第一章・第九節 師と霊薬
【前回のあらすじ】
《陰清》の雲と《魅了の眼光》によって、今一度ハナの完全なる隷属化を試みる刺獣 。
士人の奇抜な立ち回りによって、一旦は危機から脱出し、同時に《濁》の衆の無力化にも成功。
しかし、孤立したハナにまたもや刺獣が襲いかかる。
その前に立ちはだかったのは、士人の面鎧を防毒面代わりに借り受けた師匠・ナーシャ。
刺獣の眼球に毒矢を突き刺し、反撃に片腕を食いちぎられそうになりながらも、ハナの手を取り、《大棘》を刺獣に返すには今しかないとうながす。
士人も応戦に加わり、こじ開けられた刺獣の喉奥へ、今度こそハナと師匠のふたりで、《大棘》を突き出したのだった――
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薄赤色のもやが消えていく。
黒ずんだ雲のすき間から、橙色の光の帯がさしている。
辺りには一様に旅装じみた合羽姿の者たちが、気を失って倒れていた。
ひとりだけえんじ色のボレロを羽織る赤毛の女も同様に。
雨あがりにもかかわらず、冗談のように乾いた石畳の街路で、へたり込んだハナと師匠、立ち尽くす士人だけが目をあけている。
白銀色の獣の姿はどこにもない。
握っていたはずの《大棘》も、どこかへ消えていた。
カラン、と音がして、黒鉄の面が石畳に落ちる。
同時に背中をまるめた師匠が、片腕を押さえてうめき声をあげた。
「ぐ……」
ハナは、まるで夢の延長で目覚めたように呆然としていた。
くずおれる師匠を見て体が自然に動いたのは、たとえ夢の中でもそうしたに違いなかったからでしかない。
しかし、悪夢よりも悪夢じみた師匠の容態を確かめるころには、とうに目は覚め切っていた。
袖の上からでもわかる。ただ折れているを通り越し、師匠の二の腕はわだちの上の蛇のようにひしゃげている。
「師匠!? 聞こえますか、師匠ッ!」
「だいじょうぶよ、ハナちゃん。見た目ほど血は出てないから」
「見た目ほどって……」
「手を開いて、ハナちゃん」
師匠に言われて、自分がずっとこぶしを握っていたことにハナは気がついた。《大棘》がそこにあったときからのようだ。
強く握りすぎてほとんどこわばっていたが、今は感覚がある。
開いた手のひらには、乳白色の水滴が乗っていた。
不思議な水滴だった。
握った手の中にあったはずなのに、どこへもこぼれ出ることなく、汗にもにじまず、小石のようにひとかたまりで、重力にだけ従ってそこにあった。
師匠がふところから小瓶を取り出し、ハナにさし出す。
促されるがままハナが瓶の口に向かって手をかたむけると、水滴はひとかたまりのまますべり落ちて、空だった瓶の底に収まった。
斜陽に照らされながら、水滴は自らもきらきらと輝いているようだった。
「これが、アムリタ。本物の《生きた水》よ……」
「え……え?」
師匠がなにを言ったのかわからず、少し遅れてハナは二度声をあげた。
「アムリタは……《陰清》のことだったのでは?」
「……ごめんなさい」
今日ハナが何度目にしたかわからない沈痛な面持ちを見せて、師匠は言った。
「わたしは、どうしてもアムリタを……《陰清》でなくアムリタの方を必要としている人が、この世にいることを信じられなかった……いいえ、信じたくなかっただけよね、きっと……」
顔をあげると、師匠はハナと反対の方を向いた。
すれ違うようにその方向から大きな手が伸びてきて、敷石に落ちたくちばし型の面鎧を拾う。
ハナは見あげた。
とっさに、見なくてはならないと強く思った。
なぜかはわからなくても、漆黒の面の下に隠されてしまう前にと。
それは独特な顔立ちだった。
美醜以前に、およそヒトらしくなかった。
