第二章・第五節 野菜と亜人
【前回のあらすじ】
アーシャと共に村のガラス工芸品の市場を訪れていたハナは、アーシャと顔見知りらしい年配の露天商に紹介される。
ハナがぎこちなくも駆け出しの薬師を名乗ると、その店主はある化膿止めの薬について、ハナに相談を持ちかけてきた。
疾師ウルウァから伝授されたというその薬の作り方について、推測で助言を与えることに最初はためらいを見せたハナ。
しかし、疾師ではなく薬師であるからこそ負える役目があることに思い至り、知識と経験から妥当と思われる改善策を提案する。
ハナのその心づくしな態度と対応に、店主はいたく感激した様子を見せた。と同時に何かを思いついたらしく、ハナたち二人にあとの予定を尋ねてきたのだった――
(字数:13,418文字)
必要なものを買い揃えたあと、約束どおりガラスの市で会った露店主の家に行くと、大きな背負い籠いっぱいに積まれたヒゲイモとマダラウリとその他数種の野菜の山を、軒先でぽんと渡された。
聞けば、店主もガラス職人だが、この村の職人のほとんどは自前で畑作もやっている。また時期的にもちょうど刈り入れを終えたばかりであり、この時期の作物はどうせ余るものだから、よかったらもらってほしい、とのことだった。
話はわかるが、いくらなんでもこんなにいただけないと、ハナは丁重に辞そうとした。が、それをよそにまるで気兼ねしない様子のアーシャは、ひとこと礼を言い残すや、重たい籠も態度も軽々といった様子でさっさとその場から出ていってしまった。あまりの素早さにハナも彼女を追うことしかできず、店主には急いで頭を下げ下げ、満足な礼も言えずに立ち去ってしまったのだった。
とりあえず村を出て、はずれのあぜ道まで来てから、籠を置いて木陰に腰を下ろした。買い出した荷物もそれなりに量があったので、それらを持つ方と籠を背負う方とで交代しながらここまで来たが、二人とも籠の番になると足下がおぼつかなくなり始めていた。日も傾いて空気も冷えてきているというのに、熱を持った肌はねっとりと汗ばんで気持ちが悪い。木陰を通る風と、道の向こうに並ぶ青々とした畝の見栄えに、ハナは救われるような心地がした。
「やー、さすがにもらいすぎたねえ」
「はぇぇぇ?」
足を投げ出して座りながらあっけらかんとアーシャが言って、不意を打たれたハナはめまいがするほど脱力した。同じ愚痴を言うまいとして飲み込んできただけに、溜め込んだ疲労が割り増しで表に打ち寄せてくる。すでに腰を落としていたのは不幸中の幸いかもしれない。
ハナが呆れているのを察したのだろう。アーシャは誤魔化すようにはにかみ笑いをした。
「あはは。くれるって言うから気が変わらないうちに勢いで受け取っちゃったけど、この量はちょっと予想外だったねえ。女の子二人で運ぶっていうのに、おじさんも容赦ないなあ」
「歓迎会の話なんてするからですよ……」
さすがのハナももう黙っていられず諫め口調で指摘する。店主と一旦別れる前、村での用事は何かと訊いてきた彼に、アーシャはなぜか得意げにハナの歓迎会を開く意向を明かしたのだ。すると店主も何やら張り切った様子で食いついてきていた。思えばあの時点から多少悪い予感はしていた。
「あー、それはそうだったかも。おじさんのいる工房は、ウルの御用達だから」
「そうなんですか?」
「うん。書斎の大きな窓は見たでしょ? あと、ウルが使ってる変な実験器具とか入れ物。あの屋敷にあってガラスでできてるものは、だいたいおじさんのとこで作ってるんだよ」
言われてハナは、あの広い書斎の壁一面に開いた窓の小さな格子一つ一つにはめられた曇りのないガラスを思い出す。それから、アーシャの額から出たという小さな《大棘》を収めた半球状のケース。どれも一つ一つは目立たないが、持ち物にこだわりのありそうなウルウァに認められているだけあって、確かに申し分のない品質のようだった。
「というわけで、ウルのところにいるハナとは頻繁に顔を合わせることにもなるから、お近づきのしるしに、と思ったんだろうね。あとはお得意様へのご挨拶ってやつ?」
「そう、でしたか……」
