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第二章・第七節 箪笥と碧眼

【前回のあらすじ】

 ハナたちと共に屋敷へ戻るや否や、士人はまたも行方をくらませる。


 気を取り直し、宣言どおりハナの歓迎会と称して特性料理を振る舞うアーシャ。

 ウルウァも含めた三人で舌鼓を打ちながら歓談にふける。


 しかし、ふとハナの子供時代の話になったとき、師匠のことを思い起こしたハナが、彼女自身にも思いがけず感極まり、泣き崩れてしまう。

 自制も利かずに取り乱すハナを、アーシャは宥めながら、やはり士人をこの場に呼び戻べきだと告げる。その決心に戸惑うハナを置き去りに、彼女は屋敷を飛び出していった――



(字数:8,696文字 )

 

 ハナはウルウァと共に、食卓でアーシャの帰りを待った。


 意気消沈して黙り込んでいるハナに、ウルウァが同情を示したわけではない。表立って鬱陶しがる様子もなかったが、相席している理由はとにかく食事が終わらないせいでしかなかった。彼女のために配膳されたひときわ大きなガレットから、親指大、もしくは小指大のかけらを千切って、口へ運ぶ。咀嚼し、嚥下してからまた手を動かす。満腹になる前に食欲を使い果たしそうなその動作を、いつまでも淀みなく延々と繰り返している。何か他のことを意識する素振りは一切なく、ハナのこともそこにいないものとしているかのようだった。


 ウルウァのこの態度が故意にせよ習慣にせよ、今のハナには救いであることも否めなかった。焼けつくようだった頭の中はとうに冷め切っていたが、誰かのことを気にかけられるような気力もほとんど残っていない。ただ情けないという感情があり、あとは夜明け前に目を覚ましたような重くどんよりとした空白が漂うだけ。その狭間に時より打ち寄せるように、未だに師匠の顔ばかりが浮かんでは消えて、消えては浮かんだ。


「ときに、()()


 唐突にウルウァが声を発した。

 ハナは跳ねるように顔を上げたが、それが自分を呼ぶ声であったことを悟るのにさらに数秒を要し、もう一度驚いてウルウァの顔に見入った。自分から何かしない限り存在さえ意識してもらえないだろうと思い込んでいたハナからすれば、彼女に何と呼ばれたかまで踏まえればもはや幻聴と疑わざるを得なかった。

 だが、何も含んでいないウルウァの口は確かに蠢き、続く言葉を紡ぐ。


「おんし、《大棘》を買わんかゃ?」


 その瞬間、頭の中で血が巡り出すのをハナは感じた。一気に。

 相手の長い睫毛が持ち上がり、薄い眼鏡を間に挟んでようやく目が合う。

 疾師の青白い顔には軽薄な笑みが浮んでいたが、言葉の真剣味を疑う前に、その妖艶さに言い知れぬ怖気が走った。


「な……何を言って……」

「そう強張らんほうが()いぞに。洟より涎が垂れるっち顔になりよるけに」

「……!?」


 濡れた唇と小さな白い歯を、赤く短い舌がちろりと舐めずる。

 ハナは言われたことの意味を考えるより早くどきりとした。それは見ないふりをしてきた自分のことを初めて意識したときの感覚と同じ。


 たとえば、気怠くて熱っぽい朝、ひょっとしたら、と感じる。

 だが、薬師の自分に限っては気のせいだろうと根拠なく決めつけそうになる。例外などありはしないと、心の奥底では知っているはずなのに。


「陰清――と云うたかゃ? おんし、いっぺん()うたねぁ?」

「……っ!?」

「口をきけば寿命も当てるウル様ぞに? 言わねばわからぬことなどありはせん。ましてや、家政婦の頭から出た《棘》を見せた折のおんしのツラと来たら。唾液の味が()()()()しちおったろうに、自覚がなかったか、それとも、我に限ってはとでもタカをくくっちおったかのぅ?」


 ハナの記憶にはない。だがそもそもそのときのことがよく思い出せない。ガラスの容器の中で輝くような白さを放つ刀剣を模した三本の結晶を見たこと以外。あたかも心奪われていたかのように。

