第三章・第八節 氷室と犢皮紙(ヴェラン)
【前回のあらすじ】
入浴のあと、ベルーデルに豪奢なドレスを着せてもらったハナ。
ベルーデル自身の成人用として仕立てたというそのドレスを、しかし彼女自身が着ることはないと聞かされ、ハナは理由を問う。
そこで聞いたのは、エルヴルの王女は若いうちに世継ぎを産む必要があるということ。だから死産率の高まる《丸薬》は飲んでいないということ。
そして、世継ぎを産んだらすぐに女王として即位させられ、同時に『巫女』と呼ばれる役職に就き、軟禁を強いられるという話だった。
そのしきたりに従うべきときが近づいてきたところへハナが現れたことに、運命の存在を謳うベルーデル。
外の世界へのあこがれを埋めるために、ハナに旅の話をせがむが、持病を持つ彼女が十一視蝶のいない部屋に長時間留まることは危険だった。
なんとかハナとの時間を引き延ばそうとするベルーデルは、そこである妙案を思いつく。
それは母親である女王の部屋へ乗り込み、国賓であるハナを謁見させることだった――
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女王の間は、王宮の一階奥の、さらに奥まったところにあった。
てっきり王族の私室は上階に並んでいるものと思っていたハナは、ベルーデルがらせん階段を降り始めた時点で軽く足をもつれさせた。
ハナたちにあてがわれた客室は三階。
二階から下は衛兵の詰所や倉庫ばかりで、一階の半分は調理場が占めている。とベルーデルは教えてくれた。親切心からだっただろうが、ハナはますます頬を引きつらせて生唾を飲むことになった。
「さあ、ついたわ。あら、ハナ? なんだかすごく暑そうね?」
「そう、ですね……」
女王の間へ続く最後の廊下はゆるやかな下り階段になっていた。
衛兵の姿はない。誰もいないことに安堵しながらハナは、熱のこもった息を落ち着くまで何度も吐き出した。
薄紅色のドレスから露出している部分が、今や露出していない部分よりも赤みがかって湯気を立てているような気さえする。
ハナが予見したとおり、衛兵や給仕らがうようよといる中を歩いてきた、その結果だった。
長身ゆえに、常日ごろから人目を集めやすい自覚はあった。しかし、今は一張羅の地味な薬師装束ではなく、豪華できらびやかな――そしてたぶんきっとおそらく少しばかり煽情的な――衆目を一身に浴びざるをえないようなドレス姿である。
おまけにベルーデルは、誰かとすれ違うたびに「おや姫様、どちらまで?」などと気さくに声をかけられ、相手をするために度々足を止めるのだ。
当然ながらお連れの方はどなた?とならないはずがなく、そして鼻息荒く見せびらかすようなベルーデルの紹介によって、ハナは蒐集家が持ってきた珍品か何かのように上から下までしげしげと眺めまわされる羽目になる。
調理場の前を通り過ぎる頃には、ハナはすでに蒸かしたイモのようになっていた。
一方、ベルーデルは客室を出たときよりも明らかに上機嫌だった。自分の客を城仕えの人々にたっぷり自慢できてご満悦、といったところらしい。
「まあ、この中はとっても涼しいから、汗もすぐ引くわ。入りましょう」
ベルーデルは人懐っこくそう言うと、重厚な鉄枠の大扉へ体重をかけるようにして、ノックもせずにそこを押し開け始めた。
思いのほか苦戦している彼女を慌てて手伝おうとして、隙間から漏れてきた刺すような冷気に、ハナは思わず動きを止める。
(涼しい……これが?)
