第三章・第五節 牛頭と黒帽子
【前回のあらすじ】
エルヴルの王宮前でついに士人に追いついたハナ。
すでに衛兵たちとひと悶着起こしかけていた彼を“力ずく”で抑え込んだものの、十一視蝶がいるという王宮の中へどうやって潜り込むかは考えていなかった。
なんとか衛兵たちと交渉しようとしたところで、城壁の上から声をかけられる。
見あげるとそこに、日差しを受けて黄色く髪を輝かせる少女がいた。
『姫様』と呼ばれた彼女は、ハナに向かって問いかける。
「ねぇ、あなたっ、薬師なの?」
これが宿命の姫君と、薬師ハナの出会いだった――
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王宮、と呼ばれる建造物を、遠目に見る機会さえ今までになかった。
これが近づくどころかそのまま足を踏み入れるまでにもなれば、そうそう実感が追いつくはずもない。
領主や首長といった身分の者たちは、たいていその地に根差した特定の医療者を抱え込んでいるものだ。ハナのような勝手に訪れる流れ者が、その懐に招き入れられるのは、やはり異例のことだった。
仮にそうでなくても、城という場所は、あえて親しみ深さとは縁遠いかのように、威圧的に造られるのだろうか。
石積みに囲まれて頭上まで覆われていることを意識すると、ちょっと不思議な感覚がしてきて、正直心細い。
石壁はむき出しではなく、表を白い漆喰のようなもので塗り固められており、天井も含めて余白を貪るように緻密な浮彫細工で埋め尽くされていた。人物のほかには、植物じみた意匠が多く、ハナはその中に――少し――白い刀剣のような輪郭が紛れ込んでいないだろうかと探してしまう。本当に、ほんの少しだけ。
「こちらでお待ちください」
らせん階段の手前まで来て、城の入り口から歩廊をずっと先導していた衛兵三人のうち、一人がそう言い残して階段をのぼっていった。
残り二人は、ハナたちに背を向けたまま、口をきかずに立ち止まっている。そろいの面兜で顔は見えないが、城門前で士人とやり合ったのとは別の衛兵たちだ。
彼らにならってその場に立ち尽くしながら、ハナは横目にとなりの大きな体を見やった。
彼もまた、先ほどのような性急な姿勢は見せずに、大人しく待っている。
かがり火頼りの薄暗い屋内では、つば長の帽子の影で目の色もうかがえなかったが、珍しく落ち着いた姿を見たような気がして、ハナは小さく息をついた。
「入れてしまいましたね……」
「……」
「?」
ふと首を傾げる。
ハナが声をかけた途端、士人が何か反応したような気がしたのだ。
眠っているわけではないのだから、何か反応があるのが当たり前といえば当たり前なのだけれど、どことなく思いがけなかった。
無言なのは相変わらずだし、たいして身じろぎもしていない。ただ、心なしか、雰囲気のこわばりを感じる。
(ミスター……緊張してる?)
あの、と言いかけた途端、彼の手が少し動く。
その動作に、何やら遠ざけたがるような気持ちを感じ取って、ハナはハッとした。
首筋に、ないはずの鈍い痛みがよみがえってくる。
息が重たい。
こめかみに汗がにじむ。
首筋に触れかけた自分の指が震えていることに気がついて、息を呑むように唇を引き結んだ。
彼から目をそらし、ハナは宙に浮いた手で背負い箪笥の肩ひもを握りしめる。
鼻から息を吸い込むと、石壁から漂う冷たい匂いが頭の中をめぐった。
歩廊の先の壁をにらむようにして、少しだけあごを上げる。
「だ……だから言ったんですよ。暴力はダメだって」
「……」
また反応がある。
動作はないが、今度は視線を感じる。なんだか驚いているらしい。
ハナはあえて仕返しするような気持ちで無視を決め込み、前を見る。
「余裕がないのは、わかってます。けど、だからといって、力ずくがいつも近道とは限らないんです。――もちろん、薬で眠らせるのも、ですよ?」
