第三章・第六節 湯あみと水堀
【前回のあらすじ】
『姫様』の誘いで、士人とともに思いがけずエルヴル王宮へ足を踏み入れることになったハナ。
しかし、二人の案内のために現れた四本腕の女性兵士――兵団長のヘイゼルは、何やら女王に問題が起こったとして、城の奥へ行ってしまう。
残されたハナたちのもとへ忍び寄ってきたのは、『姫様』こと、エルヴル国の王女・ベルーデルだった。
そして彼女はハナたちに《丸薬》を分け与えると、引き換えに自分を国境の外まで連れ出してくれと言い始める。
急な展開に戸惑うハナだったが、ベルーデルが十一視蝶を従えているのを目の当たりにして、彼女に本当の目的を打ち明ける。
そうしてハナはどうしても十一視蝶を譲ってほしいと懇願したが、ベルーデルはこれを二つ返事で快諾したのだった。
ただ、そうこうしているうちにヘイゼルが戻ってきてしまい、ベルーデルとの取り引きどころではなくなる。
さらには、取り乱したヘイゼルを見た士人が、ベルーデルを背負ったまま王宮の上階へ向かって走り出してしまう。
ヘイゼルはそれを誘拐と勘違いしていきり立ち、四本腕で抱えた二本の巨大な突撃槍の先を、取り残されたハナに差し向けたのだった――
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疲労は一種の瘡だ――と師匠は言っていた。
出血や痛みがなかろうと、肉体は動き続ける限り、大なり小なり傷つき続けるものなのだ。
重い荷を負って旅をしていれば、当然手足は酷使されるし、衣擦れさえも赤みを残す。
そして清潔にしていなければ、目に見える傷と同じく治りも遅い。
実に十余日ぶりの湯あみである。
いやさ、川や泉での沐浴を数えないのなら、いつ以来なのか思い出せもしない。
ウルウァの屋敷の風呂は当然のように壊れていたし、屋敷を出てからはほとんど休む間も取らずに隊商の馬車を乗り継いでエルヴルを目指したのだ。
かけ湯を足先から始めた時点で、ハナは刺すような痛みとしびれに襲われた。
片足のももまで濡らした時点で音をあげて、どうせ痛いならいっそと、甕の湯を頭からひと息にかぶった。案の定、しばらく息ができないほど身悶えた。
「ぐぅ〰〰〰〰〰〰〰〰――ハァぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ……」
どうにか深く深く息をつき、よろめきながらも立ち上がる。
舟型の浴槽のへりをまたぎ、おそるおそる片足を湯につける。
またもや少しピリッとしたが、今度は耐えられないほどではない。
両足を入れて腰までつかると、薬湯の少しぬめりのある肌触りが臀部やももの内側まで包み込み、急速に痛みを心地よさの方が上回ってくる。
おののきなのか感激なのかよくわからない感覚に身震いしつつ、ほのかに香る白い湯の中へ少しずつ全身をうずめていく。
「……うあぁー」
思わず肩を通り越し、あご先までつかっていた。
ひき潰されて押し出されたように間の抜けた声が喉の奥から抜けていく。
薬湯の素は自前のものだ。我ながらなかなか気の利いた調合だったと、とろけていく意識のまだ無事な部分で自賛する。
先刻産湯のために用意したものの残りではあったが、持ち腐れていてもしょうがないとして、その点は割り切ることにしていた。
「……おんし、良い身分じゃのぅ」
不意に、他に誰もいない浴室の中で、ハナ以外の声がこだまする。
「びぼえばべぴぽぼぼぼぽ……」
口まで湯につかった状態でハナは適当な返事をする。
いつもの自分ならありえないような真似だが、服を着ていないというのは特別な時である気がするものだ――という、わりとくだらない考えが頭の中なのか外なのかをひらひらとたゆたってゆく。