納得を口にしつつも、ハナはまだ釈然としない。ハナのその気持ちは歯切れの悪さにも表れていて、笑顔をやめたアーシャが上顎を噛んでまた考え込むしぐさをする。
「単純に嬉しかったんだとも思うんだけどねえ。ハナに相談に乗ってもらえて」
「……でもじぶんは、あの薬について確かなことを知っていたわけではありませんし、お役に立てたかどうかはまだ何も――」
「いやいや、ハナみたいな若い美人さんが親身になって話を聞いてくれたら、誰だってね。ちょうどおかみさんも出かけてたし」
「えぇぇ、そっちですか……」
真面目な話だと思っていたのにと涙目になるハナを見ながら、アーシャはおどけたように笑って「冗談冗談。今のナシ」と片手を振る。
「だけど、ハナの親切が嬉しかったんじゃないのっていうのは、ほんと」
「……」
よっ、と勢いをつけてアーシャが立ち上がる。背負い籠のそばへ行っておもむろに中身を漁り始めると、ほどなく黄色い植物の茎のようなものを掘り出した。
「ぽっきり~ぐさ~、ぽーっきぽき」
鼻歌を歌いながらアーシャは親指ほどの太さの茎を半ばで折る。ぱしっ、と小気味よい音と共に茎は二つに割れ、長い方をアーシャはハナに差し出した。
「はい、これ。ポキリグサ。知ってる?」
「ぽ、き? えと、トウアサ、ですよね?」
「えぇ? ポキリグサじゃないの?」
受け取るハナの顔を見ながら、アーシャが鼻白んだ顔をする。ハナは四つ溝のある特徴的な茎の断面を見ながら、そこに染み出ている水の澄んだ香りを思い出す。
「茎のところを吸うと甘いですよね?」
「それそれ。あとちっちゃい子が熱出したときによく採って来いって」
「ああ、解熱作用がありますから」
「あれ、ほんとにそうだったの?」
「舐めすぎると風邪を引くとは言われませんでしたか?」
「あっ、言われた言われた。それで叱られたのに、あとでほんとに風邪ひく子がいたりして」
しみじみした様子で答えながら、アーシャは再びハナの隣に腰を下ろすと、トウアサの茎の端をぱくりと咥えた。途端に感激したように目を細めて「んんーっ!」と唸る。知っている呼び名がハナと違ったことについて拘泥する気はないらしい。
トウアサの食べ過ぎで、誰かが風邪を引いた思い出話。ハナにもある。師匠の名誉を守るためにも、それは言い出さない方がいいのだろう。でも、アーシャの思い出がいつのことか、もしも訊けたら、お返しに話してみることになるのかもしれない。
アーシャの昔のこと。鼻歌の由来。
なんとなく訊けないまま、茎の端に口をつける。
さらっとした甘味と不思議な清涼感。舌の上に溜めてこくりと飲みくだすと、胸のほてりが取れるような感じがした。
「ね。じゃあ、訊いていい?」とアーシャ。
茎をくわえたままのハナが目線で答えると、彼女は言った。
「どうして、ハナの得意な薬の話をあのおじさんにしなかったの? ウルはウルだから、ゲテモノでも効けばいいんだって言って、あんな薬ばっかり皆に教えてるけど、薬師サンには薬師サンなりの薬があるんでしょ?」
「しょれふぁ……」
それはそうなんですが、と返しかけて、少し言いよどむ。別にトウアサを口から抜くのが間に合わなかったせいではない。ちゃんとした理由はあるにはあったが、はっきりと言葉にするとあまり体裁がよくなかった。
しかしアーシャを見ていると、曖昧に濁すことの方が相手を侮ることのようにも思えてくる。
ハナはしばらく黙考したのち、冷たい茎の端から唇を離した。
「薬師の戒めの一つにあるんです。読み書きのできない相手には、複雑な薬の使い方や作り方を教えてはいけない、と」
ほう、と素直に感心した様子でアーシャは頷く。
「なるほど。覚え間違うとさっきみたいになっちゃうもんね」
「ええ。それもそうですが、一番心配なのは、覚え間違いが覚え間違いのまま広まってしまうことなんです」
先達いわく、字を知らぬ患者に、口頭で複雑な指示を与えてはならない――少なくとも《洞》出身の薬師であれば、誰しもが心に留めているはずの戒めだ。
人は、覚えたことを溜めておく場所が自分の記憶だけでは頼りないことを知っている。だからこそ、絵や文字といった〝記録〟に頼る。だが字を知らない者たちは、自身以外の人間の記憶を頼るのだ。