最後を付け加えるとき、不意を討つように語気を強めてみせた。
こっそり横目で見上げると、それに気づいたかのように視線を逃がした気配がある。
目論見どおりの彼の動揺を感じ取って、少しばかり胸がすくような心地がした。ただ、同時に居心地の悪さも忍び寄ってくる。
言葉に詰まりかけながら、肩ひもを握る手に再度力を込め、音のない溜め息のように目を伏せた。
「気にしていないわけではないんです。実際、その、痛かったですし……でも、もう決めましたから。じぶんは、じぶんなりのやり方で動きます。アーシャさんのためにも。ミスター、あなたのためにも」
彼に会うまで、忘れていたわけではなかった――彼のしたことを。
ともすれば、不意に思い出されることも一度や二度ではなかったし、似たような光景を幾度も夢に見ては飛び起きた。
さえた目で星を見るたびに、無理もないと自分に言って聞かせた。
体に刻み込まれてしまったのだ。
《呪詛》は肉体にこそ宿るというウルウァの話が、おかげで素直に飲み込めるようにもなった。
けれど、ハナはまだここにいる。
ここへ来て、彼のとなりに立っている。
目が合うとまだ体がすくむ。首筋にはひそかな火照りがある――けれども、ここにいる資格までは奪われては――なくしてはいないと、強く信じられた。
「言いましたから、ね?」
少し前かがみで首をひねり、下から士人の目元を覗き込むようにしてみる。
すると今度は、あからさまに彼が顔を動かして視線を横へ逃がした。
さすがにむっとしたハナは、彼の脇腹に身を寄せるようにして追いかけようとする。
と、その視界が急に黒いものでふさがれた。
「うわっ?」
すぽっとかぶさるように顔をおおったそれを、慌てて引きはがす。
何かと思えば、前後に長いひさしのついた漆黒の布帽子だった。
ハナが顔を上げると、鳶色の総髪を明かりにさらし、かたくなに壁の方を向いて、ややとがり気味の耳と褐色のうなじだけ見せ続ける岩のような頭が目に映る。
そのなかなか見慣れない彼の後頭部をしげしげと見たあと、再び手の中の帽子を見て、やはりもう一度彼を見上げた。「ミスター? これ……」とたずねかけたとき、ようやく屋内で聞く遠雷のようなくぐもった声を聞いた。
「透け……隠せ」
「は?」
「前」
かくす? まえ?
と頭の中で復唱しながら、言われたとおり自分の〝前〟を眺めおろす。
途端、目の奥が沸騰した。
首から上の毛穴が全部開いて、髪の隙間からは湯気が噴き出しているかのような錯覚に陥った。
首筋を伝って新しい汗が脇や胸元へ流れ落ちていくが、衣服にはもはや吸い尽くされず繊維の上を素通りしていく。
門兵のアールの家で目を覚ました時点からすでに汗みどろで、体を拭いたり着替えたりする前に、士人がエルヴルに入っていることを聞かされた。
それで副兵長やアール夫妻への挨拶もそこそこに、王宮の門まで全速力で走ってきたのだ。
さらに猛進する士人を押し倒したり、槍を持った衛兵たちと向かい合ったりと、緊張の連続。
事なきを得た頃にはもはや水をかぶったようになっていて、染めも入っていない粗末な薄い衣服は地肌に張りつくどころか吸いついてほとんど一体化したようになっていた。
一応自前のボレロを羽織ってはいるものの、構造上、常に押さえていなければ前が開いてしまう。何より腰から下はどうしようもない。
要は、とても人前へ出られる格好ではなかった。
行きがかり上しかたなかったとはいえ、王宮と呼ばれるようなかしこまった場所へ入っていく格好としてはなおのことまずいだろう。
そんな自分の惨状を――副兵長の前で一度諭されたにもにもかかわらず――完全に無意識に認識の外に追いやっていたことにハナは自分で青ざめながら赤面していた。
師匠からは度々気をつけなさいと忠告されていたはずのことながら、それこそ毎度師匠に指摘されるまで気がつかなかったあのときやこのときを思い出す。
