第三章・第七節 かんざしと王女
【前回までのあらすじ】
王女ベルーデルの厚意で国賓として歓待されることになったハナは、まず風呂を提供される。
そこで通信用の水牛骨越しに疾師ウルウァと会話したところによれば、ベルーデルは遺伝によって生まれつき致命的な持病を抱えているということ。
そしてそれを十一視蝶の鱗粉で抑え込みながら、無病薬である《王家の丸薬》はなぜか服用していないらしいということだった。
さらにウルウァの指示で、ハナはベルーデルからもらった《丸薬》に水をかける実験を行う。
結果としてわかったのは、《丸薬》が水溶性であることだけだったが、ウルウァはそれで正体に気づいたらしく、急に「この国は手に負えない」と言い始める。
その話が済む前に、しかし突然、士人が浴室に現れた。
ほとんど迷わず突入してきた彼は、しかしハナには指一本触れず、そばをすり抜けて窓から屋外へ脱出していった。
唖然とするハナだったが、どうやら士人が十一視蝶を盗み出したと聞かされ、慌ててあとを追おうとする。
しかし、ウルウァからは待っていればいいと制される。なぜなら「意味がないから」と、いつかのベルーデルと同じことを彼女もそこで口にしたのだった――
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「最っっっっ高よ、ハナ。見込み以上ね!」
ベルーデルがはしゃいだ声をあげる。
握り込んだこぶしを肩へ引きつけて会心を表現していた。小さな鼻から噴き出す吐息が今にも音を立てそうだ。
一方のハナは、緊張でのどが絞まったように声が出ない。
普段はたいていボレロでさらしていない肩などを、思わず手袋越しに触ってしまう。するとその薄布の吸いつくような感触に、また身震いしそうになる。
膝をすり合わせると、腰の周りで踊っていた生地たちが腿を舐めるように撫でてくる。
どれもねっとりとした気持ちの悪いものではなく、どころか、たとえ紅潮して汗ばんだ肌の上からでも絶えずさらさらとしていて、いっそ夢見心地でさえあった。
ベルーデルがハナのために客室へ抱えてきた薄紅色の着替えは、見たこともないような上質な織物から仕立てられた豪奢なドレスだった。
生地の表も裏も驚くほどなめらかで、編み込まれた繊維の一本一本がまるで輝いているかのようだった。
そしてその生地をたっぷり幾層にも重ねて膨らんだスカートにも目を見張る。
大胆に打たれた深いひだが、身じろぎをするたび流れるように動く。
その流れに追随するのは、まったく同じ生地で編まれた造花の群れ。スカートの表面に連なるように縫い止められ、幾条もの列をなしている。
薬師ひと筋で生きてきたハナとて、着飾ることに興味がないわけではない。
身だしなみも化粧も対面の客ありきの仕事の一環ではあるが、その延長にあるものは自然と意識される。
しかし結局のところ、《洞》の伝統的な軽くて粗末な装束のほかは、使い古した毛布や、織物ですらない枯れ草や藁のようなものしか肌にまとう機会を得てこなかった。
そんなハナからしてみれば、今着ているものはまるで水か空気のようで、かさのあるわりに軽快な腰回りの感覚もまた落ち着かない。
またそうでなくても、上半身はスカートとは対照的に、繊細な制限の中で丹念に削ぎ落としかのように少ない布地でまとめられていた。
肩や背中は覆うものなし。
前面も裏地のないただの網目になっていて、要所の刺繍だけが絶妙に濃くされている。
両脇も骨盤あたりまで生地が吸いついて体の線が強調されてしまい、鏡で見るとやたらと煽情的に思えた。
何より――
「んー……でもやっぱりちょっとハナには小さかったかしら。おなか痛くない?」
「おなかは、大丈夫ですけど、足が出ててちょっと。あと……」
「ここか」
ベルーデルは神妙な顔をして、レースの刺繍が濃く透けていない部分を指で押す。
油断していたハナは「ひぁっ」とやにわに声をあげた。
「ふぬぬぬ。念のため大きめに作らせておいたのに」
「ちょっ、ベルーデル様!? 押し込みすぎです!」
「うわぁ、すごい沈む」
ベルーデルが興味深げに押しつけた指をさらにぐりぐりと動かし始めたので、さすがのハナもあとずさって体を横へ向けた。
ベルーデルは不服そうな顔をして、しかし気に障ったのは別のことらしい。
「またベルーデル様って呼んだでしょう? ベルでいいってば」
