむねまったく縁もゆかりもないというわけではないのだろう。どちらにせよエルヴルの改革を待つつもりがないことに変わりはない以上、ハナも追及する意味を見いだせなかったが。


 目下の問題は、王族に属さないエルヴルの民らのこと。

 このままウルウァの指示通り王室からイシヅエを取り上げてしまえば、民たちは適切な医療者を得られないまま放り出されてしまうことになる。

 内乱の心配もあるが、もっと単純に、病の蔓延(まんえん)や不安による混乱で()(せい)の人々が苦しむことになるだろう。

 王配たちは一刻も早く、移住してくれる薬師を国外から見つけてこなくてはならない。


 言うまでもなく、ハナは適材だった。

 もとい、きっとハナ以外にはいないに違いない。


 ハナ自身にも、引き受けたい思いはあった。

 薬師としてできること。自分にしかできないこと。

 どちらの欲求も満たされていて、引き受けない理由などないと言っても過言ではない。

 確かに急な話ではあるが、いつか見つけたいと思っていた『自分の行き先』が向こう側から手の届くところに駆け寄ってきたような感覚もあった。


 きっとウルウァにこの話を打ち明ければ、薬屋開業おめでとうと皮肉と嫌味たっぷりに祝ってもらえることだろう。

 アーシャのことにはあえてひとことも触れずに。


 無論、それが一番残酷な仕打ちだからにほかならない。


 延命薬を調合し終えたあと、きっともうハナはウルウァたちには必要ない。

 いや、元々ハナの独りよがりで士人を追ってきたのだ。

 自分以外にはできないことだったのかもしれなくても、誰かがやる必要のあることだと思い詰めていたのはハナだけだろう。


 たくさんの誰かに望まれている、新しい選択肢が目の前にある。

 アーシャだって、きっと《落果病》はウルウァたちにそつなく治療され、ハナが薬屋を開く話を聞けば、目を輝かせて喜んでくれる。


 そう確信できても、ハナの動揺は収まらなかった。


 返事は今すぐでなくていいと、玉座の間でフォルストはハナに(さと)した。

 ハナがうろたえ尽くして悄然(しょうぜん)としていたのは、誰の目にも明らかだっただろう。


 フォルストは今にもすがりつきたい思いに駆られていたはずだった。それでも人柄ゆえと為政者の器か、ハナを気づかってくれた。

 ただ、ハナの方からも、そんな扱われ方を期待して、白く凍りついたような思考の中で何かが吹き荒れているふりをしてはいなかっただろうか。


「初代女王……フラガ様、でしたか?」


 ハナは話題を変えるふりをしてたずねた。


「疾師様のその延命薬には、ご自力でたどり着けなかったのでしょうか?」

(いん)や。むしろフラガはその延命薬でどうにか生き延びちおった。彼奴(きゃつ)が呪詛憑きとなり果てるまで、十一視蝶はこの世におらんかったのじゃけに」

「え……? じゃあ、《呪詛》を発現してしまうくらい思い詰めるまで、十一視蝶を求めていた理由は……」

「耐性の問題じゃ。おんしもあの王女に話しちおったろう」


 ハナは、ベルーデルと城壁の上で話したことを思い出す。

 老齢のエルヴル民が《丸薬》を飲み続けないことを聞かされたときだ。


 ハナは長期に渡る《丸薬》の服用に、薬の効果が弱まってくる『耐性』の存在を疑った。

 実際の服用をやめる理由からは外れていたが、ハナの知識が否定されたわけではなかった。

 そして今、疾師は別の薬に関してその現象の存在を肯定しているのだった。


「先天性の疾患とは、エルヴル王家の場合、たとえるに狂った時計じゃ。歯車がおかしいのなら、狂った時の進み方の方がその時計にとっては正しい。同じように、王族の肉体にとっての()()()()とは、『生物としては正常でない状態』を維持することの方にある。延命薬はそのような肉体に無理やり『正常』を演じさせる、ある種の毒劇(どくげき)ぞに。

 当然、肉体は強いられた『正常』を忌み嫌い、『自然』へ戻ろうとする。戻る力を押し返すために薬はより効力を示す。

 ねども、同じことを繰り返しちおれば、肉体の側がその変化に慣れ親しみ、演じるも戻るも気の抜けたものになっていくぞに。晩年のフラガの肉体は、フラガ自身の意に反し、薬の力にもはや()い果てたも同然じゃったろうねぁ」

