第一章・第七節 霧雨と毒矢
【前回のあらすじ】
ハナは士人に《大棘》を返し、アムリタが麻薬であることを踏まえてもう一度話をしようと心に決める。
しかし、肝心の士人を一向に見つけられず、焦燥と落胆を重ねる日々を送っていた。
そんなある日、薬の配達から戻ったハナは、薬師の天幕の前に人だかりができているのを見かける。
人だかりは師匠を相手に、とある薬を出せと要求していた。
薬の名は《陰清》――
薬師の里由来だというその薬がここにあるはずだと主張する人々。
師匠の身に危害が及びかけているのを悟ってハナは飛び出しかけるが、その前に師匠の口から、彼女が〝薬師の里の追放者〟であることを明かされる。
ハナはその場で彼女と顔を見合わせたものの、現実を受けとめ切れずに走り去ってしまうのだった――
(字数:13,620)
どこをどう走ったのか覚えていない。
どれだけ走ったのか。どれだけ走ろうとしたのか。
流れていく石畳を見おろしてひたすら走り続け、息ができなくなっても、手足が千切れ飛びそうになっても止まらなかった。
敷石と敷石の作る網目が次第に判別できなくなって、全体が白くぼやけて、気がついたときには膝から崩れ落ちて、大きく雑音の混じる呼吸をくり返していた。
肺が痛い。
手足の感覚がない。
鎮まらない呼吸はまるで自分のものでないみたいだ。
ハナが倒れるのを待っていたかのように、雨脚が強まる。
喘鳴はかき消され、発火しそうな体温までもやすやすと奪われていく。身を裂くような血潮も、頭の中を埋め尽くす音のない嵐も。
すべて目の覚める前に見る夢のようだった。夢であればよかった。
(追放された身……)
ただひとつ消えない声を反芻し、かみしめる。
ハナは自分で納得していたはずだった。
どんな理由で師匠が《洞》へ帰りたがらないのだとしても、自分には師匠と二人きりの日常がすべてだと。
師匠が里での思い出話のひとつさえ口にしたがらないことにしても、どうせ当時は人見知りの激しかったハナにとって、《洞》そのものはさしたる思い入れの眠る場所ではないのだからと。
けれど、わかってしまった。
そんなふうに思えていたのは、師匠と《洞》とがハナの中で同じものだったからだ。
帰りたければいつでも帰れるから、わざわざ恋しがるようなことも言わないのが〝《洞》のナーシャ〟であり、ハナの師匠。
ハナは〝《洞》のナーシャ〟の弟子であることに誇りを抱いてきた。
だからこそハナは、なにも訊かずにあとをついてきた。
(師匠はとっくに、《洞》の薬師ではなくなっていた……すべてうそだった。それをじぶんは、なにも知らずに……!)
息をしすぎて、激しく咳き込んだ。
腹筋を鈍い痛みが何度も走り、たまらず濡れた敷石の上に突っ伏してしまう。
雨のせいか、広い道だというのに、辺りにひとけはない。
ずぶ濡れでひとりうずくまり、肺が落ち着くのを待つうち、冷えていく脳裏に師匠の顔が浮かぶ。
穏やかなまなざし。
童顔のわりに上品な口もと。
少し失敗したハナの料理を見て、おかしそうに笑うその顔と――
ハナの前で真実を告げてしまったと気づき、色を失ったあの目。
(じぶんだって、知ろうとしてこなかった……あの人が、どんな思いでいたのかも……)
顔を地面から離す。水を吸った髪の先から、雫が糸のように連なって落ちていく。
(じぶんはただ、言われるがままついてきた……本当にそうだった?)
思い出そうとする。
あの晩。里で眠った最後の夜。
ゆり起こされたハナは、耳もとでそっとささやく声を聞いたのだ。
ハナちゃん。旅に出ましょうか――と。
寝ぼけまなこの幼いハナは、急なその提案に否定的だったかもしれない。
あやす声は苦笑まじりに、ハナだけここに残ってもいいとつけ加えた。
――ハナちゃんは、このおうちが好き?
――うん。
――じゃあ、まだここにいましょうか。わたしはちょっと先に行って待ってるから、気が向いたら、追いかけてきてちょうだいね。
――うん。わかった……。
離れていく気配。小窓からやけに明るい月が見えていた。
ハナは夜具を抜け出し、枕を小脇に抱えたような気がする。
眠い目をこすりながら、上がりがまちでごそごそと動いていた人影に、うしろから声をかけた。
――しーしょ……?
――あ、あら? なあに、ハナちゃん? おしっこ?
――しーしょ、ごはんどうする?
――ごはん? フフフ。そういえば久しぶりね、自分で作るのは。まあ、わたししか食べないからだいじょうぶよ。
――じゃあ、いっしょに行く。
――え……?
