第一章・第八節 刺獣と大棘
【前回のあらすじ】
降りしきる雨に濡れた《大棘》が、気化する麻薬・《陰清》を放つ。
不慮に吸い込み倒れたハナの前に、ついに不死なる獣・『刺獣』が現れる。
間一髪、師匠と士人がともに駆けつけてハナを救うも、《大棘》を追う旅装の集団もまたふたたび姿を現す。
彼らの正体は、ハナや師匠と同じ薬師の里の出身者たち、その中でも毒薬の知識にたけた《濁》と呼ばれる一党だった。
《濁》が《大棘》を追うのは、《大棘》が薬師の里から盗み出されたものだったため。それは現在の里の暮らしが、《大棘》の生み出す《陰清》の恩恵の上に成り立っているという意味でもあった。
その《濁》の女・ノルハから、《大棘》を里へ持ち込んだのがほかならぬ師匠と自身の母親だったことも聞かされるハナ。
師匠の憂いを理解しつつも、ハナは《大棘》を《濁》に渡す決心をする。
しかし、受け渡し役を請け負った師匠に、ハナの体はハナ自身の意に反して《大棘》の切っ先を向けたのだった――
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「――師匠ーッ!?」
ずるりと、肉に刃の沈む感触。
はたして剣先の消えた場所に、師匠の体は見えなかった。
代わりに、横合いから伸びてきた大きな腕がそこにあった。
白い刀身が黒い袖を突き破り、固い皮膚の中に埋もれて止まる。
師匠の青ざめ切った顔のとなりに、くちばし型の面鎧がある。
彼女を背後からかき抱くようにして、士人がハナの刺突を受け止めていた。
「ミ……ミス、ター……?」
なかば放心したようになりながら、釈明がハナの口をついてこぼれる。
「す、みま、せ……手、が、かっ……てに……」
言いながら、刺し傷から刀身をたどって、《大棘》の柄を見ていた。
そこを握っているのがたしかに自分の手だと確認して、今度こそ言葉を失う。
反射的に手を離しかけるが、そこでさらに愕然とした。
(手が、動かない!?)
ハナの意識は躍起になって《大棘》にかかる指を広げようとした。しかし、力の入る感覚がない。目に見える手の甲には静脈が浮き出し、指先は赤く充血しているというのに。
(なんだ、これは……意識はたしかなのに……)
背後でかしましい哄笑が鳴り響いている。
こいつはけっさくだ。おやこともどもとりこときた――だが意識はまるで向かわず、次第に激しくなる自身の動悸にかき消されていく。
音という音がよどみ沈んでいく中、思い起こされたのは師匠の言葉。
――意識は取り戻せても、肉体への作用は取り除けない……
(《陰清》を吸った体が、《大棘》を手放すことを拒んでるのか? 《陰清》の持つ依存性が、無意識まで支配して? なんてデタラメな!)
「いけない! ハナちゃん、抜かないと!」
師匠の声でハッと我に返る。
同時にハナは、《大棘》がふたたび雨を吸って赤い煙を吐き出し始めていることに気がついた。
雨水だけではない。切っ先が食い込んだままの刺し傷からは、血飛沫のように《陰清》の霧がほとばしっている。
ハナは瞠目した。血の半分もまた水なのだ。
いったん《大棘》を離すのを諦め、ハナは意識を腕を引くことだけに集中させた。
今度は意図したとおりに体が動き、《大棘》は突き刺した肉から難なく離れる。
士人は腕をだらりと垂らして地につけ、覆いかぶさられるかたちになった師匠が彼の胸の下で身をよじっていた。
そこから抜け出すより先に、彼女は大きな頭に手を添えて、間近で瞳孔をのぞき込もうとする。
「まだよ。しっかりして! 呼吸を深く――」
「ミスター! 師匠ッ!」