彼らは自分の記憶を口外し、共通認識というかたちに変えることで記憶を保持する。そのとき頼られる者たちというのは、当然彼らと近しい者らであり、識字に関しては同じ水準の者らである場合がほとんどになる。そして彼らもまた、己の記憶を維持するために同類の者たちを頼る。そうして伝播していく〝記憶〟について、得たときから変わらないものかを確かめられる者は永久に現れないことになってしまう。
薬と毒とは、本来紙一重のもの。元来分け隔てるべきではないもの同士。
どのような薬も、使いすぎれば、濃すぎれば、使いどころや使う相手を誤れば、毒となり、人を害し得る。正しく作り、正しく使わなければ、薬は毒に、毒は薬にもなり、あるいは毒にも薬にもなり得ない。木の葉のように繊細で敏感なその表と裏の判別を、心得のない人々の記憶に任せて託すようなことはすべきでない。――それはハナの師匠が厳しかった数少ない点の一つだった。
「ミミキリムシの化膿止めは、妊婦禁忌に誤飲注意と確かに危なっかしい薬ではありますが、作り方が比較的簡単というか、手軽で単純なんです。覚えておくべきことは、じぶんの見立てでも煮出すときの温度くらいでしたし――それすらも結局忘れられてしまっていたので、やはり油断ならないとはいえ、間違えるとすれば沸騰させてしまうことくらいですから、その場合は毒として作用してしまう危険性もなくなります。じぶんの知っている薬師の薬は、比較的安全ではあっても、薬師でない方々にとっては、作り方の複雑で面倒なものがほとんどです。応急処置程度に使うものはそうでもありませんが、疾師様の化膿止めほど覚えやすいものはありませんから」
「へぇー。じゃあウルは、効けば何でもいいじゃなくて、みんなが覚えやすいからあの薬を教えてたっていうのもあるんだね」
「ええ。疾師様なりのお心遣いかと」
「まあ覚えやすいものは教えやすいもんね。同じこと訊くとへそ曲げちゃうのもウルだし」
「それもそうでしたね」
アーシャのウルウァに対する気安さがおかしくてハナも少し笑う。ともすればウルウァをこき下ろすアーシャの態度にはいつも悪意が感じらない。それはあの店主や他の村の住人もそうなのだろう。ウルウァはあくまで疾師として疾師のまま彼らに接して、そして受け入れられている。その有様の向こうに、ハナは自分の目的地も見えるような気がしていた。
「駆け出しとはいえ、じぶんは薬師ですから。薬についてただ教えるのではなく、必要とする人には自分の手で処方したいと思っています。それでは届かないこと、間に合わないことも多いものですが、薬師であることをやめたくはないので」
薬師は病に寄り添う者。己の目で患者を診極め、己の手に治療を預かる。
だからみだりに知の独り歩きを望みはしない。知そのものは決して薬師にはなり得ないのだから。
「――じゃあハナは、もう充分立派な薬師サマだね」
蜜の出なくなったトウアサの茎をかじりながら、アーシャが言った。彼女は心から頼もしそうにハナを見て、穏やかな笑みを浮かべていた。ハナは少し胸の奥が跳ねたような心地がして、思わず目を逸らし、遠くを眺めてしまう。
「そ、それはそんなにでも……! 偉そうなことは、すべて師匠の受け売りですし、じぶんは所詮独り立ちしたばかりの若輩ですので!」
傾いた日差しはいつしか赤みがかり始めている。視界の外でふふっと笑う声が聞こえて、ようやく冷めかけたハナの首周りが再びかーっと熱くなる。何を取り乱してまで取り繕おうとしているのかと、自問自答に似た後悔も押し寄せる。
「ね、薬師サン。じゃあさ」
ハナの内心の悶絶を知ってか知らずか、気兼ねする様子もなくアーシャはそうささやきかけてきた。心なしか低く変わったような声音に、やにわに傍らで水音を聞いたときのように、咄嗟に凪いだ心地でハナは耳を傾けた。
「あなたは、いつまでここにいるつもりなの?」
「……へ?」
跳ね水が、ひやりと。
浮き島のようにただ揺れる。波紋の弧が行き過ぎるまで。
揺蕩うのをやめ、振り向くと、閉じた唇の合間に弓の弧を描く、澄み切った笑みがそこにある。長く伸びた木陰の暗がりの下で、細まった目の奥は覗けない。そうして何も言わず、ずっとその場所からハナを見ているようだった。
