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第二章・第八節 《呪詛》と死病

【前回のあらすじ】

 《陰清》の依存性が無意識化で尾を引いていることを見抜かれたハナ。

 そのことを嘲弄するウルウァから《大棘》の売却を持ちかけられるも、拒み切ったところで、アーシャが士人を連れて戻ってきた。


 何やら上機嫌なアーシャに促され、士人がハナに手渡したのは、彼が修繕してこしらえ直した、薬師用の古い背負い箪笥だった。

 ウルウァの性悪な取り引きよりも思いがけない出来事に感激し、ハナはアーシャと一緒になってはしゃぎ始める。


 しかし前触れなく疾師の口から「時間切れ」が告げられたとき、アーシャは倒れ、全身壊死の奇病、《落果病》を発症していた。

 そして疾師ウルウァがすみやかな診断と共に示した特効薬の材料は、『蒼き瞳の乙女、その肉』だった。


 その場にいた唯一の「碧眼の少女」であるハナを捕らえ、迷わずその首を締め上げた士人。

 しかし体の各部に大きな潰瘍をなし、無理な動きができない状態のアーシャに制される。

 それでハナは解放されるも、意識がすでに限界を迎えており、直後に気を失ったのだった――



(文字数(空白・改行除く):11,198文字 )

 浮上するように目を覚ます。


 ハナは依然食堂の床に転がされていた。蝋燭はまだ燃え尽きておらず、テーブルの脚の間から、雨漏りの染みで穴が開いたように黒くなった床を見ていた。

 体の下に敷いてしまっていた片腕が痛い。だがそれ以前に肺と喉がむかむかとする。


 どうにか上体を起こして少し咳き込むと、今度は首筋にまるで切られたような火照りと疼痛が走った。思わず喉元に這わせた自分の指の感触に、気絶する前のことを思い出して総毛立つ。


(そうだ……じぶんは、ミスターに……)


 内臓という内臓が一斉に縮んでいくような感覚がした。肉や骨から大きく剥離して、開いた空洞へ悪寒が一気に流れ込む。歯の根が合わずカチカチと音が鳴り、合わせるように小刻みな呼吸が舌先をこする。


(そんな……だって、どうして……!?)


 無意識に自分の体を抱きかけて、肩から脇の下へ通る帯に気づいた。背中に当たる固いものの感触にも。

 記憶の中の男の肌の感触が木のそれに置き換わる。その堅牢な肉体で背後から羽交い絞めにされているような錯覚に陥り、ハナはますます飲み込まれそうになる。


(ダメ、だ……このままじゃ……! でもっ……だって……ッ!)


 激しく震えて力の入らない指でなんとか背負い紐に触れるものの、猛烈な怖気が腕に走って一瞬で離してしまう。怖気は肩まで這いのぼって胸に染み込み、肺と心臓を押しつぶしてくるようだった。いっそう激しく音を立て始める歯を食いしばり、思い切り目をつぶってこらえる。


(じぶんは、まだ……生きてる! しっかり……しっかり!)

「あ……しゃ、さん……!」


 止まりそうな呼吸の隙間に名を呼ぶと、つい先刻見たばかりのまぶしい微笑みが脳裏に浮かんだ。


 ――紐の長さ調節できるって。

 ――ハナ、一回背負ってみない?


「……っぐぅうぅうッッ!!」


 ハナは顎が軋むほど歯を食いしばると、背負い紐の片方を思い切り掴んだ。

 震えが収まる瞬間を逃さず、力ずくで片膝を立て、空いている手でテーブルのへりを掴まえる。立ち上がるや否や、廊下へ向かって勢いよく飛び出した。足首に力が入らずもつれたが、体をひねり肩から壁にぶつかって止まる。そのまま壁伝いに走り出す。

 外はまだ夜だ。窓や天井の隙間から月明かりが差している以外、廊下は闇に閉ざされていた。床のあるところとないところとを、記憶を頼りに踏み分けながら、アーシャの寝室を目指す。


 辿り着いた部屋に飛び込むと、果たして清潔に整えられたベッドの上に、アーシャを見つけた。部屋には明かりがついており、彼女はハナが最後に見たときと同じ姿で眠っていた。顔には血の気がなく、熱があるのか頬は紫ががっている。額には玉の汗。手足の壊疽はさほど広がっていないようだったが、予想通りすでに膿み始めていた。