そして白く色づく風に乗り、青い燐光が噴き出てきた。
扉が開いていくにつれ、その淡い光の蒸気はまばゆいまでの奔流となっていく。
ハナは思わず目を細めた。
「……!?」
薄目越しに、冷気と燐光の渦の向こうに見えたのは、大きな半球状の石室だった。
それは造りだけを見れば牢獄のようだったかもしれない。
物々しい大扉が向かい合わせに二つと、小さな鉄扉が一つ。
四方すべてがむき出しの石壁で、窓らしい窓もない。家具や調度もほとんどなく、敷きものすらもなかった。
唯一、申し訳程度に、天井の中央には小窓がはめ込まれていたが、結構な高さがあり、差し込む光もたかが知れている。
おまけに石壁の厚みを示すように、空気が凍てついていた。入り口で感じたとおりだ。
似たように殺風景だったベルーデルの部屋の比ですらなく、お世辞にも涼しいなどとは言えなかった。
王宮の本館からははみ出すように設置されている部屋らしかったが、同時に半地下になっているらしく、屋外の陽気ともほとんど絶縁されている。
羽織るものを持ってこなかったことを、ハナは理性からだけでなく本能からも後悔した。
ただ、実際に受けた印象は、牢獄とはだいぶ異なる。
ひととき体の凍えをも忘れていたのは、入り口であふれ出てきたまばゆさが、その場所を絶えず満たしていたためだった。
光源は、青白い翅をもつ蝶たちの、おびただしい数の群れ。
床も天井も、飛び疲れた彼らの翅が埋め尽くしている。
それは圧倒的に膨大な数であり密度だった。ベルーデルの部屋のそれをもはるかに凌いでいた。
燭台もなく、明かりはほとんどないはずのその部屋いっぱいに、暗闇のない光の海が広がっている。
群青色のけぶるような星空の海。鱗粉に灯るかすかでひ弱な光が、途方もなく寄り集まったもの。
そして燐光の渦の中央に、天蓋付きの寝台があった。
放棄された遺跡のようなこの空間で、唯一生きた人の気配のする部分。
その天蓋から垂れた薄布越しに、現に動いている人影が見える。
おもむろに布をめくって現れたのは、腹かけ姿のヘイゼルだった。
あの牛頭の兜と鎧の上半身とを脱いでいる。ハナが素顔を見るのは初めてだったが、下半分だけでも意匠の違いの目立つ白銀色の鎧は、兵団長のもので間違いなさそうだった。
やや白目の目立つ大きな目と厚い唇が印象的な顔立ちも、なんとなく彼女の雰囲気に合っている。
栗色の長い髪は編み込みにして、兜が入るよううしろでまとめていた。
やや意外だったのは、見た目の年の頃はハナとそう変わらないようだったこと。無論、それは《丸薬》のためだろうが。
少なくとも、むき出しの肩から生える、常人よりも一対多い腕を見て、それが誰なのかわからないはずがなかった。
「おや? 何です、ひめさ……ま!?」
まずベルーデルの姿が目に入ったらしく眉をひそめかけたヘイゼルは、続いてドレス姿のハナに気づいたようで、ギョッとまぶたがめくれそうなほど目を見開いていた。
訊くまでもなく絶句している様子が見て取れて、ハナは申し訳なさに首をすくめる。
「何でもないわよ、ヘズ。ちょっとハナをお母さまに会わせにきたの」
一方ベルーデルは悪びれた様子もなく、ずかずかと部屋へ踏み込んでいく。
床にいた蝶たちが彼女の歩みに合わせて左右へ散っていった。
口をぱくぱくさせていたヘイゼルは、遅れてハッと気がついた顔を見せるや否や、四本腕を突き出すようにしてバタバタと上下させ始める。
「だだだだめですよ! ダメに決まってるじゃありませんですか! 何考えてるんですか!」
「あら、どうして?」
ベルーデルは腰に手を当てながら小首をかしげる。さも不思議がるように。
「ハナは国賓よ? だったら女王陛下へお目見えしないわけがないじゃない」
「でででですから、申し上げたではありませんかッ。王配殿下のお許しが出ていないのですから、蝶のいる部屋はお控えくださいと――」
「蝶のいる部屋とは聞いていないわ、ヘズ。あなたと約束したのは『王女のお部屋にお客を入れないこと』よ」
「そっそッそんな無茶苦茶な……!?」
「兵団長」
ヘイゼルの動きが止まる。
彼女の背後から聞こえたそれは、とても静かな声だった。
したたる草露がガラスの器を叩くような、いともささやかでいて、玲瓏と響く声。
