第三章 ケルベロス嬢3
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「ここにマリーズ・ケルベロスがいるはずだ」
頭にコブをつけたジョゼフに案内されたその場所には、ひとつの建造物があった。
他の建物と同様、石材を積み上げて作れられた巨大な建物だ。左右へと伸びる微妙に歪曲した外壁に、等間隔に空けられた小窓。特に派手な飾り付けなどはないが、柱などには細やかな意匠が施されており、他の建物とはその趣を別にしていた。
巨大な建造物ゆえに、その形状を俯瞰的に見ることは難しい。だが真治は、その建物が自身の世界に存在する、ある建物と酷似していることに気付いた。記憶の中からその建物の名称を思い出し、ぽつりと呟く。
「コロッセオ……? それに似てんな」
「へえ。コロッセオなんて知ってんだ?」
栗色の瞳を少しだけ見開いた茜に、真治は「おう」と気分良く胸を張った。
「闘技場だろ? 前にテレビで見た時、俺もそこで喧嘩してえと思ったから覚えてんだ」
「馬鹿な覚え方」
呆れたように嘆息する茜。この二人のやり取りに、ジョゼフが首を捻る。
「何やら訳の分からん単語を羅列しているが……しかし闘技場というのは的を射ている。ケルベロス都市の中心に存在する、直径にして二百メートル、高さ二十メートルとなるこの建物は、過去に闘技場としても利用されていた、ケルベロス軍の訓練場なのだ」
ジョゼフの説明に、「ほお」と瞳をキラキラと輝かせる真治。対して茜は冷めたもので、カールした毛先を指先で弄りつつ、目の前にある闘技場をぐるりと見回した。
「……ケルベロス軍。マリーズ・ケルベロスは軍隊に所属しているの?」
「そうとも言えるし、そうでないとも言える」
奇妙な言い回しに片眉を曲げる茜。ジョゼフが腕を組んで説明をする。
「ケルベロス嬢――マリーズ・ケルベロスは一族において最強のケルベロスだ。そして幾多の魔族がそうであるように、最強たる彼女はケルベロスの長でもある。一族を統括する彼女は、街の管理はもとより、軍を動かす司令官の役割も担っている」
「つまり半ば強制的に軍と関りを持ったということね。じゃあ彼女もここで訓練を?」
理解が追いつかない真治を置いてけぼりに、淡々と話を進めていく茜。彼女からの質問に、ジョゼフが「いいや」と頭を振る。
「彼女は訓練などしない。その必要がない」
「それは司令官という立場だから?」
「もっと単純な理由だ」
ジョゼフが一呼吸の間を空けて――
黒い瞳に鋭利な眼光を輝かせる。
「マリーズ・ケルベロスは強すぎる。誰も彼女の訓練相手など務まらんのだ」
ジョゼフがそう言い終えた直後――
闘技場から轟音が鳴り響き、それと同時に闘技場内に巨大な土煙が上がった。
闘技場に視線を素早く向ける。闘技場の巨大な外壁。その頭上高くそびえたつ外壁をも超えて、大きく膨れた土煙が覗いていた。風に輪郭を揺らしながら、闘技場に鎮座する巨大な土煙。それはまるで、この闘技場をも遥かに凌ぐ巨大な生物が、闘技場内に潜んでいるかのような想像を掻き立てた。そして事実、この闘技場内には――
この建物にして収めることのできない、破格の怪物が潜んでいるのだろう。
「これが――マリーズ・ケルベロスの力か」
全身の震えを意識しながら、真治はそう独りごちた。顔を蒼白にするアリエルと、相変わらず無表情の茜。しばし三人ともが沈黙した後、ジョゼフが口を開く。
「彼女がこの闘技場を訪れるのは、顔見せていどの意味合いしかない。一族を統括する長としての責任だな。軽く汗を流した後、彼女はこの闘技場を後にする」
「あれで……軽く何ですか?」
こちらを不安げに見つめてくるアリエル。これからマリーズと戦うだろう真治を心配しているのだろう。普段の彼ならば心配は不要だと軽く請け負うところだが――
さすがに今回ばかりは、あまり楽観的にもなれなかった。
「時間からして、もうすぐマリーズ・ケルベロスが闘技場から出てくる。ここまではいいが、ところで貴様、ケルベロス嬢に会えたとしてどう戦うつもりだ?」
「どうって……普通に喧嘩するんだよ」
首を傾げつつ答える真治に、「そうではない」とジョゼフが頭を振る。
「トーナメントでの決闘をするのだろ? ケルベロス嬢はランキング8位。貴様は確か36位だったな。決闘の申し込みは、ランキング上位者からしかできないだろうが」