ハナは枕といっしょに彼女の腕の中に倒れ込んで、甘い香りの中で目を閉じた。
――あ、あの、ハナちゃん?
――しーしょ、ごはんヘタクソだから、ハナがいないとダメだから……せんたくも、おそーじも、おかいものも、せんたくも、ぜんぶ、ハナがする……。
あとはまどろんで、なにも覚えていない。
気がつくと、荷台の上でゆられていて、幌のすき間からのぞく地平線の朝日と、向かい合わせで目を閉じるあの人の寝顔を眺めていた。
(そうだ……じぶんは、自分で選んでついてきた。師匠は、選ばせてくれた)
ぬめる地面に両手をついて、背中を起こす。
伸ばした腕のきしむ痛みにたえ、笑っている膝を動かすために奥歯をかみしめる。
(師匠を支える。じぶんには、それだけなんだ。師匠の過去がどんなものであっても、投げ出してどうなるというんだ!)
片膝を立て直す。
すがるものさえあれば立ちあがれる。自然、手は腰の《大棘》へと伸びていく。
その柄にふれた指先に、ふと、ほのかなぬくもりを感じた。
脇腹のあたりを見おろし、眉をひそめる。
(……赤い、湯気?)
それはたしかに赤みがかった湯気のようだった。
立ちのぼる端から雨粒にかき消されてはいても、柄に巻かれた端切れのすき間というすき間から、ゆらゆらと絶えず流れ出ている。
「なに……これ……?」
ハナは戸惑いながらも端切れをはぎ取る。
白い蔦の這うような浮き彫りの柄があらわになると同時に、薄赤色の湯気が大きく立ちのぼった。
雨にまぎれるより先に、湯気はハナの鼻先をかすめる。
ほのかに甘い香りがした直後、ふわりと浮くような感覚がハナを見舞った。
(あ、れ……?)
体から力が抜ける。痛みのあった動悸と手足のだるさが急速に消えていく。
頭の中がぼんやりとした心地よさで満たされ、濡れた服の不快さや雨に刺し込まれる冷たさも感じなくなる。
未知の感覚に高揚した好奇心が湧いて、《大棘》に顔を近づけてみた。
甘い香りが鼻腔を満たし、あらゆるものがキラキラと輝き始める。
欲しいと思った。
今、この匂いがとても欲しい、自分のものにしてしまいたいと。
湯気は柄全体よりも、雨の流れ込む鞘と刀身の合間からより激しく噴き出している。
ハナはそのことを見て取ると柄を握り直し、ためらいもなく引き抜いた。
しのつく雨の中、白磁のような刀身をかざす。
見る間に紅色の薄煙をまとったそれは、暗雲の背にして赤い光を放っているようにも見える。
ハナは刀身を顔に近づけ、思い切り息を吸い込んだ。
頭のてっぺんからつま先まで、皮膚の下を甘く温かい煙に満たされていく心地がする。
《大棘》を両手で握りしめたまま、ハナはその場にどうと寝転び、雨水の中に身を浸した。
濡れた石畳が日なたの泥のように生温かく心地いい。
ほがらかな気持ちで空を向く。
青い炎のように輝く曇天の、なんと美しいことだろう。
その視界を不意にさえぎられる。
青い瞳のだれかが、ハナを真上からのぞき込んでいる。
老婆のように白い髪をしているが、身にまとうボロ布のすき間からのぞく肌はみずみずしい。まだ妙齢の、痩せこけた女だ。
女はハナに覆いかぶさるようにして現れたのに、視界に入るまでハナはまったく気づいていなかった。
その事実もまた愉快なことに思えてきて、ハナは女に笑いかける。
すると女も、かすかに口の端を上へ動かし、笑顔に見えなくもないものを形づくった。
それから女は、あいだに《大棘》を挟むようにして、ハナを抱きしめる。
甘い匂い。
女からは赤い湯気とおなじ匂いがした。
あるいはふたりともにもはや湯気とひとつになっていたのかもしれない。
濡れた髪と首すじ同士で溶け合って、境目のないふたりのまどろみの中を、奥へ奥へと落ちていく。
見あげれば、頭上にあたる位置に、四つ足の白い獣がいた。
細く長い脚と長い首が、筋肉質の胴から垂直に伸びる巨大な生き物。脚の先には太い蹄がついている。
顔も長く、鼻梁は人の腕ほどもあるようだったが、その左右にはあるはずのまぶたと眼窩がなかった。代わりに額の中央に、不自然に小さな空洞があいている。
獣はハナたちからおよそ十歩ほどのところで立ち止まっていたが、やはりハナには蹄の音を聞いた記憶がなかった。
それ以上踏み出してくる気配もなかったが、代わりにその首が伸びた。
空へ向かって弧を描いて伸び、落ちてきて、ハナの瞳を真上からのぞき込む。
