第三章・第三節 産湯と頭骨
【前回のあらすじ】
ハナは回想する。
出立前、疾師の屋敷にて、ウルウァからアーシャの治療に関していくつかのことを教えられた。
一つは、十一視蝶が万能薬の材料になりうること。
一つは、アーシャの病が、それをもたらす《病により死に至る呪詛》の性質上、生存が確定した時点で発症前の状態に戻ること。
そしてもう一つは、時間稼ぎのためにウルウァ自身が操る《均命の呪詛》が使われており、アーシャの病はちょうど105日で進行し切るように引き伸ばされているということだった。
ただしその時間稼ぎは、本来なら1~2日で終わるはずの死の苦しみを、105日かけてアーシャに味わわせることでもある。
それでも救う意志がまだあるかと問うたウルウァに、ハナは力強く肯定の返事をしたのだった――
(字数:11,956)
いたい。
いたいいたいいたい。
いたいいたいいたいたいたいたいたいいいいいいいいいいいいいいいいい――――
絶叫がこだまする。永遠に続くかのようにこだまする。
あの華奢な体のどこにそんな大掛かりな発声器官と肺活量が備わっているのかと、目も耳も疑わしくなってぐるぐるぐるぐる、平静ではいられない。獣の牙にかかる断末魔の叫びでも、こうはいくまい。
人々は、押し合うようにして彼女を取り囲んでいる。寝台の支柱に括り付けられてなおも跳ね上がる手足を、一人一本ずつ押さえつけている。
耳をふさぐ者は誰もいない。
熱気はとうに張り裂け、天井は蒸気で霧がかって見える。
やまない絶叫の中で、もう一つ荒げる声がある。
いきんで。いきんで。もっといきんで。
もういいもういいもういいもうむりむりむりむりむりむりむりむりむり
よくない、無理じゃない。息吸って。吸って。ほら、吸って。吐いて。いきんで!
むりもうむりもうしぬむりしぬうううううううっっ、ううううううううううっっっ!!
まだ、まだ吸って。息吸って。吐いて、吐いて。力抜いて。まだ。今! いきんで!
うううううううううううううっっ!!! うううううううううううううううううう――
でた、でた、でた、ほら! でた! もっと! もっ――!? あっ! ――!? ――!!
騒然とする。何だろう?
歯をくいしばって耐えていた人たちが、揃って鉛色の顔をしている。だらしなくゆるんだ口という口から、うめき声が漏れる。
若い女性が駆けていって白い布をさっと渡した。
鳴りやんだ絶叫の主の足の間から、そこへしゃがみ込んでいた年配の女性が立ち上がり、こちらを振り向く。
「薬師様。産湯を」
白い布にくるんだものを、彼女は持っていた。
そっと手渡される。静寂にぎくりと、心臓が強張る。
受け取る。
軽い。
でも、確かな重みがある。手のひらに熱を感じる。
さらしの布の中から声がしている。
か細い。想像していたものと比べれば火と水ほどに違う。
それでも確かに息をする声だった。
――かわいい。
顔にかかっていた布をめくる。
くしゃくしゃの顔がそこにある。
埋もれそうな小さな鼻がちゃんとよく見える。
半開きの口を空気が通るたび、燃えさしがひらめくように喉が鳴る。
閉じたまぶたを大きな目が盛り上げて、まるで丸い木の実をそこに二つつけたようで、眉間の上には額がなかった。
なかった。
なかった。
なかった。
小さな三角形の顔の上部は、とても平らで、頭が、どこにも。頭が。頭が。頭が――
産声がする。
視界が傾いで、景色が流れ落ちて、側頭部を打ちつける衝撃で、目を覚ます。
「――――――――ッ」
……。
最初に見えたのは、どこかの天井。
黒ずんだ梁と、並んだ木の板。
上気した荒い息遣いがそばにある。それが自分のものだと気づくのに少しかかった。