「それで、死の恐怖から呪詛憑きに……」

「それもあったろうが……エルヴルの建国当時、フラガには二人の娘がおった。厳密には一人と、(はら)の中にもう一人。重ねて長女は、母親と同じ持病に加え、生来子宮が欠損しちおり、子を望めなんだ」


 十一視蝶復活の研究は、娘たちのためでもあった。

 さらに自分でもう一人世継ぎを産む必要もあり、二重に追い詰められていたということなのだろうか。


 王位を存続させることの重みは、ハナにはやはり理解できない。

 しかし、血統の続く見込みが絶えてしまえば、娘のための研究を引き継ぐ者もいなくなるという懸念はあったのかもしれない。


「長女の即位から逆算すれば、フラガが呪詛憑きに堕ちたのは臨月か、その間近。おそらく次女を産み落とす前に、疾患による苦痛が限界を迎えて呪詛憑きに堕ち、なし崩しに十一視蝶を復活させたことで、長女の延命には成功したのじゃろう。しかしそのままでは三世代目が危ぶまれたため、狂廃(きょうはい)したフラガから胎児ごと子宮を抜き取り、長女に移植(うえうつ)した……これは当時の王配の指図かのぅ」

「それで子宮と胎盤がイシヅエに……」


 初代の王配の人柄はわからない。

 敬愛すべき王にして妻であったフラガの本望を汲み上げたつもりで、娘に妹を産ませたのだろうか。

 そして産んだあとも、空になった子宮には誰かの死んだ赤子を――今となっては顧みる者もいない。


「延命薬の耐性……避ける方法はないんですか?」

「ない。ウルが知らぬということは、ないということぞに」

「鱗粉だと問題ないのにですか?」

「くどい。そもそも十一視蝶の翅および幼体内にある長命成分が、いちじるしく特殊じゃけに。あれは狂った歯車を狂ったままにしながら、全体が壊れるまでを限りなく遅らせるものぞに。肉体の側には狂っている自覚などないゆえ、壊れぬのをいいことに平気な顔をし続けちおるだけのこと。元来治療してすらおらんのじゃけに、耐性など出るはずがない。()()()しばかりの()(やく)よぇ」


 やけに十一視蝶を目の敵にする疾師の心情までハナには()し量れない。

 肝心なのは、まさに秘薬級の特殊すぎる例のほかは、たとえウルウァの調合する薬でも耐性の問題はつきまとうということだ。その点でも十一視蝶の鱗粉が最適解であることに、ハナは歯噛(はが)みしたくなる。


「服用する量を上手に制御できたとして、延命薬だけでどのぐらい耐えられるんですか?」

「一概には言えん。患者の体質や病状にも左右されよる。また素材の枯渇の問題もある。いずれにしろ、常人の四半分も生きられんじゃろうがねぁ」

「そんな……」


 ハナは言葉を失う。

 老いを迎えるというのがたとえ贅沢な望みであっても、せめて普通の人間の半分は生きられることを期待していた。なのにそのさらに半分未満だなんて……。


「延命は延命じゃ」


 疾師が冷笑する。


「どの程度生かしてほしいかなぞ、ウルは聞いちおらん。少なくとも《呪詛》のくびきからは解放され、死に場所を探しに旅立つだけの猶予は与えられるぞに。よかったではないかゃ? 王女の悲願どおりぞに」

「あの子は、そんなこと望んでません……」

「そうだったかのぅ」


 ハナは力なく言い返したが、ウルウァには効くはずもない。

 むしろ本質ではウルウァの言うとおり、ベルーデルの望みは、そしてハナとの約束は、ウルウァの延命薬によって果たされるのだった。


 命続く限り、どこへだって行ける。

 地平線の向こう側の景色を見たあとに、エルヴルにも帰ってこられる。

 王女の小さな大冒険。最初で最後の。


 ハナには否定し切れるはずもなかった。


「ときに、洟垂らし」


 急に声色を変えたウルウァが、遠慮なしにたずねてくる。


「現女王から何やら書簡(しょかん)を押しつけられちおったのぅ。あの中身は何ぞに?」

「書簡……」


 一瞬考え込んで、女王イズンから渡された古い犢皮紙(ヴェラン)のことを思い出す。

 筒状に丸めたそれは、ずっとスカートに並ぶ造花(コサージュ)の列の隙間に挟み込んであった。

 抜き出して広げ直し、言われたとおり書面をあらためる。


「何かの処方箋(レシピ)のようです。言葉が古いですが、妊婦? に使うとあるような……」

「ざっと材料を読みぃ」

「……ウロコネズミのウロコと卵巣、タテナガレイヨウの胎盤と羊水。どちらも妊娠期とあります。それからカラスバチの巣、(しら)()りに(かか)ったクロカイコの幼虫、アカゴマグサの根……」