ぼうっとその光景を眺めていたハナの目と鼻の先で、ヒトに似た四角い歯の並ぶ口が開いていく。
舌のない口腔の奥に、ハナは目玉を見た。
獣の喉奥でぎょろりと動き回る、黄金色の眼球を見た。
吸い込まれるようにそのひとつ眼を凝視すると、目玉もハナを見つめ返す。
やがて目玉の中心の、瞳の奥から光があふれだした。
乳白色の陽光にも似た強い光。
目を刺すほどのまばゆさにもかかわらず、ハナはまばたきひとつしていなかった。
光の中で塵に還っていく自分を錯覚していた。
きっと自分はまもなく世界の一部となるのだろうと予感していた。そしてそれがとてつもなくかけがえのないことのように思えていた。
すんでのところで、光が奪われるまで。
不意に曇天を仰がされる。
悲痛な叫び声と、雄叫びのごとき轟きが聞こえる。
なにをそんなに騒ぐことがあるのだろうかと、ハナはぬかるむまどろみに今一度身を任せかけた。
「どきなさい!! ヘティアッ!!」
上擦った怒鳴り声。
溶け合っていたぬくもりが消える。
「ああっ、ハナちゃん! もうこんなに……!」
甘い匂いも薄らいでいく。
口惜しい。なぜこんなことを。
あんなにも幸せだったのに。
「今助けるからね? ちょっとだけ我慢して」
ちょっとって、どのくらい? 今っていつのこと?
体を軽く浮かされる。
また正面に顔がある。
濡れそぼった朽葉色の髪と、涙を溜めた灰色の瞳。
どこかで見たことがある顔だけれど、上気した頬を冗談みたいに膨らませている。
こんにちは。どうしてそんな顔をしているんですか。
えぇと、どなたでしょうか?
勢いよく顔が顔に近づいて、半開きのくちびるに柔らかいものが押しつけられる。途端、体の真ん中を爆風じみた火照りがつらぬいた。
「――――――――――――――――ッッッッッ!!!!??」
鼻の奥の奥ではじけてはいけないものがはじけた気がする。
真っ黒な恐怖が目の裏側でほとばしり、背骨を殴られたようにハナは跳ね起きた。
次いで突きあげてきた嘔吐感と胸の痛みに喉から裂けて裏返りそうになる。咳に合わせて肺と腹筋と背筋に心臓から射出されるなにかが突き刺さる。
「ゲボゥッ、ゴボェッ! ぅッ……っぐぅ! い、いっだい、なにが、おごっで……!?」
息も絶え絶えに膝のあいだから顔をあげると、目の前の地面にボロ切れをまとう女性が転がっていた。
老婆のような白髪だが、若くも見える。目を閉じて力なく横たわっており、意識がありそうには見えなかった。
「ハナちゃん!」
呆然とするそばで声がする。
自分の名前。耳慣れた声。
背中から強く抱きしめられる。
驚いて身をよじり、ハナは肩ごしに背中を見ようとした。
そのハナの耳を、甲高く、えも言われぬ咆哮が刺しつらぬく。先にそちらを向いて、ハナは俄然目を奪われる。
「なっ、ぁ……!?」
曇天を割るようにそびえる四足の白獣が、いかにも憤然とした有り様でそこにいた。
蹄で石畳を打ち鳴らし、蛇のように伸びた首を半狂乱にうねらせ、鼻梁の長い頭をおどらせて異様ないななきをあげている。
獣の顔の両側に目玉はなく、咆哮のたびにヒトの頭ほどもある巨眼が喉奥に見え隠れする。
そのおぞましく荒ぶる正体不明の獣と、さらに対峙している者がそこにいた。
見まがいようもなく、ハナがずっと探していたうしろ姿。
あいかわらずの巨体を黒いローブで引き締め、尖りつばの帽子をかぶり、くちばし型の面鎧をつけている。長柄のマサカリを負う背をハナに向け、片手に持った短柄のマサカリを正面に構えている。
今にも首を伸ばして喰いつかんとする獣と、対照的に静かに張り詰める士人。
理解が追いつかないどころか、もはや人知を超えているような一触即発の様相を前に、ハナこそ絵に描いたように唖然とするよりほかになかった。
「ハナちゃん……わたしがわかる?」
耳慣れた声が、もう一度ハナを引き戻す。
今一度振り返りかけて、視界の端にえんじ色の刺繍と朽葉色の髪をとらえた。
「……師匠?」
「あぁ……」
涙まじりの言葉にならない声がする。「よかった……」ハナを抱きしめていた手がほどけ、背中から体温が離れる。
ハナは今度こそ振り返り、その人を見た。
小柄な女性だ。
ハナから見ればほとんどの人はそうだ、なんて、いつも陽気に茶化してはハナをからかう。
