第四章 奔走する馬鹿1
満月の明かりに滲んだ夜。窓から差し込む月明かりを頼りにして、男は暗闇に包まれた廊下を歩いていた。ケルベロス族であるゆえに夜目が利く。日の沈んだ深夜であろうと、僅かな月明かりさえあれば、行動にさしたる支障はなかった。
男は今、とある屋敷の中にいた。ケルベロス族が統括する都市。ケルベロス都市。石材を積み重ねて作り上げられたその街で、一際規模の大きい屋敷。そこで暮らすのは、ケルベロス族において最も強い権力を有する者であり、それと同時に――
最も強い力を有する者だ。
(そして最も美しい女性でもある……か)
巷で噂されているその評価も胸中で付け加え、男は針のような目をさらに細めた。
目の前に両開きの扉が現れる。男は廊下を歩く足を止めると、扉の前で一呼吸入れる。僅かばかり緊張している。その女性と会う時はいつもそうだ。彼女の鬼気迫る赤い瞳に見据えられると、喉元に牙を突き立てられているような心地にさせられる。
男は額に滲んだ汗を拭きとり、扉をノックした。部屋から返事はない。だが男は構わずに扉を開き、部屋に足を踏み入れた。
屋敷に無数あるリビングのうちのひとつ。そこは無駄な装飾が一切なく、必要最低限の家具だけが揃えられており、全体的に伽藍洞としている。女性が暮らしている部屋としては物寂しいといえるだろう。だがその特徴こそ家主の性格を端的に示していた。この家主は女性らしさを嫌う。ケルベロスの長としてあるべき姿の体現者こそ彼女なのだ。
部屋の中に視線を巡らせて、家主である女性を探す。彼女はすぐに見つかった。大きな窓辺に配置された一脚の椅子。月明かりが差し込むその場にて、椅子に腰掛けて本を読んでいる一人の女性。黒い髪を肩口で切り揃えた、悪魔に酷似した隔世遺伝体。
ケルベロス嬢――マリーズ・ケルベロスだ。
「ディオン・ケルベロスです。マリーズ様。夜分遅くに申し訳ありません」
「前置きはいらない。要件を言え」
本に視線を落としたまま、最低限の音量でそう応える女性――マリーズ。こちらを見ようともしない彼女に顔をしかめつつ、男――ディオンは淡々と要件を述べる。
「先程耳にしたのですが、昼の珍妙な魔族を始末するため、軍を動かしたそうですね」
「だとしたら何だ?」
やはり振り返りもせず答えるマリーズに、ディオンはやや口調を強める。
「なぜそのようなことを……軍を動かせば民に要らぬ不安を与えますぞ」
「……あの魔族は私のランキングを狙っている。始末するのは当然だろう」
ここでようやくマリーズが本を閉じる。ディオンは頭を振り、眉をひそめた。
「決闘など受けずに聞き流してしまえば宜しいでしょう。何よりも、相手はたかがランキング36位。マリーズ様の脅威になるとは到底思えません」
「たかが……か?」
マリーズの赤い瞳がギロリとこちらに据えられる。凶器の孕んだ彼女の瞳に、ディオンは背筋を一瞬にして凍らせた。マリーズが椅子から立ち上がり、ゆっくりとこちらへと近づいてくる。その間、ディオンはまるで水に落とされたように、呼吸ができなかった。
ディオンの真横でマリーズが立ち止まる。彼女の瞳が外れたというのに、未だに呼吸が苦しい。ごくりと喉を鳴らすディオン。その彼の耳元で、マリーズが囁くように言う。
「ディオン……お前のランキングは何位だ?」
「……私は……109位です」
「そのお前が、たかが36位とよく言えたものだな」
表情が引きつる。マリーズが囁きに鋭利な刃を潜めて、淡々と言葉を続けた。
「私たちケルベロス族は、悪魔ケルベロス様の魔力を受け継ぐ誇り高い魔族だ。闘争本能が他の魔族より顕著な私たちにとって、強者であることは絶対的な価値を意味する」
