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第五章 魔族の喧嘩1

 少女の赤い瞳。そこに大粒の涙が浮かび上がり、堪えきれないようにポロポロとこぼれ落ちた。少女の涙に濡れた瞳が見つめる先。絨毯の敷かれた寝室の床。


 そこに――バラバラに千切られたヌイグルミが転がっている。


「何度も言っているはずだ。我が娘よ」


 空気を重く震わせるその声に、少女はビクリと肩を跳ねさせた。千切られたヌイグルミに向けられていた少女の赤い瞳。まだ絶えることなく涙がこぼれているその瞳を持ち上げて、少女は声の主を見上げた。その声の主は、屈強な肉体を誇る大男であり――


 少女を含めた、一族を統べる長であった。


「我らケルベロス族は、闘争を本質とする戦闘の種族だ」


 ケルベロスの長にして、少女の父親である大男がそう語る。涙の止まらない赤い瞳で千切れたヌイグルミをまた一瞥する少女に、少女の父親が赤い瞳を凶暴に輝かせる。


「お前は直に、私に代わりケルベロスを統べることとなる。その器を有する者だ。そのお前が、このような下らぬものに心を寄せるようなことなどあってはならない」


「……でも……」


 掠れている声を必死に絞り出して、少女は力なく頭を振る。


「ケルベロちゃん……とっても……可愛いんだよ? だから……あたし……」


 父親の赤い瞳に鋭い眼光が瞬く。少女はぐっと言葉を呑み込むと、自身の父親から赤い瞳を逸らして沈黙した。少女の父親が口を開いて、鋭い牙を剥く。


「そのような軟弱な感情は、我らケルベロス族には不要なものだ」


 自身の父親のその言葉に、少女は小さな拳をきゅっと握りしめる。


 父親がそれを許さないことは予測できていた。だからこそひた隠しにしていた。父親に内緒で街へと一人で出かけ、こっそりと購入していた街で人気のヌイグルミ。可愛らしい姿のケルベロちゃん。それを自身の寝室の引き出しの奥に隠していたのだ。


 少女は日々を戦闘訓練に追われていた。休みなどほとんど貰えない。日中の訓練によりボロボロとなる心と体。そんな彼女のひそかな楽しみが、夜中に一人きりとなれる寝室でこのヌイグルミを眺めることであった。このヌイグルミを抱いている時だけは――


 ただの女の子に戻れている気がした。


 だがついにその少女の行動が、父親に露見してしまった。少女の大切にしていたヌイグルミは父親の手によりズタズタに引き裂かれ、床に破棄された。胴体から切り離されたヌイグルミの頭部。愛らしく微笑んだその表情に、少女の胸は強く締め付けられる。


「近いうちに、魔王を決めるトーナメントが開催される」


 少女の父親が独りごちるように呟き、その赤い瞳に闘志を燃え上がらせる。


「お前はその時、ケルベロス族の代表として戦わねばならない運命にある。自分が女であることを忘れろ、我が娘よ。ケルベロス族として不要な感情は捨て去るのだ」


 少女は改めて理解した。自分がケルベロス族であることを。ケルベロス族として在らねばならないことを。その運命から逃れることができないことを。


 自分が――女の子として生きてはいけないことを。


 少女の赤い瞳から絶え間なく流れていた大粒の涙が、まるで枯れたようにピタリと止まった。感情を源泉として流れていた涙。それが強制的に堰き止められた。


 それはつまり、少女の感情が固く閉ざされたことを意味している。


「お前には期待しているぞ。我が最愛の娘――マリーズ・ケルベロスよ」


 自身の父親の言葉に、少女は乾いた瞳に凶暴な眼光を輝かせた。



======================



(私は何を思い出しているんだ?)