「……」
「……ぁ。え、と……」
「……」
「それは、どういう……?」
「んー? 言葉通りの意味だけど」
沈黙から一転、朗々と返され、ハナはいっそう動転した。
なし崩しで居候していることに、追い目がなかったと言えばうそになる。実際は半ば強制的に連れてこられた身であり、連れてきた張本人がそのことを公言しているかどうかはともかく、一応来賓のようなものとして認識されている自信はあったし、その立場に甘んじすぎないよう家事の手伝いなども買って出ていた。
しかしながら、家主のウルウァやアーシャから「いつまでも居ていい」と一度でもはっきり言われたわけではない。そもそもハナ自身がこの地での足踏みを自分に赦すつもりがないにもかかわらず、ではいつ出ていくのかといえば曖昧に濁したまま、なんとなく放置して――もとい、そのことを面と向かって糾弾されはしないだろうという、特に根拠のない思い込みの上にのうのうと居座ってきたのではないか――そう問われても否定できない状況にあった。
「あ、あの……すみま、せん……」
「……」
「あ、あぁあ、えぇっと……」
無言のまま顔色を変えないアーシャは、別に謝ってもらう必要はないと言葉を使わずに語っているようだった。わたしは答えが知りたいだけだと。
「あの……本当に、すみません。実のところ、まだ何も決められていなくて……は、はっきりさせておかないと、やはり、ご迷惑ですよね……?」
「迷惑?」
ここにきてアーシャが少し意外そうな顔で首を傾げる。ハナにはそんな変化を気にする余裕などすでになかったが、アーシャはその顔でしばらく考える素振りを見せたあと、またさっぱりとした笑顔で、
「んーまあ、食費もかかるしねえ」
「うぅ、うぅゎあぅぅぁ……」
とてつもなく至近距離から鋼弦弩の鉄矢を胸に射ち込まれる白昼夢でも見たように、ハナは頭を抱えてうめき声しか出せなくなる。育ち盛りとはいえ、ハナには自分が絶対に少食の部類には入れない自覚があった。おまけに旅のみそらが長かったせいか、『食べられるときは食べておく』が習慣として身に沁みついてしまっている。ハナちゃんは旅をやめたらまんまるになるわね~、とは師匠の定番の冷やかしだ。毎度食事を用意してくれているアーシャはといえば、作り甲斐があると言って素直に喜んでいるように見えていたのだが。
「あ、あ、あ、あの、あのっ、お世話になった分は、必ずお返しをっ……」
「うん。心配してないよ? 手に職持ってる薬師サマだし」
「ふぁへ?」
蒼白になっていたところへあっさりと許され、ハナはとにかく呆然とするほかになくなる。アーシャは誤魔化すように悪戯っぽく舌を出したが、少し気恥ずかしそうに笑って、自嘲するように肩をすくめた。
「でもまあ、はっきりしてた方がやりやすいかな。実はもう明日には出ていくつもりでしたーとかだったのに、歓迎会やるぞーなんて張り切ってたら恥ずかしいじゃない?」
「あ……あぁ。あーなるほどぉ……」
なるほどぉ、と言いながら、心の中でもなるほどぉと復唱して、ハナはそこで固まってしまった。ひとまずは安堵すればいいのだろうか。よくわからなくてまだ混乱している。
「ハナにはさ、どこか行くところがあるような気がするんだよ」とアーシャ。
「薬師っていうのがどんなものなのか、わたしはきっと本当のことは何もわかってないんだろうけど、いつまでもここにいないことだけは、知ってるんだよね」
「なる……」
相づちをうち切れず、口をつぐむ。
発火したように熱かったハナの頭は、また急速に冷えだしていた。
歓迎会――ハナから催促したわけではない。だが、思えば元来そういうものだろう。
やろうと決めたアーシャの意向。それを聞いてたくさん野菜をくれた露店の店主。ただ遠慮し恐縮するばかりだったハナは、誰かの気持ちにまで気を回せてはいなかった。
「まあ、ハナがまだ何も決めてなかったんなら、わたしの取り越し苦労だよねえ。最悪急にハナの気が変わったとしても、そのときはそのときで『いってらっしゃい会』にすればいいだけだし」
アーシャの心。ハナ自身の気持ち。いつまでもここにいない自分は、いつどうしてどこへ行くのか。ハナのしたいこと。ただ薬師であり続けることの先に、何かが……。