鼻はつぶれて鼻骨を欠いたようにきわめて低く、鼻孔は細く切れ目のようにかろうじてあいている。
陥没気味の上あごに比して、下あごは異様に広く大きく、さらに前にせり出しており、咬み合わない口の端からは、親指大の犬歯が上向きに飛び出している。
化け物――赤毛の女が彼をそう呼んだ記憶がよみがえってきた。
体躯の巨大さとも相まって、おとぎばなしの中にしかいない怪物そのものを思わせた。
「本当にオルクだったのね、あなた……」
その特徴的な鼻と口もとを、より異形を模した面でふたたび覆っていく彼に、師匠が落ちついて語りかける。
「あるはずのない太古の秘薬を求める、いるはずのない太古の種族……と言っても、あなたは純血のオルクではないのでしょうね。それでも、薬師の毒も《陰清》もものともしない強靭さ……だからこそ、《陰清》ではなく、アムリタを求める理由があなたにはあった。それを信じられたのは、無知ゆえとはいえ……ううん、なにも聞かずにただ信じることを選んだのは、この子だけの叡智よね……」
師匠がハナを見やる。悲しいのにどこか誇らしそうな、切なげな瞳だった。
師匠は小瓶に栓をすると、ハナの手を取ってその内側に置いた。
「ハナちゃん……だから、これはあなたのもの。あなたが見つけた患者のための、あなたが処方すべき薬。だから薬師の名において、あなた自身の目でその人を診極め、あなた自身の手で処方なさい」
「師匠、それって……」
「だからハナ……あなたをここで、破門します」
飛び切りの笑顔を、贈って、両手で、小瓶を持つ手を包んで、強く握らせる。
細まる目尻から、しずくがこぼれて頬を伝う。
ハナは、自分がなにか言おうとしているのを知っていた。だが声は出なかった。
なにを言おうとしたのかもよくわからなかった。
乾いた浅い息を、吐いたり、吸ったりしながら、まばたきも忘れて師匠の目の奥をのぞき込もうとして――
「……うぁ!?」
突然に背後から腰をつかまれた。かと思えば、声もあげ切らないうちに体が宙に浮いた。
強引に空中で向きを変えられ、気づいたときには大きな肩の上に腹這いで担ぎあげられていた。眼下に広い背中が見える。
「なっ、ミスターっ、これ……!?」
「わかっていますね、オルクの末裔さん?」
慌てて身をよじって師匠の姿を探す。
士人の頭ごしで見えない場所から、涙声を打ち消す毅然とした声音が聞こえてくる。
「その子は見習いではなく、本物の薬師です。あなたの身内は、その子の患者です。その子が患者に寄り添わない限り、その子の薬はあなたたちを救わないでしょう」
「……」
士人は無言で首を動かし、ほんのわずかなのあいだだけ、師匠と視線を交わしたようだった。
やがて無言のままきびすを返すと、石畳を蹴って走り始める。街の出口へ向かって。
「はっ、ちょっと!? そんな!!」
ハナは取り乱し、背中をそらして暴れようとした。
しかし腰を押さえ込む士人の腕はびくともしない。
ぐんぐん遠ざかっていく師匠を凝視して、ハナは必死で手を伸ばした。
「うそだ、師匠! 嫌ですッ! こんな突然! こんなかたちで!! こんな……っ!!」
師匠も手をあげる。
その細い手がゆらゆらと左右にゆれるのを見て、ハナは声を詰まらせる。
どんな顔をしているのか、もう見えない。
きっとあの人は最後まで笑顔なのだろう。
目に焼きついたほほえみをいつまでも幻視しながら、変わらないその場所に手をのばしつづけていた。
本日昼頃次話投稿予定。エピローグになります。【済】
☆ 2021年1月31日、再推敲版に差し替えました。文章の洗練と漢字レベルの調整、ルビの振り直しなどを行っております。内容に変更はありません。