おのれのあいかわらずな部分に恥じ入って、渡された帽子をかき抱くようにして思わずしゃがみ込みながら、あまりの情けなさに駆られたハナは、顔を上げて士人に謝った。
「すっ、すみません! お見苦しいところを……」
「……」
士人は依然として顔を背けている。
彼が気分を害していると思い込み、ハナはいっそう動転する。
「あのっ、本当にすみません! 気持ち悪かったですよね? ヌルヌルして」
「ッ!?」
「それ以前に、馬乗りになったりなんか、ああっ、じぶんはどうしてそんな! そんなつもりまったくなかったんです! ただ、体が言うことを聞かなくて、つい……」
ぶふッ、げふッ、ゲホッ――
突然激しく咳き込む音が、ハナの言葉を遮った。
士人ではない。見れば、すぐ近くで自分たちに背を向けて立っていた衛兵の一人が、うつむきながら背中を揺すっている。
ついでにとなりのもう一人は、相方を気づかうでもなく、そわそわと肩に手を置きながら、やたらに首を曲げる運動をしている。
彼らのどことなく不自然な雰囲気にハナが気を取られていると、らせん階段の上から足音が近づいてきた。
先ほどのぼっていったのとよく似た、板金のこすれ合う甲冑の足音。だが少し重い。
はたして下りてきた兵士は、やや白に近いような銀色の鎧を身にまとっていた。
衛兵たちの鈍色の板金鎧とは、複雑な意匠からして明らかに異なっている。
面兜には牡牛を思わせるねじくれたツノが一対備わり、前へ向かって突き出していた。
板金の各部には、城の内壁にもあるような枝葉の浮彫があしらわれている。
そして何より目を引くのが、両脇から生えて胸の下で組まれた、腕の形の奇抜な装飾。
まるで第三、第四の腕がそこについているかのようだった。いささか邪魔なような気もするが、何か特別な象徴性があるのかもしれない。
兵士はまた、背丈でも人目を引くものがあった。
兜の装飾があるとはいえ、頭頂部が士人のあごの先に届くのではないだろうか。
しかも例の飾り腕の間で、体のかたちに合わせるように鎧が大きく盛り上がっている。
幼い頃ならいざ知らず、ハナは今の自分より背の高い女性に出会うのは、これが初めてのことだった。
「あなた様が薬師、ですか?」
ハナたちの前で立ち止まるなり、その女性兵士がたずねてきた。
想像していたよりも優しく、どこか気弱な印象もある声。ただしつい最近どこかで聞いた気もする。
面兜で目線がわからなかったハナは、その戸惑い気味でもある声が、帽子を抱いてしゃがんでいる自分に向けられていることにしばらく沈黙してから気がついた。慌てて立ち上がる。
「は、はいっ、じぶんです。ハナといいます」
「ハナ様。準備が整いましたので、ご案内致します」
よそよそしく言ったのち、女性兵士は背後の衛兵らを振り返る。
「お疲れ様です。あなたたちは持ち場へ戻ってください」
「だんちょー」
返事をする代わりに、衛兵の一人が女性兵士に呼びかけた。
『団長』と言ったのだろうが、およそ目上の人間に向けるような改まった声色ではない。気安い、という以前に、とても気だるそうだった。居ずまいも含めて。
「どうやったら背って伸びるんすかねぇ」
「……何を言ってるんですか、あなたは?」
「あー、俺もう《丸薬》飲むのやめよっかな~」
と、今度はもう一人の衛兵が、明らかに毒を吐く口調で言い始める。
団長と呼ばれた女性兵士が早くも言葉を失っていると、先にしゃべった方の兵士が「さてはばかだな、お前」と相方をいさめた。
「歳だけ追いついても伸びるかどうかはわかんねえだろ?」
「追いついてみなきゃわかんねえじゃんかよ。は~、俺も天然でえっちなカノジョほしー」
「ねぇ、団長、ぶっちゃけ何食ってたらそんなに伸びるんすかぁ?」