ひらひらと、泳ぐ蝶のように。
「ケヒッ。そんなに心地良いなら小僧も入れてやりゃあよかったにのぅ。あの王女も言うちおったろうに」
「あぁっ、あれはベルーデル様がっ、かん違いをされて!」
ハナは慌てて我に返り反論した。
勢いよく顔を上げたので、飛沫が湯船の脇の燭台置きまで届く。
危うげに揺れた明かりの下で、台座の上に置かれた小さな水牛の頭骨が、ケフフと気味の悪い笑声を立てた。
「夫婦も旅の道連れも似たようなもんでないかゃ? お互いデカブツで洗うところが多いけに、手を貸し合えばはかどるぞに。手足と言わず、全身くまなくこすりつけ合うようにすればねぁ」
「っな……ッ」
なんてことを言うのか、と言い返そうとしたが、まともに言葉が出ず、ごまかすようにまたあごを湯に沈めた。
入浴を勧めてくれたベルーデルからも似たようなことを言われたと思い出す。
夫婦は一緒に入るものではないのか、とか何とか。
彼女の母親の洗体も夫が介助するのが決まりらしい。
ウルウァの悪意に満ちた言と違って無邪気そのものの少女にまでそう言われると、何かハナの方が間違っているのではないかという気になってくる。
いやいや、そもそも夫婦ではないのだが、だがもしも長く寄り添うことになるのだとしたらそれは……。
「……助兵衛」
「……!! 何もっ言ってませんよ!?」
「わかっちおらんのぅ。示し合わせちおらねば、目を離した隙に何をしでかすかわからんぞに、あの小僧は」
もっともらしい指摘を受け、ハナは再び黙り込む。
先刻、兵団長ヘイゼルに槍の穂先を向けられて独走を始めた士人が、エルヴルの王女ベルーデルを乗せたまま向かったのは、王宮の五階にある王女の私室だった。
心臓がバクバクしているハナを伴って彼らに追いついたヘイゼルは、士人が王女を人質に立てこもっていると主張した。
それを見てケラケラ笑っていたベルーデルが、彼に指示してここへ来させたのだと話して、どうにかなだめ切ったのだ。
その間、士人は窓辺に座り直したベルーデルのそばに突っ立って、部屋を見まわしているだけだった。
はたして常日頃から頼りない彼自身の舌先に弁解の余力があったとしても、その部屋の景色に目を奪われるのは無理からぬことでもあった。
ヘイゼルの四本腕にすら、彼の興味は向かなかっただろう。
石壁に囲まれ寒々しさを否めない王女の間には、そこかしこに瑠璃色の翅の蝶が舞い、きらめく鱗粉を立ち込めるほどに振りまいていた。
そして、なんとか冷静さを取り戻しかけたヘイゼルに、その蝶たちこそがハナたちの真の目的であると唐突に打ち明けたのもベルーデルだった。
彼女の意図としては、客人の宿願を安心して叶えるため、身内に協力を仰ぎたかったのだろう。
しかし、事情を汲み取ったヘイゼルの方は、蝶の譲与そのものについて、真っ向から反対し始めた。
十一視蝶はエルヴルの国宝。
そしてベルーデルにとっての非常に大切なよりどころでもある。
潤沢に繁殖させてあるからといって、おいそれと部外者に、それも国民ですらない者たちに分け与えてよいものではない――と。
それまでの取り乱した言動とは異なり、ヘイゼルのこの申し立ては厳格でどこか鬼気迫るような調子だった。
楽天家らしいベルーデルもさすがに臣下の緊張を察したのか、仕方なさそうに納得し、ならば自身の父である王配殿下に直接意見をうかがうことにすると提案した。
――王配は現在、穀倉庫の視察に出ており、戻ってからも政務があるため、ハナたちは晩餐の席に招待する。それまでの間、エルヴルはハナたちを国賓として扱い、決して王族の者を交えず何かを処断することがないように――と、あからさまに誰かへ向けた釘を刺して。