「そ、そういうわけには……」
「ハイ、動かない」
ベルーデルはそう指図すると、キャビネットの上にあった棒状のものを取り上げた。
棒自体は銀色で、片方の先端から花や細工などのこまごました飾りが垂れている。
横目に見て不思議そうにしているハナに、「カンザシっていうのよ?」とベルーデル。
「見たことない? 頭に挿して使うの」
「あ、頭に刺す?」
「ほら、ちょっとかがんで。こうして……こう」
しゃがみ込んだハナのうしろからベルーデルが髪を持ち上げ、何度かねじるように動かしてみせる。
「よし、完璧」という声とともに肩を叩かれ、振り返ると、得意満面のベルーデルと、手鏡の中で髪を上げている自分がそこにいた。
クルクルとうしろでまとめられた髪の玉にカンザシと呼ばれた棒が差し込まれ、耳の横で銀の飾りが揺れている。
「はぁー……お上手ですね」
「んー、欲しかった反応と微妙に違うけど、まあいいわ。超かわいいから!」
「あ、ありがとうございます」
どうやらほめられているらしいとわかって、思わず耳の前のおくれ毛を隠すふりをして目をそらしてしまう。
すると今度こそ気を良くしたらしく、「そう、それよ、それ」と言って、ベルーデルは悪戯っぽく笑ってみせた。
何のことかわからず首を傾げたハナの鼓膜に、銀細工のこすれ合う涼しげな音が触れる。
「髪はもっと伸ばすといいわ。せっかく細くてきれいな感じの黒髪なんだから」
「あぁ、でも、雨のあとなどは結構すごいことになるので……」
「ふぅん。まあ今もかわいいけど」
髪のことを説明しながら、そういえばこんな話をするのはいつ以来だろうとふと思う。
そもそもそんな会話は、師匠としかするはずもなかった。
雨の日の憂鬱を口にするたびに、ちゃんとお手入れしないからよ、とからかい半分にいさめられた思い出。
薬師のこと以外ほとんど何もできない師匠が、意外にも髪は大切にしていて、腰まで届く朽葉色のしなやかなそれを、一度も結わせてはもらえなかった。
「……」
「どうかした?」
「え? あ、いえ……」
少しうわの空になっていたことに気がつき、なぜかとがめられたような気になって、ハナは自分の着ているものに今一度目をやった。身の丈に合わないものを身に着けている気恥ずかしさが急に舞い戻ってきて、思わず今さらのようなことをたずねてしまう。
「いいのかな、と思ってしまって……本当に、自分なんかに、こんないい衣装を」
「あらやだ。別に気にしなくていいわ。これはあたしが成人したとき用にと思って、仕立て屋に勝手に注文したやつだもの」
「えっ、それじゃあなおさら……」
「いいの。どうせ着ないから」
ベルーデルはなんでもないことのようにそう言った。
しかし王女の成人といえば、国にとってもそれなりに祝うべき大事ではないのだろうか。
そう思ってハナは一旦うろたえたが、ベルーデルのさっぱりとした物言いの、どこか不格好な響きに気がつくと、頭の奥がしんと冷めるのを感じた。
「あの……ベル、様?」
「む」
ハナとしては最大限譲歩したつもりの呼びかけ。
ベルーデルは少しつまらなさそうな顔をしたものの、言葉にはせずに目を合わせてくる。
「《王家の丸薬》は、飲んでいらっしゃらないん、ですよね?」
「ええ、そうよ。だからこの見た目でもまだ十四なの。ああ、ハナたちから見たら、見た目どおりか」
言いながらベルーデルは自分の両肩をぺちぺちと触る。
ハナもなんとなく気づいていたが、十一視蝶の鱗粉には、《丸薬》のように加齢を抑制する作用まではないらしい。
「……あれ? でも、ハナってそれで十五なのよね? あたし実はちっちゃい?」
「それは、えっと……」
小柄な方だと答えかけて、なんとなく言いよどむ。
周りの者が全員《丸薬》を飲んでいるなら、同年代の本来の平凡な背丈というのがわからないのかもしれない。
「――自分が、少し大きすぎる方なので」
咄嗟に悩んだものの、結局ハナは率直に伝える気力が持てなかった。
「ふぅん……まあでもそうよね。ハナが女の子の普通だったら、男はみんなヘズみたいになっちゃうし」
「は、はは……」
普通じゃない、が思いのほかハナの胸に刺さり込む。
なるべく考えないようにして話を戻す。
「で、でも、どうして《丸薬》を使わないのですか? ある意味、あなたのためにあるようなものなのに」
「うん、まあ、そうね」