「何なんですか、あなたたちは? ……背ばかり高くても意中の方に振り向いてもらえるとは限らないでしょう?」
呆れながらも律儀な調子で女性兵士は問い返す。しかし、
「だって、なあ?」
「絶対負けてねえ。体格以外、絶対……」
自分たちの方がうんざりだという様子で、衛兵二人はそろって首を振った。
面兜越しのその視線は、なぜか士人に注がれているように思える。
女性兵士はため息をつくと、「もういいです」と言って、ハナの方を振り向いた。
「参りましょう。姫様がお待ちです」
「い、いいんですか?」
「お構いなく。いつものことでから」
そう言い残し、さっさとらせん階段へ戻ろうとする。
しかし、今度は階上から興奮気味の声が降ってきた。
「ヘイゼル兵団長ーっ! おられますかぁ!?」
「おや? ヘイゼルはここです! 何事ですか!?」
女性兵士が声を張り返すと、ガチャガチャと騒がしい音を鳴らしてまた甲冑姿の衛兵が駆け下りてきた。
ハナたちと目の合うところまで下りてきた衛兵は、ヘイゼルと名乗った女性兵士の姿を認めると、息せききった様子で告げた。
「一大事です! 伝令管からイズン様の悲鳴が!」
「何ですって!?」
ヘイゼルがもはや頓狂と呼べるほどの大声で叫んだ。
「今ですか!?」と掴みかからんばかりの勢いで問い返した長身の彼女に、報せに来た衛兵は気圧された様子で「い、今です!」と返す。
「寝台からお落ちになられたか、あるいはまた蜘蛛か。とにかくお返事くださらないので、今向かおうと……」
「くッ! 蜘蛛なら絶対にぶち殺します! あなたたち!」
振り返ったヘイゼルが、まだ廊下にいた衛兵たち二人を怒鳴りつけた。
「どちらか片方! わたくしに随伴願います! もう片方はこちらで待機を。申し訳ありませんが、客人方」と、今度はハナたちの方を向く。「もうしばらくここでお待ちを。すぐに戻ってまいりますので」
言うが早いか、ハナらの返事も確認せずにヘイゼルはまるで牡鹿のような俊足で駆けだした。
後続の衛兵らとともに、重たい甲冑の足音をめちゃめちゃに響かせながら、それ以上に大きな声を張りあげ、「イズン様ぁッ! ヘズが参りますぅーっ!」と廊下の奥へ遠ざかっていく。ほんの数瞬前までの気弱そうな物腰とは、まるで別人のようだった。
「……」
ひとことも発さずに取り残されるハナと士人。
喧噪の源が消えてなお、最後にその背中を見た方向を眺めながら、呆然と廊下に立ち尽くす。
何を言えるはずもなかった。
そのまま無抵抗に訪れかけた静寂を、しかし士人から発せられた愛らしい声がさえぎった。
「ふぬ、行ったわね」
「行っちゃいました、けど……って、えぇえっ!?」
思わず相づちを打ちかけたハナは、腰から千切れそうな勢いで振り返って士人の顔を仰ぎ見た。
彼もまた、困惑した目つきで自分の肩の上を見つめている。
視線の先には、確かに小さな顔が乗っている。
(乗ってる……いや、誰!?)
小さいといっても、士人の大きな頭と並んでいるせいで過剰にそう感じたに過ぎない。
実際はハナとそう変わらない少女の顔。
細くくっきりとした眉に、吊り気味でぱっちりとした大きな目。
幼いながらも輪郭が強く、印象に残りやすそうな目鼻立ち。
突き出し気味の小さな唇があどけなさを主張している。
柔らかそうな髪の色は、干し切った藁のよう。
かつて城壁の上では陽光を吸って、黄色く輝いて見えていたが、近くで見ると快活な雰囲気をまとう彼女には今の方がよく似合っていた。
おろしていたはずのその髪を、獣の尾のようにうしろでまとめ上げてもいたが、ハナには一度遠目に見ただけの記憶と、目の前の少女とがすぐさま重なった。
寝間着のような丸襟の白いドレスに、萌木色の外衣。
「ひめさま……」
「ふぬ?」
士人の肩によじ登っていた少女は、さっきまでのハナたちと同じく廊下の先に目をこらしていた。