体の芯が熱く、表皮にはジメジメとした不快感がある。
股下まで濡れていることに憂鬱を覚えながら、胸の上にかけられていた自前のボレロを剥ぎ取り、ハナは体を起こした。
周囲には誰もいない。
ハナは小さな三角形の部屋の隅の一人用の寝台に寝かされていた。
窓がすぐそばと、扉のないもう一方の壁とにある。遠い方の窓にはカーテンがかかっておらず、日なかの外が見えていた。少し隔たりのある白壁の家々と、間に広がる水田。
窓の前には小さな机と椅子がある。
机の上には陶製の水差しとグラスが、引かれた椅子の上にはハナの背負い箪笥が乗せられていた。
扉の向こうからは、かすかに話し声がする。
ハナは立ち上がりかけたが、頭が重くてもう一度座った。
額に貼りついている髪をかき分けようとして、ようやくそこに布が巻かれていることに気がつく。
手でたどると、右耳の上あたりに湿った厚手の布が当ててあって、その上から薄い布を巻いて頭にとめてあるようだった。
布の上から押すと、頭皮の内側がずきりと傷む。
「これ、どうして……」
少なくとも止血をしているようではない。
厚布が濡れているのは患部を冷やすため。おそらく腫れてこぶになっているのだろう。
問題はそうなった経緯を、ハナが上手く思い出せないことの方。
(何があった……? そもそも、ここは……)
一度意識すると、ズキズキとした痛みがふくれ上がってくる。
かすかに吐き気を覚えるような気もしながら、厚布の上に手を置いてなんとか思い出そうとした。
エルヴルにたどり着いて、門の詰所で入国審査を受けようとしていて、少年の門兵と話をしていて……。
(少年……だったか?)
不意に、誰かの声を聞いて、ハナは顔を上げた。
扉の向こうからではない。
窓の向こう、でもなく、窓のすぐこちら側の、椅子の上に置かれた、木と鉄金具の背負い箪笥。その中から。
「おんしぁ~、おんしぁ~」
「……」
「こりゃ~、おんしぁ~。はなたらしよぉ~」
「………………」
急に熱が引いた気がした。
肌に張りつく衣服の冷たさに身震いを起こす。気怠さを感じ、少し洟をすする。
重い身体を引きずるようにして背負い箪笥の前までたどり着き、両開きの外扉を開けた。
中は、下半分が大小と形の違う抽斗で埋まっているのに対し、上半分は二段の棚になっている。
棚は上段が広く、下段がかなり狭い。
下段はさらに間仕切りが挿してあって、細い薬瓶を横にして差し込めるようになっていた。
一方、上段は革ひもが張られ、手前と奥が分けられている。ハナは手薬研や土瓶といった大きめの道具を、その奥側に入れていた。
上段の手前側は、ものを置くと扉を開けたときに落ちてくることがあるので、あとで軽く乾かした未処理の薬草などを雑多に重ねるだけにしている。
ただ、その草束の下に、白い石のようなものが、その端を覗かせていた。
ハナはその白く固い物体を、つまむようにして引きずり出す。
そして正面を向かせ、背負い箪笥の上にそっと置いた。
「……疾師様。ハナです」
「遅いわ、このへごめ」
ハナが呼びかけると、非難がましい謎の訛り言葉がその白い物体――細く小さな獣の頭骨から飛び出してきた。
面長の、草をはむ獣の形状をしているが、全体的に未成熟な丸みを帯びた頭骨だ。
頭頂部にはツノの芽のような突起が、おそらく左右対称に伸びるような位置に付いている。
ただ、ツノがあるはずの場所の片方は、くり抜かれたように滑らかなふちの穴が開いていた。
聞き知った声は、その昏い穴の奥から聞こえてくるようだった。
「エルヴルに入ったらすぐに出せと言うちおったろうに。脳漿まで鼻から垂れちおるかゃ、洟垂らしよ?」