 ひとまず胸を上下させて呼吸している彼女の存在に、ハナは思わず息をつく。だがすぐに口を引き結び、荒れていた息を整えた。

 アーシャが倒れたときのハナは、絶えず混乱のさなかにあったが、ウルウァがした話だけは筋道立てて思い出すことができた。ウルウァの言うところの《落果病》――聞いたこともないし出鱈目な病だが、疾師としてのウルウァは嘘をつかないし、何より目に見える症状からしてすでに出鱈目だった。そして真実だとすれば、アーシャの余命はたったの一日か二日足らず。予断の許される状況であるはずがない。ハナはまずできる限りの診断をしようと、瞳孔や口内を視診するために顔を近づけた。


「触れるにぁ用心しい。壊死した粘膜を介して伝染(うつ)るけにのぅ」


 反射的に動きを止め、()()()()

 その聞き知った声はなぜか頭上からした。


 ハナが真上を向くと、そこにあった半月眼鏡のレンズ越しに、ガラス細工のような竜胆(りんどう)色の目が見つかる。その目はなぜか額の上にあり、鼻の下にあって、鼻は口の下にある。口の上には顎があり、首が続き、胴は頭にあったはずの黒革のヴェールを巻きつけた上から太い縄でぐるぐると巻かれ、足から伸びた縄が天井の梁にくくりつけられていた。


「カリシチ菌は飛沫や接触では通常感染せん。主に粘膜ないし血液を介す。ねども、出血や組織流出を伴う潰瘍、壊疽が広範囲で起こりよるし、口腔内も然りじゃけに、結局飛沫にも接触にも気を使うに越したことはない。最も危険なのは、溶解した組織を啜りに来る虫どもによる媒介やねど。患者の死骸を放置したことで、《落果病》はすさまじい猛威を振るったわけじゃ」

「あの……大丈夫ですか?」

「大丈夫に見えるかゃ?」

「……」


 わりと見えてきていたという返答は飲み込み、ハナは黙って壁際の椅子を持ってきてその上に立った。縄はハナの背丈ならどうにか手の届く高さに結わえてあり、結び目をほどいて体重をかけて引いておけば、ウルウァを床までゆっくり降ろすことができた。


「あ~まっこと、ふざけちおるわ」


 悪態をつきながらウルウァはハナの持ってきた椅子へ跳び乗るように腰を下ろした。そのまま身振りでハナが剥がして持っていた頭骨付きのヴェールを渡すよう求める。ハナは素直に応じたが、初めて持ってみたその重さに内心少し呆れていた。


「それで、アーシャさんの容体は?」

「おんし、今見たもんを忘れようとしちおるな?」


 どちらかといえば今見たものについても訊きたいとは思っていた。だが今優先すべきはアーシャのことだ。ハナは半眼で睨まれて内心怯みつつも、果敢に見つめ返す。


「……はぁ、まっこと(ほんとに)。見てのとおり、安定しちおる。あとは経過を眺めるだけじゃ。おんしにやれることなぞ何もないぞに、洟垂らし」

「しかし、一日で全身に壊死が回ると……」

「聞こえんかったかゃ? ウルが安定しちおる言うたら安定しちおるねよ。事切れるまであと一〇五日ある」

「一〇五……?」


 やけに具体的な日数に覚える違和感と既視感。余命を当てられると言っていたのはホラでなかったということか。

 とにかくウルウァが何か処置を施したのは確からしい。処置の内容を問い詰めるのは、たとえ出過ぎた行為でなくとも、今すべきことではないとしてハナはこらえた。


「では、その……ミスターは?」


 アーシャの容体のとき以上の緊張を覚えながら、ハナは尋ねた。

 その呼び名を口にするだけで喉が渇き、首筋が湿る。

 だがだからこそ、ウルウァの提示した薬の材料が、ハナの聞き違いでないことも確信できる。そして()()()()()()()()