「……アーシャさんは、この先、どうしたいですか?」
苔色の両目が皿のように見開かれる。初めて会ってからこれまでで、一番大きな開き方だったかもしれない。
けれどもすぐに、すっと蕩けるように細まって、少し頬を赤くして「そうきたか~」と、どこかはにかむように口元を緩ませる。
ほとんど無意識に問いかけてしまったハナは、自身の大胆さに胸の高鳴りを覚えながらも、取り乱さないよう慎重に言葉を選んで、あとを続けてみせた。
「アーシャさんは、病気を治すために疾師様のところにいたんですよね? アムリタのおかげで《穢れた水》は完全に取り除かれ、再発の心配もないなら、もうどこへだって行けるはずです。この村に居続ける道も、あるのかもしれませんが……」
「……うん」ハナがまだ思案するように一旦口を閉ざしたのを見て取って、アーシャは穏やかに頷いてみせた。「続けて」
「――じぶんはアーシャさんが、この村に来るまでどこで何をしていたのか知りません。アーシャさんから教える筋合いはありませんし、じぶんも聞く必要はないと思っています。大事なのは、これから先をどうしたいか。……戻る場所も、あるのかもしれない。けれど、もしどこかへ行くあてがないのなら、いっしょに、じぶんといっしょに行きませんか? じぶんもまだ、行き先を探している最中で、強気なことは言えませんが、アーシャさんのような方といっしょなら、見つけられる気が、して……」
言い切るより一瞬早く気おくれが追いついてきて、ハナは結局口ごもったが、その先は特になかった。自分でもやけに大胆で無謀な告白をしたものだとすでに落胆し始めている。ただどこか晴れやかでむず痒いような気持ちといっしょで、不思議な感覚が胸の奥に渦巻いていた。
黄色い斜陽が緑の畝に黄金色の輝きをつぎ足し始めている。吹き抜けていく風に光の粉が散る。空は彼方まで青く濃い。魚の跳ねた水音が遠くの沢から耳に届く。
ハナは待った。アーシャは風に耳を澄ましているかのようにやさしく目を閉じ、おとがいを反らしている。木漏れ日は凪いでいた。
「わたしはさ……オルクになりたかったんだよね」
目を開けたアーシャの横顔を、ハナは固唾を飲んで見続けていた。
オルク。伝説の中の巨人族。ヒトをも喰らう残忍な怪物。普通なら戯言ではないかと訝っていい告白。だが彼女の口からその名が出たのなら、事情は異なる。
「……アーシャさんが、ですか?」
ようやくそう問い返したハナは、よほど神妙な顔をして、声にも表れていただろうか。アーシャは冗談めかすようににっと笑うと、「子供の頃にね?」と言い添えた。
「でも、いつかなろう……なれるって、本気で信じてたんだよね。すぐ近くにお手本もあったし」
「お手本って……」
「あの子じゃないんだ」
ハナは息を呑む。
初めて見たからだ。
いつまでも抜けていく真昼の空と穏やかな草原のように輝きに満ちていた彼女の笑顔に、確かな影が差し込むのを。
「ハナは知ってるかな? オルクのこと」
「お伽、噺の……」
「そうだね。大きくて、とても強くて、醜くて恐ろしいと語られるもの。黒くて緑がかった硬い肌に、毛のない頭と潰れた鼻。大きな顎に大きな牙……」
「……」
遠くを見つめるアーシャの目の奥には、口に出して語るとおりのその姿がありありと浮かんでいるようだった。自分の弟とすら異なる本物のオルクの姿を、まるで見てきたかのように。
「あの子は半分だけだから。肌の色もわたしたちに近くて、無口だけど、普通におしゃべりもできる。体もあの人ほどは大きくならないんじゃないかな。顔はよく似てるけどね」
「あの人?」
「わたしたちのお母さん」
「……!」
薄々はハナも気づいていた。
あの士人は混血のオルク。とりわけあの容姿からして、オルクの血は薄くない。もしかしたら、半分。そう、半分。
ただその血の由来を語るアーシャの口から出た言葉は、ハナの想像を大きく超えていた。
アーシャがそのことを「わたしたちの」と言い表した事実。この姉弟は――