「お……おっしゃる通りです」
「ディオン。軍内でも隔世遺伝体は数が少ない。お前はその一人であり、実質的には私に次ぐケルベロス族の二番手だろ? そのお前がいつまで109位などに甘んじている?」
「それは……機会に恵まれず……」
「私のことより体たらくな自分を何とかしろ。ケルベロス族の恥さらしが」
心臓にナイフを差し込むように、マリーズが鋭利な言葉を突き刺してくる。全身が強張り頷くことさえできない。ただ正面を見据えたまま硬直するディオン。その彼をひとり部屋に残して、歩みを再開したマリーズが音もなく部屋を去っていく。
五秒、十秒と経過する。だがまだ体を強張りが解けない。マリーズの赤い瞳がまるで楔のように、心に恐怖を縛り付けていた。ディオンがその楔を取り払えたのは、マリーズが姿を消して、一分が経過した後であった。
止めていた息を再開して、荒い呼吸を何度も繰り返す。全力運動を数分と続けていたような重い疲労感。ディオンは軽く舌打ちすると、犬歯を剥いて忌々しくうめく。
「くそ……女ふぜいが図に乗りおって」
闘争本能の一際強い魔族。それがケルベロス族だ。その長を女が勤めていること自体気に入らない。ケルベロス族を治めるべきは強き女ではなく、強き男であるべきだ。
「ふん……あの男勝りの小娘に、女としての可愛げなどは欠片もないがな」
女として上等なのは体だけだ。ディオンは舌なめずりし、赤い瞳を怪しく輝かせる。
とりあえず立場上やるべきことはやった。あとはこちらも自由に動けばいい。珍妙な魔族を始末するにマリーズが軍を動かすとは想定外だったが――
(それを隠れ蓑にこちらも動きやすくなった)
マリーズに言われるまでもなく、このままランキング109位に留まるつもりなどない。ケルベロス族の隔世遺伝体である自分は、より上位であるべき存在のはずだ。
(ランキング36位か……まだ物足りないが踏み台としては構わんだろう)
決闘はランキング上位者からしか申し込むことができない。だがその点についてはすでに手を打ってある。女のマリーズが一族を統率している現状を快く思わない者は彼だけではない。軍内にも少数ながら存在しているのだ。その者と共謀して、ランキング36位の仲間を拉致する手筈となっている。これで奴に決闘を強制させることができるはずだ。
(マリーズの奴は嫌うやり方だろうがな)
だからこそ隠密に動く必要があった。そして全てが順調に進んでいる。
(珍妙な魔族め。貴様の分不相応なランキングは、この私がもらってやるぞ)
そう一人ほくそ笑んで、ディオンは部屋を後にした。
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茜がさらわれた。
金色の瞳を涙で濡らしたアリエル・リザードマン。その彼女から語られた言葉に、流王真治はしばし呆然とした。如何せん、さらわれたとする人物があの芹沢茜なのだ。強力な魔法を行使する彼女が、容易にさらわれるなど信じられない。何よりも――
彼女はそのような危機を平然としながら払い除けてしまうような気がしていた。
困惑する真治に、アリエルが力なく頭を振る。
「いきなり扉からケルベロスの人達が現れて、ベッドで寝ていたアカネさんを連れて、窓から出て行ったんです。ごめんなさい。私何もできなくて……」
そういうことかと、胸中で得心する。茜は寝起きがすこぶる悪い。人の背中であろうとも、彼女は涎を垂らして熟睡できる人間なのだ。恐らく彼女は未だに夢の中におり、自分がさらわれたことにさえ気付いていないのだろう。
(にしても何で茜を? ケルベロス野郎の狙いは俺だけじゃねえってことか?)