「え……そうなのか?」
真治の反応に、「まさか知らないのか?」とジョゼフが訝しそうに眉をひそめる。するとここで、アリエルが慌てたようにこちらの前に回り込み、ぺこりと頭を下げた。
「す、すみません。ジョゼフさんの言う通りです。私はトーナメントに参加していないのでつい失念してしまい、説明し忘れていました。本当に申し訳ありません」
「いや……別にそんな大層なことでもねえし、アリエルが謝ることでもねえだろ?」
真治の言葉に、アリエルがしょぼんと肩を落としたまま頭をゆっくりと上げる。
「いえ……これは重大なことです。ランキング上位者が下位者と決闘することは基本的にありません。上位者からすればその決闘は、ランキングを下げるリスクしかありませんから。だから下位者は上位者から決闘を持ちかけられるよう、根回しをするものなんです」
「根回しって……例えばどんな?」
「シンジさんと初めてお会いした時、私がハーピー族に襲われていたことを覚えていますか? あれはお父さんと決闘するために、娘の私を人質に取ろうとしていたのです。決闘を申し込まなければ娘を殺すと、そのような脅しをするつもりだったのでしょう」
「んだよそれ、ひっでえな」
着ぐるみの表情をしかめさせる真治に、アリエルが小さく頷き、すぐに頭を振る。
「確かに……ですが一般的な手法でもあります。一度決闘が始まれば、勝敗がつくまで決闘は終わりません。そして決闘が終わるまで魔法により監視されるため、どこに逃げることもできません。それほどのリスクを覚悟させるには、相応のやり方が必要なのです」
「……ふうん、なるほどねえ」
腕を組んで頷く。アリエルがまたぺこりと頭を下げて、沈んだ声で言う。
「せっかくここまで来たというのに、無駄足になってしまいすみません。どうすればシンジさんの決闘が実現できるのか、私も一緒に考えたいと思うので――」
「ああ、何も心配なんかいらねえよアリエル。俺に良い考えがあっからさ」
ハラハラと手を振って、真治はニカリとアリエルに笑い掛けた。「え?」と金色の瞳を丸くするアリエル。すると話を聞いていた茜が「へえ」と驚いたように呟く。
「馬鹿なアンタに、考えるなんて高次元な行為ができるの?」
「どうだ見直したか? 俺だってたまには頭を使うんだぜ?」
「……皮肉にも気付かないのに?」
小さく嘆息する茜。どうやら甚く感心しているらしい。「すごい、さすがですシンジさん」と称賛するアリエルに、真治は気をよくしてフンと鼻を鳴らした。
「つうわけで、後はマリーズが闘技場から出てくんのを待つだけだな」
「……貴様がそう言うならその点は信じることにしよう……と、噂をすれば――」
音もなく表情を引き締めて、闘技場の出入口に鋭い視線を向けるジョゼフ。少年の視線に促されて、真治と茜、そしてアリエルもまた、闘技場の出入口に視線を向ける。闘技場出入口。外壁に空けられた扉のない長方形の穴。闇を湛えたその中から――
一人の女性が姿を現した。
十代後半と思しき若い女性だ。肩口で切り揃えた艶のある黒髪に、陶器のように滑らかな白い肌。目尻を鋭く尖らせた赤い瞳に、紫色のルージュが引かれた唇。全身を黒のロングコートに包みながらも、遠目にも女性らしいそのスタイルの良さが窺える。
人間に酷似した魔族だ。高い魔力を有する魔族は祖先である悪魔とその姿を似せる、隔世遺伝体というやつらしい。女性の頭から生えた三角の犬耳と、ゆらりと揺れるふさふさの尻尾がなければ、彼女を魔族と判断するのは難しいとさえ言えるだろう。
背後に取り巻きのケルベロス族を従えて、音もなく歩いている黒髪の女性。真治は一度ゴクリと喉を鳴らすと、すでに予想できている問いをジョゼフに尋ねる。
「あの女が……ランキング8位の?」
女性には聞こえないよう、ジョゼフが「そうだ」と声を潜めて答える。
「ケルベロス嬢――マリーズ・ケルベロスだ。俺も直接見るのは初めてだがな。闘技場の外にまで轟く訓練を終えてなお、汗ひとつ掻いていないとは……噂通りの怪物のようだ」
「綺麗な人ですけど……なんかちょっと恐そうですね」
アリエルが尻尾を震わせる。確かにただ道を歩いているだけだというのに、黒髪の女性――マリーズ・ケルベロスからは威圧的な雰囲気を感じられた。隙のない足運びや冷たい眼光に瞬いた赤い瞳。それはまるで彼女が戦いの最中にいるかのようだ。