けれど、雨の中で悄然と座り込み、長い睫毛を伏せてうつむき気味に押し黙る姿は、砂のように流れてしまえば跡形もなく消えてしまいそうなほど小さく見えた。
「師匠、何が――」起きているのか、と訊きかけて、自分の片手に固い布がかけられていることに気がついた。
雨などから荷物を守るときに使う、水を吸わない布だ。
手だけでなく、その手がずっと握り続けている《大棘》をも隠すように、すっぽりと布はかけられていた。
「あなたは、気化した《陰清》を大量に吸い込んだの」
と師匠は言った。
「インセイ……? たしか、天幕に押しかけた人たちが求めていた……」
ハナが思い出して言葉にすると、師匠がうなずく。体の前で握っていたこぶしを、強く胸に押しつけるようにしながら。
「そう。《陰清》は、水が《大棘》を触媒にして変質した姿。特別な条件も手順もいらない。ただの水を《大棘》とふれさせるだけでたやすく生成できてしまう、揮発性の鎮静薬。強力な幻覚作用と、重大な依存性をともなう赤い水……」
「高依存性麻酔薬……!?」
ハナは目を見張る。
同時に、自分がそれを吸入するかたちで摂取してしまったことに慄然とした。
「し、しかしっ……」すがるように訊き返す。「《大棘》から精製される鎮静薬とは、『アムリタ』のことだったのでは!?」
「……ごめんなさい」
聞いたこともない低い声音で師匠は言った。
瞬時にその意味を悟るハナを置き、やにわに立ちあがる。
彼女はうつむき、ハナは見あげているのに、視線は重ならない。
「うそばかり……それで結局、あなたをこんな目に遭わせている……」
「師匠、それは……」ハナは夢中で口を動かした。
けれど声にならない。言葉に変えるべき順序を見失っていた。
なんのためのうそか。だれのためだったのか。
隠しごとをしていたのは、あなたばかりではない。
自らの矜持のためでしかなかったじぶんとは、きっと違う。
「ハナちゃん。見えるでしょう? あれが、刺獣」
師匠の背後、そこへ背中合わせに立つ士人の頭ごしに、蛇首の大獣の姿がある。
苛立つように前歯を打ち鳴らし、鼻を膨らませて荒々しく息まいている。
威嚇に動じない相手は獣の目には隙がないように見えるのか、自在に曲がる首が絶えず動きまわり、士人と対峙する角度を変え続けている。
「あの男、あなたに《大棘》を預ければ、わたしから隠し通すと初めからにらんでいた。そうなれば、いずれわたしたちの前に刺獣が現れる。直前でスラムの人たちをけしかけたのは、わたしの前でハナちゃんに《大棘》を抜かせたかったからよ」
「っな!? では、師匠のあらぬうわさを流したのは……」
肩ごしにうしろを見る師匠の流し目が肯定を物語る。
雨音の中とはいえ聞こえているはずの大きな黒い背中は、あいかわらずなにも語らない。
ハナは師匠とおなじく彼を見据えながら、新たに愕然とした気持ちといっしょに、凍えて鈍るような感覚を抱く。
「でも、わたしが追放者であることを告白してしまうとまでは、さすがに思っていなかったようね。それを聞いたハナちゃんが《大棘》を持って走り出してしまうことも。だから慌てて、わたしの前に姿を現した」
「そんな……そんなひとでなしのような真似までして、なぜ……」
「ひとでなし……」ハナの言ったことをくり返して、師匠は軽く息をはずませたようだった。
「ハナちゃんの口からそんな言葉が出てくるなんてね」
「師匠、冗談ではありません。どうしてそんな回りくどいことをしてまで、ミスターは師匠を巻き込みたかったのですか?」
「わたしに刺獣を殺させるためよ」
ハナはふたたび耳を疑った。「殺させる、って……」
師匠は表情を変えない。
その横顔は、またもハナの知らないところでなにかを決めてしまったように見えて、まだなにかを隠しているという予感と焦燥をハナの中でかき立てる。
「刺獣は不死だと、言っていたではありませんか」
「そうよ。普通の方法では殺せないわ」
「師匠は、その方法を?」
「知っているの。けれど……彼の思いどおりにさせるわけにもいかないの」
師匠がそう語気を強めた瞬間、ひときわ甲高いいななきがとどろいた。
士人がマサカリを振りあげる。
頭上から襲い来た四角い歯列が刃に食らいついて動きを止める。
生肉色の歯茎をむき出して刺獣がうなりをあげれば、士人の腰がわずかに沈む。
彼の応戦は的確で敏速だったが、反応自体はなにかに気を取られて遅れたようにも見えた。