 しかしあの士人がアーシャの治療を諦めることは絶対にありえない。

 目の前の果実が()()()()なら他を当たる。そのためにはすでに屋敷を出ていることだろう。そしてどこへ? それを知ったところでどうするのかと自問しながらも、背を向けようのない何かに衝き動かされていた。


「小僧ならば、蝶を探しに行ったわゃ」

「……蝶?」


 思わず変な声が出た。それまで不服げにつんと尖っていたウルウァの赤い唇が、急に喜悦を湛えてみちりと歪む。


「応よ。『十一視(テュクロプス)(チョウ)』ちいう古代の蝶じゃ。白い(はね)に五対の眼状紋。さらに胴とその周りが濃い青色をしちおるけに、翅を開いちおるところを上から見れば、獣の目が十一あるように見える。それゆえ、《蒼き瞳の乙女》とも呼ばれちおるねぁ」

「っな……!?」

「ウルはひとつも人間(ヒト)だなぞとは言うちおらんぞに?」


 ハナは絶句した。ウルウァが吊るされていた理由を察する。

 当の疾師はとぼけるどころか、これ見よがしにへらへらと笑っていた。


 ハナは当惑する。あまりにも惨い。悲しみと恐ろしさが同時に襲ってきて手足と頭を別々に磨り潰されるようだった。胸には突き上げてくるものがあるが、空洞の中を通るようにどこにも響かず、ただむなしかった。


「ケヒヒッ。ちっと(すこし)は熱の引いた顔もできるじゃないかゃ、洟垂らし」

「どうして……あのとき違うと教えてくれれば、あんなことには――」

「あんなこと? 早とちりさえせねば、()()()ひねり潰すのも厭わぬ本性を、小僧がさらけ出さずに済んだ、ちいうことかねぁ?」

「……っ!!」


 されたことを思い出せばそのたび身がすくむ。だがそれだけではない。ウルウァの口にした『本性』という言葉が、ハナの体を芯まで固くさせた。

 残念ながらウルウァの言うとおりだ。本質的には。ウルウァがわざと誑かしたにせよ、偶然にせよ、士人がハナを手にかけようとした事実は変わらない。たとえ彼が今より聡明で、言葉を額面どおりには捉えず、訊き返すことを怠らなかったとしても、それはただ〝理由〟が生まれなくなるだけのこと。

 ハナは見たくなかっただけ。知りたくなかっただけ。

 だからこそ、今も震えが止まらない。


「ウルはこれでも親切なほうぞに?」


 ウルウァは急に冷たい声で言った。


「おんしの絶望になぞ興味はない。怖気づいて出ていくなり、まだ能天気に小僧を信じるなり、好きにしたところで知ったことかゃ。ねども、おんしがおんしの器量もわきまえず何かできると思い上がりよるのは、いささか見苦しい。もしも本当に人間が素材であったれば、どうしちおったねぁ? おんしに何ができる? うやうやしく自分のドタマをかち割って差し出すかゃ? それとも小僧と連れ立って()()()を探すかゃ? おんしにはできるまいよ、洟垂れの薬師めが。薬師でない者らとおんしは何ら変わりゃせん。そこの女を看れるのはこのウルと小僧だけぞに」


 震える自分の身体を抱きしめて、ハナは奥歯を食いしばる。

 技量をどれだけ高めようと、動機をいくつ持とうと関係ない。そうウルウァは言っていた。

 士人は手段を選ばない。アーシャを救うためなら――ハナはとうにそれを目の当たりにしてきたはずだった。またそのつもりだった。


 だが足りていなかったのだ。『犠牲』という言葉を意識するほどのことは起きていなかった――否、()()()()()()()()、その采配にハナは自分から関わってこなかったのだ。抵抗も恭順もしてこなかった。

 覚悟だ。病に寄り添い続けることの。

 そばに居続けることに資格は必要ないかもしれない。

 だが癒すことを誓うなら、形ばかりの献身では役に立たないときが来る。


 士人はそのことを知っていた。アーシャためにすべてを最後まで成し遂げられるのは彼だけだ。ハナにも誰にも、同じ覚悟はできようもない。誰にも委ねられないからこその、覚悟。

