第二章・第四節 文字と生薬
【前回のあらすじ】
ハナはアーシャに連れられて、屋敷のある山のふもとの村まで来ていた。
ガラス工芸が盛んなこの地で、アーシャと士人の姉弟は逆に稀少価値のある木器職人として身を立てている、と教えられる。
話の流れで、士人からもらった木器のお玉杓子を前の街に置いてきてしまったことを思い出したハナは、そのことをアーシャの前で悔やみ、謝罪する。
するとアーシャは気を悪くするどころか、弟の作品を気に入る人間がいたことを素直に素直に喜び、ハナに親愛の情を示してみせた。
その屈託のない好意を受け、師匠から離れて以来、未だ姉弟への気の持ちようを決めかねていたハナは、ようやく一つの安寧を見出せた気がしたのだった――
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羽ばたく鳥の形をしたその青いガラスは、針のように細く長いくちばしの先端だけを、花のオブジェの平たいめしべに載せて、絶妙に平衡を保っていた。くちばしの先とめしべは癒着しておらず、風が吹くと浮かんでいる鳥は頼りなくゆらゆらと揺れる。どうして鳥が落ちないのか、摩訶不思議だ。
(疾師様って……)
ガラスの市場は小規模ながら、ハナの目を奪い続けるには充分すぎるものだった。村の工房は受注生産が主で、こうして市に出しているのは職人同士が腕を競い合い、その成果を披露することが目的なのだという。競われるのは質ばかりでなく量もらしく、中には可愛らしい日用品なども並んでいたが、気合いの入ったものは技巧的にも題材の面でも素人目にはわけがわからず、ひたすら唖然とさせられるものばかりだ。
板の上のその絢爛な世界からふと顔を背け、露店の店主と談笑しているアーシャを見やる。話題は主にウルウァとアーシャ自身のこと。いつも用事で村へ来るのは「でっかい無口なあんちゃん」の方らしく、「住み込み女中ちゃん」のアーシャが下りてきたことで珍しがられているようだった。アーシャも愛想よく話を弾ませるので、店主は上機嫌で冗談まで言ったりしている。時折訪れる店主の顔見知りらしい客ともアーシャは親しげに言葉を交わしていた。その光景を眺めていると、いくらか克服したとはいえ自分はおそらく永久に人見知りなのだなと痛感させられる。
ただハナはそんなことよりも、ウルウァのことに気を取られていた。
端的に言って、有名人だ。
おそらくこの村の中だけではあるのだろう。しかしながらこの村の住人には、彼女が疾師であることまで含めて広く認知されているようだった。しかも彼女の存在を、揃って好意的に捉えている。彼女の居住に住み込んでいるアーシャに対し、誰も忌避したり遠慮したりしないのがその証拠だった。
疾師とは、人に病をもたらす者。
あらゆる病を知り、手懐け、気に入らぬ者や無作法者、あるいは罪なき者にもいたずらに差し向け、苦しめる存在だと聞かされていた。時には莫大な見返りと引き換えに、依頼を受けて指示された相手に望みの病を送ることもあるという。
畏怖される存在。ゆえに忌まれ、疎まれる。俗世を離れ、隠遁して生きていくよりほかにない。何よりそれを好む者でもある――そんなふうな思い込みがハナの中にあった。
だが実際はどうか。
今アーシャを囲んでいる者たちがしているのは、ウルウァのおかげで「助かった」という話だ。井戸水を飲んで体中に発疹が出たとき、朝起きて急に目が痛くなったとき、顔に小さな火傷を負った者が急に高熱を出して倒れたとき、ウルウァに助けを求めれば、治療法や解決策が即座に出てきたという。
すべての病を知るということは、病に付随するものとして治療法も知っているということ。疾師としての信条からか、やはり「治療」において直接手を施すことはしないようだったが、その知識を披露し、分け与えることに、ウルウァはこだわりを持っていなかった。
彼女自身はあくまで、うるさく付き纏われるのを嫌っているだけなのかもしれない。それでいて人里から遠ざからないのは、いつまでも書き終わらない診療録のための紙が手に入りやすいという、それだけの理由なのかもしれない。
だとしても、まともな医療者のいないこの辺境の小さな村で、彼女は確かな役割を担っていた。
(役割……か)
自分の中に浮かんだ言葉を拾いながら、ハナは改めてアーシャを見やる。
するとアーシャが視線に気づき、ふっと微笑んで腰のあたりで小さく手を振ってきた。もうちょっと待っててね――そう言っているように見え、ハナも了承を示すため胸のあたりにそっと手をあげる。そうしながら、さっき拾った言葉とアーシャを重ねて思う。
(彼女は、どうなのだろう……どうして疾師様のところに?)
元々この村の人間ではない。アーシャ自身からはっきりと聞いたわけではないが、村人との距離感からもなんとなくそれは読み取れた。姉弟二人で外からやって来て、しかし村には居つかず、ウルウァを頼った。何のために?