ベルーデルは片目を閉じて自嘲気味な笑みを見せた。
「でも、王女は飲んではいけない決まりになっているの。次の王女をちゃんと産まないと、巫女になれないから」
「巫女?」
またもや聞き慣れない単語が出てきたことにハナは面食らう。
巫女といえば、お伽噺などには出てくるが、たいていは信仰に基づく場面において、何かをなすためにその身を捧げる役目を負う者を指して言う。
実物はなかなか見ないが、確かエルヴルには宗教的な香りのする死生観が深く根づいているという話だったはずだ。
死産児を祀る霊廟を王家が管理しているとも聞いた。そのこととも関係があるのだろうか。
「巫女っていうのは、ほとんど女王のことね。名前は女王だけど、やることは巫女なの。政務や他のお仕事はみんな、王配殿下、つまりお父さまや、他の大臣たちが代わりにやってるわ」
ベルーデルは女王が位だけの存在のように語った。
ただ逆に言えば、王配にも肩代わりできない唯一にして重要なつとめが《巫女》であるとも取れる。
もっと言えば、王家の正統な血筋でなくてはつとまらない、ということなのかもしれない。
「その、巫女というか、女王に即位される前に、お世継ぎを産む必要があるということですか?」
「そういうこと」
そういうこと――ならば、理解できる点は増える、とハナは思った。
《丸薬》の服用が死産率を驚異的に引き上げるのは、やはり自明のことらしい。
個々人はそれでも「いつかは産める」と割り切っていけるかもしれないが、王国の支えである王家のこととなれば、そう悠長に構えるわけにもいかないということなのだろう。
そして加齢に影響を与えない十一視蝶の鱗粉は、おそらく胎児の発育にも大きな影響を及ぼさない。
だから、致命的な持病があっても《丸薬》には頼らず、蝶たちと寝床を共にしている。
(……それだけ?)
違和感。
「めんどくさいわよねぇー」
ベルーデルが心の底からうんざりしている様子で吐露する。
苛立つように腕を組んで、日に焼けていない白い頬をぷくっと膨らませていた。
「十四歳の誕生日に、お父さまが見繕ってきた次期王配候補と面会させられるの。結婚したら一年以内に子供を産んで、女の子だったらすぐに王位継承。そのまま退位まで巫女として休みなくつとめなくちゃいけなくなるわ」
「え、じゃあ、もう?」
「明日で十四歳」
ハナは目が点になる。ベルーデルはなぜか勝ち誇ったように笑んでみせた。
「ハナは、あたしの誕生日の前の日に、突如として転がり込んできたってわけ」
「そんな大事なときに……」
「そ。そんな大事なときに。面白いわよね?」
ハナは自分がその『大事なとき』のための祝祭にまでに招かれようとしていることに、ただおののいていた。
ベルーデルはまったく楽しみだというようにからからと笑う。
「あーあ。どうせならハナが男の子ならよかったのに」
「自分が、ですか?」
「だって、そうでしょ? 結婚が決まっちゃったら、もう外に出たいなんて言ってる場合じゃなくなるもの。駆け落ちするなら今が最後のチャンスなのよ」
「か、駆け落ち!?」
ハナは飛び上がりそうになる。
だが、ベルーデルは今度は冗談交じりでなく、真剣な顔をしていた。
うやむやになっていたが、ハナたちと初めて会ったときも依頼してきたように、彼女の中には〝外〟へ行くことへの強いあこがれがあるらしい。
ハナは、今のベル―デルよりもずっと幼い頃から〝外〟にいる。
それ以前も、中と外の境界のあまりはっきりしない場所で生まれ育ってきた。
何よりハナは自分のためにどこかへ行きたいと思ったことがない。
だからだろうか。
突拍子もないことを言いながらも、根っこの意志は確かなことを感じさせるベルーデルを見て、一番初めに彼女を城壁の上に仰ぎ見たときの、不思議な胸の高鳴りをハナは思い起こしていた。
「そうだわ!」
ただし根っこの意志が確かすぎると、突拍子もないことでも妙案に思えるらしい。
「ちゃんといるじゃない、男の子。ハナの相棒の彼!」
「……へ?」
アイボウ、という言葉の意味を一瞬見失う。
言われている人物の顔も非常にゆっくりと浮かんできて、その下半分が武骨なくちばし型の面鎧で覆われていることに気がつくに至ってようやく、くらっとするほど血の気が引いた。
「明日の晩餐会で、彼をあたしの結婚相手に推薦するのよ! 探しようがないからお父さまが見繕ってくることになっているけど、誰にするかは王女が決めていいんだもの!」