 アーシャと誰かの命が天秤にかかったとき、彼にとってハナは、一介の薬師ですらなかった。


「……知っていたんですか? こうなることを」


 消え入りそうな声でハナは問うた。

 もうこれで最後だと思った。自分にできることは本当に何もない。ただ心残りを残さないためだけに、口をついて答えを乞うていた。


「時間切れ……そうおっしゃいましたよね、あのとき。あなただけではない。ミスターも、倒れたアーシャさんを抱えながら、何をすべきかは知っているみたいだった。まるで、似たようなことが前にも……いいえ、同じことを何度も繰り返してきたみたいに」


 ()ることは喜び。

 病について学べば学ぶほどに、患者へ近づくことができるから。

 けれども今は、無防備に眠るアーシャを目の前にしながら、知るたびに彼女が遠ざかっていく。

 恐ろしくて、悲しくて、それでも()るためにしか伸ばせない手を、必死でかざそうとした。


「……病み深いのぅ」


 細い目をしてハナを眺めていたウルウァは、やがて小声でぽつりとそんなことをこぼしたようだった。そして短く息を吐くと、「カリシチは――」と、前置きなしに語り始めた。


「《落果病》の下手人として、出現した地域に限っては確かに猛威を振るった。ねども、あまりに早く感染者を殺しすぎるがゆえに()()の機会を得づらく、感染拡大は頭打ちとなった。結果としてカリシチ菌自体と同様、《落果病》は現存しちおらん。はるか古代の遺物たる《穢れた水》もまた然り。歴史の彼方へ消え失せたはずの二つの死病が、一介の小娘を立て続けに見舞うちいうのは、どうしたことち思う?」

「……」


 自然な感染でない。そうウルウァが言いたがっていることはハナにも理解できた。人為的な感染。ただそれを思うと、ウルウァ自身の肩書とそれにまつわる俗説が第一に思い出されてくる。

 人を意のままに病ませること。それこそが『疾師』の本領という。

 ハナはしかし、横たわるアーシャの方を見た。


 彼女をわざと罹患させ、ウルウァ自身の手で看護し、観察対象か実験台とする――ありそうな話にも思えたが、ウルウァ自身が「一介の小娘」と評するアーシャを、検体として限定し、こだわる必要性が見えてこない。

 そもそもウルウァは病原がすでに存在しないことを知識として語っている。とかく知識に対しては誠実で忠実な彼女が、病原なしの罹患という不合理を自ら冒すというのも、腑に落ちない話だった。


「すな()ち、真正の罹患ではない」とウルウァは解を明かす。「ねども、真正も虚構もありはせんねよ。《病により死に至る呪詛》のもとではねぁ」

「……っ《呪、詛》……!?」


 薄々と感じてはいた。

 すべての不合理や不条理を裏付けられるもの。

 ウルウァが言うように、古代に絶滅した死病がアーシャを襲ったこと。おそらくそれがハナの知る()()だけではないこと。

 すでに幾度となく繰り返してきたがゆえと思しき、士人の悲壮な認識と覚悟。

 アーシャがこの地を離れられないと言った理由。


 ただ、それがすべての答えだとすれば、何よりも信じたくない現実を引き連れて、傍らに横たわっていることになる。目覚めても終わらない悪夢のように。


「おんしが今感づいちおるとおりじゃ。病をもたらす《呪詛》であるならどうあれ()()()()。《呪詛》による罹患再現はあらゆる意味で完璧ぞに。薬物に対する反応さえ、真正と寸分たがわず再現しよる。ゆえに()()()()()()。ねども、治療の影響が《呪詛》自体に及ぶことは露ほどもなかろう。何度病を退けたところで、幾多の犠牲を払い、数多の秘薬を注ぎ込んだところで、この女の枕元には次の死病が待っちおる。《呪詛》の名のとおり、病により死に至るまでねぁ」