ハナの知っていることだけから考えるなら、《穢れた水》に侵された体を癒すため。だが村人たちの様子は、今のように元気な彼女を以前から知っているようだったし、少なくともごく最近現れた者を相手にしているような雰囲気ではない。
果たしてどのくらい以前からアーシャたちはウルウァのもとにいるのだろうか。どういう経緯で辿り着いたのだろうか。
聞いてみたい――ずっと気になってはいたが、今になってよりいっそう強くそう思えた。
「なあ、そういやあ、一緒に来たそっちのネエさんは、どこのどなたなんだい? そろそろ紹介しておくれよ?」
年配の店主がアーシャの身振りに気づいたのか、ハナの方を振り返って笑いかけてくる。ガラスたちの前で縮こまるようにしてしゃがんでいたハナは虚を突かれて戸惑い、「じ、じぶん、ですか?」と間抜けなことを問い返してしまう。店主は気を悪くした様子もなく、「そう、あんただよ」とにこやかに答える。
「見ない顔だろう? 疾師様のとこのお客さんかね? それかもしかして、アーシャちゃんの後輩とか」
「いえ、じぶんは……」
自分は――何と答えるか、ハナはなぜか無性に躊躇した。ウルウァ邸での立ち位置が未だ自分でもよく分かっていないせいもあったが、それ以上に答えを食い止めている何かが自分の中にあった。
「ハナはねえ、旅の薬師サンなんだよ」
まごつくハナに代わって、アーシャが端的に答える。「へぇっ、薬師さん!」と店主は素直に驚いた顔をする。
ハナは思いがけず、つかえが取れたように胸をなで下ろしていた。薬師。そう呼ばれたことで胸の奥が素直に温かくなるのを感じる。
腰をあげつつ、服の裾を払って気持ちを落ち着けてみた。まだ物腰には少しばかりぎこちなさを残しつつも、診療のとき患者にそうするように微笑むことができた。
「どうも。ハナ・ヴァレンテと言います。薬師と言っても、まだ駆け出しですが」
「いやあ、若えのに奇特なもんだ。薬師であの疾師様とお近づきだなんて」
「あの疾師様?」
「ああ、なんたって疾師様は昔からカチコチの薬師嫌いで――」
「おじさん、さっきから顔真っ赤だねえ」
急にアーシャが唇を尖らせて横槍を入れてきた。店主はそれまでほんのり程度に上気させていた頬を本当に赤々と染めてうろたえる。
「ちょ、ちょいとっ、そん、そんなわけ……!」
「だめだよー、おじさん。いくらハナが美人さんだからって、自分の娘くらいの女の子にちょっかい出しちゃあ」
「だだだから違うって! だからーあの……あれだ! 薬師さんだってんなら、薬のことで訊きてえのがあるんだよっ」
「薬のこと?」
「ちょいと待っててくれ。今うしろにあるんだ」
店主はそう言い残すと、急いで露店の裏へ回っていく。さして間を空けずに帰ってくると、蓋のついた木の小箱を手のひらに乗せて持ってきた。
「あ、うちの」とアーシャが木箱に目を留めて声を弾ませる。「毎度ありがとうございます」
店主はこころなし強張った表情で箱のふたを開けた。途端に、生臭いような酸っぱいような、何とも言えないにおいが漂い始める。
箱の中にはちょうど納まる大きさのガラス壺。布を咬ませて同じくガラスの蓋を閉めてあり、中身は透明な黄褐色の液体で満たされていた。店主が壺を持ち上げてみせると、底に大きなハサミを持つ甲虫らしきものが沈んでいるのが見えた。
「おじさん……これ、おかみさんに見せられるやつ?」
直前まで少し面白そうにしていたアーシャも、険しい顔つきになって店主に詰め寄る。店主もまたうろたえて首を振っていた。
「いやいや、そのカミさんに持たされたんだって。火傷の化膿や痛みにいい薬だってことで疾師様に教えてもらったそうなんだが、どうも効き目がいまいちらしくてさ。おまけにこのにおいだろ? 仕事柄火傷が多いのは俺もだから、試しに使ってみてくれって押しつけられてなあ」
「実験台にされてるんだね」
「しかしなあ、疾師様が嘘を教えるはずはないし、作り方は煮出すだけだっていうし。ただそのカミさんもどうも又聞きみてえだから、何かしくじってるとは思うんだが」
「これ、ミミキリムシですよね? 刺されても痛くないのにすごく腫れる、あの」
すでに訊かれている気がして、ハナはおっとりと答えた。ぱっと顔をあげた店主が、目を輝かせて食いついてくる。
「そう! そうなんだよ。この辺じゃ珍しい虫じゃないんだが、いややっぱ薬師様だ! で、この薬はこれでいいのかい?」
「えと……すいません、生毒の活用は、少し畑違いで……」
そう答えながら、《洞》では《濁》の衆がその方面に特化していたことを思い出す。毒を操るといっても、毒を理解し、適切に扱えば、毒性を薬効に変えることもできるのだと、彼らについて語るときに師匠が言っていた。あれは今にして思えば、彼らもまた人を救う力を持つ薬師には違いないという意図だったのだろう。当の《濁》の衆が《陰清》を売りものにしていることを知りながら、どんな気持ちで師匠はハナに語り聞かせていたのか。残念がる目の前の店主を眺めながら、ハナは引けかけた自分の腰を今一度押し戻すために密かにいきんだ。