「そう。わたしたちはオルクの開く孤児院で育った。あの人は、密かに生き残っていた純血のオルク族、最後の一人だった女性。でも孤児院の子どもたちにとっては、たった一人のお母さん。強く気高くて、そして誰よりも優しい、わたしの憧れのヒト」
オルクの孤児院。そしてオルクの養母。
容易には相容れないはずの言葉たち。それこそまるでお伽噺のように結び付いている。
だがきっと本当のことだ。
ハナは母親というものを知らない。その慈愛の大きさを確かめる機会すら、これまで一度も手にしてこなかった。
ただ、憧れという言葉の重みならよく知っている。アーシャがそれを口にしたときの目、顔つき、声。鏡に映る自分がそこにいるような気がした。
「今のわたしの夢はね、この村に学校を作ることなんだ」
再びぱっと華やいだ顔を見せて、アーシャが言った。
「子どもたちにね、まずは文字を教えて、言葉や数字の使い方を教えて、それからみんなで力を合わせてできることをたくさんやってみようって。そうやってこの村を豊かにするために何かできる、賢い子たちを育ててみたいんだよね。楽しそうでしょ?」
無邪気そうな笑顔を見せたあと、アーシャはおもむろに立ち上がって伸びをした。斜めうしろに座っているハナには顔を見せないまま、
「――でも、何よりね、人を好きになって、守ろうとすることの意味を知ってほしい」
そう言って振り向いたアーシャの表情に、どこか得意げにおどけるような色彩はあっても、もはや陰りは見当たらなかった。
「だから、今旅に出るっていうのはパスかなー」
「あ……」
言われてハナは、ようやく自分がアーシャを旅に誘ったことを思い出した。同時に落胆する気持ちが襲ってきたが、不思議と嫌な気分ではなかった。それどころか――
「すっごくもったいない気はするんだけどね。先生なんて言っても、読み書きぐらいだから、もっといろんなことを見て知って、自分で勉強してからの方がいい先生になれるだろうし」
「アーシャさん……」
「ハナの言うとおり、それが目的でここに来たわけでもないんだ。でもさ、きっかけって無駄にしたくないじゃない?」
「アーシャさん……じぶんは……!」
「嬉しかったよ? いっしょに行きたいって言ってくれたこと」
「……っ!」
畏れ多いな、とハナは思った。
確かな思惑があったわけではない。行き先もわからない。むしろそれを教えてくれる便利なもののように扱っていはしなかっただろうか。方角を知れる石のように。
何より独りで行くことが怖かった。ただ不安を紛らわせるためだけに、無責任にアーシャを連れ出そうとしていた。アーシャにはアーシャなりの目的地があることを見極めようともせずに。
「大丈夫だよ」
ハナの気後れした様子を見て何かを察したか、アーシャは言った。「大丈夫」ともう一度。
「ハナは、人を好きになれる人だよ。初めて『おはよう』って言ったときから、ずっとそう思ってた。わたしなんかといっしょにいなくたって、行きたい場所をきっと見つけられる」
「アーシャさん……」
不思議な人……初めて挨拶を交わしたとき、ハナはハナでアーシャのことをそう感じた。
今までに会ったことのある人たちとは何かが違う。見かけの大きく異なる士人ですら、内面は他の人たちとさほど変わりないように思えてきたというのに、その姉のアーシャは、関われば関わるほどに遠くなっていく。
なのに彼女の言葉はいつも、耳元よりも近くからすんなり胸に滑り込んできた。
あなたは人を好きになれる――そんなことを誰かに言われたのも初めてのことだ。
信じてもいいのだろう。彼女の言葉だから。目的地が見つかりそうな予感も、あながち気のせいなどではなかった。なぜだかそう信じていいとも思えるのだった。
「代わりに、って言うと変だろうけど、あの子を連れてってあげられないかな?」
「あの子……って――」
ただし屈託のないアーシャの発言は、予想外のことも多い。
「えっ……ミスターを、ですか!?」
「そ。そのミスターくんをね」
はっとしてうろたえるハナを見返して、アーシャはおかしそうに噴き出す。
また冗談だろうか。いつものアーシャなら自分から取り消してくる。ハナにはそれまで判断がつかないが、さすがに本気と見るには現実味がなさすぎる。冗談だったとしてもその意図は? 逆に、本気だったとしたら?