が、ハナが思わずこぼしたか細い声を察知して、顔を振り向ける。
その夕陽色の瞳に自分が映されるのを見た瞬間、ハナは胸の奥がはずむように震えるのを感じた。
驚きは顔にも表れていただろうか。『ひめさま』の唇がやんわりとほころぶ。
「すごくきれいね、あなたの目」
凛としてよく通る声。
見かけの印象どおり甲高いが、どこかたおやかで耳に心地よく響く。
ハナは最初、自分のことを言われているのだとわからなかった。
自覚が追いついてきてなお、混乱して何も言葉が出てこなかったが、『ひめさま』は気を悪くした様子もなく、むしろはしゃいでいるようだった。
「短い黒髪の人と、すっごくおっきい人。壁の上から見たとおり、全然薬師っぽくないのね!」
「っぽ……ぽ?」
「話は聞いていたわ。あなたたち、《丸薬》が欲しいんでしょう?」
困惑し通しのハナには構わず、少女はガウンのそでから何かを取り出してみせる。
口をひもで縛った小さな包みだ。
それを投げてハナに寄越した。
ハナは抱えていた士人の黒帽子を慌てて脇に挟み、落ちてきた包みを捕まえる。
その薄い布越しに中の感触が指先に伝わり、ハナはハッとした。ほとんど衝動的に包みの口をゆるめる。
開いた場所から覗いたのは、生の胡椒の実を黒くしたような、丸いかたちの粒だった。
両手で隠せるほどの小さな包みの中に、小指の先ほどのその球体がぎっしりと詰まっている。
「足りないならまだあげるわ」と少女。「ただし交換よ?」
「交換?」
ハナは顔を上げて問い返す。少女は意気揚々と頷き返す。
「さあっ、頼むわよ。あたしをこの国の外まで連れ出してちょうだい!」
「はひ?」
唇がこわばって変な声が出る。戸惑い尽くして頭が混乱している。
確かにこの少女が、ハナたちをここへ招き入れたのだ。
ただその理由と、今聞いた彼女の頼みごととが一致しない。
「あ、あの、確か、旅の話を聞かせてほしいというお話では……」
「それもぜひお願いしたいわ。でも待ってる間に、何を優先すべきかちょっと考え直したの。あなたたち、とっても強そうだし」
「つ、つよ?」
「ありゃー」
うろたえるハナの頭越しに、また別の声が飛ぶ。
振り返ると、先ほどヘイゼル兵団長から居残りを命じられた衛兵がこちらへ体を向けて立っていた。
甲冑の首筋を掻くように篭手の先を当てながら、衛兵は大男の肩に乗る少女を見上げている。
「ってことは、悲鳴も陛下のお芝居っすか。まぁーたずいぶん大胆に出たもんっすね、姫様?」
「あら、いけない。衛兵一勤勉なあなたが残っていたのね、マーフ」
半分感心したように呆れてみせるその衛兵に、少女はどこかわざとらしい声色を向ける。
すると衛兵は、すかさず両手を胸の前で振り、
「やー、じぶん、勤勉すぎなんっすよねぇ。もう姫様がいなくてもそこにお姿が見えるようになっちゃって、しかもその姫様が旅人買収して家出したーいとかしたくなくなーいとか。こいつは《丸薬》の飲み忘れに違いないっすよ。ちょっと詰所で一服してきまぁーす」
そう間を置かずしゃべり切ると、衛兵は浮かれたような足取りで廊下から細い脇道へ滑り込んでいった。
遠ざかっていく足音に混じって、あまつさえ鼻歌も流れてくる。
「……」
「ですって」
なんだか絶句するよりほかになくなっていたハナに向かって、なぜか『ひめさま』が相づちを求めてくる。
ですって?
たとえ師匠に言われたのだとしても、意味がわからない。
ハナが実感しているのは、彼女と初対面の自分たちよりだいぶ事情に明るそうな者が近くにいたことに安心としかけたという、つかの間の過去が存在したこと。そしてそれがあくまで過去となったことによって、感情らしい波の立ち方をも忘れて沼底の泥のように横たわった落胆だけだった。
門兵詰所の者たちといい、この国の男性は陽気な者が多いのだろうかと思ってはいたが、それ以上にいい加減なのではないか?