朝の訪れを言祝ぐように、甘やかで穏やかな。
「わたくしが会いたいと伝えておいたのです。どうか、ベルーデルを叱らないであげてください」
「イズン様……」
ヘイゼルがにがり切ったような顔をして振り返る。
ちょうど大柄な彼女の頭と天蓋から垂れる布とで、寝台の様子がハナからはうかがえない。
「それに、ここへ来たのなら、あの子が自分の部屋にいないことで、あなたが気をもむ必要もなくなるでしょう?」
「いや、ですから……」
その寝台からの清廉な声に、かすかに浮ついた調子が混ざり出す。
反対にくぐもっていくヘイゼルの口ぶりは、それこそ姫様の思うつぼでしょう、とでも言いたげだ。
実際、ベルーデルが女王の間へ行こうと言い出したのは、見てのとおり、ここでも十一視蝶たちが飼われているためだった。
むしろこちらの方が飼育場所の本体で、王女の部屋の蝶たちはここからの株分けに過ぎない、というおもむきさえある。
本来暗闇でようやく発光を知れる程度の鱗粉が、明かり代わりになるほどくゆっているのだ。
ここにしばらくいれば、持病を抱えるベルーデルも、またハナと談笑する時間を増やせるという寸法だった。
「ぬっふっふぅ。じょーおーへぇかっ! ごきげんうるわしゅーっ」
「あっ!?」
急に気味の悪い笑い方をし始めたベルーデルが、ヘイゼルのいる場所を迂回するように駆け出して、寝台へ飛びついていく。
大きく揺れた天蓋の垂れ布の向こうから、「うふふっ、ごきげんよう、ベルーデル」と弾んだ声が聞こえてきた。
「姫様っ! 驚かせては!」「何よぅ。ヘズの大声の方がよっぽど驚くわよ。ねー、へぇか?」「あのね、ベルーデル。ヘイゼルはただ焼きもちを焼いてるだけなのですよ?」「やだ。そうなの、ヘズ?」「いずんさまぁ!?」
奇妙に白熱し始めた天蓋の下のやり取りを、ハナは部屋の隅に取り残されたまま聞いている。
単純に所在のなさも覚えていたが、同時に不思議と揺れるような気持ちもあった。
エルヴルの女王が、その座に似合う楚々として神秘的な声の持ち主であることを知った矢先に、その声で少女のような軽口をたたくのを聞いて面食らっているのもある。
だがそういうものとは別に、まるで、寝覚めにどこかで流れる水音を聞いたかのような……。
気がつくと、ハナはヘイゼルのすぐうしろに立っていた。
母娘に連携してからかわれてげんなりした兵団長が、あとずさるようにして天蓋の外へ出てくる。
さすがに気の毒になってきたハナは、「すみません……」と彼女に声をかけた。
「急に押しかけてしまって。王女殿下がお部屋に戻られるよう、促すこともお任せいただいたのに」
「ハナ様……いや、どうかお気になさらず。どうせ姫様が……いえ、わたくしの詰めが甘く、至らなかっただけのことです。とにかくお気になさらずに」
右手の片方でこめかみを押さえながら、ヘイゼルは疲弊した様子で首を振ってみせる。
ハナはもう少しちゃんとねぎらいたかったが、思わず漏れたであろう兵団長の恨み節に苦笑せざるをえなくなる。
ちょうどそのとき、垂れ布の裾から細い腕が、手招くように動いているのが見えた。
「兵団長。布を上げて。薬師様のお顔が見たいわ」
「……御意に」
急に表情を固くしたヘイゼルが、諦めたように返事をしながら、長身を活かして垂れ布を天蓋まで持ちあげる。
無言で促されて彼女の脇をくぐったハナは、顔をあげてほっと息を吐いた。
天蓋の内側もまた、輝く十一視蝶たちが無数にひしめいて、まるで真昼のような明るさがもたらされていた。
青みがかった光が上等なシーツや垂れ布の裏地に照り返り、幻想的な光景を呈している。
部屋全体が星の海ならば、寝台のそばは熱のない太陽の上に立っているかのようだった。
そして寝台の上で体を起こしているのは、小柄な痩せた女性。
とても美しい人だった。
触れればほころびそうなほどに儚げな印象が、少なくともハナにはそう思わせた。
陽の光を忘れた白すぎる肌。血の気の薄い唇。
伏せ気味の双眸に、影を落とすほど長い睫毛だけがつややかで目立っている。
その繊細な容姿に目を奪われかける一方で、シーツに隠れた体の下半分にも吸い寄せられる。
下腹部の不自然な盛り上がりに。
(妊娠、されてる……?)