 何よりそれを目にして最初に尋ねたことが、『触媒として機能するかどうか』。

 口をついて出た問いだった。使命感を伴う意図はあったかもしれない。だが『機能する』と回答されたとき何を思ったか。心の片隅で、深い安堵を覚えなかっただろうか。


「無理もないとは言うてやろう。おそらくただの一回、濃度はともかくごく短期的に摂取し、強度の高い方法で速やかな対処もした。主体的動機はなく、偶発的で受動的な体験。『離脱』に際しても顕在化する症状はなく、予後に懸念される要素も見当たらず。依存の兆候もないとなれば、きれいさっぱりに()()()と断じて当然じゃろう。()()()()()()()()

「きお、く……?」

「応よ。記憶、すな()ち、脳に直接刻み込まれた快楽は死ぬまで消えん。元々種族を問わず生物の脳には快楽を要求する回路が存在するねども、受容を繰り返すことでその回路は拡充、増築されていくものじゃ。とりわけ薬効によりもたらされる精神の強烈な体験は、別格ぞに。生物が自力で獲得できる範疇を軽々と超越しよる。ゆえに過去として埋もれることもない。たったいっぺんこっきりのことであれ、肉体は永遠にその記憶を意識し続けるねよ」


 疾師は叡智をひけらかす。もしかしたらそれ自体が目的かもしれない。

 だが、だからこそ彼女の言葉に嘘はなく、ハナはなすすべもなく愕然とする。


 ただの一度――そう、ただの一度のことだ。その事実を根拠にハナは自分の身体に何の懸念も抱いていなかった。ウルウァの推察通り、離脱症状――要は薬効切れに伴う揺り戻しのような体調不良や禁断症状も現れず、あの薄紅色のもやの中で感じた壮絶な安寧や多幸感を日常の中で思い起こすこともなかった。自分は大丈夫。だから《陰清》の話はもう終わったのだと、そう信じていた。


「だ……から、って、どうして、売ろう、なんて……」

「ケヒヒ。勘違いするなや。ウルは疾師。おんしの依存症なぞ知ったこっちやない。ただ此度の貴重な標本の確保はおんしの肩入れもあってのことじゃけに、分け前をくれてやるのも道理ち思うたまでのこと。標本(ガラクタ)は三つもあるけに、一つ()()のあるクチへあてがうに何の障りがあろうかゃ?」


 刺獣も《穢れた水》ももはや現存しない以上、残された《大棘》からも本来の価値は見出せない。ウルウァの口ぶりは、言外にそう語っていた。ゆえにただ飾っておくか、仕舞っておく、あるいは捨てる以外に道はない、とも。


 捨てるくらいならいっそ――と、鼓膜の内側で声がする。

 《陰清》の誘惑に屈するつもりなど毛頭ない。

 ハナの頭の中には、自分のなすべきことが、丘を駆けあがって目にした広い草原のようにまたたく間に広がっていた。

 なるべく考えないようにしていた師匠の行く末――もとい、安否。

 大きな糧を突如として失った、薬師の里のこれから。

 ハナが《大棘》を持って里へ帰れば、そこで万一のことが起きていたとしても、すべてが好転するやもしれないのだ。大事な人や故郷を救う手立てを得られるのなら、たとえ快楽欲しさに薬を買ったと後ろ指をさされようと臆するはずはなかった。むしろ本望だ。そう確信さえしていた。


「……彼も、そうだったんですか?」

「何?」


 よって、ハナは悟る。

 薬師を、不吉の象徴たらしめてはならない。

 自ら誰かに必要とさせることを、企てる者となってはならない。

 その矜持を忘れては、もはや薬師でいられない。師匠が命懸けで飛び立たせてくれた自分は失われる。

 にもかかわらず、その価値は容易に覆るのだ。目の前に吊り下げられた〝特効薬〟一つによって。たとえそれが麻薬の類であろうとなかろうと。


「彼にもそうやって、アムリタの情報を売りつけたのですか?」


 ずっとわからないことがあった。ウルウァのことで。

 知識の蒐集はしても行使を旨としない彼女が、アーシャの治療に加担した理由。アムリタの在り処を教えただけならまだしも、そこをめがけて士人が奔走している間、アーシャに屋敷のベッドを貸し与えていた。あまつさえ看病まで引き受けていたとなれば、ウルウァにも何らかの見返りがあったと考える方が自然だった。未知の病に苦しめられ、疾師という公然の異端に縋るまで追い込まれた姉弟から、情けも慈悲もない見返りを。