人の喉をさするように甘たるく艶美な声が、喉輪を当てるような罵倒を投げつけてくる。
疾師ウルウァの声で喚くこの小さな頭骨は、『グー』と呼ばれる水牛の胎児のものだ――とはウルウァ本人の語ったこと。
そして今聞こえているこの声も、間違いなく彼女のものだった。若干、洞窟の中で話しているかのようにこもってはいたが。
頭骨をハナに渡すとき、ウルウァはこのグースイギュウの子供が《連理病》の落とし子の片割れであると告げた。
もう一つの片割れを介し、声を交換する便利な『病具』だと。
「すみません。目の前にいない人と話をするのは、やはり慣れなくて」
ハナは言いながら、人差し指で頭骨の鼻先を押して、頭頂部側面の穿孔の方を自分へ向け直す。
《連理病》もまた、ハナの知識にはないものだったが、ウルウァの話では太古から稀少なまま絶滅していない奇病だという。
それは母親から胎児に感染する病で、罹患した雌性個体が妊娠した場合、非常に高確率で『結合性双生児』を誕生させるものらしい。
結合性双生児は、体の一部あるいは大部分を共有するかたちで生まれてくる双子、ないし三つ子などの多胎生児だ。ヒトを含めあらゆる動物で、ごく稀に自然発生的に現れるものだが、《連理病》はその特異な現象を必然的に起こさせる病、ということになる。
ただ、ウルウァにとって大事なことは、《連理病》によって生まれた結合性双生児の肉体が、たとえ切り離しても――さらに死んだあとも――説明不可能な『特殊な絆』で結ばれ続けるという点だった。
特に頭部で結合していた場合、白骨化しても、片方の頭骨のそばで鳴った音がもう片方の頭骨の中で響くのだという。
この手のものは《呪詛》でなく――いやあるいは《呪詛》と同じに、この世にあまねくある《神秘》の、ほんの片鱗ぞに……というのもウルウァの談。
ともかくもウルウァは、屋敷にいながらハナと情報交換――もとい、随時逐一報告をさせたいがために、二つある幼グーの頭骨標本のうちの片方をハナに持たせたのだった。
「下手な言いわけじゃのぅ」
くすんだ頭骨の内側で渦を巻く声が、側頭部の穴を通って這い出てくる。
「余計なものに目移りしちおっただけじゃろうに。見ちおらんでも大方のことは音で知れるけに」
声の裏ではしきりにカリカリと微かな擦過音がしていた。
いつものように観病録を書き続けるウルウァが、手元に頭骨を置いているせいだろう。文鎮代わりにでもしているのかもしれない。
「挙句の果ては寝こけよるなぞ。ブチブチと気色悪い寝言まで聞かせよって」
「すみません。あの……何があったのか、よく覚えていなくて」
「覚えちおらん? 覚えちおらんじゃと? おんし、おのれで言うたことを――」
不意に、不自然にウルウァは言葉を切った。
ハナが訝しんで耳を澄ますと、「ほほぅ? なるほどのぅ……」などと、何やら独りごちる声が聞こえてくる。「よしきた、よしきた……」衣擦れの音よりも小さな声だが、隠し切れない喜色がにじんでいた。
ついには押し殺し切れずに「ケヒッ」といつもの卑俗な笑い声までこぼれ出てくる。
いまだ綿が水を吸ったように重い頭を抱え、ふらつきながら待つしかないハナに、ほどなくしてウルウァは、急に穏やかになった声色で告げた。
「なぁに、たいしたことは起きちおらんぞに。エルヴルの若夫婦の分娩に、身のほど知らずにも助力を申し出たあげく、嬰児の畸形を目の当たりにして卒倒しただけのことよぇ」
「え……」
綿を握り潰せば、水は出ていく。
不意に軽くなった意識の隙間に、赤い光景が流れ込んでくる。
「あ……」
血みどろの小さな体。
力なく垂れ落ちる手足。