「十一視蝶……ベルーデル様にとって大事なよりどころとは、どういう意味でしょう?」
ハナは記憶の糸をたぐりながら、半分ひとりごとのようにウルウァにたずねた。
国宝だから、というヘイゼルの言は、国というものに理解の浅いハナでも筋が通っていると思えた。
どこの骨とも知れないハナたちに二つ返事で譲ってしまうベルーデルの言動の方が、比べるまでもなく稚拙で非常識だろう。
ただそのベルーデル自身もまた、ハナたちに十一視蝶を渡すことに、何か懸念があってしぶるような態度を見せていた。
ヘイゼルとの違いは、ベルーデル自身のことを心配しているのではなく、ハナたちの方を心配しているらしいという点。
「どうもこうも、あの六本足の言うちおったとおりよ。王女の生存に欠かせぬちいうことぞに」
《連理病》の遺骨越しに聞こえてきたウルウァの所見を耳にし、ハナは眉をひそめた。
「生存って……ベルーデル様がご病気だと?」
「何じゃ、洟垂らしめ。寝起きする部屋いっぱいに『万能薬相当の力を持つ虫けら』を飛ばしちおる者が、健常者じゃとでも思うちおったかゃ? おんしが凍えながらもクサメひとつ出さなんだは何故ぞに?」
自分のことを引き合いに出され、ハナは答えに窮する。
ベルーデルの私室は、印象においてだけでなく実際に寒かった。
石壁が厚いのか、屋外の温度から隔絶されているらしく、窓もよく見ると二重だった。
息が白くなるほどではなかったとはいえ、例によって汗でしとど濡れたままの服を着ていたハナは、ヘイゼルとベルーデルが言い争っている間、体を抱いて震えていたのだ。入浴の機会を得たのは、そこで耐えかねてついに助けを求めたことにもよる。
ただ、確かにウルウァの指摘どおり、鼻水が出たりくしゃみをしたくなるといった、寒さに対する免疫的な反応は特に生じていなかった。
それがなぜだったかと、あえて問われれば不思議にも思えてくる。
寒さ以外であの部屋にある奇異なことといえば、やはり無数の蝶たちと、むせ返るほどの鱗粉。
「標本を得ねば正確なことはわからんねども、おそらく十一視蝶の『万能』の効は〝翅〟に集中しちおる。はがれ落ちる鱗粉を吸い続ける限り、病の発症から症状やらはかなり抑制されるちいうところかのぅ」
「鱗粉を吸っていなければ、じぶんは風邪を引いていたと?」
「さてのぅ。洟垂らしは常に引いちおるようなもんじゃろ?」
「……」
ハナは質問を間違えたことを後悔した。
いい性格をした疾師が、汗冷えごときに興味を抱くはずもない。
「ベルーデル様の……持病は、おわかりですか?」
箪笥の中で音だけ聞かされていた相手に、普通なら訊けないようなこと。
しかしウルウァが相手なら「おわかりですか」すら余計だ。
「ふん。いかに抑え込もうち、このウルの耳があざむけるものかゃ。家系的に不可避な臓器の疾患の一種。症状は様々にあるねど、大きく捉えれば『恒常性の維持困難』ちいうところじゃ」
「そんなっ……」ハナの声が跳ねる。「致命的、じゃないですか……!」
恒常性とは、体の中の状態を保全するはたらき全般を指す言葉だ。
生き物が生き続けていることそのものと言ってもいい。
その機能を維持できないということは、生きていられないのと何も変わらない。
「いかにも。本来ならば、あの歳までまともに生き永らえることさえ険しいわねぁ」
その率直な事実を率直なまま突きつけられ、ハナは動揺する。
脳裏に浮かぶのは快活で天真爛漫な少女の横顔。
しかしすぐ冷静になる。
それほどの重い病をも抑え込み、表向きは健常そのものとして振る舞わせるほどの力が、十一視蝶の鱗粉には宿っているということなのだ。