 だから薬師に意味はない。

 悪夢に交渉の余地がないように、干渉の隙がないように、力尽きるまでもがき続けるか、身を委ねるよりほかにない。

 救うという誓いも、覚悟さえもむなしいのなら、何を拠り所とすればいい? どこに寄り添うことができるというのか。

 できることは沈黙か、さもなくば壊れるだけ――寡黙な彼はどちらを選んだのだろう。


「……呪詛憑きは、誰なんですか? どこにいるんですか?」


 ハナは問うた。

 沈黙は選べない。だが欺瞞だともわかっていた。

 もがいて、答えを掴んで、それをどうできるというのか。壊れることもできないハナには、人の形をした元凶はどうにもならない。


 ただ、悪夢はいつだって空想よりも残酷で――


「ここにおる」


 ウルウァはそう言って目を眇めた。その冷たい物腰、落ち着き払った声色から、ハナはあなたのことかと問うより早くその意味に気づいた。彼女の視線を辿り、ベッドのふちを見やるまでもなく。


「そんな……!」


 ――アーシャさんが、呪詛憑き?


 飲み込むまでもなく、言葉は胸のうちでかすみ消えてゆく。毒花の蜜の滴りが、土に落ちて乾いて見えなくなるように。

 染みついたものは深く深く根差して、長く静かに腐蝕の疼きを広げていく。


「厳密には、本来の呪詛憑きとは異なる。正気を保ったまま《呪詛》を扱う秘儀もまた存在するちいうことじゃ。おんしはつい昼間、ウルに問うたのぅ? 呪詛憑きの死後も《呪詛》は消えず残るのか、と」


 思い出す。アムリタの正体や刺獣との関係についてウルウァから教示されたときのことだ。

 かつて刺獣、汚染されたアムルダードに呪詛を施した人物が存命のはずはなかった。にもかかわらず、《呪詛》のはたらきによって刺獣は《穢れた水》を角状の結晶とし、体外に隔離し続けることで、『《穢れた水》による死』から逃れ続けていた。

 刺獣の体内に宿っていた呪詛憑きの体液こそが秘薬アムリタの正体であるとウルウァは語ったが、そのことがアーシャの《呪詛》とも関係するのだろうか。


「あのときの回答は否、ねど応じゃ。呪詛憑きが死ぬ。すると確かに《呪詛》も消滅する。ねども、この二つの事象の発生には、たいていいくらかの()()を伴う。その事実は《呪詛》の在り処に紐づいちおる」

「在り処?」

「呪詛憑きの持ち物といえば二つしかない。朽ち果てた精神にただ一縷(いちる)のみ残った狂気と、ただ死んぢおらんに過ぎぬ無益な肉。このうちどちらが《呪詛》が宿し、維持すると思うねぁ?」


 ハナは少し答えに迷う。

 《呪詛》は人の精神、とりわけ狂気から生まれるものとされている。だから関連性のありそうなものが精神か肉体かの二択しかないなら、明らかに前者が答えだ。

 ただ、肉体はともかく、精神にせよ《呪詛》にせよ、「どこにあるか?」などと、物質的に仮定して想像してみたことはなかった。


「精神、ではないのですか?」

(いん)や。肉のほう、とされちおるぞに」

「肉体? しかし、《呪詛》の出どころは……」

「精神じゃのぅ。ねども、おのが願望に飲まれ爆ぜるほど燃えあがったあとのそれは、事実上跡形もないほど消し飛んぢおる。残る狂気は《呪詛》にいっぱしの指向性を与えるだけの〝針〟と言われちおるねぁ。《呪詛》そのものが呼び起こすのは『現象』のみじゃけに。そして『現象』の維持を肉が担う。一説によれば、精神の爆発が肉に残す、かたちのない爪痕こそ《呪詛》の本質じゃとよ」

「でも、それではやはり死と《呪詛》の消滅は同時では?」

「はたしてそうかゃ? 仮に、死んだ者を生き返らせる秘術があったとしよう。魂を呼び戻し、元の肉へ還す。ねども、もしもその肉がとうに腐乱しちおったとすれば? あるいは獣に食い荒らされちおったとすれば? 血を流しすぎちおったとすれば? 魂はあれど、肉は動かず、冷たい血と組織と骨のかたまりのままちいうことになる。確かにそれは死んだ肉じゃ。では、腐敗も損傷もない遺骸であれば、蘇生は可能か――まるごとというのはいくら仮想とはいえ世迷言が過ぎるのぅ。ならば、無傷の部位を切り出し、他の存命の人間に移植(うえうつ)したとする。うまく適合できたとき、その部位のみは死なず生存したと言えるかゃ? ――無論、応じゃ」


