第四章 奔走する馬鹿4
======================
「俺の言った通りだったろ?」
左腕に担がれているジョゼフが、偉そうにこくりと頷く。縄でグルグル巻きにされた体をクイッと反り上げて、少年が上空へと伸びる光を見上げた。
「あの光は――悪魔セーレの魔法だ。やはり小娘はセーレの関係者だったわけだな」
「んん……? まあ分かんねえけど、茜が見つかったんなら何でもいいか」
「うう……突然あんなに高く跳びあがるので、ビックリしちゃいました」
右腕に担がれているアリエルが、青い顔をして力なくそう呟いた。クルクルと目を回しながらも小さく微笑んで、彼女が茜を優しく見つめる。
「でも……本当に良かったです。アカネさんが無事で」
「まあ……うん。あれだ……アリエル。スカートがめくれあがってパンツ丸見えだ」
「え? ――きゃああああああああああ!」
腰までめくれたスカートをワタワタと直すアリエル。何となく彼女のパンツを定期的に見ている気がするのだが、そういう星のもとに生まれた女性なのだろうか。
とにもかくにも、真治は両腕に二人を抱えたまま茜のもとまで歩いて近づく。こちらを栗色の瞳で見つめたまま呆然と座り込む茜。彼女にしては珍しく気の抜けた表情だ。
光の柱が急速にしぼんでいく。真治を茜のもとまで引き寄せた奇妙な光。その根源は、茜がいつも首から下げていたネックレスの、その先に吊るされているペンダントであった。光が完全に消失して、茜の胸元でガラス細工のペンダントがキラリと輝く。
唖然としたように目を丸くして、こちらを見つめているケルベロス達。その彼らを一切無視して、真治は茜の目の前まで近づいて立ち止まった。そのまましばし茜と見つめ合う。こちらに据えられていた栗色の瞳をゆっくりと瞬かせて――
茜が呆れたように嘆息した。
「……どっから現れてんのよ。アンタは」
「空からだよ。入口を探すの面倒だからな、壁を跳び越えてきてやったんだ」
「……あやうく殺されるところだったわ。最悪。来るならもっと早く来なさいよね」
「そう文句言うなよ。これでも頑張って街中を探し回ってたんだぜ?」
眉をひそめる茜。座り込んだままこちらを上目遣いに見つめ、彼女が首を傾げる。
「アンタ……手紙を受け取ってないの?」
「手紙? なんだそりゃ?」
「貴様が宿から出てすぐに、街の彼方まで蹴り飛ばしたケルベロスのことだろう。恐らくあのケルベロスが持っていた手紙に、この小娘の居場所が記されていたのだ」
ジョゼフにそう指摘されて思案する。そういえばそんなケルベロスがいたような気もする。茜の捜索に夢中で、すっかりとその記憶が抜け落ちていた。「いやあ、あのことか」とカラカラ笑って誤魔化す真治に、茜がギロリと栗色の瞳を尖らせる。
「呆れた。やっぱ馬鹿ね」
「それだけシンジさんも必死だったんです。怒らないで上げてください、アカネさん」
アリエルからの助け舟。茜がまた大きく嘆息して――
栗色の瞳をこちらから僅かに逸らす。
「そんなの……見れば分かるわよ」
ぽつりとそう呟く茜に、真治は意外なものを見た気分だった。茜のことだ。てっきり、言い訳がましいと非難してくると思っていたのだ。どことなくしおらしい茜に、疑問符を浮かべる真治。瞳を逸らして沈黙する茜を、じっと見つめていると――
「……茜……お前」
彼はある事実に気付いた。
「唇が切れて血が出てんぞ……」
反応のない茜。彼女の答えを待たずに、真治はゆっくりと呼吸を整えて――
静かな怒りを声に滲ませる。
「……連中にやられたのか?」
「……別に」
どうでもよさげに呟く茜。だがその彼女の態度で、真治は確信した。
右腕に抱えていたアリエルを丁寧に地面に下ろして、左腕に抱えていたジョゼフを適当に捨てる。「ぶげっ」と地面に転がった少年を一瞥することなく――
