第三章・第九節 鋸壁と林
【前回のあらすじ】
王女ベルーデルに連れられ、彼女の母である女王イズンと謁見を果たすハナ。
現役の『巫女』でもあるという彼女は、牢獄のような石室で、無数の十一視蝶に囲まれて暮らしており、しかも妊娠しているようだった。
ハナはイズンに心から歓迎され、ベルーデルと息を合わせて薬師であることをほめそやされる。
しかし、イズンがハナを気に入ったことに乗じて、ベルーデルがハナの旅についていきたいと言い始め、ハナはイズンから意見を求められる。
ハナはアーシャのために急いでいることを打ち明けながらも、できることはしたいと真摯に答えた。
しかし、話が終わらないうちに兵団長のヘイゼルから、イズンの体のために時間を気にするよう諭される。
ベルーデルと退出する前、ハナだけが呼び止められ、イズンから何かの薬の処方箋を渡される。
それが何であるかをイズンは説明せず、代わりに、ハナのしたいようにしていいことと、ただできればベルーデルのよき友でいてやってほしいとだけ伝えたのだった――
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女王の間を出ると、ベルーデルの姿が見えなかった。
王宮本館までの一本道をたどり、調理場付近まで戻ってみる。
給仕らに声をかけると、一人で歩いているベルーデルを見かけた者が何人もいた。
幸いハナはイズンから借りた肩かけ(ショール)を着たまま出てきたので、上から降りてきたときよりは物怖じせずに行き会う者たちを頼ることができた。
いったん中庭に出て、城壁の角にある尖塔の一つへ向かう。
尖塔の中もらせん階段になっていて、のぼり切った先は城壁の上に繋がっていた。
外側に鋸壁が立ててあるだけの、雨ざらしの回廊に出る。
朱に染める西日と強まる風を受けながら、壁の狭間に小さな体を丸めるようにして、ベルーデルが座っていた。
「ベル……」
「あ、ハナ」
物憂げに街を見おろしていたベルーデルが、足音にも気づかなかった様子でようやくハナを見る。
階段を駆け上がって少し息が上がっていたハナは、安心して大きく息をつくと同時に、思わず苦笑を漏らしていた。
「置いてかないでください」
「……うん」
ごめんなさいと、唇は動いていたが、かすれた声は風が押し流していった。
いつまでもあふれんばかりだった彼女の快活さが、今は枯れ果てたように鳴りをひそめている。
女王の間でヘイゼルに退室を促されて以来、まぎれもなく彼女は消沈していた。
「時間がかかると思ったの。お母さまは、もしかしたら、ハナに話すのかも、と思って……」
「何を、ですか?」
「……何だろ? 病気の話、かな」
曖昧なことを言って、ベルーデルは微笑んだ。
弱々しく、おどけた自分を嘲るような、悲しげな目をして。
まるで別人のようなしぐさ。
ただどこか、別れ際に見た彼女の母親をも彷彿とさせて、ハナは翻弄される。
今にも消え入りそうな儚さ。病める人の影薄さ。
本来なら生存すら危ぶまれる大病を抱えた彼女の、それが本当の顔なのかもしれなかった。
青き燐光をまとい、蝶たちに愛されて痛苦を忘れ去りながらも、生来火のない牢獄のうちにあり続けている、冷え切った小さな魂。
ハナから目をそらして、彼女は呼ばれたように夕暮れの雲を眺めていた。
そうしていると、風になびく髪がまた金色に光って、青白い肌も蜜を溶かしたように色づいて、迫る巣立ちの朝を穏やかに待つ、若き精悍な野鳥のようだった。
「お年寄りが少ないって、ハナは気がついたかしら?」
唐突に訊かれて、ハナは答えられずに首を傾げた。
横目に目を合わせたベルーデルが、再び苦笑して「街の話」と付け加える。
「変よね。いくら《丸薬》で寿命が延びるといったって、歳を取らなくなるわけじゃないのに」
言われてみれば、確かに容姿の若い人ばかり見るような気がした。
門兵アールの家に現れた産婆はそれなりに高齢だったはずだが、それを除けばせいぜいアールの上司の副兵長が四十がらみに見えるくらいで、街中でもこの王宮でも、それ以上に年かさのありそうな者を見た覚えがない。
《丸薬》による無病と少子化も手伝って、ともすれば老人の方が多くなりそうな国柄に思えたが、実態は正反対のようだった。
「……効かなくなってくる、ということですか?」
ハナは薬師の知識から答える。