「あ……あああ!」
丸い顎。
縦に裂けた上唇。
つぶれた鼻。まぶたを盛り上げ、浮き彫りになった大きな眼球。
額から上の部位は、どこにも……。
「うう、うそ……そんな!! じぶん、どうし……どうし、て……!」
両の膝が床を打つ。
手のひらで顔をおおう。
閉じない瞳に爪を立てたくなる。
卒倒した。卒倒したのだ。
あのとき、卒倒した。ハナは卒倒したのだ。
覚えている。覚えている。全部覚えている。
頭部畸形の、無脳症の子供。
産声をあげないその子を、ハナは確かに抱いた。
確かにその目で見た。
そして。
あり得ない。あっていいことではない。
信じられない。自分が信じられない。
だって、ハナは、ハナは、ハナはハナはハナはハナはハナは――
「じぶ……うぁ、あぁ、あぁあ、ぁぁ……」
「薬師様!」
「ッ!?」
呼び声に、顔を上げる。
いつの間にか開けられた部屋の扉の隙間から、年配に見える男性が顔を差し入れていた。
ハナの視界はにじみ切っていたが、かろうじてその人が、お産のあった家へ自分を連れてきてくれた、南門番詰所の副兵長だと気がつく。
目が合うと、彼は血相を変えた様子で部屋へ入ってきて、後ろに向かって手ぶりで何か合図をしながら扉を閉めた。
「どうなさいました、薬師様。大丈夫ですか?」
「いえ、ごめんなさい。ご心配、を……っ」
つい習慣で気丈に答えようとするも、取り繕い切れずにくずおれて、手も床に触れる。
あの出産に彼もまた立ち会い、事の顛末を見ていたはずであることを思い出すと、ハナはもう耐え切れず、甲高い嗚咽を漏らした。
「ごめん、なさ、っい……こんなっ……こんなはず、じゃ……」
「いいえ、そちらこそ、お気の毒でございました。我々ももう少し配慮をしていれば――」
「ちがっ、ちがうん、ッです! じぶんは、じぶんは――薬師なのにッ! なのにこんな……こんなのっ……」
首に杭を打たれて、胸から下を重力で引き千切られていくようだった。
今までいったい何をして生きてきたのかと、燃え広がる野火のように、際限なく自問し続けていた。
ただの助産にしたところで、年配の女たちが立ち会う中、経験のないハナに手伝えることはほとんどなかった。
産湯として少しばかり気の利いた薬湯を用意し、あとはただ見守っていただけ。
小柄で華奢な妊婦の絶叫に圧倒され、部屋中に立ち込める熱気と臭気に翻弄され、それでも、初めてこの世の外気に触れる柔肌から血と羊膜をすすぐ栄誉を得て、にもかかわらず――いびつな産声の主をいびつさゆえに、拒んだ。拒んでしまった。それも、いびつさゆえに。
「あって……あっていいことじゃないんですッ!! 生きている人を、見ただけで、気を失う、なんて……じぶんに、薬師を名乗る、そんな資格なんてッ、もう……」
「見ただけで? それは違う」
噎び、悔恨を口にしていたハナは、しばし遅れて顔を上げた。
片足を踏み込むようにして見下ろしていた副兵長の方が、ハナよりもはっきりと戸惑い、驚いたような顔をしている。
何も考えられずただ呆然としているハナの目を見て、彼は「覚えておられないのですか?」と、切実な様子でたずねた。
「あなたはあの赤ん坊を、産湯につけて洗おうとしたのですよ?」
「……え?」
木の葉が淀みを抜けるように、記憶がぷかりと浮き上がる。
指を濡らす薬湯のやわらかな感触。か弱くも止まらず蠢く手足。
おのれの口の端の、自然と持ちあがっていく感覚。
「あなたの手つきは、とても穏やかで優しかった。周りの者が言葉を失う中で、あなたは赤ん坊に語りかけさえしていたのですよ?」
――気持ちいい?
――元気ですねー。
――ほぅら、もう少しだぞー?