真治は周囲にいるケルベロスを見回した。
「ちと待ってろよ、茜」
見た目の愛らしい着ぐるみ。その中で――
真治は瞳をギリギリと凶暴に尖らせていく。
「お前をぶん殴った奴を、俺がぶん殴ってやっからよ」
茜から返事などない。感謝の言葉などあるわけもない。だがこちらを制止する言葉もなかった。それで十分だ。真治は瞳に鋭い眼光を瞬かせて、ケルベロスを見据える。
状況の変化に戸惑い、ただ立ち尽くしていたケルベロス。だが真治から放たれる剥き出しの敵意に、彼らがその赤い瞳を警戒に尖らせた。十数人といるケルベロスを、端から順番に見回す。犬顔のケルベロスの中で唯一、人間の顔をしたケルベロス――
細目の男がニヤリと笑う。
「ふっ……何やら手違いがあったようだが、貴様がここに来たのなら計画通りだ。これから貴様には俺と決闘をしてもらう。もしも断るならば、俺の部下が貴様らを――」
「茜に手を上げた奴はどいつだ?」
細目の男の言葉を遮って、真治は押し殺した声でそう尋ねた。不愉快そうに表情をしかめる細目の男。しばしの沈黙を挟み、細目の男が「ちっ」と舌を鳴らす。
「貴様……この状況を理解しているのか。質問できる立場ではないんだぞ」
「誰だって訊いてんだよ。さっさと答えろ」
「いい加減にしろ。それより俺と決闘を――」
「……テメエか?」
巡らせていた視線を細目の男に固定する。細目の男が「ふん」と鼻息を突いた。
「だったら何――」
細目の男が言葉を言い終わる前に――
真治は細目の男を殴り飛ばしていた。
壊れた人形のようにいびつに体を捻じらせた細目の男が、空中に大きな放物線を描きながら闘技場の壁に激突、壁に弾かれてベチャリと地面に落下する。地面に伏したままピクリとも動かない細目の男。ぽかんと口を開けて沈黙するケルベロス達に、真治は細目の男を殴り飛ばした右の拳をかざして見せた。
「まだ喧嘩する度胸のある奴がいんなら相手してやるよ。だが覚悟しろよな」
ギラギラと眼光を輝かせて――
真治は全身から憤怒の気配を噴き出させる。
「俺は今、すげえイラついてっからな。手加減できる自信なんざねえぞ」
この言葉に――
ケルベロス達が一斉に悲鳴を上げて、散り散りになり逃げだした。
「そのペンダントは悪魔セーレの魔法が込められた魔法道具だ」
ケルベロス達が逃げ去り、闘技場には茜と真治、アリエルとジョゼフの四人だけが残されていた。手を貸そうとする真治を一睨みして、自力で立ち上がる茜。頬を蹴られた痛みも、脳に疼いていた重い眠気も、不思議と今はすっかりと消えていた。
唇の血を適当に袖で拭ったところで、茜がつけているネックレスについて、ジョゼフが腕を組みつつ――全身に巻かれていた縄はすでに解かれている――そう語った。
常に首から下げているネックレス。その先に吊るされたガラス細工のペンダント。手のひらに乗せたそのペンダントを無言で見つめる茜に、ジョゼフが怪訝に尋ねてくる。
「小娘。それをどこで手に入れた。悪魔の魔法道具など、滅多にないのだぞ」
「……これは」
やや躊躇いながらも、茜はそれを正直に答える。
「お母さんがくれたもの。あたしが小さい頃にお母さんは家を出て行ったんだけど、その時にお守りだって、これがあたしを守ってくれるって、そう話して渡してくれた」
茜のこの言葉に、真治が着ぐるみのつぶらな瞳をきょとんと瞬かせた。このネックレスの存在には気付いていた彼だが、このネックレスにそのような経緯があることまでは知らないのだ。茜の話を聞いて、ジョゼフが「なるほど」と頷く。
「母親か。これで得心したぞ。通常の魔法道具は、一度魔法を発動させればその効力は失われる。だがそのペンダントを見た限り、未だ魔力を衰えさせていない。それほどに膨大な魔力が込められているのだ。悪魔でさえも衰弱を免れないほどの強大な魔力――」