薬の利用には、『耐性』という課題がつきまとう場合があった。
耐性――つまり、長い期間に同じ薬を使用し続けることで、次第に薬の作用が弱まってくる現象を指す。
一度に摂取する薬の量を増やすことで対処できるものの、当然ながら無限に増やせるわけではない。副作用だけが強くなる場合もある。
同じ薬の使い続けることには、いつか限界が来る場合があるという話だ。
しかしベルーデルは、そうではないと、かぶりを振った。
「自分からね、《丸薬》を飲むのをやめてしまうのよ。だいたいは、子供を産めなくなったあたりで」
「あ……」
ハナはその意味を理解して、しばし言葉を絶した。
エルヴルの民は、どうやら、産むことへの強いこだわりがある。
死産を増やす《丸薬》を愛飲しながら、《丸薬》によって得た長命と頑健さを、子供を増やすことへ注いでいるようだった。
なかなか生まれないのだから、当然といえばそうかもしれない。
ただ、それゆえ人々の意識も、実際の生活も、子供を産める者を中心に回るようになっていても不思議ではない。
女性の平均的な閉経は五十代とされる。
エルヴル民なら倍の百歳まで子供が産める。
そして《丸薬》を飲み続ける限り、寿命は二百、あるいは三百にもなるかもしれない。
残り二百年、人々の輪の外に出て、子をなすことへの重圧を忘れ、悠々と生き続ける。
それは、それはきっと……。
「もちろん、お年寄りがのけ者にされてるなんて話は、聞いたことがないわ」とベルーデル。
「特に女性は、長いあいだに何度も戦ったあとですもの。みんなあたたかくねぎらいはする。けれど……」
一度言葉を切って、目を伏せる。
不格好に長い沈黙のあと、その小さな唇がかすかにふるえて、「この国は、手狭だから」こもった声だったが、そうつぶやいたみたいだった。
「……壁の向こう。森が見える? ハナ」
また急に顔をあげ、ベルーデルは城下の街よりもさらに遠くへ視線を投げながらたずねた。
ハナもつられて、手近な壁の狭間から王宮の外に目をやる。
白い建物と水田の入り乱れるエルヴルの街並みは、王宮を中心に円形に広がっていた。
その外縁で弧を描く石壁の向こうには、地平線が見える。
その少し手前、国境周りの平野部に、ぽつんと取り残されたような木立があった。
ベルーデルは森と言ったが、ほとんど林の規模だろう。
夕陽を背に浴びて木立は真っ黒だったが、特におかしなところはないように思えた。
「あの森の周りも、昔は農地だったんですって」とベルーデル。
彼女の真意がわからず戸惑いながら、ハナはもう一度目をこらす。
エルヴルの外周は、わだちのある街道以外は丈のある草がはびこっていて、元の農耕地の名残などまず見つけられそうになかった。エルヴル生まれのベルーデルが言うのだから、そうだと信じるしかない。
「農地ということは、国境も?」
「そう。以前はもっとずっと先。地平線より向こう。あの壁も、お母さまが子供の頃にはなかったのよ」
ハナは今度こそ驚かされた。
国境の壁は、この城壁ほど高くはないにせよ、エルヴル国の外縁全部を隙間なく囲っている。
十数年前まではそれが存在せず、地平線の彼方まで田園が敷き詰められていたのだとしたら、この国にいったい何が降りかかったというのか。
しかしハナがそれを問う前に、ベルーデルはおかしそうにクスリと噴き出した。
「ずるいわよね。ほとんどのエルヴルの人たちは、あの森のずっと向こう側の景色を知ってるっていうのよ。見た目があたしと同い年の人たちだってそう。少し年下に見える人たちだって」
「……」
ハナは押し黙る。
エルヴルの歴史とか、農地を捨てて壁を建てた本当の理由とか、気になる事柄はいくつも浮かんでいたけれど、そのどれか一つくらいはベルーデルにとっても大事なことだっただろうか。
このときはただ、耳を傾けていることを選んだ。
「お母さままでね、一度だけ見たことがあるんですって。あの夕陽よりも向こうの景色。どうやったのって、幼い頃に訊いたら、蝶たちがたくさん集まって、乗せていってくれたのよ、なんて」
ずっとそれを信じてた――
そう聞こえた気がして、ハナはもう一度ベルーデルを見た。
ベルーデルは膝にのせた手のひらを眺めていた。
いつかのように、そこにまた十一視蝶がいるのかと思ったが、どうやら空っぽのようだった。
「わかる、ハナ?」
王女がまぶたを起こす。