「そんな……」ハナは憔悴した声でたずね返す。
こめかみの疼きを確かめながら、「なら……どうして……」
「それは……」
言い淀む彼の目が、微かに泳ぎかける。
しかし、言わなくてはいけないという気持ちがまさったのか、結局目をそらすことなく、固い声で答えた。
「遅れて駆けつけた産婆が、あなたのあとを引き受けました。産婆は、受け取った赤ん坊を産湯に沈めたのです」
「あ……」
溢れる。
淀みの底さえ根こそぎさらう、雨後の濁流のように、音と景色が過去から押し寄せてくる。
景色の中で、ハナは自分の手を見た。
ただ必死に、死に物狂いに前へ伸ばしていた手。
千切れ飛びそうな指の隙間から見える老婆の背中。白い湯気の立つ広い桶。
四方から無数の手に取り押さえられながら、ハナは金切り声をあげていた。
おのれの心臓を引きずり出して、ズタズタに裂いて捩じ切ってでも叫び続けていたかった。
――待って! その子は――
――その子はまだ生きられる!!
「……面目ありません」と、副兵長。
「あなたに赤ん坊を抱かせた者も、あなたが処理をなさるものと思い込んでいたようです。この国では、そういうことは一応、産婆のような者に一任することになっているもので。薬師もその手の生業に当たると、考えたのでしょう」
「……」
「そうでなくとも、あなたのように取り乱す人はエルヴルでは稀少です。ほぼいないと言っていい。皆も混乱し、勢い余った誰かがあなたを突き飛ばしてしまった。あなたが頭を打ったのはそのせいです」
「……なぜですか?」
お産に居合わせた者たちを代表するように釈明を続ける副兵長に、ハナは問うた。
気を失う寸前、我を失っていたはずながらも、エルヴルの人たちに悪気がなかったことははっきり感じていた。
突き飛ばされたというより、全力で彼らの手を振りほどいたハナが、前後不覚のまま飛び出そうとして柱に激突したのだ。
ハナは記憶の真偽などよりも、副兵長がハナのことを「稀少」と言ったことの方が気になった。
「なぜエルヴルの方々は、取り乱さないのですか?」
「……慣れてしまっているからです」
「……慣れる?」
ハナが眉根をひそめると、副兵長は苦しそうに頷いた。
そしてハナから視線を外し、カーテンの開いた窓とは反対側の部屋の隅を見た。
つられてハナが振り返ると、先ほどまで自分が寝ていた、一人用の寝台が目にとまった。
「ここはアールの、昔の私室です。結婚して以来、開かずの間にしていたそうですが」
「アール……」
ハナは門兵の詰所で会った少年のことを思い出す。「結婚……」そして少年、アールとともに馬車で駆けつけた家で待っていた、彼の伴侶だという少女。
ハナともほとんど変わらない歳の頃に見えたが、二人用の寝台に縛りつけられた彼女の腹部は、足先からでは顔が見えないほどに膨らんでいた。
「あの……」ハナは向き直り、先駆けてたずねる。
「あの子……奥さんは、大事ないですか?」
「はい。出産したロウンはとても元気です。アールと共に、あなたのことを心配していた」
「ロウン、さん……」
予感めいたものがし、「二人は、いくつなんですか?」と重ねて問いかけていた。
「ロウンは、今年で二十九になります。アールが年下で二十六です」
「にじゅう……?」
ハナは目を見張った。
涙が乾いてカサついた頬の上が引きつれるのを感じる。
汗だくで真っ赤になっていきむ少女の顔と、やけに落ち着いた印象の可愛らしい少年の顔が、並んで目の奥に浮かんだ。
「見えない、のでしょうね」副兵長もハナに向き直り、無理におどけるように少しだけ微笑む。