「そ、それって、特に解決にはならないのでは……」
「時間稼ぎだからいいのよ。だって彼ってきっとすっごく大きいんでしょう? だからかなり難航してるって言っておけば、その隙に駆け落ちの計画を練られるわ」
「難航? ……難航!?」
「あら? 夫婦じゃなくたって、ずっと二人きりなら一度くらい見たことくらいあるでしょう?」
「みみみみみたこと!?」
ハナが何を取り乱しているのかわからない、といったふうにベルーデルは首を傾げている。
ハナには計画自体がそもそも非常識だしお粗末すぎるものだととうに理解できていたが、そう言えば収まるという発想の方は完全に吹き飛んでしまっていた。
そのように判で捺したような答えではなく、より明白で致命的で絶対的な欠陥があることを指摘しなくてはならないような衝動に駆られる。
そうしなくては、なし崩しで実現されてしまうかもしれない二人の将来像を、今にも具体的に想像してしまいそうだったためだった。
「まあいいわ。とにかく行動あるのみよ。彼、自分の部屋にいるかしら? 今から行って話を――」
「いけません」
「なんでよ?」
小鳥のようにパッと飛び立っていきかけたベルーデルの腕を、ハナははっしと捕まえる。
不服げに唇をとがらせて振り向いた彼女の両肩に手を置いて、ハナはまるで恐ろしい話でもするように声を低めて言った。
「心して聞いてください。いいですか? 彼は、ミスターは……あれでもあなたより年下なんです」
「……」
「や、だから、その、《丸薬》を飲んでいないあなたが十四歳まで結婚しない、ということは、そもそも十四になるまで婚姻できない、ということなのではないんでしょうか?」
アール夫妻の例を見たばかりなので少し苦しい、とは思ったが、王族はより慎重だという目算もあった。
事実、いつも応答の早いベルーデルが、今は感情のない顔をして固まっている。
図星を突いたものだと解釈してハナは安堵しかけた。
が、次の瞬間、ぷっ、とベルーデルの口先から息が噴き出す。
そして大きく口を開けると、堰が切れたように大笑いを始めたのだった。
「きゃっはははははははっ! ハナってばやっぱり! もぉー! うふひひひっ」
「へ? え?」
「冗談よっ、ぜんぶ冗談! 年下ですって!? そんな変な嘘つかなくたって、ハナから彼を盗ったりしないってば!」
「じょうだん……」
ベルーデルはおなかに手を当ててキツネの子のように飛び跳ねている。
その目尻に涙まで浮かんでいるのを見て、ハナは悄然として脱力し切ってしまった。
大きく露出しているはずの背中がなぜか蒸し暑い。返すときにドレスが汗臭くならないだろうかとか、気にかける余裕も今は残っていない。
ただ、火がついたように笑い転げているベルーデルの表情が、ただ可笑しくてたまらないと言っているだけではなく、どこかとても嬉しそうに見えて――なんとなくそんな気がして、ハナは、唖然としたままなのは変わらなかったが、自分でも少し不思議に思えるほど静かな気持ちで、藁色の髪をした少女を眺めていた。
「はぁーっ、おっかしい。ハナくらいの見た目でこんなにおもしろい人、エルヴルには滅多にいないわよ」
「ほ、ほめられているんでしょうか……?」
ハナはどうにかひきつった笑みを浮かべる。
エルヴルでの〝普通〟は、《丸薬》のおかげで中身が見かけの倍の年齢になっているのだから、見かけどおりの反応が得られないのも当然だろう。だが有り体に言われてしまうと、複雑な心境にもなる。
ベルーデルはそれを察する様子もなく、ふふふっ、とまた無邪気に笑っていた。
「まあでも、ちょっと本気だったかもね。だって彼を引き留めておけば、ハナもここにいるでしょう? そしたら冒険に行かなくたって、いつでも旅のお話が聞けるじゃない」
「……ベル様」ハナは少し息苦しさを覚えた。「しかし、自分たちには……」
「ふぬ。そっか。待ってる人がいるのよね」
さすがに勢いがよすぎて失念していたと言うように、ベルーデルが気まずそうな表情を見せる。
しかしすぐにまた目を輝かせ、
「ねっ? じゃあ、その人をエルヴルに連れてくるっていうのは、どう? お城の中で治療するなら、きっとお父さまも蝶を使っちゃダメとは言わないわ。そうね。上手くいけば、あたしもお迎えについていけるかもだし」
「そ、それは……」
ハナは逡巡する。