士人の背後に白くうねる巨木のような首を見た瞬間、ハナは叫んだ。
間髪入れず、士人が弾かれたように立ちあがる。振り向きざま、背中にある長柄のマサカリに手を伸ばす。
最初に持っていたマサカリは、刺獣に咥えさせたままいなすために捨てていた。
背負い紐をむしり取り、新たに手にした鉄刃を士人は迷わず振りかぶる。
刺獣はまだ間合いの外だが、踏み込めば届く距離だった。刺獣自身はまだ向かってきていなかった。
ただヒトに似た四角い歯の並ぶ口を大きく広げ、喉奥に鎮座する黄金色の目玉をさらしていただけ。
途端、士人は静止した。
なぜか。
怯んだようでもためらったようでもなく、長柄のマサカリを振り抜きかけた姿勢のまま、ただ固まる。
彼をのぞき込む巨大な瞳孔の奥には、真白い奇妙な光がともっていた。
小さな光だが、およそ陽光でしかありえないような強い光。その意味するところは見当もつかないが、既視感がハナにはあった。
「刺獣の《眼光》……!?」
士人の背にかばわれていた師匠から、呻くような声が飛び出す。
寸刻息を引きつらせながらも、彼女は推移を見張っていた《濁》の者たちを振り返り、懇願を始めた。
「お願い! わたしたちごとでもいいから刺獣を射って! このままだとこの人も取り込まれてしまう!」
「あーん? まあいーんじゃね?」
赤毛の女が答える。
無関心そうでいて、どこかほくそ笑むように。
「どうせそいつも《陰清》目当てだったんだろ。売る側になろうってハラだったかもしれねえが、まあちょいと気が変わるだけさ。《陰清》だけじゃ、はち切れるまで吸いまくってもたどり着けねえ、格の違う極楽が待ってんだ。代償が一生〝刺獣サマ〟の奴隷だっつっても、冥利に尽きちまうらしいぜ?」
既視感のためか、女の言うことがハナにも理解できた。
刺獣が放つ文字どおりの『眼光』。おそらく《陰清》の作用を増幅する特殊な効果がある。
依存性をも異常加速させ、《陰清》の影響下にある人間を一方的に魅了する。
魅了された人間はどうなる?
士人は今しがた、自身の血液から生成された《陰清》を傷口から取り込んだ。
ハナは《大棘》を手放せず、あまつさえそれを渡すよう促した師匠を攻撃した。
《陰清》による無上の安らぎは、記憶の中ではおぼろげにもかかわらず、深層意識を支配し続けている。
意志の力も及ばず、手段を選ぶこともなく、《陰清》を味わう立場を固持するだけがおのれの至上原理に取って代わる。
その常態化は、《陰清》がもたらす依存の末期的な様態そのものなのだろう。
師匠は、士人が取り込まれると言った。
《眼光》が《陰清》を《陰清》以上のものにするなら、魅了された者は刺獣を守り、力ずくで《大棘》を奪い返そうとするようになるだろう。
おのが身をかえりみることもなく、《大棘》を奪おうとする者がいなくなるか、自身が壊れるまであばれ続ける。
刺獣に眼を、口を閉じさせなくてはならなかった。
動けないハナにはできようもない――はずだったが、ハナは意を決して石畳に倒れ込んだ。
手放せない《大棘》の柄尻を石畳に突き立て、肘を曲げて体を引きつけるようにして前進する。まずなによりも刺獣に近づくために。
(立って歩けなくてもいい。《大棘》を刺獣の前に持っていけば、眼もこちらへ向くはず!)
二回と進まないうちに息が切れる。腕にも思うように力が入るわけではなかった。
濡れた敷石に額が落ち、跳ねる雨粒を肺で吸い込む。
むせ返り、それでも必死で呼吸をしずめようと肋骨をきしませる。
(ミスター……! ダメだ、こんなところで……ミスターには、お姉さんがっ……!)