いなせずに押しつぶされるかたちとなり、かつて燃える天幕を飛ぶ火球に変えた膂力をもってしても、刺獣の首は押し返せない。
「わたしは刺獣を解放する」
逼迫する攻防に見入りかけていたハナのそばで、師匠がそう言った。
いつしか青ざめた表情で彼女はハナを見おろしていた。
決意に満ちた言葉とは裏腹の、抑えがたい怯えが伝わってくるようだった。
「ハナちゃん、《大棘》をわたしにちょうだい。それを刺獣に返すの」
「返す?」
「刺獣はそれを取り戻しに来ただけなのよ。取り戻しさえすれば、それ以上なにもしない」
「師匠。それならじぶんが……」
言って立ちあがろうとして、ハナはぞっとした。
へたり込んでいる自分の腰から下を思わず見おろす。
「まだ末端の感覚がないんでしょう?」
今の今までハナ自身も気づいていなかった体のことを、しかし師匠は承知していた。
「《陰清》が抜けていないせいよ。あなたに使ったのは解毒剤や中和剤のたぐいではなくて、強力なだけの単なる気つけ薬。意識は取り戻せても、肉体への作用は取り除けない」
師匠はふたたびしゃがみ込むと、ハナの肩に右手を、左手を撥水布ごしの《大棘》の上にそっと置いた。
目には弱々しくも光があった。
「だからわたしが、《大棘》を刺獣に返す。……これはわたしの仕事なの。五年前、里に置いてきてしまった、果たすべきわたしの役目」
「置いてきたって……なぜ今、里の話が――」
「そいつはちぃと話が違うんじゃないかい、お師匠サマよぅ?」
雨音と会話を切り裂くように、声と、そして鋭い風切り音がした。
直後にくぐもったうなり声がすぐそばでする。
マサカリごしに刺獣を受け止めていた士人の、肘と腰が落ちる。
「ミスター!?」
反射的に叫んだ途端に、ハナは総毛立った。
かろうじてまだ刺獣に押し切られてはいなかったが、士人の二の腕と腿の裏に矢のようなものが突き立っている。
見覚えのある短い矢。
まさかと、ハナは矢の飛来した方角を振り向いた。
見据えた先の、少し離れた通りの角から、ちょうど人影が駆けだしてくる。
ぞろぞろと。十人はいるだろうか。
姿は一様に濃色の合羽と、ハナの記憶にも新しい幾何学模様の縁取りの頭巾。
手には小型のクロスボウ、あるいは急ごしらえの弓を持ち、通りの中央に並ぶと一斉に、つがえた矢の先をハナたちに向けてきた。
そして彼らの背後から、ひとり装いの異なる者が歩み出てくる。
赤く長い髪の女。師匠とおなじくらいの若さに見える。
左目の周りがどす黒く変色しているのは、なにかの病の痕か。片腕も新たに痛めているのか、添え木をした上から包帯を巻いて、布で首から吊っていた。
その痛ましい姿はこの場にあっても特徴づいて見えたが、ハナが最も困惑したのは、女の装いの方にだった。
「いい天気だなあ、ナーシャ?」
赤毛の女は師匠の名を呼ぶ。
知った風に。ハナたちとおなじように雨に濡れながら、さも機嫌よさそうに。
そのわざとらしい気さくさと、ぬくもりのない声色にハナは覚えがあった。
数日前に《大棘》を求めて襲ってきた彼ら、旅装の者たちのうち、同じ合羽をまといながら師匠を直接取り押さえ、興奮した様子で尋問していた女だ。
それは、それだけは間違いなさそうだった。
「絶好の裏切り日和だ。こんな日はあとだれとだれを裏切れば気が済みそうだ、ナーシャ?」
「ノルハ……」
師匠が赤毛の女の名を苦々しげに呼び返す。
ハナはいよいよ動揺する。
「あっちゃー、あたしの番だったかぁ」
女は呼ばれたことの意味を穿って悲嘆した言いぐさを始める。
濡れそぼつ髪をかきあげ、口角をつりあげながら。
「――なんてな。ダメダメ。こっちはもうすでにとうのとっくに、テメエやヘティアには裏切られまくってんだ。今さら一度や二度出し抜いたくらいじゃあ、雨は降り続けるぜ。わかってるだろ、ナーシャ?」
素顔を現した女の口から、またも知己のような言葉を聞かされ、ハナの困惑はこれ以上ない大きさへと達する。
名指しされた師匠の方は、渋面をますますくもらせながら、懇願するように女に語りかけていた。
「わたしはもう、裏切れない……!」
「……ほう?」
「ノルハ、考えて。いい機会なのよ。ひとたび風が吹けば崩れてしまう砂の砦だったと、最初からわかっていたことのはず」