「あのお二人に、いったい何を対価に差し出させたんですか? まさか、アーシャさんがここを出ていかないと言ったのも、本当はそのせいで……!」


 昂りを抑え切れず、ハナは声を荒げた。

 途端、部屋に哄笑が鳴り響く。


 ハナは目を見張った。いつも猫背気味だったウルウァが、背中からのけぞり、大口を開けて全身を激しく揺さぶっていた。顔の影になりがちだったふくよかな乳房も大きく弾んで存在が強調される。頭を押しつぶすように乗っていた水牛の頭骨がずり落ちかけていたが、落ちるときは下の主人の体ごと椅子からかもしれない。

 あまりいい意味で笑われていないことは明らかだったが、火のついたようなけたたましさに、激し慣れていないハナは思わず委縮させられてしまう。


「な……何が、おかしいんですか!」

「ケヒハハハ! 力むな、力むな。なるほどのぅ。そうかそうか、おんしら妙に乳繰り合いよると思うちおったねど、そんなやり取りをしよったかゃ。まっこと(じっさい)、あの女も性根がえぐいねぁ。いいやまっこと(じっさい)不知(しらぬ)とは滑稽なもんじゃけに」

「……何を知らない、と?」


 ハナは何も知らない。自覚があるからこそ詰め寄っている。

 だが、何を知るべきかの本質からはき違えていたとしたら――ウルウァの嘲笑にはそう予感させるものがあり、ハナはいつしか体の奥底からすくんでいた。


「ふむ。ぼっちり(ちょうど)そろそろ()()()()()じゃ。彼奴らが戻ってくりゃあ、おのずと知れよう」

「三日……?」


 その日数にハナはおぼろげな心当たりがあった。

 ハナがこの屋敷で最初の朝を迎えた日から数えて、今日で三日目。屋敷に着いたのはその朝の前の晩で、着くや否や息つく暇もなくアーシャを治療し、疲れ果てて眠ったためよく覚えていないが、だいたい今ぐらいの時刻ではなかったか。


 ハナは知らない。何も知らない。

 すべてはき違えていたとしたら、どうなのか。それすらもハナにはわからない。

 ただ()()()()()()()とウルウァが囁いたとき、ハナは身も凍るほどの悪い予感に襲われた。橋の下の底知れない淵よりも、対岸に見える大きな森がいっそう暗いと気づいたときのように。


「ただいまー」


 壁の向こうから間延びした声が抜けてきて、ハナはぎくりとした。

 ほどなくして食堂の扉が開き、アーシャが入ってくる。息を弾ませて上機嫌なようだったが、ハナたちを見るや否や首を傾げた。


「なんかお取込み中?」

「あ……いえ……」


 自分がどんな顔をしていたかもわからないまま、ハナはごまかし切れず俯いてしまう。逆にごまかすつもりもなさそうににやついているウルウァの方を、アーシャは半眼で睨みつけていた。


