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第五章 魔族の喧嘩4

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『マリーズ・ケルベロスの敗北宣言により、シンジ・リュウオウの勝利が確定。ランキングが入れ替わり、ランキング36位マリーズ・ケルベロス、ランキング8位シンジ・リュウオウとなります』


 決闘の終結を知らせる声がどこからか聞こえてくる。三頭身トカゲが「うっしゃああああ!」と拳を振り上げて、すぐにくるりと背後へと振り返った。


「見たか茜! 俺が勝ったぞ!」


「あら流れ星。馬鹿は滅びろ、馬鹿は滅びろ、馬鹿は滅び――」


「うおぃいいいいいい! 見てたかってんだ茜! 勝ったんだよ俺が!」


 夜空を見上げていた栗色髪の少女が、嘆息まじりに三頭身トカゲを半眼で見やる。


「あー……はいはい。すごいすごい」


「なんだよ、もっと喜んでくれよ。これで元の世界にまた一歩近づいたんだぜ」


「あくまで保険だし。それより終わったなら早く帰りましょ。もう眠たいのよ」


 気のない返事をする栗色髪の少女に、三頭身トカゲが「頑張りがいがねえな」と肩を落とす。何とも呑気なやり取りと言える。とても死闘を繰り広げた後とは思えない。体力も魔力も使い果たし、力なく地面に座り込んでいたマリーズは、そんな二人の姿に――


 思わず笑いが込み上げてきた。


 決闘前の自分ならば、二人の態度を苛立たしく感じただろう。ケルベロスの長として、闘いを愚弄されたと憤慨しただろう。だが今は不思議と、晴れやかな気分であった。


 この心境の変化は何なのか。自分でもよく分からない。だが何となく感じることもある。ケルベロスの長となり、これまで自身の感情を抑え込んできた。ケルベロスの長に相応しい自身を振る舞ってきた。だがこの決闘の決着間際に、ケルベロスの長としてのしがらみを忘れて、自身の感情が赴くままに全力を出すことができた。


 それが――とても心地よかった。


(もっとも……負けたのは悔しいがな)


 マリーズは浮かべた笑みを音もなく消すと、三頭身トカゲに赤い瞳を向ける。


「……シンジ・リュウオウ。お前にひとつ尋ねたい」


 こちらに振り返る三頭身トカゲ。怪訝に首を傾げる彼に、マリーズは瞳を尖らせる。


「どうして……最後の攻撃をわざと外した。情けをかけたのなら許しはしないぞ」


「あ? 別に情けとかそんなんじゃねえよ」


 三頭身トカゲが短い腕を組んで、そう答える。彼の返答に、「ならば、なぜだ?」とマリーズは口調を強くした。三頭身トカゲがつぶらな瞳をゆっくりと瞬きさせ――


 ニヤリと笑う。


「ここでテメエを殺しちまったら、もうテメエと喧嘩できねえだろ? そんなのもったいねえじゃねえか。こんな興奮できる喧嘩相手なんざ、そうそういねえだろうしよ」


「……は?」


「またやろうぜ。今度も俺が勝つけどな」


 そうカラカラと笑う三頭身トカゲ。屈託なく笑うその彼を、マリーズは赤い瞳を丸くしてしばし見つめた。ひとしきり笑った三頭身トカゲが、呆然としているこちらを、不思議そうに眺めてくる。彼の魔族らしからぬ、緊張感のないその顔に見つめられ――


 マリーズは頬を自然と綻ばせた。


「お前は……ケルベロスよりもケルベロスらしい男だな」


「何だそりゃ?」


 言葉の意味が分からないのか、思案するように首をクルクルと回す三頭身トカゲ。その彼の挙動がどこかコミカルで、マリーズはつい「ふふ」と笑い声をこぼす。


(リュウオウ……まさかな)


 第一回トーナメントの覇者。初代魔王。その魔族がリュウオウという名の種族だ。しかし話によれば、リュウオウは初代魔王となった魔族ただ一人の種族であり、その力を受け継いだ魔族はいないと聞いている。


 この男が初代魔王と関りがあるのか。それは分からない。遠い土地で暮らしている異なる種族の名前が、偶然に一致することもないわけではない。だが確かに言えることがひとつある。この男と初代魔王の関係はともかく、この男はリュウオウに相応しい――


 力と闘争心を有しているということだ。


(こんな……面白い魔族もいるんだな)