舌打ち混じりに思案する。だが頭の悪い自分にまともな推測など思いつくはずもない。何よりも今は、呑気に考えている時間もなさそうである。廊下からこちらへと近づいてくる複数人の足音が聞こえてきていた。
「この建物は軍に取り囲まれている。逃げるならば別の建物に飛び移るのが良いだろう」
「うわああ!」
すぐ背後から聞こえた声に、思わず声を上げる真治。驚きつつ背後を振り返ると、そこには全身を縄でぐるぐる巻きにされた一人の少年が、平然とした様子で立っていた。
コボルト族のジョゼフ・コボルトだ。全身を拘束されているくせに、特に不都合もなさそうに起立しているその少年に、真治は怪訝に眉をひそめる。
「……お前、どうやってここまで来たんだ? それじゃあ歩くこともできねえだろ?」
「このように跳ねてみたぞ」
ピョンピョンと跳んで見せるジョゼフ。普通ならバランスを崩して転倒しそうだが、何とも器用な少年だ。呆れ半分、驚き半分に溜息を吐いていると――
開け放たれた扉から、複数人のケルベロスが部屋になだれ込んできた。
黒のつなぎを着込んだケルベロス軍。各所に巻かれたベルトには武器の類が装備されており、彼らはすでにそのひとつ――鈍色の輝くナイフを右手に握り込んでいた。真治は素早くそれを観察すると、瞬間的に思案する。倒せない相手ではない。だが――
(アリエルがいるとなると、あまり無茶することもできねえか?)
あとまあ、ついでにジョゼフも。真治はすぐさま決断を下すと、ジョゼフを左腕に抱え込んで踵を返した。窓に向かって駆けながら、今度は床にへたり込んでいるアリエルを右腕に抱え込み、勢いもそのままに窓枠に足をかけて――
向かいの建物めがけて跳躍する。
「――きぃやぁあああああああ!」
両手と両足をパタパタと振りながら、アリエルが絶叫する。彼女が体を揺らすたびに、彼女の豊満な胸がこちらの腕にバウンドするので、内心気が気ではなかった。
何とか気を引き締めつつ、眼下を素早く見渡す。街灯に照らされた通りには大勢のケルベロスが待機しており、建物の屋根へと跳躍するこちらを鋭く見上げていた。その数はざっと見ても五十人以上。予想を遥かに超える大人数に、真治はギリリと瞳を尖らせる。
(とことんやろってか。上等じゃねえか)
宿の対面にある建物の屋根に着地して、すぐにまた駆け出す。もしここが人間の暮らしている世界ならば、このまま屋根伝いに逃げることもできただろう。しかしここは魔界であり、この世界で暮らしているのは、人間の膂力を遥かに凌ぐ魔族なのだ。通りにいたケルベロス軍が当然のように屋根まで跳躍して、こちらを瞬く間に囲んでくる。
舌を鳴らして一旦足を止める。着ぐるみの中で瞳を鋭くし、周囲の包囲網を睨み据える真治。するとここでケルベロス軍の一人が一歩前に進み出て、牙の並んだ顎を開いた。
「我々の目標はあくまで、そこのつぶらな瞳をした魔族、貴様だけだ。お前が腕に抱えている二人には手を出すつもりはない。彼らを守るつもりなら、解放してやるんだな」
ケルベロスのその言葉に、真治は「ああ?」と着ぐるみのつぶらな瞳を尖らせる。
「何を寝ぼけたこと言ってんだテメエは。いくら俺が馬鹿でも、それが嘘だってことぐらいは分かんだぞ。もしそれが本当なら、何だって茜をさらいやがったんだ?」
「……何のことだ?」
「とぼけんじゃねえ! 茜をどこに連れて行きやがった! さっさと答えねえと、テメエら全員ボコして潰してジャンケンポンしちまうぞコラ!」
「……悪いが心当たりがないな。我々とは無関係のことだ」
怪訝に眉根を寄せるケルベロスに、真治のほうこそ怪訝に眉をひそめる。犬顔のケルベロスは表情の変化が分かりにくい。だが男がとぼけているようにも見えなかった。
「そんな……嘘です! 私は見たんですから! アナタ達と同じ服装をしたケルベロスが、アカネさんを連れ去るのを! アカネさんを返してください!」
右腕に抱えられたアリエルが、金色の瞳を涙に濡らしてそう声を上げた。だがやはりケルベロス軍の連中はピンと来てないようで、互いに顔を見合わせるばかりである。
(どうなっていやがる? マジで知らねえのか? それともしらばっくれてんのか?)
頭の悪い自分には判断のしようもない。困惑に奥歯を噛みつつ、真治はふと思う。
(ここに茜がいたら……何て言うんだろうな)
当の茜が連れさらわれているのだ。その答えなど出るはずもない。だが魔界を訪れてよりここまで、自分を導いてきた彼女の言葉を聞いてみたかった。
(くそ……面倒くせえ! 要はさらわれた茜を助けりゃいいんだろ!)
