第三章 ケルベロス嬢2
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真治としては、すぐにでもランキング8位のマリーズ・ケルベロスと喧嘩をしたかった。しかしこのケルベロス都市はリザードマン村と異なり、直径が二キロ弱と広大な都市であり、闇雲に探してもマリーズをすぐに見つけ出すことは難しい。
「マリーズの居場所を調査してくる。貴様らはそこで阿保面でも晒して待っていろ」
そう言い残して、ジョゼフが人混みの中へと姿を消した。何だかお預けをくらった気分であるが仕方ない。真治は素直に阿保面を晒してジョゼフの帰りを待つことにした。
「あの……時間があるなら私も少し買い物をしても宜しいでしょうか? 十年前にこの街に来た時、とても可愛いヌイグルミがあったので、記念に買っておきたいのですが」
ケルベロス都市の商店街。その通りでぼんやりとジョゼフの帰りを待っている時、遠慮がちにアリエルがそう呟いた。当然断る理由もなく、二つ返事でOKする真治。自分も一緒に行こうかと尋ねると、顔を赤くしたアリエルが小さく頭を振る。
「いいえ、私の個人的な買い物で、これから戦いに赴くシンジさんを疲れさせてしまうのは申し訳ありません。ええ、本当に大丈夫です。ただその……それでも良ければ――」
何か言いかけていたアリエルに、真治は分かったと頷いて見せた。こちらのあっさりとした返答に、なぜかガッカリしたように肩を落として、彼女がトボトボと人混みの中へと消えていく。彼女の姿が消えて、どう暇を潰そうかと考えていると――
「喉乾いた。何かジュースでも買ってきて」
通りにある階段に腰掛けた茜が、当然のようにそう命令してきた。どうやらアリエルとは異なり、彼女にはこちらを労わる気などないらしい。栗色の瞳を半眼にしている彼女に嘆息しつつ、真治は飲み物を売っている店を探しに出掛けた。
目的の店は存外すぐに見つかった。街中でよく見かける二足歩行の狼、ケルベロス族が経営する店でジュースを購入して――アリエルから少額のお金は渡されている――、茜のもとへと戻る。ジュースを受け取った茜は一口それを飲み、平然とこう言った。
「まずい。最悪」
最悪なのはこっちだ。だが文句を口にしながらも、二口三口とジュースを飲む茜。するとここでおもむろに、彼女がこちらにジュースを差し出してくる。着ぐるみのつぶらな瞳を怪訝に瞬かせていると、仏頂面の茜が淡々とした口調でこう言ってきた。
「アンタも飲めば。そんな着ぐるみをずっと着ていたら、汗もかくでしょ?」
思いがけない茜の言葉にきょとんとする。もしかするとジュースを購入したのも、真治の体調を慮ってのことなのだろうか。「いらないなら別にいい」と差し出したジュースを引っ込める茜に、真治は慌てて頷いて彼女からジュースを受け取った。
口に空けられた穴から着ぐるみの中にジュースを入れて、ストローを咥える。確かに味の良くないジュースだ。しかし喉が相当に渇いていたのか――喧嘩前の興奮で自分でも気付いていなかった――、瞬く間にジュースを飲み干してしまった。
(……て、これよく考えたら間接キスになるんじゃねえのか?)