目尻に小じわの入り始めた、壮年の顔立ち。
「私も八十五になります。この国では平均的な働き盛りといったところです」
「はちじゅ……なん、で――」
「《丸薬》ですよ」
どういうことなのか、とハナが問うより早く、彼は首にかけていた紐を引いた。
服の内側から、小鳥の頭ほどの小さな袋を取り出す。あの少年の見た目の門兵、アールが下げていたのとよく似た巾着袋。
「《王家の丸薬》……」
「ご存知ですか?」
「アールさんに見せてもらって……でも、それまで知らなくて」
「この薬は、我々エルヴルの民にとっては、なくてはならないものです。月にひと粒、欠かさず服用し続ける限り、我々は病や傷の苦しみなどとは無縁でいられる。さらに外の人々に比べ、優に二倍もの寿命を得ることができるのです」
「無病と、長命化……」
自分の言葉で言い替えて反芻し、ハナはハッと息を呑んだ。
無病――それはそのまま万能の妙薬に通ずる。あらゆる傷病を遠ざける薬。
副兵長はまるでありふれたもののように言ったが、そんなはずはない。
だが現に、彼やアールのような一般の者がそれを手にしている。
眉唾を疑うのも正常な反応だろうが、彼らにはうそをつく理由もなければ、真偽の容易に知れる代物にだまされつづけているはずもない。
何よりその薬効は、ハナたちが探している『十一視蝶』が持つ力と類型のものだ。
しかも《丸薬》は、エルヴルの王家が供給しているとのこと。
十一視蝶の居所と目されるのも、エルヴル王家のいる王宮。繋がりがないと考える方が不自然だ。
ただ、長命化についてはウルウァも言及していなかった。
すでに齢八十を超えると申告した目の前の男性が四十前後にしか見えないことや、アール夫妻の例などから考えて、老いても病などに侵されないがための単なる長寿ではないことも明らかだ。
肉体の成長と老化――加齢の速度そのものが半減している。
生まれつきそういう人種だというならばともかく、ありふれた人間が薬の作用でそうなるというのは――薬師としてのハナの直感が、言い知れない含みの存在をどこかで訴えている。
それに――
「ただ一方で、この国では死産や、長く生きられないように生まれてくる子供が非常に多い。問題なく生まれてくる子供は、多く見積もっても二十人に一人か二人です」
「……!?」
ハナは総毛立った。
彼が「慣れる」ということについて一度言葉を切ったことから、暗にそれが《丸薬》と繋がっている可能性は感じていた。
しかし、鋭く固い実物のその冷たさを首筋で知れば、他愛もなく身がすくむ。
彼が口にした数字を聞き、ハナは間違いなく恐怖していた。
白壁の路地に積もる、小さな屍骸の川を幻視して。
「因果関係として、本当に副作用なのかどうかはわかっていません。《丸薬》を飲むのをやめて死産が減るのかどうか、確かめられる人間はまずいない。そんなことをするより、《丸薬》によって約束される『絶対に安全な妊娠と出産』に、長い長い人生の中で何度も挑戦する方が理に適う。エルヴルの民は、概ねそう考える者がほとんどなのです。特に若い世代ほど、物心つく頃からそういう空気を味わって育ちますから、産めるまで産めばいい、という思想にも、慣れ切ってしまっているようです」
「……」
ハナは想像する。
幼い自分をとても大事に育ててくれる大人たち。
子供が自分しかいない中で、周りの女性たちは将来の妹分か弟分になるものを幾度となく宿しながら、ただお腹が膨らんだりしぼんだりするだけを繰り返し続ける。
またダメだったの?