「ほう? 『()(にん)薬』か。やや不完全じゃども」


 疾師は少し感心するように言った。ハナは首を傾げる。


「偽妊?」

「読んで字のごとく、肉体におのれが妊娠状態にあると誤認させる薬……じゃども、使い道としては、実際に妊娠しちおる者に与え、状態の安定をはかることの方が主流じゃのぅ。悪阻(つわり)の軽減や、産後には乳の出がよくなるといった副次の薬効も見込めるとされちおる」

「妊娠状態の持続と安定……? ……もしかして」


 ハナはもう一度、注意深く処方箋(レシピ)を覗き込む。

 すると、古い文字ばかりが並んでいる文面の外に、最近になって書き足されたらしい短い一文を見つけた。



《いとし子がつばさを求めたのなら――》



「……どうやら母親は父親とは意見に齟齬(そご)があるようじゃのぅ」

「どういう意味ですか?」

「ケッヒヒ、とぼけるなゃ。いかな洟垂らしといえど気づくぞに。その薬を完成させれば、死産児の確保がままならずとも、イシヅエを維持できるとねぁ」

「……!」


 まさかとは思っていた。だが、確かに考えたとおりのようだった。


 《初代女王の呪詛》のイシヅエを維持するために、死産児、あるいは生死問わず胎児が必要な理由。

 それは胎盤という器官が、妊娠状態の終わりとともに機能を停止し、自死することになっているためだった。


 イシヅエは誰かの体の一部として〝生きる肉〟でなくてはならない。

 胎盤を生かし続けたければ、妊娠状態が続いていることを母体に誤認させなくてはならない。


 そして薬でそれができるなら、死産児の供給が途絶えても胎盤(イシヅエ)の維持は可能ということになる。国民たちに《丸薬》を飲んでもらわなくてはいけない理由がなくなる。

 しかし、それはつまり――


「無論、肉体に自然でない状態を強いる以上は、耐性の問題が出て来よるけに、永遠にだまし続けることはできん。ねども、延命薬と組み合わせれば、『四半足らず』が『半余り』くらいにはなるぞに。上々ではないかゃ?」

「でも、イシヅエを廃棄せず、ベルーデルに継承させてしまったら、エルヴルの人たちを納得させられなくなってしまうんじゃ……」

「知らんということじゃろう、そんなことは」ウルウァはにべもなく言った。「愛娘のためを思えば()(まつ)に過ぎん、とねぁ。母親とはおおむねそういう生き物でないかゃ?」

「そんなこと……」


 あり得ない、と言える直感を、ハナは自分が持ち合わせていないことに気がつく。


 子を持った経験がない。どころか、母親を持ったことすらない。


 師匠はどうだろうか。

 弟子である前に妹分のようだったハナのために、自己を犠牲にしてしまう彼女は、他人までをも犠牲にしてみせるだろうか。


 そして、唯一の肉親のために、関わるものすべてを対価にせざるを得なくなっても、ためらわない者をハナは知っている。

 『弟』ですら、()()なのだ。


 たとえ、死産児を集める目的で十一視蝶の卵鞘(らんしょう)を無病長寿の秘薬と偽り、広めるとともに医療者のいない国にしてしまったのが自分たちの親の親たちだったとしても、いたいけなベルーデル一人を生き永らえさせるため、イズンは限りなく非情になれる――それも不思議ではないように思えてしまった。


「ケヒヒ。しかし医療者がおらんことでその処方箋(レシピ)を誰にも(たく)せず、結局途方に暮れちおったと見れば愉快な話ぞに。まことに英雄じゃのぅ、洟垂らし。あるいは、飛んで火に入る(よい)の虫かのぅ?」