ベルーデルの言ったことを一度も考えなかったわけではない。
アーシャをエルヴルまで運んできて、エルヴルで治療を行う。
アーシャの余命はあと七十日を切っているが、六十日あればなんとか往復は可能だ。
治癒して三日後には、《病により死に至る呪詛》によって次の死病が発症してしまうという話だったが、それもエルヴルの《王家の丸薬》によって抑え込めるかもしれない。
ただ、確証がない。
特に《呪詛》による病の発病に、本当に《丸薬》が対抗できるのかどうか。
そして対抗できなかったとき、観察対象を手放す羽目になった疾師ウルウァが、再び手を貸す気になるかどうかだ。
ウルウァ自身がエルヴルに居を移すというのは、もっとありえないと思える。
疾師という存在について正しく認識するなら、病人の存在しない国に留まるなど拷問に等しい真似に違いない。
それに、何より――
「ふふっ。わかってるけどね」
ベルーデルは冗談めかすように片目を閉じてみせた。今しがたの輝きを、そっとしまい込むように。
「動かせない人だっているもの。簡単じゃないってわかってる。遠くへはなおさら。あたしだって、本当は……」
「……」
ハナは押し黙る。
そんなふうに悟り切った言葉を聞くことになるとは思っていなかった。
病を知らないと言われるこのエルヴルで。それもその国の王女から、
いや、知らないのはエルヴルだけだ。
ベルーデルは、この国でただ一人の病人だった。
健康な体を望み、自由に外に出ることを願い、旅立ちに憧れながら、決してそれを許されない。
彼女だけが――そう。解決の手段はあるのに、許されていない。
エルヴルが、彼女の治療だけを許していないのだ。
――なぜか?
その疑問こそが、ハナがエルヴルの王位継承のしきたりについて感じ取っていた、違和感の正体の一つだった。
世継ぎをただ確実に確保したいがため、というだけでは説明がつかない。少しでも早く――まるで時間がないとばかりに急き立て、王女の体と人生を、まるごと余さず、何かの犠牲に捧げるかのような。
身を捧げる――巫女という役割。
女王が本質的に従事し、専念させられるというそのつとめの存在が、ハナの中で淀みを作っている。答えはまさにその中にあるような気がした。
「――ふぅ。こんな話ばかりしてちゃダメね」
続きかけた沈黙を笑い飛ばす言いぐさでベルーデルが破る。
「せっかくハナから外のことをたくさん聞ける時間を作ったんだから、大事にしないと。それこそ、ハナがお父さまとお話しをしたら、すぐ帰れることになっちゃうかもしれないのに」
「あ……」
ハナは自分も失念していたことに気づき、後悔した。時間がないのは今の自分たちもそうだった。
現在ベルーデルの周りに十一視蝶は飛んでいない。
本来彼女自身と同じく、彼女の自室から出さないことになっているらしい。
そして鱗粉の効果が切れれば、ベルーデルは体調を崩してしまう。
そうなる前にベルーデルが自室へ戻ること、それをほかでもないハナが薬師として促すことを、ヘイゼル兵団長に約束させられていた。
ヘイゼルの本来の役目もベルーデルのお目付け役ではないため、今近くにはいない。部屋の外で衛兵が二人ほど待機しているだけだった。
「ハナのせいじゃないわよ?」
目を伏せていたハナの顔を、ベルーデルが下から覗き込んで微笑む。
気がきかない自分を責めているところへ気を使われたのを察して、ハナは余計にたじろぐ羽目になった。
だがベルーデルは構うことなく、ハナの分まで憤るように声を荒げる。
「お父さまが帰ってくるまで、ハナたちをお部屋に入れるのも控えろ、って言い始めたヘズが悪いんだから。国賓扱いだって言ってるのに。まったく……む? そっか、国賓……」
不意に何か気がつくことがあったらしく、ベルーデルは難しげな顔をして考え込み始める。
彼女が最後に「国賓」とつぶやくのを聞いて、ハナはなぜか少しヒヤリとした。
「そうだわ!」
ほどなくして、ぱんっ、と手を打つ音が鳴る。
その可愛らしく小気味のいい音がそうであるように、まるであらゆる憂いはかき消せるものだと信じているかのように、夕陽色の瞳を清々しく輝かせて、エルヴルの王女は力強くハナの手を握った。
「ハナ! お母さまのところへ行きましょう!」
「……はい?」
耳元で揺れる銀細工たちが、くすくすとささやく。
明日昼頃次話投稿予定。毎日更新中。





