第二章・第一節 ズボンと病人
【第一章全編のあらすじ】
師匠と二人、旅先での診療を生業としていた薬師の少女、ハナ。
彼女のもとを突如訪れた、人外じみた大男。くちばし型の面鎧の士人。
彼が「薬にしてほしい」と言って差し出してきたものは、ひと振りの白い刀剣だった。
その刀剣を目にした途端、いつもの温厚な人柄がうそだったように苛烈な振る舞いを見せた師匠・ナーシャ。
刀剣を“大棘”と呼んで奪いに来る旅装の集団。
死病に苦しむ姉のため、《大棘》から得られる秘薬・アムリタを求める大男。
そして本来の持ち主として《大棘》を追う不死の獣、『刺獣』。
それぞれの思惑に振り回され、ついに巻き起こった四つどもえの争いのうち、師匠の身の上と故郷《洞》の現状をハナは知る。
《洞》は、《大棘》が副産物として生み出す禁断の依存性薬物《陰清》を扱う商いに手を染め、すでに《大棘》なしでは立ち行かなくなっていた。そして《大棘》を《洞》へもたらしたのは、他ならぬ師匠のナーシャとハナの母親だったのだ。
口論と攻防の末、結果的に追っ手を退けたハナたちは、かろうじて刺獣をも倒し、秘薬・アムリタを手に入れる。
すると師匠はすべての後始末を引き受け、ハナにはアムリタを託すと、それを必要とする者のもとへ送り出した。
心の準備もままならないハナは拒絶の声を張り上げたが、患者の身内である大男・未だ名乗らない士人に担がれ、連れ去られるようにして師匠のもとを離れることになる。望まれざるも、また慌ただしくも、来たるべき巣立ちのときだった――
(字数:4571)
☆ 挿絵協力:伊呂波 和 さま (@NAGOMI_IROHA on Twitter)
腕が足らない。そんな馬鹿な。
何を今さらとも思わないわけではなかった。ただ予想はついていても、実感として認知してしまうのとは幾分趣が異なる。洗濯したての衣服を広げる行為は、それを陽に当てて乾かすためにも当たり前に必要とされるものだが、そのやり方は必ずしも両手を衣服の端と端に固定し、ただの一度きりでやり遂げなくてはならないわけではない。仮に手を持ち替える選択肢を持たず、おのれの腕を限界以上に伸ばそうとする意志を持つとしたら、その顛末は好奇心によるところ以外の何ものでもあるはずがないだろう。
よく晴れた昼下がりの川辺にて、ハナは切れ長の細い目を見開き、食いつくような形相をして立っていた。左右いっぱいに広げた腕は音を立てそうなほどぷるぷると震えている。白くなって静脈の浮きかかったその両手は、先ほどまで籠の中で丸まっていた、くすんだ色のズボンの端と端を握っていた。
(さすがに少し大きめのを穿いてるんじゃ……そうでなかったら――)
どうなるのか。写実的に想像しようとしたハナは軽いめまいを起こす。もし自分が二人いて、両手を繋ぎ合って輪を作ったら、その中に何人の人が入るだろう。四人? 五人いけるだろうか。いいえ、残念ながら一人を入れた時点で自分たちは揃って脱臼するでしょう。
いくらなんでもそんな馬鹿なと、ハナは彼の実寸を正確に思い出そうと試みる。だが本人を目の前にせずにはそう容易にはいかない。実際確かに規格外の巨漢だからだったが、それだけのせいではなかった。
彼とずっと二人でいたはずの七日七晩の旅路、日の出ているうちはひたすら休まず走り続ける彼の肩の上に乗せられていた。体力底なしで歩幅も倍差がある彼と並んで走るよりは遥かに現実的だったとはいえ、丸一日荷物同然に揺られていれば、日が沈んで彼が止まる頃には気を失いそうになっている。水と保存食を少し口にしたと思った次の瞬間には朝が来ていて体はすでに彼の肩の上で、というのを延々繰り返しているうちは、当然彼のことをじっくり観察する余裕などなかった。
そうして目的地に着き、今日で三日。ハナは打って変わって落ち着いた日々を過ごしていたが、今度は彼の姿そのものを見なくなってしまった。初日に突然「川上に行く」と告げて出ていったきり、一度も彼と顔を合わせていない。遠目に何度か姿を見かけてはいたが、気がつくとまたいなくなっている、ということを繰り返していた。