「おぉおぉ、調子出てるなあ。本当にこんな雨だからか? それとも、追放されたことをバラされる心配がなくなって強気になってんのか?」
なにかを訴えかける師匠にも、赤毛の女は取り合わない。ことさらなあざけりに嫌悪をにじませる。
ふたりがなにを話しているのかハナは理解できない。
困惑の上に言いようのない焦りを上塗りされ、耐え切れず師匠にすがった。
「師匠、あの人、どうして……」
「よう、ハナ坊。おめえもいい天気だと思わねえか?」
ハナは目を剥いて女を見た。見たことのない生き物を見る目をしていることが自分でもわかる。
ただ彼女の羽織る上着の刺繍だけは目になじむばかりで、もう認めざるをえないところまで来ていた。
「あなたは、《洞》の?」
「おお、そうさ。こないだはわかんなかったみてえだな。今はわかるか? ホレ。お師匠サマとおそろいの《薬師のボレロ》だ」
そう言って彼女は、同郷のあかしを見せつけるように片腕を広げる。
「ただし、あたしらは《濁》。だからこの顔は知らねえだろ? 子どもは近寄らねえのが決まりだったしな」
《濁》……その名だけは覚えている。
《洞》の薬師たちの中でも、特に毒や危険な薬の扱いに長けた者たち。
その特性上、里の守護や警備を担うものの、里の外に出ることはほとんどなく、診療行脚を栄誉とするほかの薬師たちからは格下に見られがちな集団だったはず。
普通の薬師である師匠のもとにいたハナとは、接点などあろうはずもなかった。
「まあ、言われるまでわかんなかったのはお互い様だ。デカくなりすぎなんだよ、おめえ。普通より目立たねえガキだったし、桶に入れて運べそうなチビカスだったってのに、ヒヒッ、何だそりゃ? 背伸びぐすりでも見つけたか?」
「なぜです?」
「あん?」
目の前に、数年ぶりに見る師匠以外の《洞》の薬師がいる。
おそらく共にいる者たちも、合羽の下にはおなじ上着を羽織っているのだろう。
だというのに、ハナは懐かしさを微塵も感じていなかった。心臓は喜びではなく、まるで警告のように早鐘を打っていた。
《濁》と呼ばれる彼らが、その立場のまま自らの意志で里の外へ出てくることはない。
背中を押したものがあるとすればそれは、《洞》の意向にほかならない。
彼らの目的は《洞》の意志。
探し物は、あの夜言葉にしていた、今ここに存在するもの。
そして今日、師匠に詰め寄っていた、薬物依存者と思しき青年の言葉の端々。
――おい、知ってんだぜぇ? あんたが卸しのための原液持ってるって……
――里の薬師ってのは年に何度も出稼ぎに出るらしいじゃねえか……
――ずいぶんかしこく儲けてんだなぁ……
「なぜ、《洞》のあなたたちが、《大棘》を追っているのですか?」
ハナは問うた。問うことで、質さずにはいられなかった。
けれど――
「おうっとぉっ!? ハッハッハーッ! これだよ!」
赤毛の女は、大げさに取り乱すそぶりを見せたあと、さも愉快そうに大口をあけて肩をゆすり始めていた。
思いがけず勝ち誇るように。毒餌に喰いつく魚を見たように。
「なあ、ハナ坊。その質問はあたしに向けちまっていいのかい? ええ、ナーシャ! まさかあたしらと取り引きした仲ってことも、まだ隠してるんじゃないだろうなあ?」
「取り引きを? 師匠とあなたたちが」
「そうさ。そこで踏ん張ってる嘴野郎が、グルじゃなくてもテメエらの周りをうろついてやがるのはわかってたからなぁ。この街へ入ってから、ヤツがもう一度出てきたら知らせろってお師匠サマにはお願いしといたのさ。その代わりにあたしらは、お弟子ちゃんに真実を教えずにおいてやるって」
真実……大げさで芝居がかった赤毛の女の口上のうち、不思議とその言葉だけが生臭みを帯びて聞こえた。
師匠が追放者であったこと。それだけでは済まないかのような。
「さすがのお師匠サマだなあ、ナーシャ。隠しごとはもうねえなんてコキながら、知らない方がいいことは教えなくてもいいってことにしてあんだもんなあ!」
「……教えられるはずないじゃない」
それまでだまり込んでいた師匠が、重たげに口を開いた。
「わたしもハナも、あなたたちとはもう関係ないのよ」
「あぁ、ナーシャ。テメエはたしかにそうだ。だが、お弟子ちゃんはどうだろうなー?」
赤毛の女は意地悪く口角から奥歯をのぞかせると、ハナに向かって急に親しげな口ぶりを投げかけてきた。