ジュースを全て飲み干した後に、ふとそのことに気付く。だが女性の茜がそれを気にしていないなら、こちらが変に意識するのもおかしいだろう。真治は空のカップを着ぐるみから排出すると、とりあえず背負っていたリュックサックにそのゴミを放り捨てた。
「……一応言っておくけど――」
独りごとのように呟く茜。首を傾げる真治を、彼女の栗色の瞳が見据える。
「アリエルとジョゼフ、この二人も含めての話だけど、魔界の連中はアンタが着ぐるみを着ていることに、恐らく気付いてないわよ」
茜のあまりにも意外な言葉に、真治は「は?」と素っ頓狂な声を上げた。
「いや、それはねえだろ。だって着ぐるみだぜ? ガキでも分かるだろうがよ」
「あの連中がただの一度でも、それが着ぐるみであることを指摘したことあった?」
「まあ……ねえけど。着ぐるみ着てる奴に、それ着ぐるみだろなんて普通言わねえし」
懐疑的に首を傾げる。茜が通りを歩く通行人をちらりと一瞥して口を開く。
「あたし達の世界では、そんなヘンテコな姿をした生き物なんていないから、それが着ぐるみだってすぐ気付くわ。だけどこの魔界では、この通りから見える範囲だけでも、多様な種族が存在している。だからアンタの姿を見ても、珍しい種族だと思うだけで、着ぐるみだとは考えないのよ。そもそも着ぐるみっていう文化自体がないのかもね」
そういえばジョゼフも、こちらを見慣れない魔族だと話していた。深く考えていなかったが、彼がこの姿を着ぐるみだと気付いていないのなら、その言葉にも合点がいく。
「だとすれば、二人には着ぐるみのこと説明したほうがいいんかな? 隠すのも変だし」
「いいえ。黙っておきましょ」
またも首を傾げる真治。茜が何かを警戒するように、僅かに声のトーンを落とす。
「ジョゼフが話していたでしょ。トーナメントの運営管理を担うコボルト族は、替え玉など不正を働いた参加者を処罰しているって。それが着ぐるみだと知られれば、連中にあらぬ疑いをかけられないとも限らないわ」
「疑いって……例えばどんなだよ?」
「着ぐるみの中身を入れ替えて、トーナメントに参加しているとかね」
まさにジョゼフが話していた替え玉ということか。「そんな真似しねえよ」と着ぐるみの眉をひそめる真治に、茜が「あくまでその疑いよ」と溜息を吐く。
「変に疑われて、トーナメントを失格にされてもイヤでしょ? どっちにしろ着ぐるみが脱げないのなら、説明したところで着ぐるみであることを証明できないしね。なら面倒にならないよう、隠しておいたほうが良いわ」
「つうことは、着ぐるみを脱ぐ方法が分かっても、俺はこのままでいろってことか?」
「状況次第ね。実績が重なれば、着ぐるみの中身が入れ替わってないと、信じてもらえるかも知れない。どちらにせよそれは、脱ぐ方法が判明した時に考えればいいわ」
なるほどと頷く真治。納得しながらもその実、茜の考えを正確に理解できた自信などない。だが彼女がそう判断したのなら、恐らくそれが最善なのだろう。その口の悪さはさて置くとして、茜が非常に頭の良い人間であることは真治も認めているのだ。
とりあえず、こちらが納得したことに満足したのか、茜が「そういうことだから」と視線を逸らす。話を終えて沈黙する彼女をしばし眺めて、真治はおもむろに言う。
「それにしても、茜がいてくれて助かったな」
「……何よいきなり?」
ピクリと眉を揺らす茜。栗色の瞳を胡散臭そうに細める彼女に、真治は「だってそうだろ?」と肩をすくめて、思ったことをそのまま素直に口にする。
「俺一人だと、こうもスムーズにはいかなかったんじゃねえかな? 自慢じゃねえけど、俺は頭よくねえからな。難しいことなんて分かんねえんだよ。ダニエルの時もそうだけど、茜がうまく話をまとめてくれなきゃ、どうしようもなかったと思うぜ?」
「……そうかもね。アンタ馬鹿だから」
「お前よ、褒められてる時ぐらいは悪態つくの止めねえか?」
ぶっきらぼうに答える茜に、真治はがっくりと肩を落とす。だがこの何にも揺るがない姿勢こそが、芹沢茜たる彼女の持ち味なのだろう。それを何となく理解して――
真治はニカリと笑った。
「まあいいや。とりあず、これからもよろしくな。頼りにしてるぜ、茜」
「……あたしは全く頼りにしてないけど」
最後まで可愛くない。真治は胸中で苦笑しながら、一度周囲に視線を巡らせて、アリエルとジョゼフの姿を探してみた。だがまだ二人が戻ってくる様子はない。もう少し彼女と話をする時間があるようだと、真治はずっと気になっていたことを茜に尋ねてみる。
「なあ、リザードマンの村にいた時よ、確か茜、首にネックレスつけてたよな?」
「……それが何?」
視線を逸らしたままの茜。その彼女の首元には、制服に隠れて分かりづらいが、細い鎖が覗いて見えている。真治は「たいしたことじゃねえけど」と前置きして言葉を続ける。
「今もそのネックレスつけてんだろ。だったら服の外に出したらどうだよ? せっかく綺麗なペンダントがついてんだから、見えてなきゃ意味ねえだろ?」
「……そんなの、アンタには関係ないでしょ」
ささやかな疑問であり、彼女の答えにさほど興味があるわけでもない。ゆえに真治もそれ以上、この話題を追及するつもりもなかった。だが茜の返答にふと違和感を覚える。平静でありながら強い意思を感じさせる彼女の口調が、この時ばかりは――
ひどく弱々しいものに聞こえたのだ。
(なんか……訳ありだったかな?)