ペンダントから視線を逸らして、ジョゼフがこちらの栗色の瞳を見据えてくる。
「それほどの魔法道具を託すに、自身の娘であるというのは理解できる理由だ」
「つまり、あたしのお母さんは――」
「悪魔セーレだろう」
息を呑む茜。「小娘も気付いてなかったか」と嘆息し、ジョゼフが言葉を補足する。
「だが間違いないだろう。小娘の異常なまでの魔法のセンス。あれも悪魔セーレの娘だというのなら納得できる。何より小娘、お前の魔力にはセーレの気配が混じっている。それに気付いていたからこそ、俺はお前に同行して調査をしようとしたのだ」
「……アンタの調査って?」
「悪魔セーレの調査だ。もともと俺はオレアンダー森林で彼女の魔力の気配を感じ、調査に訪れていたのだ。そこに、彼女の魔力と酷似した魔力を有する小娘がいた。何かつながりがあると考えるのは自然だろう」
そう淡々と話をして、ジョゼフがその瞳を音もなくすっと細める。
「オレアンダー森林でもそのペンダントは一度魔法を発動させているはずだ。俺が感じた気配はそれだろう。何か心当たりはないか?」
心当たりは――ある。
だが茜はそれには答えず、また手のひらのペンダントに視線を落とした。こちらの答える気のない素振りに、ジョゼフが、「……まあいいだろう」と小さく溜息を吐く。
「えっと……魔法とか魔力とはいまいち分かんねえけど、つまり茜の母ちゃんは悪魔だってことだよな? だけど……それってあり得るのか? だってよ俺たちはその……」
首を捻りながら口ごもる真治。彼が何を疑問視しているのか。それは茜もよく理解していた。要領の得ない真治の疑問に、ジョゼフが眉をひそめつつ答える。
「田舎の島だから……ということか? 確かに普通の悪魔はそのような島に足を運ぶことはないだろうが、こと悪魔セーレに関しては十分にあり得るだろう。彼女は放浪癖があるからな。この魔界の隅々はもちろん、異世界にまで旅をしていたと聞くぞ」
ジョゼフの説明に、「おお」とポンと手を打つ真治。魔界における異世界となれば、当然ながら茜たちの世界も含まれる。異世界を跨いで旅をしていた悪魔ならば、茜たちの世界に訪れていたとしても不思議ないだろう。
(……何て、すっかりこの世界の常識に毒されているわね)
胸中で自身に呆れる。「それじゃあよ」と真治が着ぐるみの指をピンと一本立てる。
「茜の母ちゃんってこう……角とか羽根とか生えてたのか? こう悪魔って感じによ」
「それならあたしも変だと気付くわよ。髪と瞳があたしと同じ色の、全然普通の女性よ」
「そもそもシンジさん。私たち隔世遺伝体は悪魔様の容姿と酷似しているのですから、悪魔様がそのような魔族然とした姿であることはないと思いますよ」
苦笑交じりにアリエルから指摘され、真治が「そういやそうか」とコクコクと頷く。何とも素直な彼にクスリと笑い、アリエルが茜に向けて金色の瞳を優しく微笑ませる。
「悪魔セーレ様……アカネさんのお母様は本当にアカネさんを愛していたのですね。だからアカネさんのことが心配で、これほど高度な魔法道具をお作りになったんですよ」
「……そう……なのかしらね」
アリエルの屈託ないその言葉に、茜は声を詰まらせながら、小さく頷いた。
自身の罪悪感を減らすためだけの欺瞞。娘を想う理想的な母親像を演じるためだけの小道具。母から渡されたこのネックレスの意味を、これまではそう考えていた。お守りなどという抽象的な言葉を利用しただけで、捨てた娘に何もする気がないのだと思っていた。
だがそうではなかった。母はそのような抽象的な力に頼らず、確かな力により娘を守ろうとしていたのだ。娘の前からいなくなる自分の代わりに、娘を守る力を残しておいてくれたのだ。ガラス細工のペンダント。一見安物にしか見えないそれは――