 静寂した闇に満たされた寝室。その窓辺に立つ一人の女性。街の上空に浮かび上がる満月の、その蒼い月光に照らされて、赤い瞳を淡く輝かせているその女性は――


 ケルベロス族最強にして、一族を統括する長――マリーズ・ケルベロスである。


 普段ならば眠りについている時間だ。だが不思議とこの日は眼が冴えてしまい、こうして一人きりの寝室で、ぼんやりと月の光を浴びていた。


 長い睫毛に縁取られたマリーズの赤い瞳。いつも鮮烈な闘志を瞬かせ、誰をも恐怖に震え上がらせてきたその瞳が、今は穏やかな色に染められている。胸元にかざされた自身の手のひら。マリーズの赤い瞳が見つめる、その自身の手のひらには――


 千切れたヌイグルミの頭部が乗せられている。


(私はもう……あの時とは違う。ケルベロス族の長に相応しい魔族になれたはずだ)


 だがならばなぜ、このようなヌイグルミの欠片など残しているのか。ならばなぜ、未だに寝室の引き出しの奥に、このような残骸を隠しているのか。


(これは戒めだ。当時の女々しい自分には戻らないという――決意の証だ)


 胸中の自問にそう答える。だがまるでそれが自身に言い訳をしているようで、マリーズは苛立ちを覚えた。赤い瞳をゆっくりと閉ざして、鋭く舌を鳴らす。


(あいつの所為だ……あいつの所為で今更こんなことを考えてしまうんだ)


 瞼の裏にその男の姿を思い浮かべる。


 訓練場から出てすぐに、話し掛けてきた見慣れない魔族。何の捻りもなく真正面から決闘を申し込んできたランキング36位の男。その男の姿は珍妙であった。


 全体的に丸みを帯びた緑色のシルエット。大きな頭部につぶらな瞳。頭に乗せられた小さな王冠。パタパタと動かされる短い手足。フリフリと揺らされる太い尻尾。魔界には数多くの魔族が存在しているが、これほどに魔族の威厳を感じさせない種族も珍しいだろう。口調こそ荒々しいものであるが、むしろその外観とのギャップこそが――


(――くそ! 何であんな奴がこの街に来てしまったんだ)


 ザワザワと音を立てる心。マリーズは閉じていた赤い瞳を開き、ギリリと鋭くする。


 あの男の存在は危険だ。早急に対処しなければならない。そしてすでに手は打ってある。男を始末するために軍を緊急出動させた。住民を避難させることなく、住宅街にて軍事活動を行うなど、本来ならば厳禁だ。だがこればかりはやむを得ない。


(ランキング36位。その実力が本物ならば、軍だけで対処できるかは微妙だな。確実に仕留めるのならば、私が直接出るべきなのかも知れん。だがしかし――)


 あの男との接触は極力避けるべきだ。戦闘において負ける要素などないが――


 男の真の危険性はそこではないのだから。


(……とにかく、今は軍からの報告を待つだけか。仮にこれで仕留めきれずとも、この街から追い払うぐらいはできるだろう)


 そう考えていると、廊下からこちらへと近づいてくる足音が聞こえてきた。ケルベロスの聴覚をもってすれば、わざわざノックなどせずとも、来客者の存在が知れる。恐らくは軍の報告だろうと、マリーズはヌイグルミの頭部をコートのポケットにしまった。


 足音が部屋の前で止まり、一呼吸の間を挟んで扉が開かれる。開かれた扉の前には、黒のつなぎ――戦闘服に身を包んだケルベロスの軍人が立っていた。予想していた通り、先の作戦に関する報告であるらしい。


 マリーズは気を引き締め直し、現れた軍人を鋭く見据えた。彼女の赤い瞳に睨まれて、ビクリと体を震わせる軍人。もはや見慣れた反応だ。マリーズは胸中で嘆息しつつ、軍人が期待する報告を告げてくるのを待った。だがその軍人が報告したその内容は――


 彼女の想像とはかけ離れたものであった。


「至急お伝えします。軍の訓練場が何とも可愛らしい人形どもに占拠されました」


 その軍人の報告に――


 マリーズは思わず「……は?」と素の表情を浮かべてしまった。

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