「ちょっとウル? ハナに怖い話してたでしょ」

「怖い女の話をしよったぞに」

「もー。そういうことばっかりしてるからムシ歯なんだよ?」

「これは標本を飼育しちおるだけじゃけに」


 とぼけた会話を交わす二人は、ハナの焦燥を気にかける気配がない。

 ハナは独り雨の中にいるような心地に駆られる。


「あの……あの!」


 一度目の声でアーシャは気づいたようだったが、ハナが二度目に声を張り上げたためか、大きく見開いた目をして振り向いた。


「ハナ……?」


 アーシャはハナを見ると、心の底から心配そうな顔を見せる。嘘や騙りのある物腰ではない。揺れる苔色の瞳に、不意に懐かしい灰色が重なって見える。

 ハナは自分が次に何を言いたかったのかも思い出せず、喘ぐように口を開けたまま、続く言葉を探した。


「――ミスターは……どうしたんですか?」


 アーシャは一瞬飲み込めない顔をしたあと、ふっと表情を和らげた。


「ああ、そうだったそうだった。おーい、ちょっと? ちゃんと入ってきてってば」


 開け放していた扉の外へアーシャが呼びかけると、廊下の暗闇でもぞりと大きなものが動いた。が、姿をなかなか現さない。「もー」と眉根を寄せたアーシャが業を煮やして廊下に出ていく。ほどなくして彼女に背中を押され、夕暮れ前に会ったときと同じ襟なし上衣(シャツ)姿の士人が食堂に踏み入ってきた。


 彼は手に何かを持ち、布をかけていた。上に角が四つあることから、箱のようなものだとわかる。彼の片手に乗せられ、巨体と並んでいると、箱は幾分小さく見えたが、常人からすればひと抱えほどはある様子だ。

 テーブルの手前で足を止めたまま無言で突っ立っているので、ハナはその箱と彼の面鎧越しの顔とを否が応にも見比べてしまう。入ってきたときの一瞬は目が合ったものの、それ以降彼は居心地悪そうに周りの壁へ視線を泳がせていた。


「ほら。ハナに言うことあるんでしょ?」


 彼の腰から顔を覗かせたアーシャが、今度は腕の下に回り込んで彼をせっつく。士人は助けを求めているようにも見える視線で自分の姉を見おろしたあと、おもむろに持っていた箱状のものをハナの足もとへ置いた。


「……へ? じぶんに、ですか?」

「……」


 ハナが見上げると、士人は目を逸らしたが、頷いたような気がしなくもない。

 ハナはしばらく彼の顔を観察し、それからしげしげ箱を見おろしたあと、意を決してかぶせてある布を取り去った。

 現れたのは、天板付きの木の箱だ。縦に長く、ハナから向かって正面には曲線の意匠が彫られた両開きの扉と金具の取っ手が、裏側には背負い紐のようなものがついている。なんとなく手が伸びて扉を開くと、中は上半分に棚があり、下半分にはたくさんの小さな抽斗(ひきだし)がついた入れ物になっていた。抽斗には大きさが様々にあり、それぞれに小さな(かん)が丁寧に取り付けられている。少々古びてはいたが中も外も磨き抜かれ、いつか見た赤木の杓子(レードル)のように艶のある光沢を帯びていた。


「ほほぅ?」


 テーブルに身を乗り出して覗き込んでいたウルウァが、素直に感心したような声をあげる。


「ウルが昔使っちおった薬用の背負い箪笥じゃ。懐かしいねぁ。そういえば離れの奥にでも捨て置いちおったかのぅ」

「割れのあった部品は替えた」


 低く濁りのある声がくぐもりながら響いた。彼はそっぽを向いたままだったが、面鎧の下で大きな口はもごもごと動いている。


「抽斗はその方が早かったから作り直した。紐も腐っていたから替えた。金具は少し歪みが残っているが、一度外して叩き直したからまだ使える。錆もたいしたことなかったから磨いた。漆も塗り直した」


 彼は自分がしたことをとにかく並べ立て、しかしその意図をなかなか口にしない。

 ただ、彼が目の前で話をしていることがすでにハナには衝撃的だった。

 背中が汗ばむのはもう彼がただ大きいだけのせいではない。むずむずと弾みだした気持ちに後押しされ、言葉を促すように尋ね返す。


「えっと、壊れていたものを、直したんですよね?」

「……川上の、離れで見つけた」

「すごいです! こんなに新品みたいにしてしまうだなんて」

「……薬師なら、使うだろう」

「もちろん! ……あれ?」

「……」


 鈍感な自分がときどき嫌になる。

 ただ、本当は期待したくなくて、気づかないふりをしているだけなのかもしれない。

 思い上がりで、裏切らせてしまうのが怖いから。いつだって知らないことが多すぎるから。

 けれどもハナはこの戸惑いを、本物だと思った。ふたを開けて覗き込む前に息を呑んでしまう気持ちが、ただの不安でないことを誰かに教わったから。


「……え? あの……え? じぶん、に?」

「ウルは使わんぞに」

「ウルは黙ってようね? ちょっとね?」


 ウルウァの戯れ言もそれをにこやかに諫めるアーシャの声も、ハナには遠いものに感じられる。目の前の小箪笥の色形と、それを運んできた大きくて繊細な気配だけがくっきりと鮮やかで。――ああ、そうだ。足りない言葉も重ならない視線も、どんな空白もまた彼がそこにいる証なのだとしたら、自分はこぼさずに受け止めていたかったのだと、今初めて気がついた。