失言だったのかも知れない。だが謝るのも変な話だろう。それからしばし、二人の間に沈黙が続く。何となく気不味さを覚えて、どうしたものかと悩んでいると――
人混みの中から、パタパタとこちらに駆けてくるアリエルの姿を見つけた。
真治はほっと安堵の息を吐くと、こちらに駆けてくるアリエルに軽く手を上げる。目の前に立ち止まったアリエルが、小さく息を弾ませながら紅潮した表情を微笑ませた。
「すみません。お待たせしました」
「いやたいして待っちゃいねえよ。それでアリエル、目当てのもんは買えたのか?」
「それが……買えはしたのですが……」
眉尻をちょこんと落とすアリエル。彼女の様子に首を傾げていると、アリエルが躊躇いながら手にしていた紙袋から一体のヌイグルミを取り出した。それは――
獰猛な狼が口から血を滴らせているという、可愛げゼロのヌイグルミであった。
アリエルの取り出したヌイグルミに、ポカンと目を丸くする。女性の好みなどよく分からないが、これが一般的に可愛いものでないことはさすがに分かる。それとも彼女のような魔族は、この残虐性剥き出しのヌイグルミこそ、愛でる対象となるのだろうか。
そう真治が困惑していると、茜が平然とした口調で率直な感想を述べた。
「アリエル。アンタって趣味悪いのね」
「ち、違います。こんなの私が欲しかったヌイグルミじゃありませんよ」
プルプルと頭を振り、アリエルが金色の瞳をしょぼんとさせてヌイグルミを見つめる。
「私が十年前に見たヌイグルミ――ケルベロスのケルベロちゃんは、もっと丸々とした姿の可愛らしいヌイグルミだったんです。血も滴っていません。それなのに、お店の人にケルベロちゃんのヌイグルミをお願いしたら、こんなものが出てきちゃったんです」
ケルベロちゃんというネーミングはさておき――リュウオウくんも大概だ――、どうやら可愛さの観点については、魔族と人間とで大差ないらしい。アリエルが紙袋にヌイグルミを戻しながら、大きく溜息を吐く。
「何かおかしいんです。店内に並べられた商品を確認すると、このヌイグルミ以外も何かこう……荒々しいと言いますか、全然可愛くないんですよ。筋肉ムキムキだったり骨肉にかぶりついていたり、大体のヌイグルミが何かを滴らせていたり……」
「何かを滴らせる?」
疑問を口にする真治。だがその点の詳細は語らずに、アリエルが首を捻る。
「それと……この商店街も以前と少し違うような気がするんです。以前はもっと華やかであったというか、建物にも綺麗な飾り付けがされていたはずなんです。ですが今はそのような装飾はほとんどなく、全体的にその雰囲気が暗いような……」
アリエルの言葉を聞いて、真治はくるりと視線を巡らせて、商店街に並んだ建物を観察してみた。確かに言われてみると、華やかさに欠ける景色といえる。もともと石材で作られた街並みだけに、無駄な装飾のないその景色は、良く言えば質実剛健――
悪く言えば、可愛げがまるでなかった。
曲がりなりにも、真治も商売を家業とする家で育ってきた。客の購買意欲を高めるに見た目が重要なことは理解している。その点においてこの商店街は落第だといえるだろう。
着ぐるみの眉をひそめる真治に、アリエルが慌てたようにぺこりと頭を下げた。
「すみません。変なこと言って。昔のことなので、私の記憶違いかも知れませんが――」
「いいや、俺も同じ疑問を抱いていたぞ」
ここで唐突に、ジョゼフの声が聞こえてきた。だが周りを見渡しても、少年の姿はどこにも見当たらない。ただの空耳だろうかと首を傾げた、その時――
「ジャジャジャジャーン!」
アリエルのスカートが大きくめくれて、登場音を声高に叫んだジョゼフが姿を現した。
「きゃああああああああ!」
めくれ上がったスカートを素早く抑えるアリエル。だが彼女の努力も虚しく、真治を含めた大勢の通行人が、彼女のスカートの中を目に焼き付けたことだろう。無意味に高笑いをするジョゼフに、顔を真っ赤にしたアリエルが抗議の声を上げる。