彼がどこで何をしているのかはハナには知る由もない。「川上に行く」以外は「ウルウァの依頼だ」としか彼は言い残さなかった。彼自身のことはまだろくに知らないし――依然として名前すら聞けていない――ここはハナにとって初めての土地である。「川上」と彼が言ったのは今ハナの眼前を流れている沢の上流を指すのだろうか。夜中に彼が熾したと思しき焚き火の明かりを目にしたこともあるが、森が大きすぎて朝になると方角を忘れてしまう。ここでもすでに十分山深く、ハナたち以外に人はいない。さらに奥ともなると誰も住んでいないだろう。そんな場所に三日もこもっているからには、小屋くらいあるのかもしれないが。
彼が〝川上〟にどんな用があるのかは知らないが、戻ってくる理由はハナも知っている。例によって直接聞いたわけではないが、こればっかりは他にないと誰でもはっきり言えるもの。ごく自然な理由だ。
ただ、その理由がまた別の不可解さを引っ張ってきてもいた。
彼はこちらへ戻ってきても、いつもほんの短い時間しか滞在しない。寝食さえ誰かと共にせず、夜は山の中で焚き火を焚いている。本当に帰ってくる理由がハナの予想を裏切らないなら、どうも不可解極まりない。少なくともハナにしてみればそうだ。
「何かあったら知らせろ」とは、出がけの彼に言われた。
それが「彼女のことを頼む」と言外に言っていることは理解できた。頼られているのがわかったのは素直にうれしかった。
しかし、自分は所詮身代わりに過ぎないこともハナは知っていた。
真にここにいるべきは、自分ではなく彼の方だとも。
それでハナはこの三日ずっとやきもきし続けていた。彼がいないことだけにではない。彼の姿が見えないことについて、彼女が一度も何も言わないことにもだった。話題には彼のことが度々上がってくるというのに。
(ミスターが戻ってくるたび、こっそり顔を合わせているんだろうか。だがなぜこっそり?)
「――い、――さーん」
(じぶんが間が悪いだけだろうか? しかしそれならアーシャさんが教えてくれても……)
「――すしサン? くすしサーン?」
「ほひ!?」
ほんのすぐ後ろで声がしたのでハナは心臓が口まで突き上げてくるかと錯覚した。
草藪を踏み倒す音がハナのいる河原まで近づいてくる。
胸から下の固まったハナが首だけで振り返ると、不思議そうな顔をして河原へ降りてくる少女と目が合った。
「薬師サン?」
「あ、ああ、アーシャさん? ど、どどうかされましたか?」
ちょうど考えていた相手が現れてなんとなくしどろもどろになるハナを見て、大人しそうな少女――アーシャの、苔色の大きな目がぱちぱちとしばたく。枯野色とでも言おうか、黒茶に乳を落としたような不思議な色合いの髪と同じ薄色の長い睫毛が、小鳥の羽根のように上下した。
「どうかというか、どうしたの? 夢中であの子のズボン見てたけど」
「へ? あ!」
言われてみてようやく、ハナは自分が広げたズボンを両手で掲げたまま考え事にふけっていたことに気がついた。しかもズボンの腰の両端を掴んでいるので、ハナが正面を向くと必然的に鼻先には股間が。
「ちちちちがうんです! けっ決して! これの、この、そこを! 嗅いだりしていたわけでは!」
「匂い?」
アーシャは小首を傾げると、動転しているハナが未だ掲げがちに持っていた特大ズボンに顔を近づけた。そしておもむろに鼻で息を吸う。赤面から一転、真っ青なって言葉を失うハナの目の前で、彼女はいたって真面目な様子で眉をひそめた。
「うーむ。さすがに三ヶ月履きっぱなしともなると、どこが特別臭いとかもうわからないね。全部臭い」
「あ、あ、アーシャさん、あの……」
「うむ?」
「とと、殿方の、その、そういうのは、あまり……?」
「むむ?」
アーシャがまた目をぱちぱちさせながら、今度は下顎を突き出して上唇を口の中に巻き込むしぐさをする。しばらく一緒にいてわかったが、戸惑ったときや考え込むときの彼女の癖らしい。愛らしい小さな口をしているだけに、ちょっと可笑しい。
その独特な思案顔のまま。アーシャはハナとズボンとを数回見比べる。やがて上唇がぱっと飛び出して「あー」と間延びした声を漏らした。合点がいったときのしぐさ。意図が伝わったらしいと察してハナも少し落ち着きを取り戻す。
「薬師サン、一人っ子?」と、唐突に訊かれた。「もしくは女兄弟だけとか」
「え、えぇ? と……」