「ね、ハナ、一回背負ってみない? 紐の長さ調節できるって」

「あ、はいっ。じゃあ早速……」

「おー。そう言いつつピッタリだね。なんだかんだでハナのことよく見てるじゃない」

「わ、軽い。すごく頑丈そうだったのに。何ていう木ですかこれ?」

「あ! ハナっ、扉開いてる! 抽斗落ちちゃう!」

「えぇっ!? ええと、鍵っ、鍵?」

「りっくん、鍵、かぎっ。一番左下の抽斗? あーあったあった。ハナ、そのままでいいよ。わたしがかけるから。はい、できた」

「ありがとうございます。あの、ミスターも、本当に、何とお礼を言えば――」

「恐れ入るねども、おんしら」


 不意にウルウァが口をきく。しんと、凪ぎ渡るように音が消えた。

 特別凄みのある声がしたわけではない。ただ彼女らしいいつもの気怠さが影を潜め、どことなく凛として艶のあるものに聞こえた。


余暇(いとま)切れぞ」


 そう告げ、ウルウァはハナでも士人でもなくアーシャをじっと見据える。

 困惑するハナの隣にあった彼女の気配が、そのとき消えた。


「え……?」


 ハナは振り返り、凍りつく。

 屈んだ士人の手の中へ、アーシャが崩れ落ち、ぐったりと上体を預けている姿があった。今の今まで溌剌としていたはずが、まるで巣から落ちたひな鳥のように。


 ハナは本能的に戦慄を覚えて息を呑み、さらに瞠目する。

 健康的で輝くようだったアーシャの肌が、すっかりと茶色く褪せていた。どころか、衣服から露出した首筋や胸元、腕や膝から下に、赤や紫を通り越してもはや黒いような変色が起こっている。それはまるで紙に(インク)をこぼしたように、見る間に広がり続けていた。


「アーシャさ――」

「触るなッ!!」


 反射的に駆け寄ろうとしたハナを雷鳴のような怒号が制した。

 硬直したハナには目もくれず、士人は続けざまに「疾師ッ!」と呼びつける。


(おう)よ。動くな、洟垂らし」


 その返答をハナは耳元で聞いた。

 振り向く暇もなく、両肩を何かに掴まれた。


 ぐんっとその上から負荷がかかった次の瞬間、頭の上をはためく小さな影が飛び越していく。夕闇色のドレスの裾と黒革のヴェールをなびかせ、宙で回転しながら士人の真上をも飛び越し、食堂の扉の手前に足をそろえて着地する。

 尻餅をついて困惑するハナを振り返り、ウルウァは満足げに鼻を鳴らしてみせた。


「んー本日も満点じゃけに」

「疾師!」


 焦燥をぶつけるように激しく士人が吠える。対照的にウルウァは、いかにも心躍るといった様子で、


「そう急かすなや。急速な全身壊死なぞ、観病録(カルテ)を引くまでもない。

 『美しき人の病(ミィロ・カリシチニ)』――すな()ち、《落果病(らっかびょう)》じゃ」

「落、果……?」


 思わずハナは口の中で繰り返してから、ハッとしてアーシャを見やった。依然昏睡しており顔色はよくないが、各部の黒ずみの拡大は止まっている。ただハナにはそれが予断の許される状態なのか、そうでないのかすら判断ができない。吹き荒れる嵐のような疑問の渦を抱え込んだハナの耳に、「応よ」と軽快な相槌が響く。