効果の持続性のほどはわからないが、ベルーデルが自室にいないことについて臣下のヘイゼルが過剰なまで難色を示していたのも理解できる。ただの神経質ではなく、きっとそれくらいにベルーデルの体を気づかってのことなのだろう。
たとえ目も開けられないほどの蝶たちで王宮全体が満たされていたとしても、彼女にしてみれば足りないのかもしれない。
「……治らないん、ですね?」
確かめるように問いかける。実のところ答えはとうに知っている。
家系的に不可避ということは、生まれついてのものということ。
そしてその手の病は患者の肉体の基礎も同然、というのが薬師たちの通説だ。
隠してやり過ごすならやりようがある場合もあるが、押しなべて除去することなどできはしない。
だから嘲笑されることは目に見えていた。
それでも、はっきりと言葉にされることを求めたのは、薬師の性だっただろうか。
「おおのよぅ、薬師殿?」
しかし、遺骨の向こうの疾師は、ハナの想像以上に大袈裟な声色で〝驚愕〟をした。
「移り気はいかんねぁ。目下ウルの隣で生きたまま溶けていきよる憐れな女こそ、おのれの患者めであると大層にほざきよったろうに。まぁ、王族の歓待を受けて王女の『癒者ごっこ』をする余裕ならば、あと三十日もあるけに、好きにすりゃあ良いとは思うがねぁ」
「……!? そんなつもりっ……!」
思わず声を荒げるが、言葉が喉に絡む。
ウルウァの言うとおり、病床で待つアーシャは今この瞬間も、全身の皮膚が徐々にただれて硬くなっていく感覚と激痛とに苛まれている。
目の前にいないせいで実感を抱かせられないことなど、患者にとっては関係あるはずもなかった。
十一視蝶を手に入れることに集中しないのは、アーシャの苦痛を無用に長引かせることにほかならない。
また、そのことだけを絶対的に憂慮する士人は、だからこそ今にも強行的な手段を取りかねない。
いずれを許しても、二人の心身に寄り添うと決めた薬師としては、失格かもしれなかった。
「何ぞに? うるさいのぅ」
「?」
突然ウルウァが毒づいたのを聞いて、ハナは首を傾げた。
反論しかけた直後ではあったが、ウルウァがハナに向ける態度にしては違和感がある。
牛頭骨に開いた虚ろな眼窩の奥で、誰かと言い争っているような気配があった。
「わかっちおるわ……ケッ」とウルウァが吐き捨てるのだけ、最後にかろうじて聞き取れた。
「コリャ、洟垂らし。おのれのくっさい出汁をちんたら煮詰めていったい誰に食わすねぁ? ウルより仰せつかった『実験』をちゃっちゃか始めねば、長風呂がもたらす害毒をそこへ挙げ連ねるぞに。それ早う、早う」
急に不機嫌な調子で急き立てられてハナは鼻白む。
しかし予告された嫌がらせがいやに生々しかったので、しかたなく湯船からあがることにした。
髪の先から糸のように滴る水が、湯気を裂きながらじょろじょろと小気味のよい音を立てる。
幼水牛の頭骨の隣に、木栓をした親指大の小瓶を置いてあった。
小瓶の中身は、ベルーデルからたっぷり渡された《王家の丸薬》のうちのふた粒だ。
ハナは浴槽から出ると、濡れたままその小瓶を手に取り、栓を外して指を上にかざした。
「濡らすだけでいいんですよね?」
「適当でかまわん」
ハナは指先から垂れる水を、瓶の中へ少しずつ落としていく。
数滴垂らした時点で、早くも変化が出た。
真珠のように硬かった《丸薬》の表面が、砂糖菓子のようにぼろぼろと崩れ始めていた。
「溶けました」
「中身は?」
ハナが驚いている間にも、ふた粒の《丸薬》は急速に原形を失っていく。
溶け出したものは水の色を変え、ウルウァの問いに答えようにも黒く濁ってしまっていた。