 そう微笑んでいると――


「まさか貴方が敗北するとは、思ってもみませんでしたよ。マリーズ・ケルベロス」


 そんな嘲りに満ちた声が掛けられた。


 聞こえてきたその声に、マリーズは微笑みを打ち消す。穏やかな心に立つさざ波。彼女は赤い瞳を尖らせると、嘲りの声が聞こえてきた方角に視線を向けた。


 視線の先に、こちらへと歩いて近づいてくる十数人のケルベロスの姿がある。全員が黒のつなぎを着た軍人だ。その彼らの先頭に立つのは、隔世遺伝体である細目の男――


 ディオン・ケルベロスであった。


 突如姿を現したディオン――なぜか頬が大きく腫れている――に、「テメエは……」と眼光を尖らせる三頭身トカゲ。その彼に向けて、ディオンがさっと手のひらをかざす。


「勘違いするな。貴様にはもう用がない。私の用があるのは――」


 こちらの目の前で立ち止まり、ディオンが細い瞳をさらに鋭利に細める。


「この負け犬のほうだ」


「……ディオン」


 犬歯を剥くマリーズ。凶暴な表情をする彼女に、ディオンが肩をすくめる。


「何たる醜態ですか。我らケルベロス族の長であられる貴方が、ランキング36位などに成り下がるとは。先代であられる貴方の御父上はさぞ嘆いていることでしょうな」


「……それが貴様の本心か。ようやく本性を現したというところだな」


 女である自分がケルベロス族の長に収まることを良しとしない者がいる。それはマリーズとて理解していた。これまでマリーズに対して、忠誠ある言葉を並べていたディオンだが、そこに男の本心がないことぐらい、彼女もとうに気付いている。隠していた牙を閃かせるディオンに、マリーズは舌打ち混じりに言葉を吐き捨てた。


「私は死力を尽くして闘った。恥じることなど何ひとつない」


「ケルベロス族の長とは思えぬ言葉。重要なことは何を置いても、勝利することのはず。負け犬に過ぎない貴方には、もはやケルベロス族を率いる資格などないのです」


「……だとしたらどうする?」


「貴方にはケルベロス族の長という立場を退いていただきたい」


 訓練場に集まっていた人々がざわりと騒めいた。ディオンの言葉が意味するもの。それを彼らも理解したのだろう。マリーズは眼光を鋭くさせ、慎重にその言葉を呟いた。


「……反乱というわけか?」


「貴方が素直にそれを受け入れなければ、そういうことになりますな」


「後ろにいる連中は貴様の心棒者ということか。随分と心もとない人数に思えるが?」


「ご安心ください。貴方が協力して頂ければ、部下など幾らでも増やせるでしょう」


「私が協力? 何だ、お前に切断された私の首を掲げさせてやればいいのか?」


「貴方には私の子供を産んで頂きたい」


 ディオンの告げた悍ましい言葉に――


 マリーズの全身を寒気が襲った。


 ギラギラと赤い瞳でこちらを見据えるディオン。その奥に湛えられた下卑た欲望。これまでに感じたことのない類の悪寒に、マリーズは表情を強張らせた。


「……貴様の子供をだと?」


「貴方はケルベロス族の中で突出した魔力を有しております。その貴方と、ケルベロス族の二番手であるこの私との子供なれば、必ずや魔界随一の魔族となりましょう」


 ちらりとディオンの瞳が、こちらの胸元を舐めるように一瞥する。それだけで背筋に虫唾が走った。ケルベロス族の長として、これまで他者の視線に多く晒されてきた。だがその大多数の視線は、こちらに恐怖した慄きの視線であり、このような――


 好色の視線は初めてだった。


「そのような戯言に、私が素直に協力するとでも思っているのか」


 声が震える。こちらの心理を見透かすように、ディオンが気味悪い笑みを浮かべた。


「そう願いたいのですが、もし抵抗するのであれば力ずくということになりますな」


「貴様ごときに私が抑え込めるとでも?」


「力を使い果たし、身動きすらろくにできない貴方ならば、容易なことですよ」


「……一日もあれば体力など回復できる」


「安静にしていればそうでしょう。ですがそのような隙を与えるつもりはありません」


 マリーズの表情がさらに強張る。まともな状態で生かされることがない。それを理解したからだ。自分は果たして、これからどうなるのか。その未知の恐怖が、彼女がこれまで築き上げてきた、ケルベロス族の長としての強き姿にヒビを入れていく。