間に合うかどうかなど知るはずもない。わかるはずもなかった。
ふたたび顔をあげ、一心不乱にただ前へ――。
袖を引かれた。なにかに。
反射的に振り向いて、そこで止まる。
かたわらに、女が横たわっていた。
老婆のような白い髪に、ボロ着をまとう痩せた肢体。
ハナが《陰清》による幻覚から解放されたとき、足もとで気を失っていて、ずっとそのままだった女だ。
今も変わらず寝転んだままでいたが、いつの間にか目があいている。血の気の薄い指先が、ハナの上着の袖を握っている。
女はまばたきをせず、目に雨が流れ込むのもかまわず、ハナを見つめていた。
もともと水をたたえていたかのように濃く澄んだ青い瞳。ハナとおなじ色の目だ。
おなじ色。つながる視線。
視線以外のなにかどこかも、溶け合うように重なる気がして。
瞬間、視界が淡い赤に染まった。
「……は!?」
なにが起きたのか。
降りしきる雨に黒く深く彩られていた街の景色が、一瞬にして薄赤色に塗りつぶされた。
薄赤色の、深いもやだ。まるでその色の雲が空から落ちてきたかのような。
もやは色濃く、二歩先も見えない。
雨音は激しく続いているにもかかわらず、もやをかき消す気配もなかった。
もやの上にだけ雨が降っていないのか。そんなことがあるだろうか。
だが現に石畳や肌を打つ雨もない。どころか、石畳はすでに濡れていない。
うつぶせに這いつくばったまま、ハナの混乱は加速する。
乾いている。地面だけではない。
自分の服も髪も、あれだけ水を吸っていたのがうそのように乾き切って、素肌にまとわりつくのをやめている。
水はどこへ――悪寒が走る――この薄赤色の雲の正体。
見覚えのある色彩。赤く色づく湯気のような霧のようなもや。
ハナを取り囲んでいたすべての〝水〟がそうなったのだとしたら。
(そんなことが……どうして……)
触媒たる《大棘》は変わらずハナの手にある。
通常、あらゆる触媒の作用条件には『直接ふれること』が含まれる。
反応するものの近くにあるだけでは、触媒は触媒たりえない。
《大棘》は例外、ということなのか。ふれていなくても、一定範囲に影響を及ぼせる。
その状態がずっと続いているのだとしたら、降りしきる雨にもやが晴らされないことにも、ハナや地面に雨粒が届かないことにも説明はつく。
ただ、なにがきっかけで急にそうなったかがわからない。
変化の理由がわからなければ、ハナは途方に暮れるしかない。
遮二無二這い進んだところで、湧き続ける雲海の核となった《大棘》を持ち運んでしまうのでは脱出も叶わないのだ。
すでに当たり前のように《陰清》の中で息をしている。
意識があるのは師匠の処置してくれた気つけ薬の効果がまだ残っているためか。それもいつまで続くかわからない。
まして、処置をしていない師匠たちは――
「ミスター! 師匠! そこにいますか!?」
「ダメッ、ハナちゃん! 声をあげては!」
もやのむこうに目を凝らして、そこにいるはずの者たちに呼びかけた。
しかし間を置かず返ってきたのは、焦燥で焦燥をかき立てるような応えと、小さな白光。
光を透かしながら、不意にもやそのものが不穏にうごめく。
最初は、風向きが変わっただけに見えた。
歪んだもやの流れが、しかし次第に意志を得たかのような緻密な流動を見せ始める。
気体でありながら、なにかの輪郭を得ようとしているとハナが気づいたときには、すでにほとんど完成されていた。
鼻すじの長く伸びた細長い顔。
大きく開いた顎の上下に並ぶ、ヒトじみた四角い歯列。
喉奥に眼球こそないが、それは明らかにハナへ敵意と害意を向ける実寸大の刺獣の頭部だった。
薄赤色のもやで模られたそれが二つ、四つ、おなじもやの中にいながら一様に誇張され、目のない顔でハナを見おろす。
ハナは喉を鳴らした。
幻覚だ。そう確信しながらも、噴き出る汗が噴き出た端から変化し、蒸散していくのを肌で感じ取っている。
幻覚でなくても、所詮気体。あくまで明晰な判断が頭の中ではできている。
だというのに、血と骨の狭間では嵐が吹き荒れていた。
ヒリつく肌がはがれそうに粟立っている。延髄の下で雷鳴じみた爆音が鳴りやまない。
(しぬ……のか? もやに咬み切られ、バラバラにされて……それもきっと幻覚なのに。殺される幻覚? わからない。想像できない。死んだことなんてない。幻覚に殺されて、それで、意識はあっても、体が現実だと信じ込んだら……?)