「気づいてるか、ハナ? 里を追放されたってのはお師匠サマだけなんだ。おめえがどういう扱いかといえばだ……なんと、さらわれたのさ」
「っな!? 違います! じぶんは進んで――」
「ってことになってんのさ。どこのだれの仕業だかわかんねえことにもな」
「!?」
「《洞》への貢献者に対する長老どもからのご温情ってやつだ。おめえだけならいつでも戻ってこられるようにってご配慮でもある。ハナ坊、おめえはまだ《洞》の人間だ。今や《洞》の薬師か。そのご立派なおめえさんが、里の今を知らずに苦労してるってのは気の毒だよなあ」
含みのある言い回しに、ハナはいよいよ息を呑む。
「……里の今?」
「おうさ」
「やめて、ノルハ……!」
師匠がしぼり出すように訴える。
しかし一瞥もくれず、女はハナに応えた。
「ところで、《陰清》ってのは低温でもあっという間に気化してなくなっちまうんだ。そいつを液体のまま瓶に詰める方法がもしあるとしたら、どうすると思うね?」
「……!」
それで充分だった。
やはり、と言うべきか。
それでも、まさかであってほしいと、ハナは心から願っていた。
(売っているのか……《陰清》を!? 《洞》が、薬師の里の薬師たちが、里ぐるみで!)
教えられるはずがないと師匠は言った。
そのとおりだとハナも思う。
人を狂わせる安寧の薬。抗いがたい誘惑の素。
病に寄り添うはずの薬師が、病よりも始末の悪いものをばらまいて、人を虚無の暗黒に陥れている。それが今のあなたの故郷だと、どんな顔をして語れるというのか。
だが、その故郷からはるばるやって来た赤毛の女は、言葉をなくして青ざめるハナを眺め、まるで酩酊して唄い出すかのように笑ってみせた。
「なーぁんておっそろしいことをぉー、って顔だなぁ。そのお師匠にしてこのお弟子ってわけだ。しかも義理の母娘だってか? ええ、カアちゃん? 実のママンがどうなったかは、教えてやらねぇーのかい?」
「……ッ!?」
ハナは自分がまださらに動揺できたことを知り、愕然とした。
ハナは、母親のことをよく知らない。思えば、名前すらおぼろげにしている。
ハナとおなじく《洞》生まれの薬師で、ハナが生まれてすぐに事故で亡くなったと聞かされていた。
物心つくころには影もかたちもなかったその人のことを、今の今まで知りたいと思ってこなかった。なのに――
「……なにを考えているの、ノルハ?」
師匠はこれまでと違い、静かな怒りをにじませる物腰で赤毛の女を見つめていた。
それがまた気に入ったのか、女はイヒヒと声を立てる。
「いつまでも他人事みてえなツラさせてんなっつってんだよ。ハナ坊が生まれる前から話は始まってたんだ。そもそもどこのどいつがカビくせえ遺跡から『刺獣』と《大棘》を見つけて里に持ち帰ってきたのか、ってなあ」
「うそ……」
この赤毛のノルハという女性は、きっと人格が歪んでいる。
ハナは直感していた。少なくともこの女性が今、うそをつくことだけはないのだ、とも。
否定しようもないほどに。聞かされることはどれも信じたくないことばかりなのに。
「ハナちゃん、違うの」
飲み込まれそうなくらい強烈な直感を、師匠だけが打ち消そうとしてくれる。
「わたしとヘティアは、《大棘》の穢れにふれた水に、《陰清》に、新しい麻酔薬の可能性を見出した。だからこそ刺獣を連れて里に――」
「その麻酔薬サマにテメエの相棒はおぼれたあげく、『呪詛憑き』に墜ちたよなあ?」
ハナは視界が大きく揺らぐのを錯覚した。
雨音が途切れ、鼓膜にもう一枚膜が張られたようだった。
実感はなかったけれど、師匠に名を呼ばれ、肩を支えられたような気だけはした。
「呪詛憑きってのはあわれだよなあ。まず人間じゃあなくなる。自分の望みで《大棘》の触媒作用を増幅させて、自分がおぼれるために《陰清》の生成量を底上げし続ける、ただの装置だ。それでナーシャ? テメエが投げ出したアイツと《陰清》とを引き取って、《洞》に恩恵をもたらしたのは結局だれだった? よく考えて? いい機会だワ? 砂の砦とやらを建てようともしなかったテメエらに、あたしら《濁》が説教くらう筋合いがどこにあるってんだ? まして《大棘》を返して刺獣を解放しようなんざ……」
まくし立て、大きな息つぎをするころには、赤毛の女もどこかうんざりした顔をしていた。髪の先から垂れる雫まで震わせるような愉悦の色もどこかへ消え、ただただ鬱陶しげに頬を歪ませる。