「……じぶんはまだ、残ると決めたわけでは……」

「ほう? まあ嫌なら断っちおくことぞに」

「え……?」


 一瞬、何を言われたのかわからず硬直する。

 遅れて、薬師としての客員(きゃくいん)の辞退をすすめられていることに気づき、なおも唖然とした。

 ウルウァならば、手に余ることを承知したうえで、受けろ受けろと心にもなく煽り立ててくる。そうハナは思い込んでいたのだ。


「おんし、『獲得免疫』は知っちおるねぁ?」


 戸惑うハナをよそに、またウルウァは唐突に別の話を持ってくる。

 しかも知っていて当たり前と威圧するような言いぐさに、ハナは流されるまま答える。


「獲得……一度罹った病に、罹りにくくなること、ですか?」

「合格にしちやろう。

 ほとんどの生物に備わっちおるその機構の真価は、すな()ち、肉体が病との戦いの記憶を積極的に保存することにある。一度目の罹患では手当たり次第に策を講じるほかになかったものを、二度目は何が有効じゃったか覚えちおるけに、よりすみやかに対処できるちいう仕かけぞに。無論、発症に至ったときに限らず、体内に侵入した病の因子すべてについて、肉体は学習し記憶し続けていく。獲得免疫とは、いうなれば、生まれ落ちてから連綿とつづられる肉体の戦歴じゃ」


 さて――とウルウァが息をつくと、ハナは思わず身構えた。

 疾師の声色は一段高くなった。


「エルヴルの者たちの戦歴はどうなっちおるかのぅ? んん? 生き物は生まれたそのときから大小さまざまな病の因子にさらされちおる。それらに随時対処していくことで、おのれを外界に適合させていくのよねぁ。

 対して、《王家の丸薬》は肉体の異常を異常として表出させず、認識もさせぬ代物ぞに。敵を認識しなくては(いくさ)も起こらん。戦歴は白紙のまま。病の因子たちは因子たちで、無視されたまま確かに手も足も出せんねど、着々と体内に死蔵されていく。

 その状態から前触れもなく《丸薬》の作用が消えてなくなったら、おんし、どうなるち思うねぁ?」

「うそ……」


 一連の話とつながらないわけがなかった。

 焼けた器に水を打つようなものだ。


 ハナは病に罹り慣れていない人々が慌てふためいて間違いを犯すことばかり心配していた。

 だが、ウルウァの見立てが真実だとすれば、間違う余力すら彼らには与えられない。

 いくら薬師が心の支えになれたとしても、意味がないほどに。


「そう。これよりこの国は未曾有(みぞう)疫災(えきさい)に見舞われる。それこそ国として滅びるほどのねぁ。とても一介の薬師の手に負えるものではない。ましてや……()()()()()()()()()()()()()()()()()()の小娘ではのぅ」


 臓腑の止まる予感がした。


「……何の話ですか?」


 息を殺し、耳を澄ます。獣のように。

 乾き切った眼球で腰に提げた頭骨を見おろして、しかし口の中で舌だけはなめらかにうごめき、ひとりでに問い返している。


「おん? 自分で自分を知らなんだかゃ? おんしの脳髄には、(はな)から《呪詛》の廃棄を願うことしかなかったじゃろうに」

「何を……言って……」

「見当違いかゃ? ならばなぜ、王女にイシヅエを植え移せると知ったにもかかわらず、ともに国を出ることを考えん?」

「――!?」


 総毛立つ。

 血潮を忘れたようだった。


 体がここになくなったような感覚があった。

 薄い肌だけが残って、不安定に揺れる。


 手にしていたはずの犢皮紙(ヴェラン)が、つま先の上に落ちた。


「《呪詛》を継承した王女をウルのもとまで連れてくれば、家政婦の治療も叶う。遠地へ行きたいという王女の望みも(しか)り。たとえ子を成せねども、女三人、かしましく暮らせばよい。何を迷う?」


 疾師が淡々と述べあげて問う。


「それほどまでにエルヴルの平民どもが大事かゃ? 薬師の誇り? 矜持かゃ?」


 薬師(おのれ)の対極にある者の声が、まるでおのれの声のように肌に食い込む。


「違うねぁ。どれも、違う。おんしは(はな)っから、心の底から、この国のすべてが気に()わなんだ」


 血は流れない。血はどこかに消えた。

 ただ、食い破られる痛みだけが熱く。


「無病長命? 死産慣れ? 何もかもが醜悪で間違っちおる。うわべの鷹揚(おうよう)さなぞは吐き気をもよおす。おんしはそのような愚かしい国が狂乱に堕ちてゆくのをただ、見たいだけぞに。おのが(まなこ)で、渦中にて、誇らしげに薬師のボレロをはためかせてねぁ」