ううん、次こそはきっと大丈夫だから。
妹が先か孫が先か、きょうそうだねっ、おかあさん。
這いのぼるような衝動に襲われ、ハナは胸に、喉元に手を押し当てた。
本当はあごの上まで持っていって、口元を覆ってしまいたかった。
ただそれをしてしまうと、逃げ場を失ったおのれの熱いいきれが、突き上げるような胸の鼓動と混ざり合って、臓腑を押しつぶしてしまうような予感がしていた。
妊娠と出産は、肉体にとって非常に大がかりな変化を伴う。その変化についていけなかったり、体の他の機能と干渉し合ったりすることで不調を引き起こすことがある。
不調の程度があまりに大きすぎれば、脆弱な胎児はもとより、母体の命にまで危険が及びうる。
程度に個人差はあるが、同じ人間でも妊娠の都度、違いがある。
ある程度の慎重さを要すべき危うさが常に潜み、何が起こるかはそのときになるまでわからない。
かといって、誰もが恐れ、忌避してばかりいればいい行為であるはずもないのだ。
だからこそ、危うさを遠ざけられるのなら、遠ざけるに越したことはない。
《丸薬》が万病を遠ざけるのなら、肉体のよくない変調や負荷による弊害をも、すべて取り除けるのだろう。
ならば、年齢に基づく懸念さえも生じえない。ただでさえ加齢の遅滞によって長大化した適齢期が、さらに広がることになる。
憂いなく孕み、憂いなく産む。
おびただしい死産を重ねても、後遺症は残らず、いつかはまともに産めると、身内も同胞らも口をそろえて励ますのだ。
副兵長が話したとおり、エルヴルの思想は理に適っている。理に適ってはいるが、感情を持ち、子を宝と呼ぶ生きものとしてはあまりにも――
「……私は」
不意に、声がしたことそのものに驚いて、ハナは顔を上げた。
いつの間にか話すことをやめていた副兵長が、わずかに細めたような目でハナを見おろしていた。沈黙の中、うなだれて震えているハナを、彼はずっと同じ目をして見つめていたようだった。
「門兵の職に就いてから、なんだかんだで六十年が経ちます。そのおかげで、自分は外の人々と我々の違いを理解できる奇特な立場にあると、自負してきました。しかし……今日のあなたの行動を見て、結局は自分もエルヴル側の人間でしかなかったということを思い知った。生まれることもできずに死んでいく子たちのことを、真の意味でかえりみることは諦めてしまっていたのです。だから――」
おもむろに彼は腰を落とす。ハナの前に両膝をそろえて床につけ、それぞれの上にこぶしを乗せると、背中を曲げてこうべを垂れた。
「あの子に代わって、礼を言わせてください。産湯を、ありがとうございました」
「……っ!」
ハナは今度こそ口に手を当てる。だが今度は意味などなかった。
いきれは熱く、鼓動は突き上げてきて、ぐちゃぐちゃに混ざり合い、息の仕方も忘れてしまったようだったけれど、乾きかけていた目尻に再び染み込んでいくヒリつくような生温かさにばかり、気を取られていたのだから。
嗚咽を漏らしただろうか。
こらえ切れた自信はない。
しゃくりあげそうになる口を閉じ、唾を飲んで、落ち着くまで鼻で息をした。
手を胸に置き直し、指先で心音をつかむ。産湯の中で数えた鼓動も、同じように速く、力強かったのを覚えている。
「ただ……」
「?」
声を聞いて目をこする。
輪郭を取り戻した世界に、同じ姿勢のまま少しだけ背を伸ばした男の神妙な顔があった。
「生まれられなかった子供たちに対し、我々もまったく何もしていないわけではありません。エルヴル国と王家の名誉のため、知っておいていただきたい。子供たちの遺体は、王室が一手に引き取り、王宮の中にある霊廟へ祀られているのです」
「霊廟……?」
珍しいものの名前に、ハナは一瞬首を傾げかけてから、ハッとした。
「この国には、信仰があるのですか?」
「はい。いや、信仰と呼べるほどのものかはわかりませんが、死後の魂の存在を肯定し、すべての魂は、いつか《ヴオルカシャの海》へと還り、溶ける。そういう昔ながらの考えが、この国では今もずっと根づいているのですよ」
「天海思想……」
ハナはその思想を、別の場所でも聞いたことがあった。
《神無き時世》とはどこへ行っても誰もが口をそろえるが、土着の精神性や慣習じみた信仰までもが廃れてしまっているわけではない。
ときにそういったものは、特定の薬の素材や治療法を禁忌に落とし込むこともある。