見えたといえば、その濁りそのものが水中に噴き出した黒煙のようだったことくらい。
「よくわかりません。液状ではなく、粉末状に近いものが詰まっていたくらいにしか……」
「肉眼で顆粒は認められんか。いかんねぁ。眼球を巨大化させる病の素を渡しそびれたわ」
「あの、それって……」
「ぼっとしちおらんで、感触はどうじゃ?」
促され、気持ちをもやもやさせながらもそっと小瓶を傾けてみる。
元々口から服用するものだけに、触れるくらいなら何も影響はないだろうと思えたが、不思議と緊張を覚えた。
「もうほとんど液状です。さらさらしていて」
「味は?」
「ひ、必要ですか?」
「否や」
「……」
ハナは押し黙ったが、ウルウァの方はもう本当に確かめたいことはないようだった。「やはり無代謝休眠。それに極小卵……朱痢菌の模倣?」と、どうもひとりごとと思しきか細い声ばかりが漏れ聞こえてくる。
「長命成分が免疫をも抑制するとすれば……ねども、羽化しよれば元も子も……」
「あの……疾師様?」
今度はハナの方が放置に耐え兼ね、たずねていた。
「ベルーデル様は、《丸薬》は使っていないんでしょうか?」
ウルウァはおそらく《王家の丸薬》の正体をすでに掴んでいた。
ひとりごとを聞く限り、今は《丸薬》の作用機序について考察しているところらしい。
そちらもたずねれば筋道立てて披露してくれただろうが、ハナはどうしても先に、ベルーデルに直接関わることを確かめておきたかったのだった。
「長風呂の害じゃのぅ」
しかしウルウァはすげなく言う。
「考えるまでもなかろうに。城下の街でいったい何を見てきて……む? そうか。とすれば……」
「疾師様?」
「洟垂らし。どうもこの国は手に負えん」
「は?」
次の瞬間、浴室の扉が勢いよく開け放たれた。
振り返ったハナは、湯上がりの火照りも吹き飛んだように凍りついた。
「はっ!?」
浴室は、ハナにあてがわれた賓客用の個室からのみつながる専用のものだ。
その浴室と客室の間にある狭い入り口をふさぐようにして、丸々かつ隆々とした巨体が立っている。
閉じ切った前がはち切れそうな漆黒のローブと、前後につばの長い黒帽子。
太く長いくちばし型の面鎧。
ほとんど正面にいたハナと向き合うかたちで、士人もまたハナと同様に固まっていた。
湯気と帽子の影でハナから目元は見えない。しかし確実に目が合っているような気がする。
入り口のわずかな隙間から空気が流れ込み、濡れそぼったハナの肩や腰などにひたりと吸いついた。
不意に、足元でパリン、と音が鳴る。
ハッとして見おろすと、親指大の小瓶が床に落ちて砕け散っていた。黒い液体がいっしょに飛び散っている。
その光景に一瞬だけ意識を奪われているうちに、前方の気配が動いた。
「……!?」
再び顔を上げたハナの瞳に、入り口へねじ込むようにして前傾姿勢で浴室へ飛び込んでくる巨体が映り込む。
声をあげるより早く距離が詰まり、広い影が覆いかぶさってくるのを予感した瞬間、ハナは思わず首をすくめて目をつむった。
「……ッ!!」
右頬と右半身を、烈風が撫でていく。
直後、背後で何かの砕け散る盛大な破壊音が鳴り響いた。
ハナはもう一度目を剥いて振り返る。
跳ね上げ式の窓があったはずのその場所に、ぽっかりと四角い穴が開いていた。
抜けるような青い空。
その真下のどこか遠くで派手な水音。
「……へ?」
よろめきつつも、小走りで窓に近づき、残されていた窓枠にすがりつく。
ここは王宮の三階だ。
王宮自体が高台にあるおかげで、白い家々と水耕地が入り混じるエルヴルの景色が、国境の壁の向こうまで見渡せる。