 ()(きわ)めなさい――と、師匠は言った。


 この国の本質――犠牲――巫女――……

 在るものを(いと)わず、流れに逆らわず、また為すべきことを為し、おのが(いとな)みをいつくしむ。


 無垢だった。エルヴルは。

 白く、まぶしく、誰からもそしられるいわれのない。

 たとえ狂っているにしても、狂った姿こそがありのままなのだから。


 けれど……だからこそ―ー


「だって……受け入れられるはず、ないじゃないですか。薬師が必要ないなんて……それも、万能薬どころじゃない、《呪詛》だなんて……」

「《呪詛》だろうち偽薬じゃろうち、()()()ものは〝薬〟ぞに」

「……ッ!!」


 唇をかんだ。

 肉の味だ。皮の下の黒い肉。

 どうしようもなくどす黒く、濁り切った血と肉の。


「何で癒すか、何が命を救うか、それを定めるは薬師かゃ? ただ薬師というだけで、なぜ誰かの()()()()を握りたがる? 万能感? 多幸感? 病みつきになるのも無理はないねぁ?」

「……だったらッ!!」


 叫ぶ。

 叫んでいた。


 膝の上に手を握り、背中を丸め、満身の力を込めたつもりで。


「だったら……薬師は何のためにいるっていうんですか……?」


 風に吹かれて、赤く光った燃えのこしのように。

 あとはただ、かすんで沈む。


 耳のうしろでさりさりと、カンザシの先の銀細工が揺れていた。


「……知らん。ウルは薬師でなく疾師じゃけに」


 やがてウルウァはそう言った。言葉は、ハナの鼓膜を素通りしていく。

 ただぼんやりと、足先に落ちた一枚の紙片を眺めていた。


「おんしの存在意義など好きに定めや。どのみち《初代女王の呪詛》がエルヴルを去ることは決まっちおるわ。存分に喜ぶが()い」


 うんざりと吐き捨てるように告げたウルウァの声は、見限ったように、どこかへ遠ざかっていく。


 エルヴルを去る――その言葉だけがハナの頭の中で機械的に反復されて、ふと、顔をあげる。


「……疾師様?」


 返事はない。だが、息づかいを聞いた気がする。


「疾師様」

「ああ? 何ぞに」

「イシヅエを引き取ったあと、どうやって持ち帰るおつもりなのですか?」

「そりゃあ、おんし、体の中に植えたまま持ち帰るに決まっちおるわぇ」


 景色が赤らんだ。


 忘れていた拍動が戻ってくる。

 ドクドクと耳元でうなりをあげて、体中に張り詰めた火種を送り込む。


「無論、おんしが(はら)を空けてくれるちいうことじゃったら、使っちやるのもやぶさかではない。ねども、植え移しの成否には、新旧宿主同士の相性が関わるけに。理想はやはり血縁者同士よねぁ」

「最初から、そのつもりで……!」


 どこか愉しそうに述べるウルウァに声をわななかせかけて、そのときハナはまたひとつ気がついた。


「ミスターは……どこ、ですか?」

「さて? さてのぅ? ウルが知るわけあろうかゃ。自分にあてがわれた部屋で()()()()()腹をすかしちおるじゃろう。きっとねぁ」

「……ッ!」


 悲鳴をあげそうになりながら、ハナは立ちあがった。

 反射的に寝台に駆け寄り、その脇に置いてあった自分の荷物を取ろうとする。がしかし、


「!? 背負い箪笥(だんす)が……」


 なかった。

 その上に並べてあった小物が他の家具の上に移され、ハナの薬箪笥とその鍵だけが消えている。


 誰が持ち出すだろうか。

 士人はあり得ない。

 手癖の悪い給仕(メイド)? 鍵が置いてあるのにわざわざ箱ごと持っていくだろうか。

 箱自体に魅力を感じそうな人間……。


 無意識に寝台の上を見る。

 見た目にもすっかり汚れを落とされたとわかるハナの旅装束が、少ししわになった状態でそこに放り出されている。給仕の仕業(しわざ)ではない。


(ベル……?)


 考えるより先に肌が(あわ)立ってきた。


 背負い箪笥を持ったベルーデルは、どこへ行く?


 旅装束も着ようとして諦めた。

 もしも着られていたら、きっと見せたがったことだろう。


 誰よりも、誰に? どこで?


「ダメだ……今はッ!」


 ここにいない者に呼びかけるように口走りながら、部屋を飛び出していく。


 勢いよく開け放った扉が風を起こし、落ちていた犢皮紙(ヴェラン)が廊下に流れ出ていった。



 明日昼頃次話投稿予定。毎日更新中。

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[良い点] 都合のいい場所が向こうからやってきた、言われてもしょうがない状況で、ウルはちゃんハナでは受け止めきれんだろうと踏んだ。 と思ったんですけど、ウルのエルヴル毛嫌いっぷり、幼い容姿に不自然なプ…
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