予想外のもめごとを回避するためにも、ハナたちのような流れの薬師は、土地の人の習慣や考え方について、常に敏感でいることを求められた。
天海思想は、中でも死者をとむらう文化のある土地で、度々見られる死生観だ。
まず地上をこの世とし、空の向こうに《天海》、もしくは『ヴオルカシャ』と呼ばれる場所があるとしている。
その海から降る『見えない雨』によって地上に命が芽生え、命は死を迎えるとしずくとなり、空の海と再び一つになるのだ。
還る魂が清ければ、それだけ降る雨も清く豊かになると言われ、逆に暗い魂が還れば、ヴオルカシャは濁り、地上に雨は降らなくなる。
源流にあたる教えは、古代の文明期よりもさらに以前からあるもので、善性を讃え、平和と秩序に礼拝し、同胞に親しむことを尊ぶものであったという。
我らはひとつから生まれ、またひとつへと還るのだからと。
「ていのいい言い訳と言われてしまえば、それまでかもしれません。しかし、外の方々よりもずっと長い人生を送るうちに、我々はより多くの『暗い穢れ』を溜め込んでしまう。最も清らかなまま還る者たちをねぎらわねば、二度と命の雨がエルヴルに降り注ぐことはなくなるでしょう。この国の者で、その戒めを知らずに生きている人間はいないはずです」
「……」
暗い穢れ――副兵長の口にしたそれは、ただの後ろめたさからくる言葉だろうかと、ハナは思いをめぐらせる。
ヒトは無垢に生まれついて、生きているうちにそそぎ切れない穢れをまとう。
それが彼らの信仰ならば、どうか少しでも清らかな生をと、おのれのこと以上に子について願うのが、親というものの気持ちなのではないだろうか。
――師匠は、今ハナの目の前にいる男性の四半分も生きないうちに、誰も想像がつかないような暗い過去を背負い、一人で抱えて歩いていた。
ずっとそばにいたにもかかわらず打ち明けてもらえなかったことを、ハナは失望と、憐れみの思いで、今まで受け止めていたような気がする。
けれど、願わくは無垢なままいてほしいという気持ちと、わがままが、彼女の慣れ切ったような、当たり前のようなあの微笑を支えていたのだとすれば、ハナが本当に贈るべき言葉は、眼差しは、どうあるべきだったろうか。
「さて……少し話しすぎてしまいましたね」
ハナに相づちをねだることもなく、副兵長は腰を上げた。
そしてようやく、屈託のなさそうな笑みを見せる。
「まだお疲れでしょう。気を失ってからもそれほど経っていません。この国へも着いたばかりだったというのに、ずいぶんとご迷惑をおかけしましたし」
「いえ……じぶんはただ、勝手に――」
「皆、感謝していますよ。アールたち夫妻も、滞在中はこの部屋を好きに使っていただきたいと言っていました。今誰かに、頭の包帯を替えに来させますので、もうしばらくお休みください。それと、できれば着替えも……」
「あ……」
微妙に言いにくそうに提案されて、ハナは自分がずぶ濡れに近い状態のままだったことをようやく思い出した。
反射的に腕で前を隠しながら、耳のうしろが火がつくのを感じる。
切羽詰まった状態から立て続けに真剣な会話をせざるをえなかっただけに、副兵長もそこまで気にかける余裕がなかったのだろうが、ゆとりを取り戻した今となってはお互いに恥ずかしい状況以外の何ものでもなかった。見た目の歳の差でもふた回り、実際は差し引き七十といっても、異性は異性である。
「す、すみませっ」などとハナは、今さらになって口走りながら慌てて上着を見つけるも、座ったままでは手の届かないところにそれは落ちていた。
立ち上がろうとして、足首に不穏な衝撃が走り、鼻から床に突っ伏して「んぶッ」と鈍い声をあげる。長い間へたり込んでいたせいで、両足共にしびれが来ていた。
「ああ、そういえば……」
すでに背を向け、扉に手をかけていた副兵長が、顔だけ横に向けて、真後ろのハナを見ないようにしながら言った。
「アールから聞きました。とても大きなご友人を探していらっしゃるのだとか。ついさっき仕事帰りの同僚と会ったので、訊いてみたのですが、ちょうど私がアールを呼びに行った頃に、それらしき大男が東門を通ったそうです」
「ふへ!?」
ハナは勢いよく上体を起こす。
鼻が痛くてうまく息ができないながら、どうにかこうにか「どほへいひましたか、しょのひと!」とたずねた。
明日昼頃次話投稿予定。