胸中で声を荒げる。するとここで、ケルベロス軍が一斉に躍りかかってきた。噛み合わない会話を早々に打ち切ったようだ。真治は大きく右足を振り上げると――
「ずおりゃああああああああ!」
足元にある屋根を力強く踏み抜いた。
石造りの屋根にひび割れが広がり、一瞬後に音を立てて倒壊する。下の階を圧し潰しながら崩れ落ちる屋根に為すすべなく呑み込まれていくケルベロス軍。真治は瓦礫を蹴りつけて跳躍すると、すぐ隣の建物の屋根に着地して再び駆け出した。
「おい貴様。どうするつもりだ?」
左腕に抱えられたジョゼフからの問いに、真治は視線を巡らしながら口早に答える。
「街中を駆け回って茜を見つける! 邪魔する奴はぶん殴る! 以上!」
「……単純すぎるぞ。この街がどれほど広いと思っているんだ?」
「うるせえ! 他にやりようねえだろ! ゴチャゴチャ考えんのは苦手な――」
ここでまた、黒いつなぎのケルベロス軍が三名、屋根に跳躍して前方に立ちはだかる。どうやら軍は宿の近くだけでなく、街中に配備されているらしい。街にいる限り、軍から逃れることは難しい。だが茜を救出しないことには、街を離れるわけにもいかない。
(だったら正面から叩き潰す! 相手が軍だろうと、いつもとやることに変わりねえ!)
真治は駆ける足を止めず、それどころかさらに加速させると、正面に現れたケルベロスに接近した。右手に構えたナイフを高速に振り下ろすケルベロス。真治はナイフの先端を鋭く見据えると、ナイフを頭部で受け止めて、その刀身をへし折ってやる。
ケルベロスがぎょっと表情を強張らせる。真治はそのまま加速を続けて、ケルベロスをその着ぐるみの巨体で撥ね飛ばした。悲鳴を上げて屋根から落下していくケルベロス。するとここで、両サイドからナイフを振りかざした二人のケルベロスが迫りきた。
真治にとってナイフは脅威ではない。だがアリエルにとっては、それは命をも奪いかねない明確な脅威だ。真治はぐるりと体を回転させながら左右同時に脚を振るい、二人のケルベロスが構えていたナイフを蹴り飛ばした。そしてすぐさま二人のケルベロスに接近、彼らが新しい武器をベルトから引き抜く前に、鳩尾に膝を打ち込んで沈黙させる。
三人のケルベロスを制圧した真治。だがすぐにまた新しいケルベロスが屋根へと跳躍してきて、こちらへと迫りきた。舌打ちをして、別の屋根に飛び移る真治。分かってはいたがキリがない。彼は視線を忙しなく巡らせながら、着ぐるみの中で歯ぎしりした。
(これじゃあ茜を探せねえじゃねえかよ! くそムカつく! 軍だか何だか知らねえが、男だったらタイマンできやがれってんだ!)
正面から叩き潰すと息巻いてすぐ愚痴をこぼすあたり、後先考えない彼の性格がよく表れている。何にせよ真治は、胸中でグチグチと毒づきながら、苛立ちを強めていた。
するとここでまた、一人のケルベロスが屋根の上に跳躍して着地した。正面に現れたケルベロスをギロリと睨む真治。ケルベロスがおもむろに右手を持ち上げる。ヒラヒラと挑発するように揺れるその右手には――
一枚の紙が握られていた。
「よく聞け。テメエの仲間の居――」
「どけコラアアアアアアアア!」
何かを言いかけていたケルベロスを、苛立ち任せに蹴り飛ばしてやる。「ひげええ!」と軽快に吹っ飛んでいくケルベロス。だが真治はその様子に見向きもせず、多少なりと鬱憤を晴らせたことに満足して、また別の建物へと飛び移った。
「……おい。何か今のケルベロス、手紙らしきものを持っていなかったか?」
「ああ? そうか? よく分かんねえけど、今は茜を探すほうが先決だろ」
顔をしかめるジョゼフにそう告げつつ、真治は満月の浮かんだ夜の街を見回した。