「いきなり何を――いつから私のスカートの中に入っていたんですか!?」
「五十メートルほど後方からだ。だが今はそんなこと問題ではない。話し合うべきはこの街の変化についてだ。俺もつい先程に、アリエルと同じ異変を感じ取っていたのだ」
自身の犯罪行為をさらりと無視して、ジョゼフが真剣な面持ちで腕を組む。
「マリーズ・ケルベロス。彼女の情報を得た俺は、六人ほどの女性のスカートの中に潜り込みつつ、この場へと戻ろうとしていた」
「他の人にもやってるんですか!?」
金色の瞳に涙をためたアリエルが、抗議の声を強くする。だがやはり「問題はそこではない」と自分勝手に論点をすり替えて、ジョゼフがその表情を恐怖に戦慄かせた。
「そこで俺は気付いてしまったのだ。この街に潜んでいる恐ろしい悪魔の正体に」
「街っていうか、スカートに潜んでいる恐ろしい悪魔は、お前だけどな」
「心して聞け。この街の女性は全員――」
真治の指摘もさらりと無視して、ジョゼフが蒼白になり声を荒げた。
「まるで可愛げもない、無地のベージュパンツを履いていたのだああああああ!」
無駄に熱いジョゼフの絶叫が鳴り響き、すぐに冷たい沈黙に変わる。少年の絶叫に驚いて足を止めていた通行人。それがまた歩き出すまで、おおよそ十秒。絶叫したポーズのまま硬直するジョゼフに、真治は心の奥底から湧き上がった言葉を掛けた。
「何だお前?」
氷点下の視線を送る真治に、ジョゼフがすっと無表情に戻り、肩をすくめる。
「この重大さに気付かぬとは愚かだな」
「お前にだけは愚かとか言われたくない」
「青二才の貴様に教えてやろう」
ジョゼフがキラリと瞳を輝かせる。
「下着とは女性の内面を映し出す鏡だ。普段は真面目で清楚な女性も、他人には見せない下着に関しては大胆になることが多々ある。黒パン、水玉、ストライプ、この世に存在するあらゆる下着の柄が、女性そのものだとも言えるのだ」
「殊更に何だお前?」
「だがこの街にあるパンツは全てが無地。つまりこの街には女性が存在しないのだ。アリエルでさえ、リボンがワンポイントにあしらわれたパンツを履いているというのに」
「シンジさんの前で、余計なこと言わないでください!」
「この街には何かが起こっている。俺たちが想像だにできない恐ろしい何かが」
表情を戦慄に染め上げるジョゼフ。この少年の戯言に、真治は深く嘆息した。頭の悪い自分もさすがに下らないと思う。そう思うには思うのだが――
(可愛げのないパンツ……か。まああの茜でさえピンクのパンツだもんな)
ふと茜に視線を向ける。するとこちらの思考を読んでいたかのように、茜が栗色の瞳を凶悪に尖らせて、こちらを鋭く睨んでいた。ゾクリと命の危険を感じて、すぐに茜から視線を逸らす。息を殺して沈黙していると、茜の深々とした溜息が聞こえてきた。
「そんなのどうでもいいから、マリーズの居場所について教えてちょうだい」
茜のドスの利いた低い声音に、ジョゼフが存外あっさりと「うむ」と頷く。
「俺たちコボルト族は世界に散らばり、多様な情報を収集している。このような大きな都市には、そこに常駐している仲間が一人以上存在するのだが、その者からマリーズ・ケルベロスの動きについて聞いてきてやった」
「前置きはいらないんだけど」
「まあ聞け。つまりとても貴重な情報だということだ。時に貴様は先程、この俺のことを目障りだと追い返そうとしたな。俺の心は甚く傷付いている」
「謝れって言いたいの?」
ジョゼフが大仰に頭を振り、何とも威風堂々とした態度でこう言葉を続けた。
「自らスカートをまくり上げ、ご主人様あたしのいやらしいパンツを見てください、と懇願するがいい。さすればこの貴重な情報を貴様らにくれてや――」
直後、茜の魔法で生み出された翼ある猪の人形が、ジョゼフを強かに弾き飛ばした。