第二章・第三節 杓子と硝石
【前回(第二節)のあらすじ】
ハナは買い出しの品を尋ねるために、屋敷の主人のもとを訪れた。
主人の名はウルウァ。
彼女はすべての病に精通し、自在に人を病ませることができるという、薬師の対極にして伝説の存在、『疾師』だった。
生ける伝説を前にしてハナはかしこまりつつも、初めてウルウァと二人きりになれたのを好機と思い、アーシャがかかっていた死病や秘薬・アムリタについて彼女に問う。
知識を披露したがるウルウァは語り出すと止まらなかったが、そこでハナが聞かされたのは、アムリタは薬などではなく、人が自らの狂気に喰らい尽くされたときにのみ現れる超常の事象、《呪詛》を宿したものであり、刺獣もその影響を強く受けた産物であるという、現実離れした話だった。
二人の会話はまだ途中だったが、アーシャがハナを呼びに来る。
彼女は買い出しの荷物持ちを任せるために士人を探していたのだが、そこでアーシャだけが彼の行方を彼自身から知らされていなかったことが発覚する。
するとアーシャは、出し抜けにハナに向かって「二人で遊びに行こう」と言い出したのだった――。
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稀代で未確認な疾師の居といえば、人跡未踏な孤絶の幽谷を勝手に思い描いていた。確かに屋敷は山深い森の中だったが、山を下りたすぐ麓には人里があり、意外に遠くもない。辺鄙には違いなかったが、なごやかで活気もある立派な村だった。
「ガラスがねー、ここの名産なんだよ」
民家の窓辺に並んだ半透明の置き物に見とれていると、いつの間にか隣に来ていたアーシャが教えてくれた。言われてみれば、商店の飾り窓でもあるまいに、薄く澄んだ透明なガラスが置き物とハナの間を隔てている。他の家のどの窓も、跳ね上げの雨戸や木格子よりガラスがはまっていることの方が多いようだった。
「きれいだよねー」
「はい」
「あっちの山でね、いい石が採れるんだってさ。ほとんどは石のまま近くの街に卸すんだけど、村の中にも工房があってね、そこの職人さんしか作れないものを、遠くから買い付けに来る人もいるぐらいなんだよね」
「……詳しいですね」
「助かってるからねえ」
「助かる?」
首を傾げたハナを、アーシャは陽を追う花のように見上げてにぱっと笑う。
「ガラスが強い分、木器はあんまり作れる人がいないんだよねー」
「あ、そういえば」
かつて師匠と別れた街で、士人が自作らしい木器を売ろうとしていたことを思い出す。ウルウァはともかく、アーシャと彼の姉弟はそうやって生計を立てているらしい。
「どうしたってそんなに安くならないからね、ガラスは。扱いやすさでも木器の方がいいっていうのが村の人の本音だけど、譲れないものもあるからさ。質が悪くても安物で我慢――ってしてたところへ、安くていいものを作れる人が現れたら、そりゃあねー」
需要は充分、ということらしい。確かにハナがもらったお玉杓子も、思わず見惚れるほどの曲線を持ち、それこそガラスか磁器のような光沢を放っていた。それを思い浮かべて陶然としかけた瞬間、その実物がどうなったかを思い出して我に返り、一気に暗い気持ちになって思わずしゃがみ込んでしまう。
「おおぅ!? えっ、どしたの?」
「いえ、すいません……そういえばおひとついただいたのに、置いてきてしまったのを思い出しまして。はぁぁぁ……」
「あららー。大丈夫だよ? お願いすればまた作ってくれるからさ」
「いや、それはむしろ、より申し訳ないといいますか、心苦しいといいますか……」
事実、《洞》の事情で彼のこともずいぶん振り回してしまった末でのことであり、ハナに直接の落ち度はないのかもしれなくても、自業自得のように受け取らざるを得ない節もあった。
「そう? 気にしないと思うけど」
アーシャは気づかわしげに言う。
ハナも意見自体は彼女と同じだった。厚かましい依頼にも黙々応えようとする彼の姿というのは、なぜか容易かつ生々しく想像される。実は年下だったことも無意識に加味されているのだろうか。少なくとも身内のアーシャが問題ないと言うのだから、下手な懸念も必要ないのかもしれない。
ただ、ハナはまだ彼を知っているわけではない。見かけ以上のことはほとんど知らないと言ってもいい。オルクの血を引いていると言われても、オルクがどんなものかもハナはわかっていない。おそらくアーシャと血は繋がっていないだろう。そのアーシャを姉と呼んで何よりも大切に想っている。その一方で、彼女のもとへ帰ってきた彼は依然あの面鎧をはがさずにいる。骨をも噛み砕けそうな大きな顎と飛び出た牙を覆い隠し、剥き出しの小さな目に世界はどう映っているのか。
《陰清》の売買に依存する《洞》の経済瓦解。師匠の告白。彼女とハナの離別。それらすべての発端となったのも、言ってみれば彼だった。ハナを薬で眠らせて危険な《大棘》を押しつけ、貧民街の人々を煽動して師匠を酷い目に遭わせた張本人。ハナが敵視していい理由ならすでに持っているだけでも充分すぎるだろう。
しかし、それらが本来の彼の姿だと証明するものを、ハナは探している。
ハナは自分で作ったその詭弁を冷静に受け入れていた。誰かの人となりを感情的に決めつけたくはない。少なくとも自分自身で存分に体感し納得できるまでは――そう考えて、見定めようとしていた。追放者だと告白した師匠の前から逃げ出してしまったあのときのようなことは、二度としたくなかったから。
それにもし仮にアーシャの言うとおりだったとしたら、気兼ねしない要求は彼の人柄につけ入るみたいで後ろめたすぎるのもハナの本音だった。かといって、このまま杓子のことを忘れたふりをするのも不実に思え、どうすべきなのか、渦巻いてつい煮こごる。
「ハナは気に入ったんだね、あの子の作品」
「それはもう!」
隣で小さくつぶやくのが聞こえた途端、ハナは勢いよく顔をあげた。
「あんなに形も艶も美しい木のおたまなんて! じぶんのような者が入れるお店ではそうそう……あ」
アーシャのきょとんとした目と目が合い、ハナは言いかけた口を閉ざした。一瞬間を置いて、自分が取り乱しかけたことに気がつき、耳の周りがぽぉーっと熱くなる。無意識に謝る言葉を探すうち、ちかちかしている視界の真ん中で、アーシャの苔色の目を弓なりのまぶたがそっと縁取った。
「気に入ってくれてありがとう」
呆気に取られるハナの額に、柔らかいものが触れる。
一瞬影に覆われた視界が晴れて、再び現れたアーシャの顔には輝くような笑み。
弾む足取りで遠ざかりながら、ハナを見たままくるりと身を翻す。
「行こ、ハナ! あっちでガラスの市やってるみたいだよ!」
そう言って歩き出したアーシャを目で追いながら、ハナは自分の額に手を伸ばす。未だ感触の残るその場所からぽとんと、見えない温かい何かが体の中を通って胸のところまで落ちてくる。生まれて初めて味わう気持ち。だけど、何か取り戻したような懐かしさを感じる。きっと大切なものだったように、かたちのないそれを離さぬように胸の前でこぶしを握り、ようやく立ち上がる。
明日昼頃次話掲載予定【済】。