「あたしのお部屋も、お母さまのところも、やたらに冷たかったでしょう? あれも蝶たちのためなの。あの子たちは、陽の当たるあたたかい場所にいると、だんだん元気がなくなって、そのうち飛べなくなってしまうのよ。あの子たち自身もわかっているから、少し扉を開けたくらいじゃ出ていったりしないわ」
出ていかない。出ていけない。
他の誰かのする話なら、単なる非凡な知見として聞いたことだろう。
ベルーデルの口を通して連れ出されてきたから、耳のうしろにつかえて冷える。
出ていけないと、知っているから、どこへも行けない。
ただね――と、彼女がささやいた。
「ただ、ね。ときどき――本当にときどきだけれど、変わった子がいてね、外へ行きたがるの。じぃっと窓のそばや扉の上にとまっていて、あたたかい風が吹くと、それをたどるように飛ぼうとするのよ。あたしが出かけるとき、必ずそばをついてきて。あたしのお気に入りのこの場所へさえ、力尽きずに来られないくせに」
風が吹く。強く吹く。
もしも青白い小さな翅でここから羽ばたければ、どこまで行けるだろうか。
風に乗って、夕陽にまで追いつけるのだろうか。
その向こう側の景色を、目に焼きつくまで見られるのだろうか。
「あたし、思うのよ。それでも、きっと嬉しいんじゃないかしらって。遠くへは行けないのだとしても、途中で死んでしまうんだとしても、自分のつばさで行けるところまで行けたなら、ずっと、何も比べものにならないくらい……」
そして日向に横たわり、痛みと苦しみにすら別れを告げる。
どうせ寂しいのなら、冷たい寝所よりも、あたたかな草の上がいい。
夜だとしても、虫の声と風鳴りを聞きたい。
雨だとしても、泣きはらす空を受け止めて、土の匂いに溶けていきたい。
きっと微笑めるから。今までで一番に。最高に。
どうしようもないくらいに、穏やかな気持ちになれるから。
あの灰色の瞳のように――
「……ダメですよ。死んだりなんかしたら」
自分で出したその声は、つるぎのように冷たかったかもしれない。
ベルーデルが、まるで初めて見るような目でハナを見ている。
ハナの気持ちは凪いでいた。物腰は毅然としていた。
「行きたい場所があるなら、どこへだって行ってかまわない。けれど、必ずここへ戻ってくるんです」
言葉が湧くがままにあふれながら、整然と迷いなく胸に並ぶ。
生まれたときから決まっていたことのように。
「そのために薬がいるなら、じぶんが必ず見つけ出します」
治療を諦めたがる薬師なんていはしない。
少なくともハナは師匠を見てそう学び、そう信じた。
たとえ寝所にかしずいて手を握るだけだとしても。
たとえ決死の思いで旅立つ者を止めないとしても。
ハナは薬師だ。他の何ものでもない。
ただ薬師でい続けてさえいれば、行き着くところなど必要なかった。
風が吹く。颯々(さつさつ)と吹いている。
ハナは歩み寄り、手を差し伸べた。
「約束です」
やがてベルーデルが、たゆむように両目を細くする。
その微笑みは、まだどこか儚く寂しそうで。
木の葉のように揺れ動いた手は、手を取ることを望んだのだろうか。それとも――
「おぉーい!」
遠くから、間延びした声が聞こえて、ハナとベルーデルは同時に壁の下を見おろした。
堀のすぐ外、城門へ通じる跳ね橋のたもとに、いつの間にか門兵らと同じ青服の兵士たちが十数人ほど集っている。
彼らはおおまかに隊列らしきものを組んで跳ね橋を渡ろうとしていたが、その列の端で異彩を放つ人影のうちの一人が、こちらへ向かって手を振っていた。
人影は二つ。
手を振っているのは、緑色のマントを着込み、金色のひげと髪を豊かに蓄えた男性。
そのうしろに、真っ黒な服と帽子に全身をすっかり包んだ、山奥の奇岩のような巨体がたたずんでいる。
「ミスター?」
「お父さま!」
「!?」
ベルーデルが叫んだのを聞いて、ハナは思わず彼女の方を振り向いた。
先刻までの浮かない様子がうそだったように、しかし元どおりに、彼女は元気いっぱいに手を振り返し、輝くような笑みを浮かべている。
「ベルーデルー!」
呼び返す声に引かれ、再び眼下を見おろせば、やはり父親のとなりには黒い巨体が並んでいる。
ハナは黒光りする面鎧と金色のひげとを交互に何度も見返しながら、背筋に汗がにじむのを感じていた。
明日昼頃次話投稿予定。毎日更新中。