「初めまして、旅の薬師さん」
切れ長のうるんだ目をより細めて、あのたおやかな声で女性が微笑みかけてくる。
小柄なせいか、声の印象よりだいぶ若いようにも見えていた。
実際の年齢は、ハナの師匠とそう変わらないのかもしれない。血色のよさで若々しく見えていたあの人と、おもむきは正反対だが。
「エルヴル国女王、イズーニア・エリヴァ・エルヴェレーヤです。皆からはイズン、と」
「イズン、さま……」
「はい」
ぼんやりと聞かされたとおりに復唱してしまってから、快い返事まで贈られたところでハナはようやく我に返った。
自分は今、初対面の相手を前にしている。そしてそれをまるで人ごとのようにして突っ立っている。
その事実にようやく思い至り、大いに泡を食う羽目になった。
「しっ失礼しました! え、えぇとっ……」
即座に応答しようとして、しかし何かが致命的に不足している不安にも駆られる。
目を回しそうになりながらも、衝動的にその場に膝をついていた。
指先をそろえて膝の前に置き、背筋をできるだけ伸ばしておもてを上げる。
イズンよりも低くなった目の高さから、上目づかいで見据えて、しゃんと声が張るように口を開いた。
「申し遅れましたっ。流れの薬師を致しております、ハナ・ヴァレンテと申します。この度は、王女殿下ベルーデル様よりお心づかいをたまわりまして、ええと、その……」
「ふふっ。元気がよろしいのですね」
「う……」
口元を押さえたイズンの紙のような頬がほんのり色づくのを見て、ハナは言葉に詰まってしまった。
首まわりにのぼってきた血潮の熱に翻弄される。
敬語慣れはしていても、意識してかしこまろうとすると勝手が違う気がした。
「気安くしていただいても大丈夫ですよ、ハナさん。石の床は冷たいでしょう? ヘイゼル」
「は」
天蓋の垂れ布を押さえていた兵団長が、呼ばれて即座に返事をする。
そして沈黙が訪れる。
「……。……?」
しばらくしてイズンが、不思議そうに目をしばたかせたあと、動かないヘイゼルに目を移し、
「兵団長?」
「は」
「……は、ではなく、薬師様に椅子を。それから羽織るものも」
「は。え? あぁっ!?」
驚いた顔をしたヘイゼルが、垂れ布から手を離して板金のキュロットをガチャガチャいわせながら、寝台の裏へ走っていく。
風のような速度で戻ってきた彼女は、ハナのすぐとなりに黒木でできた椅子を置いた。
椅子を持つのに使わなかった方の両手には、厚手の毛織物を抱えている。
ハナが恐縮しながら礼を言って椅子に腰を下ろすと、うしろから両肩をふんわりと包まれた。
少し照れながら胸の前でかき合わせた肩かけ(ショール)は、やはり肌になじむように柔らかく、暖かかった。
「そのドレス……」
また織物の上等さに感激して固まっていたハナに、イズンがやんわりと声をかける。
「とてもよく似合っていますね」
同じ高さで視線が合うと、彼女はとても気持ちよさそうに微笑んだ。
「あたしが仕立てを考えたのよ、お母さま」
すかさずベルーデルが耳打ちをする。
彼女は片膝と両手を枕元に乗せて、イズンの肩に顔をすり寄せるようにしていた。
「ええ、ベルーデル。あなたが話していたとおり、本当に素敵なドレスになりましたね」
「でしょでしょ? 本当はあたしが着られるようになってからお披露目したかったんだけれど、待ち切れなかったの」
「あら? あなたもハナさんくらい背が伸びるかしら?」
「伸びるわよ。そのうちぐんっと伸びるようになるんだから」
むつまじく言葉を交わす二人の様子を、ハナは再びまどろみにたぐり寄せられるような気持ちで眺めている。
寄り添い合っていると、確かに二人はよく似ていた。
くっきりした目元や鼻すじに、整った眉の形。
イズンの髪の色は、藁よりもくすんで灰色がかった亜麻色に近かったし、瞳の色も紫がかっていたが、そうしてまったくの瓜二つでないこともまた、彼女たちの繋がりをより強くしているようにも感じられる。
ハナは師匠と、血縁同士かと誰かにたずねられたことがなかった。