「さっ、行きましょ。お城の出入り口からなら東門の方が近いわ」
「ぇえ、あの、ちょっと待ってください?」
何事もなかったように急かし始める少女を見上げ、ハナは勢い疑問形ではあるもののかろうじて制止を願い出ることができた。
「何よぅ」と少女は不満げに口を尖らせる。
「急がないと、石頭のヘズが戻ってきちゃうわ。あなたたちがいくら力持ちでも、ヘズが相手じゃ……」
「あの、王女殿下、なのですよね?」
ひとまず確信を得たい一心で問いかける。
相手はこともなげに「そうよ?」と頷く。
「でも殿下呼びは嫌いなのよね。本当は『姫様』もイマイチ。ベルーデルだから、ベルって呼んで」
「あ、じぶんはハナです。ハナ・ヴァレンテといいます。それで、あの……」
申し遅れたことを詫び入るように早口で言って、それからさっと士人の顔に目を向けた。
彼は先ほどから、お世辞にも口調ほど上品とは言いがたい肩の上の少女を、しかしずっと振り落とすような素振りを見せずにいる。どころか、まるで樹木のように大人しくたたずんでいた。
が、ハナの視線に気がつくや否や、双眸の間にギュッと鋭い溝を刻んでみせた。
早くなんとかしろ、あるいは行動を決めろ、という意図かどうかまでははっきりしないが、少なくとも悠長に挨拶している場合ではないという訴えには見える。
ハナも力ずくは得策でないと強気で諭したばかりな手前、上手く穏便に目の前に垂れてきたらしき糸口をつかんでみせなくてはいけないような気がしていた。
「あの……ベル、様?」
ハナは少女の意に沿うように呼びつつ、一拍置いて腹をくくる。
「実は、本当は、じぶんたちの目的は《丸薬》ではないのです。ここで飼われているという、特別な蝶を探しに来たんです」
「蝶?」
「はい、十一視蝶、テュクロプシアという、青い翅の……」
「この子たちのことね」
きょとんとした顔で首を傾げていたベルーデルが、すっと目を細めると、士人にしがみついたまま器用に片手をあげた。
その指先に、ひらりと小さなものが舞い降りる。
「……ッ!?」
ハナは震撼した。
あたかも遭難しかけた森の出口とずっと平行に歩いていたことを知ったときのようだった。
ベルーデルの小さな指先に繊細な六本の足をのせてとまったのは、人の耳たぶほどの大きさの翅をもつ、一羽の蝶。
頭と尻の部分が白く、胴の部分だけが黒く紫がかっている。
翅も縁取りは白っぽいが、全体的に縞のような斑点のような複雑な紋様が走っているのが、裏側からでも見て取れた。
とまったまま閉じたり開いたりするたび、翅の周囲には青白い燐光が舞う。
十一視蝶、テュクロプシア――《落果病》によってまっすぐ死に向かうアーシャを癒すために、必要不可欠にして唯一の素材。
ハナはその実物を凝視して、自身の動悸を自覚していた。思わず乱れた息に声まで乗りそうになる。
――見つけた。目的を達した。
あれを手に入れて持ち帰れば、アーシャを救える。残酷な死病の苦しみから解放することができる。
たとえ《病により死に至る呪詛》がために、一時の安息に過ぎないのだとしても、彼女は再び夢を見られる。
士人は動かない。だがきっと同じ気持ちでいることだろう。
それこそ彼は今までに何度もこんな衝動を味わってきたはずだ。そして身を任せてきた。
頭で理解してきたつもりの彼の激情が、今はるかに新鮮で強烈な感覚であることをハナは思い知っていた。
ハナはしかし、だからこそ冷静になる必要があった。
一人分の薬のための十一視蝶は、おそらく一羽でも事足りる。ただウルウァの観病録を紐解く限り、必ず生体のまま持ち帰ることが条件だ。
また生薬の生成は、えてして繊細で敏感な操作であるため、必ずしも一度で成功するとは限らない。
可能な限り余分に入手することは、決して身勝手な強欲さに基づく行為ではなかった。
「……ご無礼を承知でお願いします。嘘をついたことも、お詫びさせてください。ただ、どうしても十一視蝶を素材とした薬が必要なのです。遠くの村で待っている、ある人のために」
「いいわよ、別に」
深々と頭を下げかけたハナは、雪を落とした枝のように顔を上げた。