「常に臨戦態勢って感じだな」
「事実そうなのかも知れん」
思わず口を突いたこちらの呟きに、意外にもジョゼフが同意を示した。
「ケルベロスは魔族の中でも闘争本能が一際強い。そのような一族の中で、女性である彼女が長に収まることを、良しとしない者も少なからずいる。それを彼女は、己の力でねじ伏せ従えているのだ。自身の街であろうと、彼女に気の休まる時はないのだろう」
「ふうん……魔族も色々と大変なんだな」
「魔族も……とは奇妙な言い回しだな」
ジョゼフの指摘に狼狽する真治。すると失態を犯した彼を、茜が華麗にフォローする。
「こいつ馬鹿だから」
「ひどく納得したぞ」
あっさりと頷くジョゼフ。何やら釈然としないが、今はそこに拘っている時でもない。
「それで、ケルベロス嬢とどのようにして決闘をするというのだ?」
片眉を曲げて尋ねてくるジョゼフ。懐疑的な少年に、真治は自信たっぷりに胸を反る。
「まあ見てろって。んじゃ俺は喧嘩しに行くからよ。皆はここで待っていてくれな」
「頑張ってくださいね、シンジさん」
「殺されたらちゃんと笑ってあげる」
アリエルと茜、二人の声援を受けた真治は、意気揚々とマリーズのもとへと駆けて行った。近づいてくるこちらの姿に気付いたのか、マリーズとその取り巻きが歩く足を止める。マリーズの正面で立ち止まった真治は即座に――
彼女を決闘に誘い込むための秘策をぶちかます。
「さあマリーズ! 俺と決闘をしようぜ!」
――しんと静寂の音が鳴った。
二つ返事でOKが返されることを期待していた真治は、こちらを見据えたまま口を閉ざしているマリーズに、きょとんと首を傾げる。パタンと背後から音が鳴る。後ろ目に背後を確認してみると、なぜかアリエルが地面にずっこけている姿があった。
「……何だ貴様。マリーズ様を前にして、ふざけているのか?」
取り巻きの一人が赤い瞳を尖らせる。八人いる取り巻きで唯一、人の姿をしたケルベロス族で、針のように細い瞳が印象的な男だ。「別にふざけちゃねえよ」と表情を渋くする真治に、細目の男が胡散臭そうにジロジロとこちらを見やり、眉をひそめる。
「……随分と珍妙な姿の魔族だな。因みに貴様、ランキングは?」
「ん? 36位だけど?」
真治の答えに、細目の男が表情を苛立ちに染めて、ギラリと犬歯を覗かせた。
「ふざけるな。36位ていどの雑魚が、マリーズ様の相手になるわけがないだろ」
「んだよ。俺はテメエにじゃなくて、そこのマリーズって女に訊いてんだぞ?」
この一言に、「無礼な!」と表情をさらに凶悪に歪める細目の男。だが真治は男の怒りなど無視して、先程から沈黙を続けているマリーズに視線を向けた。そして彼女の表情を見て、「ん?」と目を丸くする。初対面であり面識のないはずの彼女が――
赤い瞳をギラギラと凶暴に瞬かせて、こちらの顔を一心に睨みつけていたのだ。
「……どうしたよ? 何か気に障ることでもあんのか?」
冷静を装いながらも明らかに憤怒の気配を見せているマリーズに、真治は怪訝に眉をひそめた。するとここでマリーズが、一歩足を前に踏み出す。真治は「おっ」と素早く構えを取ると、また一歩こちらに近づいてきたマリーズにニヤリと笑った。
「やる気になったな。俺も手加減しねえからよ、お互い全力で――」
ここでマリーズが真治を横切る。真治はしばしぽかんとするも、すぐに背後へと振り返り、「おい無視すんなよ!」とマリーズを呼び止めた。歩く足をピタリと止めて、ゆっくりと背後を振り返るマリーズ。凶暴に瞬いた彼女の赤い瞳が、真治を鋭く貫く。
「今すぐにこの街から出て行け。さもなくば、後悔することになるぞ」
「あ? 何言ってんだよ」
「忠告はした」
マリーズが視線を正面に戻して歩みを再開する。そしてそのままこちらを一度も振り返らず、取り巻きのケルベロスとともに、彼女は通りの奥へと姿を消してしまった。
まるで予想外の展開に、しばし呆然とする真治。するとそんな彼のもとに、茜とアリエルが近づいてきた。何やら苦笑いのようなものを浮かべているアリエルと、ひどく呆れたように栗色の瞳を半眼にしている茜。茜が小さく息を吐いてぽつりと尋ねてくる。
「アンタの策って結局何だったの?」
「……正面から喧嘩売られれば、誰だって喧嘩買うと思ってたんだけどよ」
真治の回答に、茜が深々と嘆息した。