 停止した機能はただちに損なわれるわけではない。個体としての死を迎えても、肉体(にく)は部位ごとに腐乱や損壊といった、物体としての〝死〟までの猶予を与えられる。

 確かにその事実を利用し、死者から切り取った部位を生者に継ぎ()いで治療する方法は、古くから知られているものだった。『針』と『糸』は薬師の本来の領分ではないため、ハナも切創の縫合程度しか使い道を教わっていないが、特殊技能を持つ『瘡師(そうし)』と呼ばれる者たちは、二人の人間同士の心臓を入れ替えることさえできるという。そして特に心臓は、持ち主から離れても動き続けるため、『死なない臓器』とも呼ばれていた。


「呪詛憑きの肉が肉として死なぬ限り、そこに宿る《呪詛》も消えずに残り続ける。実際に《呪詛》が残るのは、生存した部位のうち、最も大きいもののみとされちおるねどのぅ。先人どもはそうして《呪詛》を保持した部位のことを『イシヅエ』と呼んだ」

「イシヅエ……」

「さて、これらの現象を思慮に入れれば、先人ども同様に下劣な〝離れ業〟へ思い至るものじゃども、おんしはどうかねぁ?」


 ウルウァから逆に問われる立場となり、ハナは本能的に息を呑む。

 肉体の生と死。《呪詛》の残留と消滅。

 もしも呪詛憑きの心臓だけが他者の肉体の中で生き続けたとしたら? たとえ呪詛憑き本体が死に、焼かれたとしても、《呪詛》は()()()()()()()()()()()()に宿って残り続ける。その現象に()()が介在するとすれば――


「《呪詛》の継承……!?」

「応よ。ようこそ、下劣へ」


 まさか、そんなことが――と口にしかけた衝撃は、かすれ切って声にならなかった。

 ありえないでは済まされない。

 最初にそれに気がつき説いた者がそうだったかはわからない。だが誰かは試し、確かめたのだ。命と肉を奪うことでしか成立しえない方法で。


「アムリタも本来秘薬などと呼べる代物でなく、実際はイシヅエの一種ぞに。正確に等分した呪詛憑きの体液を患畜だったアムルダードども一頭ずつの体内へ注入することで、呪詛憑きの死後も複数体のアムルダードが同時に《呪詛》の影響下にあった。《呪詛》の宿主とイシヅエの宿主は同義。よって刺獣が死なぬ限り《呪詛》も消えず、その《呪詛》がアムルダードを《穢れた水》によってのみ死ぬるものと再定義した。実質的に不死の化け物が出来上がったちいうわけじゃ。この手の自己完結的な不死は、イシヅエが関わる事例にはままあるねぁ」


 ハナとの問答にも飽きたのか、ウルウァはひと息に淡々とまくし立て始めたが、そうして並んでいくどんな些細な事実もハナには今や生々しい温度を感じられないものではなくなっていた。そもそも正気を失っている呪詛憑きが、移植や《呪詛》の継承といった複雑な意向を抱くはずがない。およそ間違いなくイシヅエとは、《呪詛》を目の当たりにした、呪詛憑きでない者たちが求めるもの。

 そしてその狂気に勝る狂気の結晶とも呼ぶべきものが、アーシャの体内には息づいている。


「……アーシャさんの中にあるイシヅエは、何なんですか?」


 怒りにも似た気持ちが少しだけハナを奮い立たせた。医療者の意地。望まれない異物が体内に埋め込まれているのなら、取り除けばいい。

 しかしそんなものに絆されたのは、沈黙の重みをひと時忘れたために過ぎなかった。


「血じゃ」


 答えを聞いた途端、ハナはえずくように喘いだ。


「血……!?」

「体液がイシヅエとなる例は、すでにアムリタがあったように決してあり得んものではない。ただ、定まった形のある部位とは異なり、イシヅエとしては本来不安定な代物じゃけに。特に血はのぅ。生半な方法で抽出されちおらんには違いないわぇ」


 ウルウァは今のアーシャの肉体がいかなる困難の克服の上に据え置かれているかについて話していた。確かに輸血は生体移植という行為の枠内において言えば、最も簡便なものになるだろう。一方で、生き血を介した《呪詛》の継承が容易でないというのは、観察者の立場からすれば興味深い話題なのかもしれない。