 赤い瞳を小さく震わせるマリーズに、ディオンがニンマリと舌なめずりをする。


「そう怯えないでください。すぐに自分から尻尾を振るよう教育してあげますよ」


「――っ……ふ、ふざけるな!」


「その強がりがどこまで続くか楽しみです。さあマリーズ様をお連れしろ」


 ディオンの背後に控えていた彼の部下がこちらへと近づいてくる。マリーズは全身に活を入れて、立ち上がろうとした。だがやはり消耗が激しく身動きができない。なまじ生命力があるだけに、この体力では自害することさえ難しいだろう。


(――くそ……)


 マリーズは沈痛に胸中で声を震わせた。


 ケルベロス族として生きてきた。女性であることを捨てて、ケルベロス族に相応しい魔族であろうとした。だというのにその結末が、捨てたはずの女性であることを利用されて、惨めな一生を過ごすというものか。そんな終わり方だというのか。こんな――


 こんなことなら――


(もっと……自分に素直に生きてみたかった)


 首の千切れたヌイグルミ。ポケットに入れられたヌイグルミの欠片を、コートの上からそっと触れる。こちらが見せた諦めの気配に、ディオンの笑みが一段深くなった――


 その時――


「――ぶげぇえええええええ!」


 ディオンが盛大に鼻血を噴いて、後方に吹き飛んだ。ぎょっとして、こちらに近づいてきていたディオンの部下が足を止める。ぽかんと赤い瞳を丸くするマリーズ。彼女が呆然と見つめるその先。軍人と彼女の中間に立ちはだかる存在。


 それは丸いシルエットの――三頭身トカゲであった。


「何だか話はよく分からねえけどよ……テメエら全員、ウザてえぞ」


 ドスの利いた低い声音でそう呟いて、振り上げていた右足――ディオンを蹴り飛ばした足――をゆっくりと下す三頭身トカゲ。地面に転がったディオンが慌てて上体を起こし、鼻血に濡れた表情を強張らせつつ、「きき……貴様!」と声を荒げた。


「何をするんだ! 貴様にはもう用がないとそう話しただろうが!」


「ああ? 知るかボケ。ムカついた野郎をけっぽって、何が悪いんだよ?」


「普通はムカついたからと蹴るのは駄目だろ! どういう躾を受けてきたんだ貴様!」


「うるせえな。悪役面して正論かましてんじゃねえ。んなことより、さっさと来いよ」


「な……何?」


 困惑するディオン。三頭身トカゲが半身に構えを取り、右拳を正面にかざして見せた。


「やるんだろ? 喧嘩をよ。テメエら雑魚どもじゃあちと物足りねえが、まあこっちもさすがに疲れてんしな。我慢してやるよ」


 至極当然のようにそう語る三頭身トカゲに、ディオンとその部下が呆然とする。三頭身トカゲの意図を計りかねているのだろう。だがそれはマリーズも同様であった。こちらに背を向けてディオンらを見据えている三頭身トカゲに、マリーズは怪訝に尋ねる。


「……何のつもりだ、お前は?」


「何って、だから喧嘩だろうがよ。まあ単なる消化試合だ。ちょいちょいと済ませるさ」


「……まさか私を助けているつもりか?」


 ギッと赤い瞳を尖らせて、マリーズは背を向けている三頭身トカゲに唾を飛ばした。


「余計な真似をするな! 誰かに助けてもらうなどケルベロスとして屈辱極まりない!」


「お前もうっせえな。助けてやるだとかそんな恩着せがましいこと考えちゃいねえよ」


 がなり立てるこちらに振り返り――


 三頭身トカゲが荒々しく笑う。


「俺が連中にムカついたから喧嘩すんだ。誰のためでもねえ。俺自身のためだ。お前がそれを嫌がろうと、そんなの知ったことかよ」


 この言葉に、マリーズは息を詰まらせた。


 善意も悪意も関係なく、この男はただ自分が思うままに行動している。そこに他者の意思が介入する余地はない。今もそうなのだろう。この男は言葉の通り、こちらのことなど考えてもいないはずだ。ただ目の前に喧嘩相手を見つけて――


 ギラギラと眼光を瞬かせているのだ。


 なんと――


(自分勝手な男なんだ)


 そしてなんと――


(自由な男なんだ)


 それがこの男の意思であれば、その意思に無関係なマリーズが何も言えるはずもない。きゅっと唇を結んで、三頭身トカゲの背中を赤い瞳で見つめるマリーズ。三頭身トカゲが煽るようにディオンらに手招きする。