おそろしい想像はほんの一瞬。
完全な輪郭を手に入れたもやの刺獣たちが、声のないいななきを風切り音に変えた。
押し寄せる顎の群れを前にしながら、凍りつくハナには目を閉じる暇もなかった。
だから――横殴りの暴風が頭上をかすめて、並んだもやの刺獣たちが真横に両断される様も、間近で跡形もなく吹き飛ぶ光景も、ひと続きに目に映し込んでいた。
見通せない濃霧の中から、大きな黒い影が飛び出してくる。
振り抜いた得物で敷石を削りながら、影はハナのそばで足を止めた。
放心していたハナがひとつまばたきをして振り返るよりも早く、大きな手がハナの上着の襟首をつかまえて、また走り出す。
「……へ? ちょっ、なぁっ……!?」
腹這いの状態から上着ごと釣りあげられ、ハナは立たされるどころか思い切り宙に浮いた。
腰から下がちぎれるかと思ったし、さらにどしどしと地を蹴る疾走でめちゃめちゃにゆらされる。
(幻覚よりこわい……!!)
不意に景色が暗雲としとど濡れた街に戻ってくる。肌と服の上をふたたび雨が打ち始める。
勢いをつけてもやの外まで飛び出したのだろう。
置き去りにされたもやの雲が、通りの真ん中を荷馬車ひとつ分埋めるようにして鎮座していた。
次第に崩れだす薄赤色の半球体に気を取られるうち、ハナは襟首をさらに引きあげられる。
気がつくとハナはあお向けで、士人の肩の上に寝かせられていた。
すぐそばに大きな頭があり、その頭とおなじ目の高さから、通りの先が逆さまに見える。
そこへ居並ぶ旅装の者たちが、弓とクロスボウとにつがえた矢の先を、残らずハナたちに向けて定めていた。
「出たぞ! 射て!」
「え、ええぇえっ!?」
だれかの怒号とハナの悲鳴。
士人は片手で引きまわしていた長柄のマサカリをその瞬間、無造作に薙いだ。
間髪入れず飛来した矢たちが、激しい風圧にまとめて軌道を失う。
唖然。
圧倒されるハナの耳に、《濁》の者らのどよめく声も遅れて届く。
しかしどこか様子が違った。赤毛の女の呆れたような声色が響く。
「なんの冗談だ、ありゃあ? 本物かあ!?」
(なにが……)
おののいた素振りを見せる《濁》の者らの視線は間違いなくハナたちに集まっていた。
もとい、ハナではなく士人の方を指す者たちもいる。
彼がなにか持っているのか。ハナの位置からは黒帽子と、かろうじて太く濃い眉が見えるだけ。
首をひねって、どうにか目もとが視界の入る。
小さくもはっきりとした琥珀色の瞳。あいかわらず感情はうかがえない。だが――
(あ、面鎧が……?)
「上等だ! 化け物退治ならますます遠慮はいらねえよなあ! 射て、射て射て射て!」
ハナがなにかに気づきかけたのを女の怒号がはばんだ。
《濁》の者たちが一斉に次の矢をつがえ始める。
すかさず士人はハナを再度持ちあげた。
頭よりも高く掲げるようにして、さらに振りかぶる。
「……へ?」
ハナは予期せず雨空を見させられる。
その景色が瞬間、下へ流れた。
水面を突き破って浮き出る感覚とともに。
視界が縦に回り、通りの先の《濁》の者らがすさまじい勢いで近づいてくる。
「次射急げェ!」と怒鳴り散らす赤毛の女の一瞬遅れて振り向いた顔が逆さまの大写しで迫ってきて、血走った目が限界まで開き切るより早く、ハナの目の奥で稲妻がほとばしった。
「んぎゅっ!?」
「ぐアァッ!?」
自分とだれかの二つの悲鳴。視界が明滅しながらもう半回転。
尻から落ちたと気づいたときには、幸いなにか柔らかいものの上だった。が、額が割れそうに痛くて、ほとんど意識が遠のきかける。
(まさか、投げられるなんて……!)