 だがハナが知りたいのはそういうことではない。むしろいかに困難であれ、完遂されてしまっているなら突き落とされるしかないのではないか。その岸壁に掴める場所はまだあるのかどうかとさえ、もはや尋ねようもない。事実はハナにそう告げていた。


「ウルも詳しい出処は知らん。家政婦が輸血を施されたのもここへ来る前のこと。小僧の話では、旅のさなかに重傷を負い失血死しかけた。そこへ居合わせた旅の薬師から、血の代用になるものを寄越された、とのことよ」

「血の代用?」

「もはや血ではないが血から成したものであり、血に戻せば血として働く液体。名を《始まりにして終わりの冥砂(アゾルガム)》と呼ぶ。このウルですら知らぬものぞに。ゆえに記録し保存すべく、この手で汲み出せるならとうに汲み出しちおる。おんしが今しがた絶望する前まで考えちおったようにねぁ」

「……」

「まあ効用については大方の見当がすでについておる。小僧もその薬師に言われたそうじゃ。『是が非でもその小さな魂を死から遠ざけたくば、注ぐがいい。ただし霊樹を囲む癒しの草原、薬草の園を刈り尽くし、祝福の幹にマサカリを入れる業を負えるなら』と。それすな()ち、この世すべての死病と相見える宿命へ身を投じることに他ならん。さながら〝呪い〟のようにのぅ」


 呪い――まるでたわごとかのようにウルウァはそう言った。

 その本来の意味は、まとわりつき、不幸を呼ぶ、形がなく見えないもの。

 《呪詛》は願いの成れの果て。人は願いに囚われるとき、底知れない闇に自ら墜ちていく。


「ウルが三日ち言いよったのは、一つ病を治したあとに与えられる次の発症までの猶予じゃ。小僧はその三日ごときを繰り返し姉に与え続けるため、薬や治療法を求めて駆けずり回りよる。自他を問わずいかなる犠牲も厭うことなく」


 たとえ誰かの大切なものを奪っても。

 かけがえのないものを滅ぼしても。二度と戻らないものを葬っても。

 それでも彼は――士人もまた願ったのだろう。

 それは〝呪い〟だと、すべてを諭されたうえでなお、アーシャを失いたくないと。たとえ彼女と生きる世界を自ら荒野に変えていく宿命を背負うとしても、壊れてしまうくらいなら、壊すことを選んだ。


 それは彼自身の選択だ。そして付随するものをすべて受け止める覚悟をしたのだ。

 だから――それがどうしたというのか。


「あの小僧が本心でどう思うちおるかなど知らん。ねども、この女の()()を諦めることだけは、ウルにも小僧にもありえんことぞに。ウルが小僧に薬の在り処を教える代わり、ウルはこの女の身柄を預かり好きなだけ観病録(カルテ)を作る。そういう契約になっちおる。小僧にせよこのウルにせよ、この女に死なれるのは損でしかないちいうことよ」


 じぶんも――と言いたかった。

 いかに彼が足元の花も顧みず踏みしめる者に徹すると誓ったからと、同じように多くを諦めなくてはならない道理がどこにあるのかと叫びたかった。

 だが、たとえ手にあるものすべてをなげうっても、薬師のハナにできることなどありはしない。何も知らないふりをして、隣に座って手を握り続けることより他には。


 ハナは薬師だ。それで何も間違ってはいない。

 ハナは薬師だ。救えない命があることも知っている。

 ハナは薬師だ。患者に寄り添うことこそが使命。


 たとえばアーシャが救われることを望んでいないなら、何も手を打たず、静かにそばで見守ることもまた正しい選択なのだろう。

 だが、本当にそれでいいのか。患者に寄り添うとは。アーシャの望んでいることはただ穏やかな寝所に横たわることなのか。アーシャがいつも見ていた先は――


 ハナは薬師。その薬師の師匠が、一人の弟子に贈ったはなむけの言葉。


 ――診極めなさい。


「師匠……まだ終わっていなかったのですね」


 病とは呪いのようなもの。そして呪いもまた病のよう。

 だとしたらハナは、()()()()()()()()()()()()()