ガラスの破片に気をつけつつ、身を乗り出して真下を覗き込むと、ちょうど王宮を囲む堀がそこで水をたたえていた。
流れはほとんどないはずだが、この高さから見下ろしてもわかるほど水面が激しく揺れている。波間には、おそらく窓の一部だったと思しき木片もちらほら。
ざぶ。
ほどなくして、新たな水音を聞いた。
堀のちょうど反対側で、岸壁に張りつくようにしてうごめいている人影が目にとまる。
水面から這い出した黒い巨体が、がしがしと力強く石積みをのぼろうとしていた。
ハナはひとまず胸をなで下ろした。
が、ほぼ同時に背後でまたもや気配と怒鳴り声がした。
「お客人! いったいどちらに――って、うわああああ!?」
振り向くと、またも浴室の入り口をふさぐようにして、今度は大柄な白銀の鎧が慌てふためいていた。
篭手をはめた両手でひさしの上から目をおおい、残るもう一組の両腕はわたわたと振り乱している。
そのうち片方が開け放していた扉のノブを捕まえると、勢いよく浴室の外へ身を引きながら扉を閉め切った。
「くくくくすしどの!? 失礼致しましたァッ!!」
壁越しでも部屋全体を揺さぶるような大音声。
ハナは身を縮めながらも懸命に返事をする。
「ヘイゼルさん? あの、お構いなく。それより、どうかしたんですか? ええと……」
言いよどんで、また窓の外に視線を向ける。
ちょうど岸壁をのぼり終えた士人が、立ち止まらずに路地へ飛び込んでいくところだった。
「実はっ、その……」壁の向こうからヘイゼルが言う。「お、お連れの御仁にも入浴と着替えをお勧めしたのですが、かたくなに辞退なさるので、少々強くお願い致しまして、それで、そのぉ……」
「言わんこっちゃないねぁ」
台座の上の幼頭骨がひそめた声でぼやいた。
ハナは濡れた足で歩み寄りながらそちらに耳を傾ける。
「小僧は脱出する恰好の動機を得たというわけじゃ。おんしがふやけちおる間にのぅ」
「なぜですか?」
「決まっちおる。十一視蝶の持ち逃げよ」
「えぇっ?」
「王女の間に入ったときじゃのぅ。こっそり捕まえてフトコロへ入れちおったに違いないわぇ」
「な、なんて抜け目ない……」
「薬師殿?」
思わず声が大きくなってしまい、外のヘイゼルに訝しがられる。
ぎくりとしながら反射的に頭骨を手に取って隠すよう持った。
「な、何でしょう、ヘイゼルさん?」
「いえ、それで、その、うしろの窓が割れていたのは、ひょっとして……」
「あ。あー……」
ハナは相づちを引き伸ばしながら考えをめぐらせようとする。
士人がいつ十一視蝶を確保したにせよ、確かに彼がこの王宮をあとにする理由がほかにあるはずもなかった。
そして少なくともヘイゼルにはその本当の理由を悟られていない。悟られてはいないが、いささか奇行が過ぎたようだ。
「小僧も阿呆じゃのぅ」
胸元からウルウァの嘆息が聞こえる。
「直接触れて担ぎ上げる度胸もないくせに、わざわざ回り込んできよってからに。よほどおんしの体を拝みたかったと見える」
「何の話をしてるんですか……」
「まぁ、結果的に支障ないがのぅ」
「?」
うっかり気を取られていたが、返事の遅いことを「あのぅ、大丈夫ですか?」とヘイゼルに心配されてしまう。
慌ててハナは無心で思いついたことを口にする。
「あ、あの人は、実は、あの……お風呂嫌い、というか、ぇえぇと、お湯が、嫌いでしてっ」
「お、お湯ぅ?」
「はい。ぅあぁ、いえ、嫌いというほどではないんですが、とにかくお風呂は水じゃないとという人で、筋金入りで」
「新しいのぅ」
「疾師様は黙っててくださいっ」
「そういう、ことでしたか……」
ウルウァに茶々を入れられてハナはヒヤリとさせられたが、ヘイゼルは意外にも納得したらしかった。