母親と見るには師匠が若く、またハナの背がすぐに伸び始めたせいもある。
だが、姉妹と間違えられることさえなかったのは、結局のところ、そうではないと本人同士が解っていて、そういう気配をにじませていたからなのかもしれない。
どこか少しでも似ているところがあれば、人は二人を師と徒弟以外のものになぞらえただろうか。
ハナは、母親というものを知らない。そのあたたかみのかすかな記憶すらも指先にない。
けれど、目の前のふたりは確かに親子だと確信していた。
儚げで頼りないイズンが、とても母親に見えていた。母親という――彼女の色彩から、何かが思い出されるようなきざしを感じていた。
静謐なまどろみの奥。遠雷と雨の音。
白い髪。青い瞳。
「お若いのですね」
不意の声。
慌てて視線をめぐらせかけたハナは、焦点の合った先に朝焼け色の瞳を見つけて止まる。
そこにいたイズンは、依然としてしっとりと微笑んだままで、
「薬師様がいらしたと聞いて、もっとずっとお年を召した方を想像していました。まさかこんなに可愛らしい方がいらっしゃるだなんて」
「あ。はぁ……」
ハナは思わず気の抜けた返事をしてしまってから、急にきまりの悪さが駆けつけてきて、
「実を言えば、はしくれといいますか、まだ駆け出しでして、師の膝元を離れたばかりなんです」
と、訊かれてもいないことを話してしまう。
しかし、するとイズンは「まあ!」といっそう目を輝かせ、
「その歳でお独り立ちなさっているなんて。やはり、優秀なお人なのですね。お師匠様もさぞや、鼻が高いことでしょう」
「……だといいのですが」
ハナは苦笑で返す。
本当ははしくれどころかはぐれ同然。行きがかり上しかたなかったとはいえ、破門までされている身です、とはさすがに言い出せなかった。
師匠も卑屈にさせるためにハナを往かせたのではないと、わかってはいる。ただ、あいかわらず自信は芽生えない。
「そのお師匠様は、今はどちらに?」
唐突に訊かれて、少しばかりハナの心臓は跳ねた。
もとい、考えてみれば自然な会話の流れではあったのに、ハナはそう問われることを恐れていたように、しばし言葉に詰まった。
「……わかりません。別れ別れになってから、もう三月ほどが経ちますので」
「あら? お連れの方がいらっしゃると聞いたのですが、そういえば、その方ではないのですね」
「ああ。彼は……」
イズンが別人のことを意識していたと知って、ハナは思わず胸をなで下ろす。
しかしその矢先にまた言いよどみ、「何といいますか……」と濁してしまう。
(何だっけ? ミスターって……)
要は、士人と自分の関係を簡潔に言い表せばいいだけなのだが、改めて考えてみればよくわからない。
行きがかり上の都合として同行しているだけ。
その都合というのも、厳密にはハナだけのもの。それも、士人の人となりを診極め、行動のすべてを見届けるためという、なんともあやふやと言えばあやふやな都合だ。
そして、そもそも現実にはほとんどいっしょにいられていない。有言不実行もいいところ。
詳しい事情を説明したところで、不審さばかりが浮草のように増えていきそうだった。
「助手……みたいなものでしょうか?」
嘘つき。いやさ、もっとマシな嘘がつけただろうに、と瞬時に後悔する。
しかしイズンはひどく衝撃を受けた様子で、
「まあ! まあまあまあ! すでにあなたご自身がお師匠様なのですね!」
「へぇっ?」
思わず声が裏返った。
「い、いぇっ、彼は、で、弟子? というわけでは――」
「ほらねっ、お母さま」と、横からベルーデル。「あたしのカンが当たったでしょう? きっと名のある薬師様に違いないって!」
「へぇぇっ!?」
「ええ、言ったとおりだったわねぇ、ベル。たいしたことだわ」
「いえ、あのっ……!?」
「そうだわ! ねっ、お母さま」
独りひたすらおろおろし続けるハナに目もくれず、とろりと甘えた目をしたベルーデルが、母親の二の腕にしなだれかかる。
「あたし、いいことを思いついたのよ? ハナといっしょなら、あたしも旅に出られるんじゃないかしらって」