 こぶしを握り、顔をあげてウルウァに向き直る。ウルウァがその顔を見て、「ほう?」とからかうように笑った。


「また()()()()()()かゃ、洟垂らし?」

「お願いがあります、疾師様。彼の、ミスターの行方を教えてください」


 ウルウァに驚いた素振りはなかった。まるで興味深い病人でも見つけたかのように喜々として、ハナに問い返した。


「聞いてどうするねぁ? 確かに今ならまだ追いつけるぞに。蝶探し程度ならこれ幸いと手を貸し、己を慰めるかゃ?」

「この目で見てきます。全部。彼のすることすべて」


 目を逸らすことなく。ありのままに。

 誰一人としてひと続きに見ようとはしないものを。してこなかったものを。

 たった一人でむなしく甲斐もなく病と向き合い続ける者のそばで。

 あくまで薬師の誇りと使命において。


 それが何になるのかと、ウルウァは問い返さなかった。ただただそそられるとばかりに瞳を光らせ、骨からはがれそうなほど口の端を持ち上げてみせただけ。

 だからハナに応えたその声は、擦り切れそうな断末魔の悲鳴にも似て。


「わた……し、も……っ」


 ハッとしたハナは、すかさずベッドのそばにかがみ込んだ。

 肺も喉もただれているのか、アーシャが息をするたびにゼーゼーと濁った音がする。ただ青白くなった唇は震えながらも、声を確かな言葉に変えて伝えようとしていた。


「わたし、にも……教え、て……見てきた、こと……ぜんぶ、あの子の、はなしを……」


 たった一つ、ハナにできることを。

 彼と共にいてほしいと、彼女は最初からハナに願っていた。自分ではもはや追い切れない場所にいる彼のことを、誰かに見ていてほしかったのだろうか。


「お話しします。必ず」


 ハナは答え、震える黒ずんだ手のすぐそばで、シーツを引くように握りしめた。






 第二章『アーシャ』――

 ――了


 ここまでお読みいただき、誠にありがとうございました。

 今回で第二章最終回になります。


 ハナが自身の新たな“居場所”を見出すために、この章を丸々消費する結果にはなりましたが、予定どおりでもあります。彼女自身の手で転がり始めたわけではない彼女の物語を、彼女自身の手で転がし続けることを選んでもらうために、とても大切に書きたかった部分です。


 そしてアーシャと呪いが怪物とハナを繋いだことにより、二人の物語が動き始めます。

 それぞれの線と線はまだ重なり切ってはおりませんが――もしかしたら永遠に重なることはないのかもしれませんが――これより幾度となく交わりながら、共に行き着くところまでは行くことでしょう。

 私も宵闇の中の二人がともに視界に入り続ける場所を連綿と歩んでいく所存です。


 交わり始めた彼らの足跡が、再びあなたの目に映ることがあれば、幸いでございます。



 さて、引き続き第一部・第三章を掲載していく予定ではございますが、私が書き溜めてから放出するタイプの人間ですので、次回更新は早くても二ヶ月程度先になる予定です。

 ブックマークしていただいている方々には、長らくお待たちいただくことになり大変申し訳ございませんが、誠心誠意執筆していきますので、何とぞご容赦願いたく思います。

 更新を再開いたしましたら、活動報告およびツイッターにて報告させていただきます。

(ヨドミバチ)

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[良い点] あいやー。とんでもないところで止まってたアル。 正気を保った呪詛憑き。 ヴオルガシャのときにでてきたものにまた巡り合い、更に深みに入っているような感覚に襲われます。 呪われた血……。 …
[一言] ハナの純粋さ、真っ直ぐな心が失われないでくれと思いつつ、何かを選び取るために何かを捨てられるか、自らの手を汚すことができるか、それに自覚的になれるか、というのは彼女が足を踏み出すためには必要…
[良い点] 2章までですが、セリフや単語のチョイスや言い回しが素敵です [一言] ストーリーも面白いですし、例えば、力が入らないけれども移動するときの描写が、細かくパーツまで書かれてあってシーンが思い…
2020/12/08 14:58 退会済み
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