第三章・第9.5節:side 瘡師(そうし)
彼女たちの話。
(字数:2,754)
☆ 挿絵協力:伊呂波 和 さま (@NAGOMI_IROHA on Twitter)
半地下に埋められた半球状の部屋。
火の気のないその場所には、しかし青白い仄明かりがただよっている。
息もできないほど無数に寄り集まり、それは月をもしのぐ輝きでこの穴倉を満たしている。
なけなしの天窓は、もはや明かりを採っていない。
忍び寄る黄昏の冷気を歓迎し、十一の眼を持つ燐光の守り人たちはますます乱舞し始める。
ヘイゼルは、寝台の支柱に背中を預け、その浮世離れした光景を眺めていた。
またたきの集合はまるで星々の海のようだが、絶えず穏やかにうねり、不思議に連帯し続ける有様は、躍動する生物の筋肉をも連想させる。
生物は初めから巨大で、日を追うごとに際限なく膨れあがり、やがてあぎとを開いて我々を飲み込むだろうか――
ヘイゼルは目を細め、夢想した。
あるいは、ここがすでに腹の中か――。
音がしている。
むしゅ ぷぢ
音がしている。
むしゅ ぷぢ ぴちゃ きちゅ
絶え間なく音がしている。
水気を含んだ、柔らかい音。
やがて、しなくなる。静寂のあとに、甘やかな声を聞く。
「あの子……名は何と言ったかしら?」
寝台に背を向けたまま、ヘイゼルは少し思案した。
「ハナ様……のことですか?」
ハナ――流れ者だという、薬師の少女。
王女殿下が連れ込んだ、エルヴルの外の者。
まるで気弱な田舎者という風情ではあったが、不思議と根に満ちた覇気をあの青い瞳の底には感じられた。若さゆえかとも思ったが、どこかおもむきが違っている。
医療者とはああいうものなのだろうか。
どことなく気にかかり、そこはかとなく気持ちがざわつく。
「そうね。そうだったわ。ハナさん」
寝台の上で、イズンがその名を口にする。うっとりとした様子で。
ヘイゼルは息詰まるような心地を覚える。
「きれいな子だったわね。おまけにとてもいい子。まるで宝石のような人」
シーツの上で、手が動いている。
こころなしか踊るように。奏でるように。
「それに、とても背が高かったわ。生まれつきああなのかしら。ねえ、ヘズ?」
「……でしょうね。薬師ですから」
傭兵稼業ならばともかく、抜きん出た背丈を医療者があえて求める理由は思いつかない。ハナの高身長は間違いなく自前だろう。
「なら、そのうちあなたも追い越されるわね、ヘズ」
イズンはおどけたように笑った。
むしゅ ぷぢ
「……イズン様」
ぴちゃ きちゅ
「……イズン様。もう」
「覚えてるかしら? ヘズ。あなたと二人で、お城を出たときのこと」
ヘイゼルは口を閉じる。
イズンはいつものように、懐かしい日々を唄うように語る。
「あの小さな森のそばを通って、田園の端まで行こうとしたわね。二人で旅人みたいな恰好をして、誰も知らない抜け道を通って、なのに誰かに声をかけられるんじゃないかって、すごくドキドキしたわ」
覚えていないはずがない。
計画を立てたのはヘイゼルだ。
絶対にうまくいく自信があった。
だというのに、いざイズンの手を引いて廊下に踏み出すと、足がすくんで動けなくなった。
子供の頃の強い記憶。
「あの頃は、わたくしの方が背が高かったわね?」
「……」
「当時の兵団長の一人娘とはいえ、あなたは普通の子供だった。わたくしのことも、二人のときはイズと呼んでくれたのに……」
「……昔の話です」
むしゅ
「わたくしね、うそをついているの。一つだけ、あの子に」
音がする。
そして続きを鳴らす予兆のように、澄んだ声が話す。