「まあ」
「……!?」
ハナは自分が息を呑んだような気がした。
しかし凍りついたような沈黙の中で耳をそばだてていると、それが背後に立つ別の人間の気配であることに気がついた。
「だってそうでしょう? 十一視蝶たちがいなくたって、病気を抑え込めさえすればいいんだもの。ハナに薬を作ってもらえば解決よ」
「そうねぇ。そんなお薬が、本当に見つかればいいのだけれど……」
「きっと見つかるわ! だってハナは天才だもの!」
「ええー……」
ためらいなく言い切ったベルーデルに、ハナはまともに呆れることもできなくなって、ただただ釘づけにされる。
さすがのイズンも少し困り顔で、頬に手を当てていた。
「ベルーデル?」
そのイズンが、落ち着いた声音で娘を呼ぶ。
体を離して向き合ったあどけない顔を、そっと両手で包み込むようにする。
「あなた、どうしても国の外へ出てみたいの?」
家系的に不可避であると、ウルウァはベルーデルの持病について語った。
それはつまり、母親であるイズンもまた、同じであるということ。
エルヴルに在る、もう一人の〝病人〟。ただ二人きりのこわれもの。
この青い霧の穴倉を寝所としていることが何よりの証拠であり、ゆえに誰よりも娘の憂いと苦しみは理解しているに違いなかった。
「ええ、お母さま。いつも言っているでしょう? 一度でいいから、エルヴルよりも早く朝日を見て、エルヴルよりも長く夕暮れを眺めていられる場所まで、行ってみたいって」
そしてベルーデルは、ほがらかに語る。まるで昨夜に見た楽しい夢を誇るように。
ただ、まばたかない瞳だけが真剣そのもので。
「でもね、ベルーデル。まず何よりも……ハナさんの気持ちを聞いてみなくては。ね、ハナさん?」
「え?」
「あなたは、どう思われますか?」
急に水を向けられて、何も用意がなかったハナは困惑する。
確かにイズンの言うことは正論だったが、ハナ自身が彼女たちの意思決定に関われていないことに、何の疑問も抱いていなかった。
「あの……そうですね。適合する薬があればいいですが……いえ、あったとして、それで旅に耐えられるようになるかどうかまでは、その……」
とつとつと答えながら、違う、と心臓がしゃべっている。
訊かれているのは、雲をつかむような薬の話ではない。ここに確かにいるハナの想いを、彼女たちはたずねている。
何がしたいのか。
これからどうしたいのか。
ハナはいったん言葉を飲み込んだ。呑み込まざるをえなかった。
気持ちなら決まっている。
感情を落ち着かせて自分に問いかける必要などないほど、わかり切っている。
ただ言葉の平原を見渡して、しばらくうろたえていた。自然に風が吹き、藪が割れるまで。
「じぶんは――……ある人のために、薬を探してここまで来ました」
ひととき、凪とともに、つま先を見おろし。
「その人には、あまり時間が残されているわけではないんです。それに……激しい苦痛を伴う症状のため、本当は、一刻でも早く薬を持ち帰ってあげたくて。けれど……」
けれど、水音がする。
耳の奥、どこか遠く。
藪の向こう。風に乗ってにおいがする。
底の見えない泉。昏い水面に、けれど、手をひたす。
「けれど……じぶんは、薬師です。はしくれでも、苦しんでいる人がそこにいれば、できることをしたい。少しでも、薬師として何か、やれることがあるなら……やらない理由は、ないんじゃないでしょうか?」
顔をあげて、問い返す。
問いで返すのは、賢くはなかったのかもしれない。
けれど、すくった水の澄んだ色を見てもらいたくて、両手で作った器を差し出すように息を詰めて、こちらをうかがう四つの瞳に映り込んでみる。
しばしの沈黙。
ベルーデルは少し驚いた様子で、イズンはおだやかな表情のまま、ハナを見返していた。
やがて口を開いたのは、しかし彼女たちのどちらでもなかった。
「姫様。そろそろお時間を」
いつの間にか、ベルーデルの背後にヘイゼルが立っている。
からかわれていたときとはうって変わって、寒々しく無感情な様子で、寝台の上を見おろしていた。