「し……しかし、稼ぎ頭でしょう? 彼にいなくなられては困るのでは」
「うーん。困らないって言ったら、さすがに強がりかもね」
「なら、どうして……」
「ただね、いないと困るっていうのはさ、誰よりもあの子がそう思われたがってるんだよね」
ハナはそれを聞いて、言いかけていた言葉を飲み込んだ。
身内についてこんなふうに語るのが冗談であるはずがない。
何より、痛いほど心当たりがあった。いなくては困る――そう誰かに思われたい気持ちについて。
放浪の薬師という存在。それは本来なら必要とされないことの方が幸福を示している。
病のあるところに現れる薬師たちは、病のない場所では不吉の前兆にさえなりうる。だから、自分のいる場所にいるための資格を常にどこかで欲してしまう。
いなくては困ると思われたいうちはまだいい。だが、思わせたいと願ったら?
自分たちはそれができてしまう。わざと効き目の薄い薬を配るか、治療するふりをしながら別の病を流行らせるか。
だからこそ、より強く信じるべきだと、師匠は言っていた。
ただそこにいるだけで、そこにいる資格がなくなるなんてことはないと。どこにいようと薬師であることに胸を張り、堂々としていればいいのだと。
それと似たようなことを、アーシャは彼女の弟に対して教えたいのだろうか。
しかし――
「……しかし、なら、なおさら近くにいさせてあげるべきでは」
しかし、少なくとも彼の望む『いたい場所』とは、アーシャのそばではないのか――その確信もハナにはあった。
アムリタを巡り、幾度となく手段を選ばなかった彼の姿。それはあの体躯と不釣り合いな幼さゆえであったかもしれない。だが同時に、自身の人間性をもなげうつ献身にも他ならなかったのではないか。
この数日、彼は姿を見せない。それもハナが意識した資格のことと繋がっているのかもしれない。ならばなおのことアーシャが彼を放逐してしまっては、彼が失格者であることを肯定してしまうのではないか。
そこまでハナの言外の意図が伝わったかは定かではなかったが、しかしアーシャは頑なな様子で首を振った。
「いつか帰ってきたい場所にならね、なってあげられる。けどあの子には、もっとずっと広い世界も見てきてほしいんだよ。いたい場所にいていいんだってことと同じくらい、行きたい場所へどこへでも行けることを知ってほしい。あんなに立派な体をお母さんからもらったんだから」
あなたの患者――師匠はアムリタを受け取らせたハナに向かって、その先に待ち受けている者のことをそう呼んだ。きっとこの先に出会う患者のほとんどがそうなるのだろう。
ハナはそれを望んでいなかった。ずっと師匠の患者を、師匠と二人で診ていられれば、それでいいと思っていた。
だから、自分の背中を押した師匠の気持ちが、今も十分に理解できているわけではない。アーシャの気持ちも。
けれど、離れることでしか伝えられないこともあるのだろう――少なくともハナはアーシャと出会えたことに喜びと幸運の存在を感じている。同じ気持ちを彼も持つことがあれば、それはきっととてもまばゆい出来事に違いなかった。
「もちろん、まずはハナが困らなければだよ?」と、腕組みをしてアーシャは言う。
「ハナがあの子を誘いたくなったらでいいんだよ。押しつけるつもりはないし、聞かなかったことにしていいんだからさ。わたしはハナがあの子を怖がってないみたいだから、ひょっとしたらって思っただけだもの。あの子は、どれだけお願いしても、わたしに何も教えてくれないから」
「え……」
(それって……)
ハナが覗き込んだとき、アーシャはすでに鼻先をよそへ向けていた。
風に踊る枯野色の髪に阻まれ、彼女がどんな顔をしていたのかはわからない。
それでもその横顔に、ハナは問わずにいられないような気がしたのだった。
あなたは信じているのですか。それとも、彼の姉であることを、心に誓っているのですか――と。
後者だとしたら――ハナは、なすべきことを託されているような気がした。
「姉さん!」
落雷のように野太い声が飛んできて、ハナはびくりと居竦みながら振り向いた。
アーシャがすでに見ていたあぜ道の先、暗い山道との境目に、誰かがいる。人には違いないが、並んでいる木との対比からはあり得ないほどの巨躯に見える。だがそれ以上に、今の声をこの顔も見違えそうな距離から発したのかとハナはしみじみ感服してしまった。
「ね。ハナ」