「感謝はしてるさ。あー、してるしてる、してございますとも。テメエらが刺獣を見つけてくれたおかげで、《濁》は里で成りあがれた。里自体もうるおって、みんな虫や木の根を食わずに済んでる。今のガキは腹が減れば焼いた餅を食うんだ。昔の暮らしなんざ知りたくもねえだろうさ」
赤毛の女は吐き捨てるようにそう言って、手をさし出した。
「だから、見逃してやる。うしろの嘴野郎が潰れる前に、撥水布をかけたまま《大棘》を投げてよこしてとっとと消えろ。あたしらの矢の毒はよく知ってるだろ、ナーシャ?」
毒――と聞いてハナは、のろのろと重たい頭をもたげて士人の方を振り向いた。
彼はまだ膝をついていない。
だがもはや腰は落ち切って、ほとんど腕の突っ張りだけで刺獣を押さえていた。
矢傷の出血は雨でわかりづらいが、心拍が速くなればなるほど毒もめぐるだろう。
「……師匠」気力を振り絞り、ハナは口を開いた。
「《大棘》を、彼らに」
「ハナちゃん……わかってるのよね?」師匠は、だれかを気づかうように言った。
「渡せば彼らはまた、《陰清》を売り歩くようになるわ」
「わかっています。でも今はミスターを。それに……今の里の人々の暮らしを《陰清》が支えていることも、事実なんですよね?」
そう、それもある。
うまく想像できたわけではない。《陰清》から富の祝福を受ける〝里の今〟を。
けれど、仮にできたとしてその想像は、夢よりも夢のような現実として必ずあの地にあるのだろう。
少ない平地をたがやしながら、気まぐれな森の実りに期待を寄せなくてもいい山里。
冬支度に追われることもなく、女たちは着飾り、男たちは上等な楽器を手にして、たえなる歌と調べを野に送る。
何の上に成り立っていたとしても、その平穏を奪われて当然だと言える峻厳さをハナは持てなかった。
「……そうね。それをわたしたちに……わたしに正される筋合いなんて、今さらなかったのよね」
「師匠……」
おのれに言い聞かすようにうなずく師匠に、ハナは心の中だけで問うていた。
それでもあなたは、正そうとしたから、今里の外にいるのではないのですか――と。
声に出せば、まるで責めているように聞こえたことだろう。
虫のいい言い訳に過ぎないと、師匠自身が考えていることも知っていた。
だからハナは、なにも言わずに《大棘》をさし出したのだった。
巻きつけた布ごしに、師匠が手を添え、ハナは手を離す。
あとは師匠が、《大棘》を《濁》の者らに投げ渡して、それで終わる。刺獣の注意もそちらへ向くことだろう。
《濁》の者らは刺獣をおとなしくさせる方法を知っているのだろうか。
刺獣と彼らがぶつかる間に、ハナは立って歩きだせるだろうか。
わからない。そこから先が浮かばない。
考えるべきことが山ほどある気がした。ただ、考えるためになにをなすべきなのかが、まどろみの中にいるように曖昧で。
師匠は、なかなか《大棘》を投げようとしない。
まだ迷っているのかと思えば、なぜか見開いた目でハナを見ていた。
腕にはくたびれた布の包みだけを抱えている。布の包みは、なにも包んでいないかのように手の中でひしゃげている。
師匠はその中身を持っていない。
「え……」
視界の端に、煌々と輝くものがある。
手のひらと指に不気味になじむ固い感触がある。
ハナは撥水布の中から引き出したばかりの自分の手に目をやった。
煌々と、白磁のような刀身が、降りかかる雨を絶えず薄赤色の湯気に変えていくせいで、妖しい光をまとったかのような姿をさらしていた。
できるだけ多くの雨を受けようとするかのように、美しく反った刃は水平に置かれ、前を向いた切っ先は、どこかを狙いすましているかのようで。
ハナが目でたどったその延長線上に、師匠の白くやわらかそうな喉元があった。
「ハナ、ちゃ……」
その喉元がかすかに動いて、なにか言おうとする。
灰色の瞳のふちに玉の涙が浮かんで、しとど濡れた頬ににじんでいく。
そしてハナは、自分の手が握る《大棘》の切っ先が、師匠の首すじに迫るのを見た。
来週末次話投稿予定【済】。
☆ 2021年1月30日、再推敲版に差し替えました。文章の洗練と漢字レベルの調整、ルビの振り直しなどを行っております。内容に変更はありませんが、台詞の差し替え等によって理解しやすくなった箇所はあるかと思われます。