「ん……ただ、そうですね。飲んではいませんよね?」
「いいや? 刷毛かなんかで塗って使えって言われてるんだが……飲むもんなのかい?」
「いえ。一応強心剤として使う手もあると聞いたことはありますが、この手のものは量を間違うとかえって危険なので……しかし、抗炎症目的で患部に塗布して効かない、ということは……煮出すときは、お湯を沸騰させているんでしょうか?」
「うん、まあ、何も考えずに煮出してるだけって言ってたし、思いっきり炊いてはいるんじゃねえかなあ」
「……もしかしたら、それかもしれませんね。痛みと化膿に効くのは、麻痺性を持つミミキリムシの毒が傷口を狙う悪い菌を殺しているためだと思いますが、この毒素が、高温の条件下で無毒化される性質なのかもしれません。生薬でもそうですが、熱や乾燥に弱いために煎じ方や干し方に気を使うものはありますから。おそらく適切な煮方があると思うのですが、又聞き、でしたっけ? できればやはり疾師様に教え直していただくのが無難かと……」
「あー、そりゃあ、そうだよなあ……」
「?」
急に店主の歯切れが悪くなる。ウルウァに教えを乞いに行くのはこの村ではよくあることではなかったのだろうか、とハナが首を傾げていると、隣にいたアーシャが肩をすくめて答えた。
「ウルってさ、一度教えたことを訊きに来られると怒るんだよね」
「お、こ、る……?」
身もふたもないことを聞いた気がしてハナは一瞬気が遠くなる。患者には懇切丁寧に。薬の飲み方や煎じ方について指示するときは患者が理解するまで何度でも根気強く。そう常に自戒する薬師の身からは思いも寄らない。
「いやー、疾師様からはたびたび『覚え書きを取らんねやぁ?』と脅されるんだが、村には読み書きができるやつがほとんどいなくてなあ」
気恥ずかしそうに苦笑しながら店主が言う。「あーそれは……」とハナも曖昧な相槌を打ちながら、そういう問題ではない、と言いたかったのをぐっとこらえた。
おそらくウルウァは、本当に他人から訊かれることにただ答えるだけなのだ。その者が彼女の知を称え、比類なしとして頼ってきたとしても、決して救うつもりで応じたりはしない。あくまで疾師であって、薬師ではないのだから――とハナも理解はできるものの、やはり抑えようもなく呆れてしまう。ウルウァの信条は秩序立っているようである意味奔放だ。
とはいえ唖然としていても始まらない。それこそハナはハナであり、薬師であって疾師ではない。最初からその手で誰かを救うために己が心身を砕く者。だから店主もハナが薬師と聞いた途端、顔を輝かせて効かない薬の相談などしてきたのだ。ハナはウルウァについてとやかく考えるのをやめるため、軽く咳をした。
「わかりました。疾師様には、じぶんが訊けるときに訊いてみることにします」
「本当かい!?」
「はい。ただ、いつになるかわからないので、さしあたり、沸騰させずに煮る方法を試してみてください。少し熱めのお風呂に入れてあげるような気持ちで、指をつけられるかつけられないかくらいのお湯にします。半日くらい煮る羽目になるかもしれませんから、湯煎にした方がやりやすいかもしれませんね」
「ふんふん。なんとか指をつけられる熱さで、長く湯煎、だな。カミさんに言ってみよう」
「それでお湯の色が黄色っぽくなれば、十分だと思います。あまり煮詰めたりはしないように、お湯が少なくなったら足してください。本来は毒薬ですから、薄いぐらいがちょうどいいはずです。作り置きもせずに、古くなったら捨ててください。大きな火傷にいっぺんにたくさん使ったり、妊娠されている方に使うようなことも、控えた方がいいかもしれませんね。場合に合わせて使える薬なら他にもありますから、また気軽におっしゃってください」
ハナが微笑みかけると、店主は何かに感動したように呆けた顔をし始めた。しばらくしてその顔のまま、何やら口をもごもごさせたかと思うと、「いやぁ……こりゃあ、申し訳ねえ……」というようなことを思わずといった様子で口走っていた。
「ハナに訊いてみてよかったね、おじさん」
アーシャが店主の顔を覗き込んで、どこか誇らしげに声をかける。すると店主はハナを見たまま顔をほころばせて、「いやぁまったくだ。申し訳ねえ」と、相槌かそうでないかのようにまた呟いた。
「ああっ、そうだ!」
突然店主が何か思いついたように叫んだ。
「お二人さん、おつかいで村まで下りてきたんだろ? まだ済ませちゃいないよな?」
店主の意図がわからずきょとんとしたハナは、思わずアーシャの横顔を盗み見る。アーシャも一瞬ハナと同じ顔をしていたようだが、すかさず口角をあげて何かを悟ったようだった。その目に何か不敵な光が宿るのを見て取って、ハナは無意識に身震いした。
本日夜次話掲載予定【済】。