あまりに思いがけずあっさりと快い返答を得られたことで、逆に耳を疑ってしまった。
「ほ、本当ですか!?」
「ええ。あたしのお部屋に行けばたくさん飛んでるもの。十羽二十羽連れて帰ってくれてもどうってことないわ。あっ、でも……」
急に表情を曇らせるベルーデル。
「うーん」と唸り始めた彼女を見て、ハナは再び動揺する。
「な、何でしょう? 何か条件が?」
「ううん、そういうのじゃないんだけど、ただもらっても、きっとあなたたちが困るのよね……」
「じぶんたちが、困る?」
「ぁああアアアーッ!?」
突然あさっての方から大音声が押し寄せてきて、ハナもベルーデルも同時に目を丸くして振り向いた。
廊下の先の曲がり角の真ん中に、白く輝く牛頭鎧姿の兵士が立っている。
長身のその女性兵士は、腕を水平に突き出し、立てた人差し指の先をまっすぐ士人の肩に向けていた。
「姫様!? 何をされてるんですか!」
「あらやだ。もう戻ってきちゃったのね」
いきり立つ兵士を眺めてぼやくベルーデルを振り返り、ハナは人里を離れてから水筒が空であることに気がついた師匠を見ているような気持ちになる。
そういうとき、ハナはハナで自分の分はしっかり確保しているのだが、旅の道連れとはそう単純なものではない。
「どうしてお部屋から出ているんです!? というかどこに乗ってるんですか! 殿方の、う、うううっ、上にだなんて、不潔ですよ!」
「あら、なかなかいい眺めよ? あなたを見おろせることなんて、そうないわ。それに全然汚くないわよ。臭いは結構きついけど、そんなの女性のハナだって同じよ」
(!?)
ハナは震撼した。
あたかも予想だにしない方向から野獣の突撃を受けたかのようだった。
「そういう問題じゃないでしょう! とにかく降りてください!!」
「嫌よ。これからこの人たちにお部屋まで運んでいただくもの。それから三人だけで大事なお話をするのよ。きっと朝までかかるわ」
「あ、さ、ま、で!?」
兵団長ヘイゼルが絶叫する。
牛頭の面兜越しでも青ざめ切った素顔が見えるようだ。
そこへベルーデルは容赦なく追い討ちをかける。
「もちろんあなたははずしておいてね、ヘズ。職務放棄して遊んでるマーフのお尻でも叩いて待ってなさい」
(マーフさんを売った!?)
ハナは一度見ただけで言葉を交したわけでもないあの衛兵に、深く同情した。
「許しません……このヘズの目の黒いうちは、断じてそのように破廉恥な!」
うつむき加減でこぶしを震わせていたヘイゼルが、その手を開いて廊下の壁にかけられていた長大な突撃槍を引っ掴む。
一本、ならず、二本。
それぞれの突撃槍を左と右に持ち、さらに胸の下で組んでいたもう一対の腕を開いて、両脇の柄を握った。
白銀の鎧を挟むようにして、円錐形の双牙が峻厳と突き出される。
ハナは瞠目した。
「本当に四本腕っ!?」
多腕の兵団長は、気ままが過ぎる姫君、というか彼女が乗っている士人に向かって突撃の構えを取るや、
「お客人、姫様をお放しください。さもなくば先にあなたを行動不能にして――あ、」
「へ?」
口上の途中で妙な反応を示したヘイゼルを見て、ハナも彼女と同じ方向を振り向いた。
そこには冷たい石壁があるだけで、ついさっきまで黙然と突っ立っていたはずの巨体は影も形も消えうせている。
そしてすぐそばのらせん階段には、舞い上げた砂ぼこりを残し、城を揺るがさん勢いで猛然と駆け上がっていく派手な足音――と、悲鳴とも歓声ともつかない「きゃー」という黄色い声がこだましていた。
「うわ……」
「かッ、誘拐だァァ!!」
「へ、えぇ!?」
怒号をあげたヘイゼルが両腕で突撃槍をめちゃめちゃに振り上げ、ひさしの隙間から今にも眼光を放ちそうな勢いで、牛頭のツノの先を今度はハナに向ける。
「貴様らぁ……やはり悪党だったかぁぁ……」
「ちょっ、あのっ、ちょっと待ってください?」
「問答棄却! ぬおおおおおおおッ!!」
「えっ、えぇ? えぇぇえっ!?」
双角を並べた銀色の猛牛が突っ込んでくる。
ハナの頭の中では危機を知らせる半鐘が鳴りまくっていたが、そのけたたましさにすら翻弄されて一歩もその場を動けない。
明日昼頃次話投稿予定。毎日更新中!