反射的には当然師匠との関係が思い浮かぶ。名目上彼女は育ての親にあたるはずで、弟子にしてもハナ以外にはいなかったから、ハナ自身は煮ても焼いても一人っ子には違いない。ただ、師匠を母親として認識した記憶はあまりなく、また子供が一人だったかといえば多少引っかかるものがあった。
「りょ……両方?」
「……なるほど」
いささか変てこな答えになったが、アーシャは納得してくれたらしい。と同時にハナも彼女の意図を察する。つまり、そういうものなのかもしれない。《洞》は不思議と女性の多い土地柄だったし、アーシャと彼の関係は、確かにハナには馴染みの薄いものだった。
「あ……すみません。大袈裟、でしたか?」
「ううん。ちょっと可愛かっただけ」
「か、かわ?」
「おおぅ、今のナシナシ。新鮮っていうかな。わたしはあの子を赤ちゃんの頃から知ってるし、いろいろ慣れちゃっててさー」
ぺろ、と短い舌を出し、彼女は片目をぱちっとしばたく。薄い桃色の頬を小さな頬骨が健康的に押し上げる。
士人の赤ん坊の頃……それはまた全然想像できないなと、ハナはいささか慄くような心地がしながら、改めて彼女のことを認識した。
アーシャ――士人の話していた通りに実在した、彼の姉。
アムリタの投与によって一命を取りとめた、ハナの初めての患者。
ただ、自分の患者だったことについては、ハナはその実感を今一つ掴み切れていなかった。今のアーシャの翳りのない笑顔を見るたび、引き合わされたときのまさしく死の淵にいる姿が思い出され、別人を見ているようだとも感じてしまう。
病床にあるときのアーシャは、全身のいたるところが不自然に青みがかった異様な姿をしていた。まるで生き物でないかのように弾力のない不気味な肌が記憶に新しい。
ハナは持てる知識を総動員し、あらゆる可能性を想定していたつもりだったが、実際にアーシャのその容体を目の当たりにした瞬間、自分が何一つ役に立てないことを理解した。
あとはただ言われた通りの処置を施し、心身ともに疲れ果てて患者のそばに突っ伏して眠り、朝に目が覚めると、病床にいたはずの人間が台所で四人分の朝食を用意していた。
その時点で病の痕跡も残さないほどアーシャを快癒させていたアムリタの効力が、てきめんと呼べる次元を軽く超越し、予後を看る必要さえほとんどなかった、ということもある。
しかしハナにとっては、初めて自分の患者と意識して臨んだ相手に対し、実際薬師として手出しできたことは何一つなかった、という感覚が何よりも強烈だった。師匠に言われたように『診極める』云々どころの話ではない。もとい、師匠のもとですら、あくまで師匠の患者を預かっているという意識ではあったものの、おおむね自分の診療は自分の判断にいつも任せてもらっていたのだ。ただ言われるがまま、知らない病のために知らない薬を処方し、またそうせざるをえなかった事実は、あの場で果たしてハナが薬師であったかどうかという自問にさえ繋がっていた。
そんなハナの内心を知ってか知らずか、アーシャはハナのことを無邪気に「薬師サン」と呼ぶ。治療された者がした者に向ける特有の好意と距離の近さを彼女からも感じ、ハナはむず痒いというか、いっそ歯がゆいとまで感じてしまう。
ただでさえ今は薬師としての自分を誇る気持ちにはなれそうにない。だというのに、それ以外でもハナはことごとく自信を失くしてげんなりしていた。それもまた他ならぬ自分の患者によって。
「でもまあ、それならちょうどよかったかな。代わろうと思って来たの」
「かわ……る?」
間の抜けた反応をするハナの前で、アーシャの視線が河原の方へ落ちる。追いかけると、濡れていない大きな石のそばにハナ自身が置いた木皮の編み籠に行き当たる。山盛り溢れかけの中身はすべて洗う前の洗濯物。隣の大石の上には洗い終えた手拭いが三枚だけ置いてある。
「ああッ!?」
話が飲み込めたハナは途端に泡を食いつつぺこぺこと頭を下げた。
「すいませんすいません! 考え事に夢中でつい! 決して怠けていたわけでは!」
「やあ、違う違う。おつかいを頼みたいなーと思って」
「はいっ、おつかいでも何でも! ……おつかい?」
背中を曲げた姿勢のまま、自分より頭一つ低いところにあるアーシャの顔をなぜか見上げるような気持ちでおずおずと窺う。目が合うと、形の良い唇が下向きに弧を作り、小さな頭が上下して額の上の髪が弾んだ。
本日夜次話掲載予定【済】。