「おらおら。どうした? そっちから来ねえなら、こっちから行くぞ」


 三頭身トカゲの挑発に、ディオンが鋭く舌打ちをして、自身の部下に指示を出す。


「こんな馬鹿は放っておけ! マリーズだ! 奴の確保を最優先に行動しろ!」


 的確な判断だ。ディオンに三頭身トカゲと戦う理由などない。これだけの人数がいれば、三頭身トカゲの隙を突いて、身動きの取れないこちらを拉致することは可能だろう。


(ちっ……こんな足手まといに……)


 だがやはり身動きひとつ取れそうにない。自身の情けなさに歯噛みしていると――


「おっと、そう来るつもりならよ――」


 くるりと振り返った三頭身トカゲが、トテトテと足早にこちらへと近づいて――


 マリーズの体をひょいと腕に抱きかかえた。


「――へ、ひぇあああああああ!」


 思いがけない三頭身トカゲの行動に、ヘンテコな悲鳴を上げてしまうマリーズ。腕の中で狼狽するマリーズなど気にもせず、三頭身トカゲが意気揚々と声を上げる。


「これでどうだ! 俺をぶっ倒さねえと、マリーズは手に入らねえぞ!」


 三頭身トカゲのこの行動に、表情を憎々しげに歪ませるディオン。三頭身トカゲの言う通り、これで彼を倒さない限りはマリーズを拉致することができない。だが当のマリーズは、そのようなこと考える余裕もなく、赤い瞳を動揺で激しく揺らしていた。


「おま、お前……なな……なんてことを……まま……街のみんなも見ているんだぞ」


 そう声を絞り出しながら、マリーズはぐるりと視線を巡らせた。訓練場に集まっていた街の人々。その彼らが見つめる視線の先。そこには、ケルベロス族の長にして、一族最強の戦士、一睨みで誰をも震え上がらせてきたマリーズ・ケルベロスの――


 お姫様抱っこされている姿がある。


「マリーズ様ってば可愛い」


 どこかの少女がそう呟く声が聞こえた。少女の母親と思しきケルベロスが少女の口を慌てて塞ぐ。だがもう遅い。マリーズはその少女の言葉を聞いてしまったのだ。


(可愛い? 誰が? 私が?)


 その直後にマリーズは――


 心の奥底に隠していた感情が――


 何重もの扉で封じ込めていた本質が――


 一気に噴き出してくるのを感じた。


「い……いやあああああああああああああああああああああああああああ!」


 女性特有の甲高い悲鳴を上げて、マリーズは顔を真っ赤に染め上げた。プシュウと湯気まで立ち上らせたその顔を、咄嗟に手のひらで隠して肩をすぼめるマリーズ。そんな彼女の異変になど構わず、三頭身トカゲが嬉々として声を荒げる。


「うしゃあああ! 行くぞテメエら! 全員蹴り飛ばしてやっから覚悟しやがれ!」


「きゃああああああああ! きゃあああああああああ! きゃあああああああ!」


 ディオンらに駆けていく三頭身トカゲ。その太くて柔らかい腕に抱えられ、マリーズは絶叫が止まらなかった。三頭身トカゲが足だけで次々と敵を打ち倒していく。だがその乱暴な動きの中、こちらに危害が加わらぬようさりげなく立ち回っている。口ではああ言いながら守られている。このマリーズ・ケルベロスが男に守られている。


 まるで――絵本に登場するお姫様のようだ。


「ドド、ドキドキが止まらなぃいい! 口から心臓が飛び出してしまいそう! これが男に守られる女の子の気持ちなのね! これが憧れのシチュエーションなのね! キュン死するぅうう! 私は今とってもか弱いわぁああ! ヒロインやってるわぁああ!」


「――だっ……ちょ、オイ! 何をそんな騒いでんだマリーズ……って、止めろ! そんな足をバタバタと揺らすな! 手で顔を叩くな! 動きにくいだろうが!」


「私ってば今、お姫様抱っこされて悪人から守られているのぉおお! いたいけな女の子なのぉおお! この後はきっと、白馬とかが脈絡なく現れて、王子様と一緒に夢の世界に旅立って、幸せな家庭を築くのぉおお!」


「体をぐねらせるな! 落としちまうだろ!」


「きゃあああああああ! 溶けちゃう! 体が熱くてとろけちゃぅううううううう!」


 困惑する三頭身トカゲを他所にして――


 マリーズは夢心地に黄色い声を上げ続けた。

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