第四章 奔走する馬鹿3
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懐中時計を見据えたディオンが、こめかみに血管を浮き上がらせて低く呻く。
「……どうなっている。なぜ奴は現れない。もうとっくに来てもいい頃だろ」
怒気の込められたディオンの呟き。自身の予定とは異なるこの展開に、ケルベロス達が狼狽してざわつき始める。そんな彼らに――
茜は呆れて嘆息した。
「……ほんとに馬鹿ばかりね」
「……なんだと?」
茜の呟きに、ディオンがギロリとこちらに振り返る。赤い瞳をギラギラと輝かせ、口元から太い犬歯を覗かせるディオン。その彼の荒々しい表情は、獲物に食らいつく直前の肉食獣を彷彿とさせる。だが茜は何も臆することなく、淡々とした口調で語る。
「来るわけがないじゃない。あたしとアイツは仲間でも何でもないんだから」
「どういうことだ?」
「成り行きで一緒にはいたけど、ほんの数日前に出会ったばかりの、ほとんど他人よ。そんな相手のために、こんな見え透いた罠に飛び込むような馬鹿がどこにいるの?」
「貴様! 我々を騙したのか!?」
何とも身勝手な言い分で激昂するディオンに、茜はまた呆れて溜息を吐いた。
「そっちが勝手に勘違いしたんでしょ。巻き込まれたあたしとしては、いい迷惑だわ」
「ならばなぜそれを言わなかった! 初めからそれを知っていればこんな――」
「……そうね。期待して待っているアンタ達が、滑稽だったからかしら」
ケルベロス達の表情に明確な憤怒が浮かび上がる。特にディオンの怒りは激しいようで、赤い瞳を血走らせて、赤黒く染めた顔をプルプルと痙攣させていた。周囲に凶暴な殺気が立ち込めていく中、茜は平然と言葉を続ける。
「どいつもこいつも馬鹿ばかり。ほんとに嫌になるわ。あたしはね、馬鹿が嫌いなの。見ているだけでイラつくの。できればすぐにでも、あたしの前から消えて欲しいぐらい」
「……小娘……貴様……」
「まあこんな馬鹿な罠に飛び込まなかっただけ、アイツはまだ評価できるかもね。今一番馬鹿なのは、これだけ頭数揃えて待ちぼうけをしている、アンタ達でしょうね」
「……」
「下らない。馬鹿らしい。反吐が出る。もういいでしょ? あたし帰らせてもらうから。アンタ達のような馬鹿と違って、あたしは風邪もひいちゃうの――」
ここで言葉が途切れる。
視界が激しくぶれて、直後に側頭部にガンッと衝撃が叩きこまれた。一瞬の困惑。自分の身に何が起こったのか理解できない。地面に頭を打ち付けた音が、脳内で繰り返し反響する。その音をぼんやりと聞きながら、自身の頬に痛みが疼いていることに気付く。
頬を蹴られたのだ。それを今更ながらに茜は理解した。
「図に乗るな……小娘が」
ディオンの怒りに掠れた声。だが脳内にて反響する耳鳴りのせいで、それを聞き取ることができない。茜はいつの間にか閉じていた栗色の瞳を開けて、ぼんやりと目の前を見つめた。横倒しになった地面。そこに転がる小さな欠片。月明かりに照らされて、弱々しく輝いているそれは――
お守りとして母が残した、ガラス細工のペンダントであった。
どうやら服の中に隠していたペンダントが、転倒した衝撃で外に出てしまったらしい。細い鎖につながれた安物のペンダント。それを何の気なしに眺めていると――
ふと笑いが込み上げてきた。
(やっぱり……さっさと逃げてれば良かった)
そうすれば、こんな痛い思いなどすることもなかったのに。隙を窺うなどと悠長なことを考えずに、強力な魔法を不意に喰らわせてやればよかったのだ。
これは失態だ。慎重になるあまり状況の判断を誤った。ただそれだけのこと――
決して期待していたわけではない。
(来るはずもない人を待つなんて……馬鹿がすることだから……)
そして自分は――
馬鹿ではないはずだ。
「奴が来ないのならば仕方ない。だが貴様を無事で帰すわけにもいかん。貴様が奴の仲間でなかろうと、我々をコケにした代償は払ってもらう。つまり――死んでもらうぞ」
またディオンが何か話している。だがやはりその声も、脳内で反響する耳鳴りに千切られて、その形を失った。形を失い、また別の形に結ばれていく。心臓がトクンと跳ねる。脳内で新しく結ばれたその声は――
聞き覚えのある少女の泣き声だった。
「――さん……」
止めて!