偽りでない母の想いが込められていた。
(少なくとも、今のあたしなら……そう信じることができるかもね)
母が自分を捨てて姿を消したことは、紛いようのない事実だ。以前の自分ならばその事実を考慮して、母の想いに疑いを抱いていただろう。当然ながら今も、自身を捨てた母の行動に何も思わないわけではない。
だがこのペンダントに込められた母の想いを、今は信じてもいいと考えていた。少しだけ期待してもいいと考えていた。もしそれで裏切られるようなことになれば、自分は心を傷つけるのだろう。無様で情けない――
馬鹿になることだろう。
(……だけど)
それもいい。
馬鹿になってしまえばいい。
肩肘張らずに認めてしまえばいい。
そうすれば――
(いま感じている……この気持ちを……)
また味わえるのかも知れないのだから。
ガラス細工のペンダントをきゅっと手の中に握りしめて――
茜は小さく微笑――
「あれ? もしかして茜、笑ってんのか?」
――微笑まず、茜は無神経な真治にギロリと栗色の瞳を向けた。
「は? ふざけたこと言わないで」
「うおっ……何で怒ってんだよ?」
びくりと怯えたように肩を揺らして、真治が情けない声でそう呟いた。茜は「ふん」と息を吐くと、先端がカールした癖毛を指先で弄りつつ、真治に半眼を向ける。
「あたしのことはいいのよ。それよりトーナメントのほうはどうなってるの? マリーズと決闘するための方法。何か考え付いたの?」
「いやもう全然。とりあえず明日あたりに、また喧嘩ふっかけようとは思ってっけど」
「はあ……相変わらず馬鹿ね、真治は」
「んなこと言われてもな……って、ん?」
真治が着ぐるみの瞳をぱちくりと瞬かせる。
「あれ茜? お前初めて俺の名前をちゃんと呼んだよな」
「……悪い?」
余計なことを呟いた真治に、栗色の瞳を鋭く尖らせる。「いや……全然悪くねえって」と真治がブンブンと頭を振る。茜はこれ見よがしに舌打ちをして、話を続ける。
「……仕方ないわね。マリーズと決闘ができなきゃいつまでも街から離れられないし、果てしなく不本意で腹立たしいけど、あたしが決闘のお膳立てをしてあげる」
「いや嫌がりすぎだろ……って、あ? マジか茜!? 手伝ってくれんのかよ!」
「手伝うか青酸カリ飲むかなら後者だけど、残念なことに青酸カリが手元にないから」
「死を超越するほど嫌なのかよ! 何にせよ、やっぱ茜は頼りになるぜ!」
ガッツポーズをしながら、子供のように瞳をキラキラと輝かせる真治。この程度のことでこれほど喜ぶとは何と簡単な男だろうか。だが真治のように単純でないアリエルは、一人はしゃぐ彼を不安げに見つめた後、こちらにぽつりと尋ねてくる。
「あの……それはどのような方法でしょうか? もしも人質などというような方法であれば、私はその……賛成しにくいのですが」
「そんなことしないわよ。マリーズにとって誰が人質になるかなんて知らないし、ここにいる馬鹿がまっさきに反対するでしょうからね。あたしが使う方法は――これよ」
心配そうに眉尻を落とすアリエルに、さっと手のひらを差し出す。きょとんと金色の瞳を瞬かせるアリエル。一瞬の集中。茜は差し出した手のひらに――
モンスターの人形を一体生み出した。
「この魔法は確か……アカネさんの部屋に飾られているというモンスターの……?」
「そうよ。この人形を生み出す魔法で、マリーズとの決闘を実現するつもり」
「あの……この可愛いモンスターのお人形さんで……一体どうやって?」
懐疑的に首を傾げるアリエル。茜は「確証まではないけど」と断りを入れて――
栗色の瞳を輝かせた。
「マリーズがあたしと同じ馬鹿なら――これできっと上手くいくわ」