「そういう方も、いらっしゃるのですね。知らなかったとはいえ、御仁にはご無礼を」
「い、いえ、彼も口下手で、その……結果的に、水浴びも洗濯もできてしまったようですし、お風呂あがりはお散歩が趣味なので、しばらく戻ってこないと思います……よ?」
「さ、左様ですか」
戸惑いつつも了承の気配を示すヘイゼル。
深く追及したがらない性格で助かったと思いながらも、ハナの緊張はまだ晴れない。
しばらくどころか、十一視蝶を手にした士人は街を出てアーシャの待つ集落を目指し、エルヴルへは二度と戻ってこないだろう。
それでアーシャの《落果病》に片がつくなら、ハナも用済みということになるし、アーシャに報告すると誓った士人の話もさしたる中身のないものになる。
それはそれで喜ばしいことではあったが、悠長にエルヴルで歓待を受け続けているわけにもいかなくなってしまった。
三日だ。
アーシャの治癒よりそれだけ帰還が遅れてしまえば、アーシャは『次の病』を発症してしまう。
そこでウルウァが診断に迷うことも、士人が次の旅立ちに足踏みすることもあり得ないだろう。
アーシャとの約束をこの一度きりで終わらせるわけにもいかない。
たとえ――うしろ髪を引く病人がエルヴルにいるのだとしても、怪しまれないうちに王宮を辞して、士人のあとを追うべきなのは明らかだった。
「ハナ! お風呂もうあがったかしら?」
不意に、壁越しに意気揚々とした甲高い声が飛んでくる。
すぐさまヘイゼルが「姫様! お部屋でお待ちくださいとあれほど――」と若干うわずった声でいさめ、「えー、いいじゃない。着替えを持ってきたのよ?」と屈託のなさそうな声が対抗する。
早めに話をつけるなら、彼女を引き留めて直接話す方がいい。
そう思ってハナは、扉に向かいながら急いで声をかけた。
「あ、あのっ、今出ますので……」
濡れた手で扉を開ける。
するとそこにちょうど立っていたヘイゼルが、こちらを振り向くところだった。
途端、牛頭の面兜のひさしの合間から「ひぃっ!」と裏返り切った悲鳴が発射される。
「くっ薬師殿!? いけませんッ! 服を着てください服を!」
「え、でも、服、そちらの部屋に……」
「はひぃ!? こちらが出ます! 失礼致しましたァァァッッ!!」
ほとんど泣きわめくような凄まじい声をあげて、ヘイゼルは突風のように部屋を飛び出していった。
部屋の入り口をすかして愛らしい顔が覗いていたような気もしたが、兵団長の剣幕に驚いたのか、彼女も目を丸くして引っ込んでしまう。
激しく音を立てて閉じた両開きの扉を眺めながら、ハナも唖然として立ち尽くす。
(同性同士なのだから、そんなに慌てなくても……エルヴルではよくないとか?)
不思議がりながらも、扉のそばにかけてあった柔らかい拭き布を取り、一旦浴室に戻る。
落ち着いて話せなければ元も子もない。それにまだ、割れた小瓶を片づけておく必要もあった。
《丸薬》の溶けた黒い水も、一応洗い流しておいた方がいいだろうか。床を見おろして少し考えているうち、ふと思い至る。
「疾師様? 先ほどの、支障がない、というのは……」
「おんしは、ねぁ。ここでただ待っちおりゃあ良いぞに」
「ここで、って……し、しかし、ミスターが――」
「小僧は戻ってくる」
ウルウァは言い切った。
「蝶を持ち出しても、意味がないけにのぅ」
「意味、って……」
ハナが戸惑っても、小さな幼水牛の頭骨はそれ以上語らない。
聞こえてくるのは、窓のあった穴から吹き込む風の音だけ。
立ち込める湯気が揺れて、その向こうに青い燐光を見た気がした。
明日昼頃次話投稿予定。毎日更新中。