「並外れた増殖力を持つ細菌『カリシチ』。それが元凶じゃ。

 またの名を『丸吞み細菌(バクティーロ)』。

 症状は全身の同時多発的潰瘍、および壊死。感染した者は一夜にして体を壊死箇所で覆われ、二夜を待たず骨を残し()()()。溶解した体組織の流れて広がった遺骸の有様が、さながら熟れて枝から落ち潰れた果実のよう、ちいうのが病の由来よ」

「一夜、って……」


 ハナにはまるで理解が追いつかず、ただ聞いたばかりの言葉の直感的な恐ろしさに震え、うろたえる。


「どうして……なぜアーシャさんが、急にそんな……」

「薬は!!」


 士人が再び声を張り上げる。もはや別人のようだったが、ウルウァの口先から的確に御託を排除しようとしていた。それは事態を理解していなければできることではなかった。


「薬もここにはない。ねども、記憶(ここ)にはある。

 『蒼き瞳の乙女、その羽根を毟り、肉を挽けば――』とな」

「は……?」


 今度はハナが固まったのではなかった。

 室内を巡る渾沌とした空気が、不自然にこごる。


 ハナはなぜか士人と目が合った。

 士人の小さな目が、床に座り込んだままのハナを見ていた。

 ウルウァに食ってかかっていた怒気はどこかへ隠れ、涼しげなまなざしでハナの瞳を見据えていた。暗い瞳に映り込む、瑠璃色の光彩を。


「……ミス、ター?」


 虚ろに見上げるハナの前で、失神した姉を床に横たえ、彼が静かに立ち上がる。食堂の入り口も屈まずにはくぐれなかった上背は、壁掛けの燭台の高さをも上回り、逆光の陰に染まる前頭部は、まるで暗雲に突き刺さる山頂のようで。


「どうし、て……そんな、わけ……」


 山が傾くように迫り、塔のような腕が伸びてくる。

 震えるハナの肩を包むように手を広げ、細い首を指の輪の中に囲む。


「違い、ますよね……? こんなの……だって……あなたは……ぁ、ぐっ……!?」


 固い肉の中に埋もれていく。目の奥が燃え上がり、湧き出た唾液が顎を伝う。たまらず爪を立てるが、喉に食い込む指の感触はもがくほどに強まっていく。


「っ……! っか……! ぃず……だ……っ」


 煮えるような目を凝らし、手を伸ばした。

 感じるものすべてが混ざり合い、ぐちゃぐちゃで、意識は乾いた泥のようにぼろぼろと崩れ出していた。明滅を始めた世界の奥へ、それでもハナは彼の姿を探していた。手の届かなくなることを、見失うことを恐れるように。

 だが次第に骨は軋み、加速する明滅は弾けてしまうそのときへ向かっていく。




「――わたしからも奪うの?」




 その声を聞いた。かすかに、だがなぜか強く鼓膜を鳴らされた気がした。探していたもののように。


 喉の締めつけが少しだけ緩む。ハナは必死で息を吸いながら、まだ白み切っていない視界を声のした方へ向ける。


 士人の腰に、小さな影がすがっていた。黒茶に乳を落としたような、枯野にも似た不思議な髪の色。肩で息をしながら服の裾を掴み、手首の潰瘍からしみ出した黒い血が細い腕を伝い落ちていく。


「全身壊死の初期段階で、全体に体組織が緩んぢおる」

 どこからかウルウァの声。

「体重をかけ続けよると、千切れるぞに?」


 ハナの首筋を掴んでいた手が完全に離れた。

 四肢がしびれ、座り込んでも姿勢を支えきれず、ハナは横ざまに倒れ伏す。体はずっと激しく咳き込んでいたが、白昼夢のように遠く感じる。二、三度目をしばたいて、明かりの方を見ると、大きな人影が小さな人影をそっと抱きかかえようとしているのが見えた。きびすを返して立ち去ろうとする背中にもう一度手を伸ばしながら、混濁の底に沈む。

 明日夜次話掲載予定。第二章のラストになります【済】。

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[良い点] 動き出すときはホント急ですね、もう!! 全身壊死!?!? 青い瞳の羽根毟る?? 薬師自ら薬になっちゃいます~~ってノリじゃない! みんな知ってるのに誰も説明しないから事態は悪化の一途!…
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