声もなく悲鳴を上げる。だが幾ら悲鳴を上げようと、少女の声が止むことはない。それどころか、その少女の声は徐々に鮮明となり――
隠していた過去の記憶を呼び起こす。
「……いつになったら帰ってくるの……すぐ戻るって……約束したのに……」
玄関の前で膝を抱えながら、涙をポロポロとこぼして泣いている少女。彼女の涙に濡れたその栗色の瞳は、閉ざされた玄関の扉を一心に見つめている。
すでに十日目となる。少女はいつもこのように、玄関の前で膝を抱えて涙を流していた。帰るはずのない人を待つために。戻るはずのない人を期待して。少女は――
「……お母さん……早く帰ってきて」
母の帰りをずっと待っていた。
(――止めて! そんなの――違う!)
母は娘を捨てたのだ。戻ってくるはずがない。そんなこと分かっているはずだ。期待するなどあり得ない。来るはずもない人を待ち続けるなど――
(馬鹿のすることだ!)
場面が切り替わる。
見覚えのある部屋。ベッドに転がった少女。腕にはヌイグルミが抱かれている。母親からだとプレゼントされたヌイグルミ。それを強く抱きしめて、少女がすすり泣いている。
偶然聞いてしまった祖父母の会話。母親が娘の誕生日に連絡を寄こさないのはおかしいと、一人きりの娘が可哀想だと、そう話していた。それで少女は理解してしまった。
自分は一人きりなのだと。母親はやはり自分を捨てたのだと。
このプレゼントが祖父母の購入したものだとは、うすうす気付いていた。だがほんの少しだけ、本当に母親からのプレゼントなのではないかと期待した。だがその淡い期待も消え去り、少女の心はズタズタだった。
「どうして……もうあたしのこと……忘れちゃったの……お母さん……」
少女の消え入りそうなその声を――
力なく否定する。
(違う……あたしは違う……期待なんかしていない……昔から……ちゃんと分かってた)
来るはずもない人を期待するなど、あまりにも滑稽で愚かしい。馬鹿のすることだ。自分は馬鹿じゃない。馬鹿じゃない自分が母の帰りを期待するなど――
あってはならないことだ。
(あたしは……本当に……)
分かっていた――と思っていたかった。
馬鹿じゃない――と信じていたかった。
周りに惨めだと思われたくない。周りに無様だと知られたくない。全てが予定通りのことだと、全てが推測通りのことだと、そう平然としていたかった。馬鹿な連中だと呆れていたかった。そう振る舞うことしかできない、そんな自分こそが――
誰よりも馬鹿であると気付いていたのに。
(……分かってるわよ……あたしだって……)
本当は――真治が来るのを待っていた。あの馬鹿正直な男ならば、こんな捻くれた女を心配してくれているのではないか。見ず知らずの他人をも助けることができるあの男ならば、こんな可愛くもない女のために駆けつけてくれるのではないか。
それを本当は期待していた。
だがやはり結果は同じだった。
母と同じように期待して――
それは叶わなかった。
いつまで待っていても――
(あたしなんかのところには……誰も――)
駆けつけてなどくれないのだ。
右腕が掴まれて、強引に体を引き起こされる。ディオンだろう。骨が折れそうなほど強く握られるも、それに抗う気力もない。魔法で逃げる気も失せていた。頬の痛みが引くとともに、重い眠気が思考を鈍重にする。このまま何もせずもう眠りたかった。
朦朧とした意識のまま茜は――
ぽつりと心の声をこぼした。
「真治の……馬鹿」
――――
――――
その時――
胸元で眩い光が放たれた。
「――な……何だこれは!?」
目を焼き付けるような強烈な光に、ディオンがこちらの腕を離して後退していく。引き起こされた体をペタンと地面に落とし、座り込んだまま呆然とする茜。突然現れた奇妙な光。複雑な色彩に瞬くその光は――
茜の胸元にある、ガラス細工のペンダントから発せられていた。
「――これって……」
母がお守りとして娘に残した安物のネックレス。その先に吊るされたガラス細工のペンダント。なぜそのような玩具から、これほど強烈な光が発生しているのか。
困惑にただ目を丸くする茜。ペンダントから発生した光は、まるで柱のように頭上高くそびえ立ち、闘技場を囲い込む外壁をも超えて上空へと伸びている。これほどの光量ならば、街のどこにいようとも光の柱が見えることだろう。そう茜が考えたところで――
上空から声が聞こえてきた。
「うおりゃあああああああああああああああああああああああああああ!」
直後に、近くの地面が粉々に砕ける。周囲に飛び散った地面の欠片と、そこから舞い上がった大量の土煙に、慄きの声を漏らして大きくざわつくケルベロス。だがそんな彼らとは対照的に、茜は一言も声を発さずに、舞い上がった土煙を一心に見つめていた。風に吹き千切られて土煙が晴れていく。土煙の中から姿を現したのは――
頭に小さな王冠を乗せた、つぶらな瞳の三頭身トカゲだった。
「おお……マジでいやがったぞ。随分と探してたんだぜ、茜」
ゼエゼエと荒い息を吐きながら――
その三頭身トカゲ――
流王真治がニカリと笑った。