ぐらぐらする頭を抱えて愕然としながら体を起こそうと躍起になる。
下敷きにしてしまったのは《濁》の者たちの体か。
「っぐぉぉぉぉぉぁあンブタなんつう真似をぉぉっ! ごろずぅぅッ!」うなるような女の罵声も足先から聞こえてくる。額を押さえて悶絶する赤毛の女が思い浮かぶ。
惨状は見るまでもなかったが、ハナは痛みでうるむ目を無理やり凝らした。
乱暴すぎるやり口だったが、《濁》の虚をつくにも充分すぎたはず。
士人は次はどう出る? 師匠は無事か?
しかし三度まばたきをしたハナの眼前には、白い獣の鼻先があった。
「ぁ――」
風を孕むほどの咆哮。
音の衝撃に鼓膜から頭蓋も肺も背骨の芯までも強く揺さぶられる。
血の気が失せながらも、ハナは凝視していた。
めくれあがる花弁のように開き切った刺獣の喉の奥に、白光をたたえた巨大な眼球がのぞいている。
その光の奥に見出せる、安堵。
絶対の安堵。悠久の安寧がそこにあった。いつか手に入るすべてがそこにあると確信した。
「刺獣!? マズい! テメエら早く矢を――」
赤毛の女の怒号が、しかし途切れる。
雨だれの景色が、ふたたび薄赤色に塗りつぶされる。
爆発するように、《大棘》を握るハナを核にして、《陰清》の雲が現出する。
見通せない濃いもやの中、巻き込まれた《濁》の者らが次々倒れていくのが音でわかる。
かすまない距離にいる眼前の刺獣だけが、なにくわぬ有様で口腔を広げている。
光の奥の安寧は、もやを透かしながらより強く鋭く。
やがて刺獣の頭の両側に、小さなもやの渦が二つ四つと突き出してくる。
渦は濃さを増しながら輪郭を手に入れる。鼻梁の長い獣の首が大口を開けてせり出してくる。今度のは喉奥の目に白光もある。
六つ八つと増えゆく光に飲み込まれ、ハナは意識を保ったまま自身が薄れていくのを感じていた。
薄れ、もやの中に溶け、消えていく。それこそが真の安堵と疑わなかった。
なんの責務も使命もありえない、安寧の頂であると、急激に賛美しかけた。
だから、その光をさえぎるものが現れたとき、心の底から落胆した。
視界におどり出てきたうしろ姿を、憎らしく恨めしいといきどおる――はずだった。
(しめい……じぶんのしめい……)
もやの中に溶けゆかない、その見慣れたうしろ姿に、未来の自分を重ねた日を思い出す。
(くすし……薬師の、じぶんの使命は……!)
ずっと想ってきた。
あのうしろ姿を、朽葉色の髪を、たおやかな手つきを目で追う日々を、なによりも誇らしいと。
「し……ぃしょ……?」
「……ふふっ」
「あ……」
ほんのいっときだけ振り向いたその人は、弓なりに細めた灰色の目よりも下を、黒いくちばしを模した黒鉄の面で覆い隠していた。
その面鎧姿で前へ向き直り、口腔を全開にした獣たちの前で片手を振りあげる。
手にしていたのは、《濁》の者らの射損じたクロスボウの矢。
実体の刺獣の口の中へ腕ごと飛び込ませ、より輝きを強めて迫りきていた黄金色の眼球へと突き立てた。
「ギョオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオ!!」
憤怒に満ちたこれまでのいななきよりも、はるかにおぞましい咆哮が鳴り渡る。
もやの獣が泡のようにはじけ飛び、本体の首が水に落ちた蛆のように激しくのたくる。
そして刺獣は勢いよく口を閉ざした。
四角い歯列の合間にあった細腕が、音を立ててひしゃげた。
「――ぁああああああッ!!」
刺獣のあごが赤に染まる。
固い面鎧の内側にこだました絶叫を、しかしすぐさま咬み殺して師匠は踏みとどまる気概を見せた。痛みにひるむ気配は一切なく、目のない刺獣の眉間を強くにらんで、その下の鼻先に、生きているもう片方の手をひたりと添える。
「情け、ぅっぐ……ないものね。おのれの《陰清》に当てられて、女の腕も咬み切れないなんて」