「どうして、ヘズ? まだ話が――」
「本日は《宮つげ》の日です」
ベルーデルの抗議をさえぎって、そう告げる。
途端に青ざめた顔をしたベルーデルは、何か苦しそうにうつむいた。
「……わかったわ」
喉から絞り出すように答えると、ベルーデルは母親の方を振り向いて、「ごめんなさい、お母さま」としおらしい声で言った。
イズンが微笑みながら、「いいんですよ、王女殿下?」と声を弾ませ、娘の髪をなでる。
その手に手を重ねたベルーデルは、少しだけ微笑み返して「また来るわ」と言い残し、寝台を降りて、ハナのそばへ寄ってきた。
「ごめんなさい、ハナ。あまり長いことお話ししていると、お母さまの体に障ってしまうの。今日のところは、もう行きましょう」
そう言うと、ハナの返事も待たずに扉の方へ歩き始める。
どこか急ぐようなベルーデルの態度に、ハナは戸惑いつつも静かに腰をあげた。すかさずイズンに向かって丁寧にこうべを垂れる。
気の利いた言葉は見つからず、「では、失礼致します」とだけ言って、きびすを返しかけた。そこへ、
「ハナさん」
肩を叩くように声がした。
「少しだけよろしいですか? 兵団長も」
「……少しなら」
振り返って、イズンと目が合った途端、なぜかどきりとした。
女王は、涼しくもどこか晴れやかな表情で、ハナを見ている。
すぐとなりでヘイゼルが、あごを引いた姿勢で直立したまま、彫像のように気配を殺していた。
所在なく立ち止まっていたハナの耳に、今度は背後から扉の閉まる音が届く。
追わなくていいのか、という自問が反射的に湧いてきたが、イズンが枕元の小棚に手を伸ばすのを見て、また動きを止めた。
イズンに取り出されたのは、筒状に丸められた紙片のようだった。
「これを」と言ってイズンはヘイゼルにその紙片を渡し、うやうやしく受け取ったヘイゼルがハナのところまで歩いてくる。
「お手を」
促され、差し出した手のひらに、丁寧に広げた状態で紙片を乗せられた。
獣から取られたとおぼしき、古い犢皮紙だ。
表面には、これまた古式の書体で、いっぱいに文字が書かれている。
言葉自体もかなり古臭いが、読めなくはない。
覚えのある薬草や獣液を示す単語が並んでおり、それぞれに数量や扱い方の注釈なども仔細に併記されていた。
(これは……処方箋?)
「あの子は可愛いでしょう?」
ハナは思わず読み込んでいた犢皮紙から顔をあげた。
ヘイゼルはすでにイズンのそばへ戻り、目を伏せて立っている。
そしてイズンが、あいかわらずの大人しい微笑をハナに向けていた。
「わたくしが王女だった頃も、ああして王宮の中を走り回っていたものです。数え切れないほどのいたずらも致しました」
遠い目をして語るイズンを、ハナは呆気に取られて眺めていた。
単純に意図がわからなくて、というだけではない。
既視感があった。
何か、聞いてはいけないことを聞かされているような感覚。
そのために耳をふさごうとする曖昧な衝動と、それでも聞いていなくてはいけないような胸のざわつきと。
「同い年くらいのお友達もいたんですよ。ちょうどあなたとあの子のように」
目を伏せたイズンは、そうして言葉を切った。
それで終わりだと、なぜだかハナにはわかっている。
ほどなくして、目を開けたイズンはヘイゼルに向かって、ハナを送り出すよう言いつけた。
扉へ向かうヘイゼルのうしろを、ハナも促されるままについていく。
託された処方箋を丸め直して持つ。
その背中を、イズンはもう一度だけ呼び止めて、
「これから先は、あなたのしたいことを、何より大切になさってください。ただ、もしもお嫌でなかったら、あの子のよき友として、いてあげてくださいね」
ハナが振り向くと、やはり彼女は笑っていた。
少しだけ疲れたように。けれどどこか、誇らしそうに。
弓のように細められた朝焼け色の瞳に、涙を溜めた灰色が重なるような気がして、ハナは何も言えないまま、ただ振り返り続けていた。
明日昼頃次話投稿予定。毎日更新中。