「あの森を通り過ぎて、振り返ってもお城が見えなくなるところまで行ったのよ、って。本当は、森の手前で終わってしまったというのに」
「……」
昔の話――ゆえにこそ、あの頃のヘイゼルはまぎれもなく甘かった。
子供だったからでは済まされない。
照りつける陽の下で、自分より大きな体を背負い、半ば引きずるようにしてあぜ道を歩いたことを今でも克明に覚えている。
軋みをあげる肺がつぶれ切ってよじれるまで叫んで、農夫らに助けを乞うたことも。
だからあの日、ヘイゼルは自分に約束した。
この手で二度と、彼女を傷つけることがないようにと。
ぷぢ
ぴちゃ
きちゅ
「イズン様」
むしゅ ぷぢ
ぴちゃ きちゅ
「そろそろ、おやめください、イズン様」
「あなたは薬師? ヘイゼル」
「違います。しかし……!」
「約束は覚えているかしら?」
抑揚の消えたその声を聞いて、ヘイゼルは血の一滴まで凍りつくのを感じた。
たまらず荒げかけたはずの声が、胸の底に落ちて、鉛のように重く沈む。
「覚えているわね、ヘズ?」
「わたく、しは……」
むしゅ
「お願いね、ヘズ。あなたの手で。きっと、あなたの手で……」
ぷぢ
一対の両手で持った、空の器を見おろしている。
器の底に残る白く濁ったしずくが震えている。
次第に大きくなっていくその震えを抑え切れず、ヘイゼルは割れそうなほど噛みしめた歯の間から嗚咽を漏らす。
「無理、です……わたくしには……耐えられるはずがない……!」
音がしていない。
気がつくと、背後では規則正しく深い息づかいが続いていた。
寝台の上を振り返る。
双眸を閉じたこの部屋の主が、大きな枕に体をうずめ、仰向けに横たわっている。
浅く上下する胸の上には、青い小さなかけらたち。もぎ取られ、千切られた蝶たちの翅。
むしられた胴体はどこにも見当たらない。
淡く光る木の葉のような残骸だけが、寝間着と夜具とを汚している。
ヘイゼルはイズンが眠りについたのを再度確認すると、十一視蝶の羽を払いのけるようにシーツをめくりあげた。
夜具を押しあげていたイズンの下腹部があらわになる。
そこに胎児がいた。
胎の中、イズンの皮の下にではない。
イズンの平たい腹の上で、むき出しの胎児が、背中を丸めてうずくまっている。
胎児の顔には鼻がなかった。口もやけに平たく小さい。
何より眼が一つしかなかった。左右のいびつな耳介のちょうど中間地点に、眼球の埋まった小さな亀裂が一つだけ走っている。
胎児には拍動がある。だが息をしていなかった。未熟な四肢は石のように硬直している。
それは胎児の遺体だった。
とうに息絶えたのち、薬で脈だけが戻るよう処置した死産児だ。
切り取られず残ったへその緒だけがどこか瑞々しい。そしてその先端は、イズンのへそに埋没している。
幾度も切り開き、縫合した痕の生々しいイズンの胎と、死んだ胎児は繋がっていた。
その死産児を落とさぬよう、ヘイゼルはイズンに膝を曲げさせて、その下に片側の二本の腕を差し入れた。
それから反対側の腕の一本を背中の下に、もう一本を首に添えようとして、その前に、イズンの口の端にこびりついた青い鱗粉を指で払う。
十一視蝶は毒を持つ。ただし生きて温度を持つ動物の体内では効かない。
味のしないはずのそれが、妊婦の舌には甘いという。
「……わたしにあなたが、殺せるはずないじゃない、イズ」
静かに抱きかかえる。
寝台から離れ、この部屋で一番目立たない扉へ向かう。
四本腕に預かった巫女の身体は、子を乗せてなお、煙のように軽かった。
第三章『エルヴル』――
――了
明日昼頃次話投稿予定。毎日更新中。