師匠の周りのもやが濃い。噴き出しつづける彼女の汗が可視化されているようだった。
今にも意識を手放してしまいそうなはずなのに、面鎧ごしの声はあくまで気丈にして穏やかで。目の前の猛る獣すらもいたわるように。
「申し訳ないけれど、この子をヘティアのようには、連れていかせてあげられない。あなた自身もよ。寂しさにたえられないのだとしても、夢からは醒めなくては」
告げ切ると、今度はハナを振り返った。
眉根を広げて目尻を下げ、動く方の手をさし出して。
「ハナちゃん、《大棘》を。今ならこの子に、返してあげられるから」
ハナはこわばった視線を師匠から、彼女の腕に喰いついたまま動かない刺獣へ移す。
その額の中心にぽっかりとあいた昏い穴。
そこが本来《大棘》の収まるべき場所だと確信しながらも、同時にこみあげてきた怖気に飲まれてかぶりを振る。
「む、無理だ、しーしょ……そんなことをしようとしたら、ハナはまたしーしょを刺して……」
「ふふふっ。ハナちゃん、昔の口調」
「し……しょう?」
「そうよ、ハナ。師匠としてあなたに教えます。ひとりの意志の力だけでは、決して薬や毒には勝てないの。でも、だからね、わたしを信じて? あなたの師匠と、あなたの目の前にいる薬師を」
目の前の薬師――
言葉に導かれたように、《大棘》を握る手をさし出していく。
師匠の指先がその手にふれて、次に手首をつかんで、力強く引いてハナを立ちあがらせる。
ふたり並んで、ともに《大棘》を握り合う。
赤熱する刀身よりも、指に絡むもうひとつの体温をあたたかいと感じる。
刺獣の鼻先に《大棘》を掲げると、うなり声をもらした刺獣が感極まったように身震いし始めた。
途端、くわえ込まれた師匠の片腕から、気化し切れない勢いの鮮血がほとばしる。
「――くぁあアァッ!!」
「師匠!? 師匠ッ!!」
喰い千切られる!
ハナがそう確信した刹那、わきからおどり出てきた巨大な影が、刺獣の顔面に組みついた。
わずかに残った歯列の隙間にぶ厚い両手を迷わずねじ込み、力任せにこじあけ始める。
もやにかすまない距離でその横顔を見あげて、ハナは安堵と、より大きな戸惑いとを同時に覚えた。
「ミス……ター?」
「……」
横顔は答えず、微かに低くうなるような息を特徴的な口もとに噴きあげながら、刺獣の口を徐々に広げていく。
師匠はしかし動かなかった。
はさまれていた腕が十分動かせるようになっても、刺獣の口から一向に抜こうとはしない。
紫がかっていく彼女のくちびるを見て、ハナは焦る。
「し、師匠っ、早く腕を……!」
「まだよ。まだ……」
刺獣の口がさらに大きく開いていく。
まろび出そうなくらいむき出しになった喉奥の眼球に、折れた矢が依然として突き刺さっている。
ひしゃげた腕で師匠はその矢をずっと握り続けていたようだった。
さらにその腕で体を引き寄せ、限界まで開き切った刺獣の口内に上半身を入れる。
仰天するハナと、《大棘》ごしにつないだ手も、もろとも引きずり込む。
刺されてつぶされた喉奥の眼球から、血が出るようにふたたび白光がもれ始めていた。
逃げ場のなさに取り乱しかけるハナに、面鎧ごしの目がほほえみかける。
「ハナちゃん、わたしを見て」
真昼の月のような灰色の瞳。
いいときも悪いときも、変わらずハナを映し込んできた。
安寧の光がどれほど輝き、か弱いほほえみを逆光の中へ隠したとしても、きっとそのまなざしだけは見失わない。
《大棘》を師匠が引き寄せ、ハナとふたりで、切っ先を刺獣の喉奥へ向けて突き出す。
純白の穢れないかのような刀身が、おなじ色をした光の中へ吸い込まれていった。
明日の昼頃次話掲載予定。
☆ 2021年1月30日、再推敲版に差し替えました。文章の洗練と漢字レベルの調整、ルビの振り直しなどを行っております。内容に変更はありません。