ずんずん速足と凄まじい歩幅とで距離を詰めてくる士人を眺めながら、アーシャが囁くように言った。
「もしもあの子のことでわたしに伝えたいことがあるなら、あの子のいる前で聞かせてね」
ハナも士人の方を見ていたが、それを聞いて振り向かずにはいられなかった。
だが彼女の顔を見る前に、ハナの顔の倍もありそうな手のひらが視界を遮った。
丸太のような腕を辿り、その巨躯を見上げる。旅装と違って腰から上は襟のない上衣しか着ていないため、上気した筋肉の盛り上がりが目に見える。嘴型の面鎧をつけているのはあいかわらずで、その下からしきりにくぐもった鼻息が聞こえている。乱れた総髪。山を一気に駆け下りてきたのだろうか。だがそれしきで彼が息を上げるはずもなく、荒い呼吸は小さな琥珀色の目と同じくらいにいきり立った怒気を孕んでいるようだった。
「薬師っ……!」
低く獣が唸るように彼が呼ぶ。
大きな影に見降ろされ、ハナはまた襟元がじとりと汗ばむのを感じていた。だがその声を聞いたとき、不思議と怯むよりも安堵を覚えた。自分に対して怒っているのは確からしいと把握しながらも、その数秒、落ち着いて彼を見つめ返す。
彼が本気で思っているのかどうかが不思議だった。資格がないと。いたい場所に、アーシャのそばにいることに。きっと彼女が屋敷にいないことを知り、こうして血相を変えて迎えに来たのだろうに。
「こら!」
座り込んだまま見上げているハナと、そびえ立つようにして見おろしている士人の間に、アーシャの身体が割り込んだ。
彼女は腕組みをして自身の弟と向かい合う。その小柄な肩越しに、ハナからは困惑して見開かれる琥珀色の目と眉間のしわの減る様子が窺えた。いつもの憮然とした態度からは想像もつかない士人の反応に、ハナはついしげしげと見入ってしまう。
「どうしてハナ睨んでるの、りっくん?」
「……」
問いただされて彼の目がさらに揺れる。どうしても何も、病み上がりの姉が屋敷を離れるのを食い止めないどころかいっしょになって街へ繰り出す駄目薬師をどうしてくれようかと息巻いていた、といったところだろう。ただそれを彼自身の口から聞かない限り認める気はないらしく、アーシャは憤然とした様子で下顎を前に突き出していた。
(それ、怒ったときもするんだ……)
ハナがいまいち緊張感を感じられないままそんなことを思っているうち、不意に士人が視線を逸らした。そのままのっそりときびすを返すように動いたかと思えば、あぜ道に放置してあった青果満載の背負い籠の方に近づいて、片腕でひょいと持ち上げる。そうしてつい今しがた来たばかりの道をのこのこと戻り始めた。
「あっ、こら! 待ちなさい!」
(既視感……)
無言で帰途につこうとする士人と、慌てて追いすがるアーシャ。
ハナは二人を見送りながら、以前に《濁》らの夜襲から士人に救われたときのことを思い出していた。
その前日に《大棘》を見せたことで、すでに師匠から敵意を買っていた彼は、ハナたちの窮地を救うことでアムリタ精製の助力を乞う資格を得ようとした。
結局その魂胆を師匠に見抜かれて追い払われる羽目になりはしたが、あれは彼なりの誠意の見せ方でもあったのではないだろうか。
不器用で口下手、そのくせ大胆で強行的。
幼いと言って咎めるのが当然なのだろうか。体は規格外に大きくても、中身は十二歳の少年だ。だからといって、呆れてしまわないわけではない。けれど、思い返すたび、ハナは何か微笑ましくも感じてしまっている自分に気づいていた。
(じぶんがアーシャさんに話そう。《大棘》のこと。刺獣のこと。《洞》のこと。それから師匠の話も)
彼を急かす必要はない。言葉ぐらい今は引き受けよう。甘いだろうか。けれど、いずれ彼そのものを引き受けるのなら――。
ハナが自分の気持ちを確かめるようにそろそろと立ち上がるうちに、アーシャたちはなぜか先を争うようにあぜ道を駆けあがっていた。気がつくと思い切り置いてけぼりを食ってしまっている。足元に置いていた残りの買い出し荷物は、当たり前のようにアーシャが取っていっていた。
「……手ぶらだ」
来賓には甘んじるまいと散々意気込んできた挙句にこの始末。もうしばらくここに座り込んでいたいような気持ちになる一方、今からでも走っていって誠意を示すべきではないかと頭を抱えながら、さしあたり他人事のようにぼやいていた。
明後日(月曜)の夜、次話更新予定【済】。